SWEET HOMES - 3/4

数回に渡る出版社側からの校正を経て、遂に一月の終わりに文芸雑誌にて于禁が執筆した短編小説二本が掲載された。しかし発売日前夜から于禁は落ち着きが無く、あまり寝られなかったらしい。朝の目覚めは最悪であった。
雑誌を購入し、読んだ読者はどれくらい居るのか。それに、読んでどう思ったのかを寝不足の中で悶々と考えていたからだ。
そして書斎の椅子に、浅く座りながらもその思考は続いていた。
執筆した小説の内容は、一本目がとある学生の日常話である。これは于禁の学生時代と、弁護士時代に実際に居たとある学生のあらゆる要素を混ぜ、于禁の中で作り上げた架空の学生の通学の様子。その学生は電車で通学しており、その様子を淡々と描いたものだ。
次に二本目はとある社会人の恋愛話であるが、主人公の性別は一切明かされていない。勿論、最後まで読んでも結局は判明しないもの。内容は主人公と恋人が大きくすれ違い、そして別れるものである。しかし両者とも前を向いており、暗い話ではない。
于禁としては二本とも初めて書いた傾向の話であるが、校正の時点で編集部からの評価は高かった。大きな安堵をしていたが、しかし読者の反応は別である。直接読んでどうだったのかという声を必ず聞ける訳ではない。
今は次の三本目と四本目の短編小説の執筆途中だ。于禁はそれを終わらせなければならないのだが、やはり文芸雑誌に載った短編小説のことで頭が一杯だった。
するとスマートフォンに通知が来ていることに気が付いた。二〇分前に来ていたが、于禁は全く気が付かなかったらしい。通知の内容を見ると、夏侯惇からの着信が一回だけ入っていた。確か今日も夏侯惇は仕事であるし、仕事中に電話を掛けて来るのは初めてである。
于禁はどうしたのかと首を傾げながら、折り返し電話を掛けた。三コール目で夏侯惇は電話に出る。
「おはようございます、お仕事中に申し訳ありません。着信が入っておりましたので、こちらから折り返し電話をさせて頂い……」
『おはよう。もういい。分かったから、そこまで気にするな。それより、今日発売した雑誌のことで頭が一杯になっていないか? 何かあったらこっちから何か連絡するから、今はやるべきことに集中しろ』
「ですが……」
『二度も言わせ……あっ!』
夏侯惇はフロアに居たのだろう。すると用事があるらしい蔡文姫の声が聞こえたが、通話相手を推測できたらしい。急いで夏侯惇から離れたが、それを夏侯惇は通話を切らずに追う。夏侯惇本人はそれに気が付かずに蔡文姫にどうしたのか訊ねた。
すると蔡文姫は通話を切り忘れていることに気が付いたらしい。「ごゆっくり」とかなり嬉しそうな声音で言った後は、蔡文姫の声は聞こえて来なかった。
代わりによく聞こえるようになったオフィスの喧騒と、それに夏侯惇の深い溜息が聞こえた。その後に通話を切っていないことに気が付いたらしい。珍しく焦りながら、早口で于禁に手短に伝える。
『……と、とにかく、分かったか! 切るぞ!』
于禁の返事も待たず、通話がようやく切れる。クスっと一人で僅かに笑った于禁は、夏侯惇の言葉に従うことにした。だがそうする為には、まずは睡眠を取らなければならない。なので寝室へと向かってベッドの上に横になると、深呼吸をした。最中に夏侯惇の先程の言葉の端々を思い出し、自身に言い聞かせる。
すると不安を徐々に追い払うことができ、眠気が襲ってきた。于禁はそれにされるがままになると、そのまま睡眠時間を取り戻す。
起きたのは昼過ぎではあるが、頭の中はすっきりとしていた。すぐに起き上がると書斎へと向かい、まずは三本目の小説の執筆を始める。だがすこぶる調子がいいのか、いつものルーティンを破り一気に数時間掛けてだが書き上げられていた。
現在の時刻はいつの間にか夜であるが、于禁は予定よりも早く完成して安堵する。だがふと気付くと空気がかなり乾燥していた。それにより喉が痛いと感じたのでコップ一杯の水を飲むと、リビングのソファで眠りにつく。推敲は明日にしようと思いながら。

翌朝目が覚めると、何故かベッドの上に横になっていた。意味が分からず困惑していたが、現在の状況をすぐに理解できていた。隣には、下着のみの姿の夏侯惇が眠っているからだ。
確実に、夏侯惇がベッドの上まで運んでくれたのだろう。起こさないように感謝の意を示す為に、于禁は夏侯惇にぐっと近付いた。
同じシャンプーの香りがしている頭を、柔らかく数回程度撫でる。ぐっすりと眠っているので起きる気配はないし、それに何度か撫でているうちに止められなくなってきたらしい。なので手触りの良い布を触るように、何度も何度も手の平で滑らせる。するとそこで夏侯惇は目を覚ました。半ば夢中になっていた于禁はすぐに気付き、撫でていた手を止めて離す。
「んん……夢を、見ていたのだが……」
「夢……?」
眠たそうな目で于禁を見ながら、直前に見た夢の内容を夏侯惇は思い出す。まだ記憶が新鮮なので、すぐにどのような内容の夢か思い出せたらしい。それを大まかに話し始める。
「外で静かな風が、ただ吹いている夢を見ていたのだが、やけに心地が良くてな。髪を撫でる風が特に」
于禁は少し驚いた顔をするも、瞬時に眉間の皺を薄くさせていく。理由などを知らない夏侯惇は、まだ残っている眠気により于禁のそれを気にする余裕が無い。しかしまだ甘え足りないと言わんばかりに、夏侯惇の方も于禁へと身を寄せていく。
そこで何かに気付いた于禁は、ふと呟いた。
「本日は、休日ですか?」
その一言が、砂糖のように甘い空気を崩していった。
「……そうだった! 今日も仕事だった! くそ!」
がばりと起き上がった夏侯惇は時計を見ず、まずは着替える為に寝室にあるクローゼットを悔し気に開けた。于禁の家に置いている夏侯惇のスーツの着替えを取り、それを次々と確実に身に着けていく。その間に于禁は夏侯惇の支度を手伝う為に、洗面所へと向かって行った。
于禁はそこでの用を済ますとキッチンでとても簡単な朝食を作ろうとする。しかし着替え終えた忙しそうに夏侯惇はキッチンを覗いて「すまん! 朝食は買って食う!」と言うと、洗面所へと足早に向かう。
時計を見ると、会社に着く頃にはかなりギリギリになるであろう時刻だった。于禁は心配そうに洗面所へと向かおうとしたがそれを止め、リビングのソファーに置いてある夏侯惇のビジネスバッグを持つ。ここに置かれてからバッグを開いたり、何か床に落ちた形跡もない。なのでそれを玄関に置いておくと伝えた後に、寝室にまだある夏侯惇のスマートフォンを取りに行った。
それを持って玄関に向かったところで、ちょうど夏侯惇は支度を終えている。ビジネスバッグとスマートフォンをすぐに持てるように于禁が、準備してくれたことに対して礼を言うと急いで革靴を履いて玄関を出ようとした。しかし何か忘れた物でもあるのか、足をピタリと止める。
「于禁、行ってくる」
「……行ってらっしゃいませ。それと、遅くなりましたが昨日の昼間はありがとうございました」
振り向いてそう言い、于禁の返事と感謝の言葉を聞くとすぐに玄関を出る。夏侯惇の背中はすぐに見えなくなり、于禁は途端に寂しく思っていた。まだ厳しい寒さや空気の乾燥により、更に拍車をかけていて。
だがその日の夜遅くに夏侯惇から「来い」という短くシンプルなメッセージが来る。
それまで于禁はずっと寂しさを引き摺っていたのか、推敲する手が度々止まってしまっていた。なのでメッセージを確認した于禁は急いで隣の夏侯惇の家へと駆けつける。すると先程まで確かにあった寂しさなど、急激に溶けて消えていってしまう。春の強い日差しに当てられた、深く白い雪のように。
朝の埋め合わせをする為に二人は、すぐに抱き合うとそのまま互いの人肌の温もりを高め合っていたのであった。

数日後。于禁は推敲を終えて編集部に提出した原稿の、校正指示を受ける為などの打ち合わせの為に朝から出版社に来ていた。だが建物に入ると妙な違和感に気付く。周囲にある文字の数々が、見えづらく感じるのだ。確実に、眼鏡のレンズが合わなくなってきているのだろう。
内心で溜息をついた于禁は、それを後回しにして蔡文姫との打ち合わせを始めた。
二時間弱が経過し、ようやく打ち合わせが終わる。そこで蔡文姫が何かに気が付いたのか、心配そうにそれを指摘した。
「于禁殿、打ち合わせ中は頻繁に瞬きをしていらっしゃいましたが、大丈夫でしょうか?」
一瞬何かと思ったが、心当たりしかない于禁は冷静に答える。
「瞬き……? いや、大丈夫だ。ただ、眼鏡のレンズが合わなくなってきているだけだ。それと、空気の乾燥も関係しているだろう」
蔡文姫はすぐに理由に納得すると、まずは安堵の息を漏らした。心配そうな表情はほとんど間に消え、いつもの穏やかな様子へと戻っていく。だが一方で、于禁は蔡文姫が続けた言葉により平静さを失う。
「編集長は大分、貴方の心配をしていらっしゃいまし……」
「……レ、レンズを変えに今から眼鏡屋に行って来る、では、私はこれで失礼する!」
外では夏侯惇を変に意識をしてしまう于禁は、頬を真っ赤に染め上げる。あまりに恋しいのか。その自覚はあったので「暖房で暑くて」などと自身の内で言い訳をしながら、于禁は出版社から出ようとした。そこで夏侯惇に出くわす。
「あ、あの……! 私はこれから、用事がありますので!」
夏侯惇はまだ何も言っていないというのに、于禁は一人でそう言うと急いで建物から出たのであった。微かに夏侯惇からの困惑の声が聞こえたが、振り返らずに于禁は眼鏡屋へと走って行った。
出版社を出て約二〇分後に眼鏡屋へと到着する。
早速に店員にどのような用件か尋ねられたが、于禁はレンズだけを変えると答えようとしていた。しかし綺麗に並べられている数々のフレームを見ていくうちに、于禁はフレームも変えてしまおうかと悩んでしまっている。夏侯惇の存在により、黒縁以外のものに変えようかと思いながら。
現在のフレームは黒縁のもので、眼鏡をかけ始めた学生時代から色だけは変わらなかった。つまりはずっと同じようなフレームである。あまり服飾品にこだわりは無いが、常に身に着けなければならないこれだけは、今の心境としてはこだわろうと思った。夏侯惇に似合うなどと褒めてもらいたいが為に。
于禁は三〇秒間とかなり短い時間考えた結果、フレームも変えてみることにした。そして店員に案内されると店内を見て回り、色やフレームを決めていく。
選んだのは銀色のスクエア型のハーフリム眼鏡だ。他の色の選択肢もあったが、于禁は自身で似合う色が少ないと自覚している。なので黒以外となると、銀しかないだろう。これならどのような場面でも不格好という訳ではないと確信していたからだ。
会計を済ませてから、前のものよりも少し厚くなってしまったレンズが入っている、新しい眼鏡をかけた。鏡は眼鏡屋の至る場所にある。なので一番近い鏡を見ると、少しだけ自身の雰囲気が違うように見えた。しかし似合っているかということよりも、夏侯惇から見たらどう思うのだろうかと不安になる。
于禁は前の眼鏡が収納されているメガネケースと、領収証が入った紙袋を手に提げた。そして眼鏡屋を出ると、時刻は既に昼過ぎ。于禁はかなりの空腹や不安を抱えながら、帰宅していったのであった。
遅めの昼食を取っている最中に、夏侯惇から『今日は家に用事がある、明日も仕事だからすぐに帰る』というメッセージを受信する。于禁は少しでも会いたい気持ちもあるが、思い切って変えた眼鏡のフレームが未だに似合っているのか分からなかった。眼鏡屋の店員は「似合っている」などと言っていたのだが。
ただ『はい』という返信を送ればいい話だというのに、于禁はスマートフォンでなかなか文字を入力できずにいた。だが意を決してその返信をするとすぐにスマートフォンを遠ざけ、于禁はベッドの縁に座る。そして眼鏡を外してただ項垂れていたのであった。
いつの間にか座りながら眠っていたのか、意識が戻ると夕方になっていた。薄暗くなった部屋を見て驚きながら眼鏡をかける。横になっていないので、背中や腰に若干の痛みも掛けながら。
「于禁?」
そこでちょうど、夏侯惇が来たようだ。疲れた顔をしている。しかしここまで早い時間帯に退社するのは珍しい、と于禁はそう思った。夏侯惇の手には白いビニール袋がぶら下がっており、近くにあるドラッグストアの店のロゴマークが印刷されている。
だが于禁の変化に気付いた夏侯惇はすぐにそれについて話す。
「眼鏡を変えたのか?」
「はい。あの……どうでしょうか?」
「似合っているぞ。黒も良いが、その色も良いな」
于禁は「ありがとうございます」ととても照れ気味に言った。それを見た夏侯惇は于禁の隣に座ると、乱れている髪をわしゃわしゃと撫で回す。しかしそれが心地よいのか、于禁は思わず目を細めたが。
「今日は、いかがなさいましたか?」
撫で回されていた手が離れると、于禁はしょんぼりしながら夏侯惇に聞く。一方の夏侯惇は笑みを浮かべながら于禁にもたれ掛かってから答えた。
「歯ブラシを変えなければと思ってな」
提げているビニール袋から新品の歯ブラシを取り出す。来た理由についてすぐに納得した于禁だが、何か言いたげな顔をしている。それを夏侯惇に言おうか迷っていると、夏侯惇は立ち上がってから帰宅しようとする。かなり疲れたので、今日は早く休むと言って。
于禁はまたしても迷いが生まれ、寝室から出ようとした夏侯惇をそのまま見送ろうとした。しかし奥底にある愛しい気持ちが勢いよく噴出したかと思うと、すぐに于禁も立ち上がって夏侯惇を背後から抱き締める。歩みをぴたりと止めた夏侯惇は驚いた顔をするも、すぐに嬉しそうな顔へと変えていた。
「……まだ、帰らないで頂きたい。私の……わがままですが……」
静かに、控えめに于禁はそう呟く。その気持ちを夏侯惇はすぐに理解したのか、ゆっくりと柔らかく受け止めた。
「あぁ、そうする」
夏侯惇は深く頷くと振り返り、于禁を抱き締め返す。そして夏侯惇は新調したばかりの眼鏡を外し、唇を合わせる。二人の熱がそのまま高まると、互いに肌を激しく晒しあったのであった。
数時間後に二人の熱が冷めた頃、シャワーを浴びて二人は寒いのにも関わらず服を着ずにベッドに入る。室内には明るい照明が点いていた。その中で冷えてしまった肌を温め合うように、向き合って密着しながら。
そこで何かに気付いた于禁は、夏侯惇をじっと見た。
「どうした?」
「いえ、その……」
于禁が視線を外したので、夏侯惇は静かに笑う。
「何か思っているなら、言ってみろ」
躊躇を数秒引き伸ばした于禁は夏侯惇の言葉により、目線をぐるりと動かした。小さな溜息をつくと、重くなっている口を無理矢理に開く。
「……貴方には失礼なことではあると思いますが……その……どうして片眼を失明されているのか、少し前から気になっておりまして。ですがそれが不快であれば、話さなくとも結構です」
于禁は夏侯惇の空になっている方の瞼を控えめに見る。そこでようやく視線の方向と疑問が一致した夏侯惇は、特に不快だとは思わないのかすぐにそれに答えた。
「それが気になっていたのか。しかし今更だな。片眼を失明しているのは、学生時代にただの事故に巻き込まれただけだ」
「そ、そうですか……」
「だが、片方の目が無いことを別に気にしてはいない。編集者の時代の頃は、作家から舐められずに済むから、寧ろ武器になった。おかげで担当していた全員の作家が締め切りを守ってくれたな」
夏侯惇は次はおかしそうに笑うと、それを見て于禁は胸を撫でおろした。しかし夏侯惇は浅い溜息を吐き出して言葉を続ける。
「作家に対しては別にどうでも良いが、作家以外の初対面の者からは、やはり怖いと思うらしい。その筋の人間だと思う者も居てな。だから、その面では難点でもある」
「貴方も、そのようなことを気にされるのですね。誰とでも、誰からも親しく話すことのできる方だと思っていましたが」
「ほう……嫉妬しているのか?」
于禁は、夏侯惇の指摘により顔が朱色に覆われていく。先程まで、安堵の感情を維持し続けていたというのに。そして図星だったのか「そうではありません」と言い、言い訳を考えようとした。夏侯惇はそれに、鼻で笑うような態度で返す。
「貴方はもうお疲れのようですし、もうお休みになられてはいかがでしょうか! 引き止めたのは……私ですが……」
「あぁ、そうする。だが今日は誘ってくれて、嬉しいぞ」
于禁の顔の朱色の濃度が、強まっていった。自身でもそれを自覚していたのか、誤魔化すように部屋の照明をリモコンで落とす。部屋が真っ暗になったので、互いの顔色はもう見えない。しかし二人は先程の会話の内容など、綺麗さっぱり忘れたように静かに肌を寄せ合う。
そして二人は、数分も経たないうちに穏やかな眠りへと入っていったのであった。

数日後。于禁は執筆ルーティンを崩したかと思うと、戻していくことを繰り返していく。この時は初めて、一日中書斎に籠っていた日もあった。于禁は文字で話を紡ぐことの楽しさを存分に理解したのか、つい夢中になってしまっていたらしい。
その間に三本目が終わり、四本目の短編小説を執筆し終えた。それらを推敲する為に、于禁は二日か三日をかけて脳をリセットする。小説内での矛盾点を見つけやすいようにと。
なので大まかにその数日間は、于禁は再び他の作家が執筆した小説を読んでいた。それに、動画配信サービスで映画などを視聴したりと。
そうすることにより脳を軽くしていくと、自身で打ち込んだ大量の文章を推敲していく。数日間掛かったが、やはり于禁から見た場合では修正箇所が幾つもあった。やはりどう気を付けても、誤字脱字からは逃れられないからか。
数々の溜息を挟みながらそれを修正していくと、出版社にそのデータを送信した。その時は昼間であったので、すぐに蔡文姫から「確認した」という内容のメールが来る。
まずは書かなければならない短編小説がようやく、残り二本になる。于禁は無意識のうちに体を伸ばしたが、途中でそれを止める。まだ気を完全に抜いてはいない、と于禁はそう思ったのだ。五本目と六本目のプロットを確認すると明日から書き始めようと思い、再び脳内に積み上がった情報をふるいにかけていたのであった。
その日の夜、于禁は久しぶりに夏侯惇に酒に誘われた。バレンタインが近いのだが、仕事の忙しさにより何もできないが、せめてと。出会った頃のように各々の部屋のベランダに出てグラスを持ち合う。夏侯惇が酒を用意したが、度数は于禁に合うものであった。そして二人は少し懐かしいなどと言いながら、酒を喉に流して冷えた体を暖める。一時間が経つと、夏侯惇は部屋に戻っていった。
まだベランダに居る于禁もそろそろ部屋に戻ろうとした。しかし喧騒や人工的な光が途絶えないこの街を見る今の目が、前よりも違うように見えた。何故だか、この景色がとても綺麗でずっと見ていたいと。
なので小説家としては技量からしても、精神的にも成長したと于禁は思っていた。なので掲載された小説のことではなく、次の締切のことだけを今はとにかく考えていようと考えながら。