髪の約束
「髪を結ってみても良いか? ……いや、やはり……」
夜が明けたばかりの時間のことだ。于禁の寝室で共に夜を過ごしていた二人は、起床した後に身支度を始めていた。
そのときに既に身支度を終えている夏侯惇は、身支度の途中である于禁の近くに寄る。そして先程の言葉を于禁にかけたが、最後まで言い切るのを止めていた。胸下までの高さのある棚の上に鏡があり、それに向かって于禁が椅子に座って長い髪を結おうとしていたところで。
「いえ、あなたが私の髪を結いたいのであれば、是非とも」
そこで于禁はちょうど手に持っていた櫛を夏侯惇に手渡した。肯定の言葉と共に、夏侯惇に結わせても大丈夫だという意思表示として。
その反応を見た夏侯惇は櫛を受け取ると、空いている手で于禁の髪を控え目に持ち上げて触れる。
「本当に、いいのか?」
「あなたがそうしたいのであれば、私は構いません」
于禁は振り返ってそう言うと、夏侯惇が控え目に手で持ち上げていた髪がスルリと落ちていった。それを見た夏侯惇は微かに笑う。
「……やはりお前の髪は、綺麗だな」
ただ空を持ち上げる手には、髪の手触りの良い感触がまだ残っていた。その残っている感触から夏侯惇はそう呟くと、于禁の耳が赤くなっていた。
「あなたにそう褒められると、嬉しいのか恥ずかしいのか……」
すると于禁は視線をどこへ向ければ良いのか分からなくなり、様々な方向へ泳がせる。于禁の視界に映る鏡の隅には夏侯惇の顔、それに中央には自分の赤く染まった顔があるからだ。
「褒めているのだから、喜べ」
使おうとしていた櫛を手のひらに収めてから再び髪に触れると、やはり手触りが良かった。
最中ではあまりそこを触れるための精神的にも、身体的にも余裕がない。そもそも冠と簪を外して髪を下ろしている姿は夏侯惇でもあまり見ない。なのでまともに于禁の下ろしている髪を触れられる状況といったら、例えば身支度の途中である今くらいだろう。
「もう少し、お前の髪に触れていたいのだがな……」
夏侯惇はそろそろ執務のために于禁の寝室を出なければならなかったが、寝室から出るのを渋っている様子だ。いつもなら起床をして身支度を終えると、執務に遅れないようにとすぐに寝室から出るからだ。なので夏侯惇にしてはかなり珍しい光景だった。だが夏侯惇に遅刻させる訳にはいかない。そう考えた于禁は振り返った。
またしても、夏侯惇が持ち上げていた于禁の髪がスルリと落ちる。夏侯惇はその様子を見た後、于禁の方に視線を移す。すると于禁は顔の赤みが少し残ったまま、夏侯惇に静かに言葉を投じる。
「……では夏侯惇殿。今日はここまでにして、翌朝もまたこうして、私の髪に触れて下さらぬか」
それは誘いの言葉であった。今夜も自身の閨へと導き、そして夏侯惇を抱く為の。
言葉の意味を察した夏侯惇は、おかしいほどに急激に顔を赤く染めた。
「……ッ! 今日も、早くお前の寝室に行く。だから待ってろ」
夏侯惇は櫛を于禁の手に無理矢理返す。そして引かない顔の赤みを残して口元だけでも手で覆うと、于禁の寝室を素早く出たのであった。