二月がもうすぐ終わっていく。三本目と四本目の短編小説の、出版社側からの校正指示を受けて于禁はそれを修正していく。そして出版社からOKという返事が来ると、于禁はすぐに五本目と六本目の執筆を始めた。もう少しで合計で六本の短編小説が書き終わるということと、それに最後の二本は筆がよく乗るらしい。なのでほとんどの時間は自宅の書斎に籠もり、一気に書き上げていった。
最後の二本の執筆だけは終えるまでに、五日しかかからなかった。なので終えた後の于禁は電池が切れたように眠ってしまったが、意識が戻るといつの間にかベッドの上に寝かされている。書斎に置いていた筈のスマートフォンが枕元に置いてあった。掛けていた眼鏡は、外してサイドチェストの上にある。それらをすぐに取り出す。
スマートフォンのバッテリーはもうすぐ切れそうである。だが今からする操作はあまりバッテリーを消費しないと思ったのか、すぐにメッセージアプリを開く。
案の定、夏侯惇からメッセージが入っていた。「今から来てもいいか?」というものの数一〇分後に、「疲れているのは分かるが、きちんとベッドの寝てほしい」という内容が。
現在の時刻は昼間。于禁はそれでもすぐにメッセージで礼を伝え、気を付けるという言葉も添えた。夏侯惇は仕事中なので、すぐには確認できないことを承知のうえで。
息を吐いてから充電ケーブルを挿し込み、于禁は仰向けになって天井を見る。
ここしばらくは、ずっと夏侯惇に会えていない。最後に会ったのは、眼鏡を変えた日である。夏侯惇とは壁一枚隔てているだけであるのに、何故だか異様に遠く思えた。最近は夏侯惇が仕事で多忙である為に、仕方か無いのだが。
于禁は天井から夏侯惇の部屋側の壁へと視線を移したが、眉を下げるとすぐに天井へと視線を戻していく。ここ数日の疲労が溜まっていたのか、体の倦怠感が凄まじいらしい。なので于禁はしばらくそのままの体勢になり、天井を呆けながら見ていた。
残りは自身の推敲だけであり、締切までには余裕がある。だが長くとも一週間程度を掛けて健康状態を良くして、万全の状態で推敲しなければならない。それに、夏侯惇と会うことができれば会う為にも。
なので于禁はまずは食事を作りながら、息抜きで何をしたいのか考えた。
蔡文姫から借りた本は今は無いし、手持ちの本は前の職種で必要なものばかりである。すぐに思考が詰まった于禁は、食事を取ってから考え直す。
そして顔に両手を覆った瞬間に、とある違和感に気付いた。手が全体的に乾燥によって、いつの間にか荒れているからだ。季節のせいでもあるが、ここ最近は健康状態にあまり気を掛けなかった。現に、自身でも分かる程に顔がやつれているように思っている。
この手で夏侯惇に触れるのはあまり良くないと思った。なので少し考えてから、スマートフォンで具体的な改善方法を検索する。やはり健康状態を戻していくのも一つの方法だが、別の方法で気になるものを目にした。化粧水で、改善していくという方法を。
男でしかも若いとは言えないような年齢ではないか、そう考えた于禁である。しかしそれでも検索結果のページを次々と閲覧していくと、とある化粧水のページの文章が目に止まった。
それは老若男女誰でも馴染むような、自然由来のもののみで作られたものである。しかしドラッグストアやスーパーには販売されていないらしい。ここから少し遠い場所にある、その化粧水のメーカー直営店かネット通販では取り扱っている。だがネット通販では、いわゆるリピーター専用という状態になっていた。販売されている製品の容量が大きいものしかない。直営店ではお試し用という、小さな容量のものがあるのだが。
悩んだ于禁は、息抜きがてらにそこまで足を伸ばして試しに買ってみようと思った。まずは、一番小さな容量のものを。そこで一人でそこまで行くのは、と少しの躊躇が生まれた。
しかしすぐに、夏侯惇を誘って行ってみれば良いのではないかという結論が代わりに生まれようとした。だがそのような理由で誘っても良いのかという不安が出てくると、于禁はそんな自分が腹立だしくなっていく。
そうしていくうちに、夏侯惇から返事のメッセージが来た。于禁は不安というしがらみに絡まれながら、夏侯惇を誘うべきだと必死に自身を諭す。
まずはスマートフォンの電話帳を開き、夏侯惇の電話番号を表示させる。あとは着信ボタンを押すだけの段階まで来ると、于禁は深呼吸を数回してからそれをタップした。スピーカーに耳をあて、もう後戻りができないと思いながら夏侯惇が着信に出るのを待つ。
三コール目で、夏侯惇が着信に出た。于禁は再び後戻りはできないと思いながら、通話を始める。
「昨夜はありがとうございました。仕事でお忙しい中、申し訳ありません」
『無理はするなよ。それで、別に構わんが、どうした?』
「その……」
スピーカーからは出版社のフロアに居るのか、社内の電話の音や人々の忙しない声や歩く音が聞こえる。早く用件を伝えなければ、と于禁は改めて意を決した。夏侯惇の声が、疲れているように聞こえるように思いながら。
「一日中、空いている日はありますか?」
『空いている日、な……』
数秒後に紙の束がパラパラ捲る音が聞こえた。スケジュール帳で予定を確認しているのだろう。その音がすぐに鳴り止むと、夏侯惇は答える。
『今度の日曜日だが、どうした?』
「あの、その日、ご都合が良ければ、私と、その……少しの遠出に付き合って頂けませぬか!」
『あぁ、いいぞ。楽しみにしている』
夏侯惇の嬉しそうな声が聞こえる。なので于禁までも嬉しくなったのか、同様の声音で礼を述べた。そして于禁から通話を終えると、口角がいつの間にか上がっている。どうやっても下がらない。
今度の日曜日と言えば、もう数日後だ。于禁はその日まで楽しみにしながら、健康状態を少しでも改善していったのであった。しかし今のこの手で夏侯惇に触れてしまうのは、なるべく避けようと思っていて。
※
そして数日が経過し、当日の朝。空はよく晴れていた。ベッドの上で目を覚ました于禁は、少し寝不足気味である。だが部屋の冷えによりそれは消え去っていく。
夏侯惇と二人で遠出することが楽しみだからという原因ではあるが、そもそも夏侯惇にどこに行くかを言っていない。寧ろ夏侯惇は目的地について聞いてくる気配など無く、ただ『楽しみにしている』というメッセージが前夜に来ていた。なのでそこが夏侯惇にとってはつまらない場所であったら、という不安が于禁の心に過る。
行き先というのはほぼ山に囲まれた街であり、観光名所は少ない。だが自然が豊かであるので、それを活かした観光施設が多かった。例えばこの地域でのみ植生している植物を集めた植物園や、駅の近くにある山の中に水の色がまさに『水色』をしているの小さな池など。二人が住んでいる街では到底見れないものばかりである。
ここからは普段は使わない路線で行くことができるが、場所はその路線の終点の駅が最寄り。電車は約十分に一度の頻度で来るので、待ち合わせる時間などを特に決める必要はない。
現在の時刻は朝の八時である。流石にこの時間に夏侯惇を起こすのは止めた方が良いと考え、于禁はのんびり支度をしようとした。そこでスマートフォンに通知が入る。
于禁がスマートフォンを確認すると、夏侯惇からのメッセージのようだ。内容は朝の挨拶とともに、起きているかどうかというものである。だが于禁はそのメッセージに返信するのではなく、夏侯惇に電話を掛け始めた。後で会うというのに、どうしても声が聞きたいからと。
『……どうした?』
「おはようございます、私は少し前に起きました。何時頃から出られますか?」
『今からでもいいぞ』
「えっ」
夏侯惇の言葉に、于禁はかなり焦った。まだ寝間着であるし、朝食も取っていない。数分返事に迷った挙句に、なのでもう少し待っていて欲しいと答えようとした。だが通話が夏侯惇からいつの間にか切られている。なので于禁は慌てながら、厳しく冷えた空気に満たされた寝室で寝間着を脱ぎ始めた。そこで、誰かの声が聞こえる。
「お前の方が早く起きていると思ったのだが、いが……」
既に外を出歩ける格好をしている夏侯惇が、于禁の家には合鍵で入って来たのだ。部屋の寒さに顔をしかめながらそう言うが、途中で言葉が止まる。
「……着替えている途中だったか、ノックも無しにすまん」
その時には于禁は寝癖のついた髪をしており、下着のみの姿になっていた。なので夏侯惇はかなり申し訳なさそうに、寝室から一旦出る。数分後に于禁が着替え終えると他の支度を始めた。約十分でそれを終えると、夏侯惇は再び口を開く。
「俺も確認を取るべきであったな。すまん」
「いえ、お構いなく。こちらこそ、申し訳ありません」
後はコートを着るだけの段階の于禁をしばらく見て、夏侯惇は朝食は外で取ろうと提案した。于禁はそれにすぐに賛成すると鞄を持って二人は家を出る。朝から営業している近所の小さな喫茶店へと歩いて向かった。
窓際のテーブル席に着くが、夏侯惇は家で朝食を既に取っていたらしい。なので于禁だけ朝食を取ることになるが、夏侯惇はそれは良くないと思いホットコーヒーを注文した。一方の于禁はホットサンドとホットコーヒーを注文し、店員からの提供を待つ。
本日は日曜日なので、外は出歩く人々で溢れていた。今日は終日快晴だからという理由もあるのか。二人はそれを見ながら、今日の予定を話し合う。
「当日までの楽しみで取っておいたのだが、今日はどこに行くのだ?」
「その……ここです」
于禁はすぐにスマートフォンを取り出すと、自信無さげに目的地の最寄り駅での検索結果の画面を見せた。夏侯惇は一瞬、何か分からなかった。しかし駅の名前を見て何かを思い出したらしく、少しだけ考えると答えを導き出せたらしい。かなり自信満々な表情でそれを答える。
「……ここは、化粧水でかなり有名な場所だな。その化粧水のおかげで、賑わっているらしい」
「えっ」
「どうした?」
首を傾げた夏侯惇は、ぽかんとし始めた于禁を不思議そうに見る。そして化粧水が目的なのかと夏侯惇が言おうとすると、注文したものが店員が持って来る。白いティーカップに入った熱々のホットコーヒーと、同じく白い皿に乗っているできたてのホットサンドを。
なのでその話を一時的に中断して、それぞれ提供されたものをまずは胃に入れていった。夏侯惇は少しずつホットコーヒーを口に含んでいるが、于禁は空腹だったのでホットサンドをすぐに平らげる。それを見た夏侯惇は、一時的に中断していた話題を戻していく。
「そこの化粧水を、買おうとしているのか?」
まだホットコーヒーが入っているティーカップを持っていた于禁は、夏侯惇からのその質問によりテーブルの上に落としかけた。それも、幸いにも一滴も零さずに。
やましい隠し事をしているという訳ではない于禁だが、何かに躊躇するような様子で質問に答える。とても自身無さげに。
「はい。その……最近、肌の乾燥が気になっていまして。それで、たまたま見つけましたし、貴方とどこかへ遠出したいと前から思っておりました。しかしそれならこのタイミングで、思い切って誘ってみようと思いまして。貴方とは、このような遠出をしたことが無かったので……」
最後の于禁の声は消え入りそうであり、表情が曇ってきていた。しかし于禁の話を聞いている夏侯惇の顔は、とても穏やかである。
「確かにな。だが、俺はお前から誘ってくれて嬉しいぞ」
すると于禁の顔が瞬く間に晴れていく。それを見た夏侯惇は、半分にまで減っていたホットコーヒーを一気に飲み干す。既に温くなっているのか、特に熱いという訳ではないらしい。
「早く、行くぞ」
あまりの待ち遠しさに急かすように夏侯惇がそう言うと、于禁はしっかりと頷いてからホットコーヒーを飲み干した。だが若干の熱さが残っていたのか、その後の于禁の頬はほんのりと赤い。
夏侯惇はそれを可愛らし気に見ると、二人は会計を済ませてから駅へと向かった。喫茶店からは歩いて約十分程の距離であるが、電車が頻繁に来る路線ではあるが二人は普段の歩調で歩いた。行き交う人々とすれ違うことを繰り返しながら、高いビル群の隙間から見える澄んで冷えた青い空を、時折見ていて。
駅に着いて改札を通ってホームに行くと、するとちょうど電車が来る直前だったらしい。他の乗客たちが寒さに耐えながら、コンクリート製の地面に案内されている乗車位置に並び始めている。列が幾つもあり、並んでいる乗客は多い。
二人は適当な列の最後尾へと並ぶと、電車が到着した。ホットコーヒーにより温まっていた体は徐々に冷え始めている。なのでタイミングが良く、幸運に思っていた。
電車から降りていく乗客が出た後に、列がどんどん電車の乗車口に吸い込まれて短くなっていく。二人の後ろにも数人乗客が居たが、車内は人でごった返しているのが見える。ようやく二人が車内に入ると、外から見るよりも人は少なかった。座席に座っていない乗客が多いからか。それに車内はよく暖房が効いているので快適であるが、人が多いのでその快適さは消えていく。
二人はちょうど、ロングシートの空いている席を見つけるとそこに座った。だがそれでも空きがあまり無いのか、二人はぴったりと密着する。
「終点で、降りますので」
「分かった」
車内にはボックスシートが一つも無く、車内の両側はロングシートのみで構成されていた。ロングシートに座り、足元から少し前の位置にある天井からは吊り革が等間隔にぶら下がっている。
なので二人の前には数人の乗客が吊り革に掴まり始めていた。他の乗客も居るので夏侯惇は内心で舌打ちをしてしまいながら、于禁に静かな声で話し掛けた。
「どれくらいで着く?」
「一時間、くらいです」
返事の代わりになるほど、というリアクションを夏侯惇は示す。そこから二言程の会話を交わした後に、電車が動き始める。だがここから、一駅毎に更に乗客が減っては増えていく。夏侯惇は溜息をつきながら于禁の方を見た。だが于禁はこの喧騒の中であるのにも関わらず、いつの間にか熟睡していた。遂には、夏侯惇にもたれ掛かる程に。
再びつこうとしていた溜息が安堵の吐息に変わると、夏侯惇は周囲の乗客の声を掻き分けて、于禁の穏やかな寝息を聞いていたのであった。
目的の駅に着くと、夏侯惇は于禁の方を優しく揺すって起こした。気付いたら到着していたことと、夏侯惇にもたれて眠っていたことに于禁は驚き、そして謝罪した。だが夏侯惇は気にしていないのか、先に立ち上がってから于禁に手を差し出す。于禁は申し訳なさそうにその手を取って立ち上がるが、バランスを崩してしまう。そのまま夏侯惇に抱き着く形に鳴るが、于禁はすぐに体を離した。
「い、行きましょう!」
于禁の顔はかなり赤い。夏侯惇は離されたことに少し機嫌を悪くするが、于禁のその顔を見ると機嫌はすぐに元に戻っていく。
「それにしても、電車の中は暑かったですね!」
手の平を扇ぎながら冷たくもか弱い風を自身の顔に送った。夏侯惇はそれを見て笑うと「そうだな」と言ってから、ただ見知らぬ街の景色を見ていた。
現在の時刻は十時前。二人のような多くの観光客たちが既に駅周辺を歩いている。ここはどこを見渡しても山が見える程の場所である。そのおかげなのか、とても空気が綺麗に思えた。それでも経済が潤ってきたので、高さのある建物が幾つかは連なっている途中であるのだが。
于禁は事前にスマートフォンで、主な目的地を調べていたので、まずはそこに向かった。
それは駅から少し歩いた場所にある。店の大きさは、コンビニエンスストアが縦横に二軒並んだような大きさだ。開店時間は少し前であるが、既に客の出入りが多かった。客層は女性が多い。しかしそれ以外にも二人と同じような年代の男性や、二人よりも上の年代の男性も居る。
店に入ると、壁や床が焦げ茶色の木でできた室内の装飾が目についた。次に同じ色合いの、幾つもの大きな棚に化粧水が大量に陳列してある。だが同じ化粧水が並んでいるのではなく、違う成分のものもあるらしい。主力商品は、于禁が検索結果に出てきた化粧水らしいが。
于禁は周囲に客が居る中で一番小さなボトルの化粧水を取る。容量は僅か一〇〇ミリリットルのもの。それを少しだけ咳払いしながら手に持つと、会計をしようとした。だがその前に他の陳列棚を見ていた夏侯惇が、それを止める。
「一番小さな物でいいのか?」
「はい。もしも合わなかったら困るので」
回答に納得した夏侯惇は、于禁を見送った。その類のものについては、かなり疎いらしく。
レジはかなりの人数の客が並んでいる。それに時間が経つにつれて店内は客で溢れてきたので、夏侯惇は店を出て于禁を待った。スマートフォンを手に持ち、ここについて検索していきながら。
しばらく経ってから、ようやく于禁が店から出てくる。片手に小さな紙袋を手に持っていた。それを持ち歩いている鞄に入れる。
「お待たせしてしまい……」
「別に構わん。用が済んだから、ここを観光するぞ」
確認の為にスマートフォンをちらりと確認した後に、夏侯惇は尻ポケットにしまう。行き先の候補は于禁を待っている間に絞っていたらしい。
「この後の予定など、決めていなかったのだろう?」
「……はい」
濁った于禁の返事に、夏侯惇は『やはり』というような顔をする。だがこうして話しているのが惜しいのか、夏侯惇は先程決めた行き先へと向かおうと促す。于禁は眉間にある皺を微かに薄めながら、それに嬉しそうに頷いた。
まず向かったのは、于禁も知っている正に水色の水をしている小さな池だ。ここからは歩いて行けるのだが、小さな山の中にある。だが獣道ではなく舗装されている道を、徒歩で二〇分程の距離。なので二人は山に入り、舗装された道を歩いて行った。
他にも同じ目的地に向かう人が数人居るが、舗装されているとはいえ時折傾斜の激しい場所だ。それに小さな上り下りを繰り返す、側面が丸太で残りは土で固めただけの階段が幾つもある。急ごしらえで作ったものなのだろう。二人はそれを把握していなかったらしい。まずは溜息が出ていく。
やけに階段の数や段が多く、途中で休憩している人も居る。二人も木漏れ日が挿し込む中で、しばらくしないうちにその仲間に入ろうとしていた。
「これは半分、登山なのでは……?」
于禁はそのような疑問を言い放つが、夏侯惇も同じ意見だったらしい。ただ前に見える階段を見る。
二人はあまりの疲れに、戻ろうとしていた。しかし道の外側にある立看板には『残り五〇メートル』と書いてあり、そのような立看板は今初めて見たらしい。なので二人はあと一踏ん張りと言わんばかりに体力を振り絞り、道を歩いて行く。すると進んでいくうちに、強い太陽の光が見えた。
ようやく到着するとそこは開けた場所であるが、木々に囲まれていた。足元には砂利が敷いてある。この地点の標高は何一〇メートルも無く、地上に等しい高さなのだろう。
二人は激しい息切れをしながら小さな池を見た。大きさは半径が約一〇メートルで水深は恐らく二人の身長よりもある。池の底が見えるので分かった。山の中にあるので木々に囲まれていて、青い空の下で池は二人に穏やかな水面を見せる。波など、一切立てずに。
それは綺麗の一言であるので、きちんと見たい二人は切らせている呼吸を整える。数分後に呼吸を落ち着かせると、夏侯惇はまずは池の方ではなく于禁の方を見た。于禁は池の方を見ていたが、視線に気付き夏侯惇の方を見る。
「画像で見るより、遥かに綺麗ですな」
「あぁ……そうだ、ここで二人で、記念撮影でもしないか? 俺たち以外に人が居ない今がチャンスだぞ」
夏侯惇の提案に于禁はすぐに賛成すると、二人は同時にスマートフォンを取り出した。互いにそれを見て笑った後に、夏侯惇がスマートフォンのカメラを起動させる。
「俺が写す」
「はい」
微笑んだ于禁はスマートフォンをしまうと、夏侯惇の隣に寄る。しかし夏侯惇がそれでは二人で写れないからと、于禁の腰ををぐっと引き寄せてスマートフォンの画面の上側のカメラに目線を向けた。腰を掴まれたことに動揺した于禁だが、夏侯惇と同様の方向に目線を移す。スマートフォンの画面には、笑っている夏侯惇と、ほんのり頬を赤く染めている于禁が映っている。
「あ、暑いので……」
聞かれてもいないのに、于禁はそう言い訳した。夏侯惇はまたしても「そうだな」と笑みをそのまま維持しながら返すと、そのままシャッターを切る。
「ほら、撮ったぞ」
二人で撮った写真を確認するが、于禁の頬は赤いまま。それに気付き何か言おうとした于禁だが、他にも山を上ってきた人々が数人到着したようだ。なので于禁は言うのを諦め、池のみの写真をスマートフォンのカメラで撮り始める。同じく夏侯惇も数枚撮ると、二人は下山しようと話し合った。時刻はちょうど昼であるのと、この池を見るために大きく体力を消耗したからだ。それにここで休憩する場所など無いし、あるとしても砂利の上だからだ。
帰り道に相変わらずの数の階段に二人は顔を歪めながら、山を出たのであった。
二人は疲れた顔をしながら、昼食兼休憩として駅の近くにある飲食店に入った。観光客向けの飲食店が沢山あるが、二人は最初に目についた店へと入っていく。昼食を取り、食後に休憩をしながら二人は会話を始めた。
「これから、どうする?」
夏侯惇は椅子に座り食事を取っても、疲労は回復しなかったらしい。于禁にはまだ体力に余裕があると思って。だが于禁は首を横に振り、答える。
「……疲れてしまったので、帰宅してもよろしいでしょうか……私から誘っておいて、申し訳ないのですが」
「いいぞ」
二人の意見が一致すると、会計を済ませてから駅へと向かった。電車は行きと同様に一〇分に一回の頻度で来るので、二人は駅構内に入るとすぐに改札を通って冷えたホームへと出る。周囲には他の乗客が行きと同様の人数は居る。だがここは始発駅になるので、余裕で座れるだろうと思いホッとしていた。二人は、降りる駅まで立てる自信が無いからか。
五分くらい待つと、電車が来た。まだ暖房が効いていない車内に入ると、二人は車両の部分のロングシートに座る。他の乗客も間隔を空けながらロングシート次々と座っていくと、車両のドアが閉まってから発車した。
「今日は付き合って頂き、ありがとうございました」
疲れた顔を向け合いながらまずは于禁がそう言うと、夏侯惇はそれに笑顔を挟み込む。
「それはこちらの台詞だ。今日は楽しかったな……だが、次は事前に調べてからどこかに行こう」
「次……はい!」
短い会話を交わした後に、夏侯惇は眠気が来たらしい。于禁は行きの詫びと言って肩を貸すと、夏侯惇はそれに頭を軽く乗せる。そしてすぐに眠ると、于禁は夏侯惇の寝顔を降りるまでずっと見ていたのであった。
※
その日の夜、于禁は夏侯惇の家に泊まっていた。しかしシャワーを浴びてからは服を着るのが面倒らしく、下着のみの姿だ。さすがにそれだけでは寒いので、寝室にあるエアコンから温風を出しているが。
二人は髪を乾かしてからベッドの上に横になる。夏侯惇は仰向けになって天井をぼんやりと見ていて、一方の于禁はノートパソコンを起動していた。しばらく于禁がノートパソコンで何かを一生懸命に打ち込んだ後に、電源を切った。ノートパソコンを閉じた于禁は夏侯惇の方へと寄っていく。
それに気付いた夏侯惇は于禁の方を向いてから、静かに話し掛けた。
「次の休日が分かったら知らせる」
「はい。お待ちしております」
夏侯惇は言葉なのか分からない返事をした後に、何かに気付いたらしい。唐突にがばりと起き上がると、于禁の方を凝視した。それも、とても嬉しそうな顔で。驚いた于禁は、ただ夏侯惇を見る。
「……今思ったのだが、こうしてどちらかの家に行くか決めるのが面倒だから、同棲しないか?」
于禁は言葉が出なかった。なので夏侯惇は落胆したような様子に変わる。
「嫌、なのか……?」
「いえ、そうではありませぬ! その……突然でしたので……ですが私は、是非とも貴方と共に暮らしたいと思っております」
「ありがとう、于禁」
夏侯惇はそう言うと、于禁をぎゅうと抱き締めた。それに対して于禁は「こちらこそ」と言うと、夏侯惇から離れないように抱き締め返していて。