君に、明りを灯して。
夏侯惇は物心がついた頃から、いわゆる『前世の記憶』というものがあった。それもそのときと外見も性格も、何もかもがほぼ同じである。だが一つだけ違うのは、自身が隻眼ではないことくらいか。
前世の記憶がある、とは言っても、長編の映画を連続で観続けるように記憶を見たという訳ではない。あることをきっかけに前世の記憶が断片として夢のようにふと甦る、そのような記憶の見え方だ。
それに対して大きな疑問が一つあった。それは、その記憶の中に居た者たち、例えば曹操や夏侯淵や曹仁なども夏侯惇と同じ境遇なのかと。
偶然というより奇跡に近いのか、生まれ変わっても幼い頃から曹操と夏侯淵と曹仁と、夏侯惇自身も、容姿も性格も全く同じで、同じ関係なのである。
なのでまだ幼い頃、夏侯惇はまずは両親に「前世の記憶がある」と話すと、両親は「テレビの影響を受け過ぎだ」などと返されるだけだった。いわゆる、幼い子ども特有の妄言と捉えられていたのだろう。
次にその三人に話してみるが両親と同じような反応を返された挙げ句、三人とも前世の記憶など無いと断言された。夏侯惇はその三人を信頼しており、嘘をつくなどつまらないことをしないのは分かっている。なのでそれを信じた。三人は前世の記憶が無く、周囲では自分たった一人だけ前世の記憶があるということを。
それからは前世の記憶があることは、二度と誰にも話さなかった。話しても必ず冗談と受け取られるし、何もかも無駄でしかないからだ。
大方の記憶が蘇った頃には夏侯惇は既に社会人になっていて、曹操が経営するとても大きな企業に就職して更にその右腕となっていた。だがそれまでに不可解なことが一つある。
それは記憶の中に一人足りない気がしていることだ。恐らくその人物は一番の幼馴染みである曹操よりも、個人的に一番親交の深かった人物だろう。
その人物と話している記憶はあるが、そこでどうしても主に濃い靄や時折ノイズがかかる。その人物の姿や声にも、その人物との記憶そのものにも。
それに思い出そうとすると、前世では失明していた左眼の奥が、急に立っていられない程の激痛が数秒程走った。それは何回も、というよりも思い出そうとすると毎回だ。まるで思い出そうとしている記憶から、ずっと忘れていろと言われて邪魔されているかのように。
なのでそれのせいか、あまりその『濃い靄のかかっている記憶』についてはあまり触れないようにした。
そして周囲にはそれを、気圧のせいで少し頭痛がするなどと誤魔化していた。
※
雨がよく降る時期のことだった。勤務している会社の顧問弁護士が重い病気のため、曹操は別の顧問弁護士と契約することにしたと夏侯惇に話す。
その詳細は、前任である顧問弁護士が前から患っていた病が悪化したことにより、入院することになっていたからだ。しかしその顧問弁護士は初老を過ぎた年齢であるためか、夏侯惇の勤務している会社へ迷惑をかける訳にはいかない、と判断したらしい。
なのでその顧問弁護士はかなり信頼している、同じ法律事務所の弟子のような存在である者へと交代して欲しいと頼んでいた。それに対して曹操は快諾していたが。
その後は曹操と「以前の顧問弁護士にはかなり世話になった」などと話し合っていただけだった。そして新任の顧問弁護士は、急になるが来月から契約が始まるという書類に目を通していた。挨拶などの顔合わせは、その顧問弁護士の仕事の都合で契約開始日になる。
※
そしてその新任顧問弁護士の契約開始日。
その新任代表取締役である曹操へ顔合わせに来ようとしていたが、生憎にも曹操は急用のために次の日まで会社には居なかった。曹操曰く、袁紹との用事が突然できたと。
なので夏侯惇が社長室で代わりに新しい顧問弁護士と二人で顔を合わせることになっていて、新任の顧問弁護士は約束である時間の数分前に来た。社長室の扉へのノックとともに。なので夏侯惇は入室を促す返事をすると、新任の顧問弁護士は社長室に入室する。そして口を開いて挨拶している途中だった。そこで夏侯惇に異変が起きる。
「はじめま……」
その瞬間、夏侯惇の左眼に激痛が走った。そして立っていられなくなり、傍らのソファにもたれ掛かる。『濃い靄のかかっている記憶』との思い出について何か考えた訳でもないのに。
「如何なさいましたか!? 大丈夫ですか!?」
新任の顧問弁護士が片手の平をとても焦った様子で差し伸べてきた。夏侯惇は手を震わせながら、何とかそれを掴んで立ち上がる。その手の平が、なぜだかとても懐かしく暖かいと思いながら。
「分からん……。すまんな、気圧のせいなのか、急に頭痛が来て……お……お前は……!?」
そして激痛に耐えながら相手の目を見ると残っていた記憶が蘇り『濃い靄のかかっている記憶』は全てすっきりと消えた。
目の前には濃い霧に隠されていた記憶の中と同じ容姿の人物が居て、その目の前の人物との関係が脳内で蘇る。目の前の相手は前世の記憶の中で一番仲が良く、その上で何度も体を重ねるような関係だったのを。
そして夏侯惇はもう一つ、忘れてはならないことを思い出した。今でも目の前の相手のことが好きでいて、とても大事な存在だということを。
「于禁……!」
記憶を取り戻した夏侯惇が、相手の名前を呼ぶと相手は目を見開く。対して、その夏侯惇の名を呼ぶことに反応したようで、声を震わせていた。
「夏侯惇殿……。私のことを覚えていらしたのですか……?」
『相手』から名を改め、于禁は眉をハの字にしながら視線の高さを合わせてそう言う。前世の記憶があるのは恐らく夏侯惇一人だけではないらしく、于禁にもきちんと共通の記憶があった。
それに対して夏侯惇はついには、左眼の辺りを押さえて呼吸を乱しながら辛うじて返事をした。とてつもない冷や汗を流しながら。
「あぁ……。正確にはお前のことだけは、お前が喋り始めた、つい先程だがな……」
「そうなのですか。……私は、始めから全てです」
于禁の返事の後半が、夏侯惇にとってはとても重たいものに思えた。
前の記憶がある。つまりは物心ついた頃から今日までずっと、記憶により感情を振り回されていたのだろう。
前はようやく会えたのにも関わらず、逃げられてしまっていた。なので曹丕に詳細を聞くと曰く、本人は樊城の戦いでの降伏以来はかなり憔悴していたことと、まともな人間らしい精神状態で最期を迎えられないだろうと。
なので夏侯惇はそれを聞いて十数秒程、ゆっくり呼吸を整えた後に痛みが少しは軽減されると立ち上がる。于禁へと何か言いたいことがあるためか。しかしまともには立てないらしく、中腰になり傍らのソファを支えにしながら。
「……どうやら貴方の体調が悪いようですので、私はここで失礼します。……早く休まれた方が良いかと」
于禁は次第に気まずそうな表情になっていき「最後に」と自分の名刺を一枚出して渡そうとすると、未だに痛みで辛そうな顔をしている夏侯惇はその右の手首をがしりと掴んだ。それに驚いた于禁はその反動で名刺を真下の床に落としてしまうと、夏侯惇から目を逸らすように名刺を見つめる。
「……また、俺を拒んで、俺から姿を眩ませて、そして逃げるのか? また、俺を避けるのか?」
夏侯惇からは見えないが、于禁は眉間の皺を深くさせていた。そして夏侯惇の言葉に反論しようにも、全くその通りなのでできなかった。なので腕を振り払おうにもできず、ただひたすらに床に落ちた名刺を見つめる。
「俺は、お前とまた……」
「私は、貴方とは個人的な関わりを持つつもりはありませんので。その手を離して頂きたい」
于禁は何かを決意したような顔をすると、重く顔を上げて視線を合わせる。だがその視線は、夏侯惇から見ると光を失っているように見えた。そして夏侯惇の言葉を遮ってそう冷たい言葉を放つと、離す様子のない夏侯惇の手を躊躇なく振り払った。その後に落ちた名刺はきちんと拾って事務的に手渡していたが。
夏侯惇はそれにとてつもなく大きなショックを受ける。于禁が足早に社長室を立ち去るまで、ただその背中を悲しげに見ていて。
夏侯惇にとって、過去の記憶のおかげで他人よりも優位なことはたくさんある。例えば学力の問題などだ。その恩恵は今の時代ではかなりありがたかった。しかし于禁との再会以降は、前の于禁の記憶だけは思い出す度に胸が苦しくなり、過去の記憶がある故の『代償』とも思えた。
それからは于禁と会社で顔を合わせる機会が何度かあった。しかし于禁からの視線と、言葉はとても冷たいものである。それも夏侯惇のみを避ける態度を貫いていた。
対して夏侯惇は平気そうな様子を何とか取り繕い、周囲に悟られないようにしている。于禁からの冷たい態度により受ける、心へのダメージが日を追う毎に蓄積されながらも。だが何週間か経っていくうちに、夏侯惇の精神に限界が来つつあった。 前も、記憶を取り戻した今も、于禁のことを変わらず好きであり続けるからか。
※
それから何週間か経ち、ある日の夕方のことであった。于禁が仕事の関係で夏侯惇の勤務している会社へと来ていて、いつもと変わらず冷たい態度を取られている。 それに夏侯惇を仕事上で見る目も、光がない。
だが夏侯惇はそこで何もかも限界が来たらしい。夏侯惇の中で何かが切れてしまっていた。
理由は我慢の限界という単純なものであった。于禁からの冷たい態度も、光のない目も、向けられているのがとても悲しいというのもある。しかしそれに加えて、于禁のあの様子を見なければならないのが嫌で哀し過ぎたからだ。そして最後に、未だに于禁に未練があるというのもあるが。
なので会社から出ようとしていたのか、建物内の廊下を歩いている于禁を探すと見つけ、すぐさま近付いてから腕を無理矢理に捕らえる。幸いにもそこは人通りのない場所であったので、当然のように周囲に二人以外の人影すら見えなかった。
「……何か用ですか」
于禁は氷のように冷たく言うと、夏侯惇は思わずその冷たさに手を離そうとする。だがそうしてしまったら一生、二度と于禁に近付けなくなるような気がしていた。なので夏侯惇はそれに耐えて手を大きく震わせながら、同時に声さえも震わせて于禁へと言葉を放つ。
「お前に用があるから、こうやっているのだがな!」
「では、このようなことをしなくても良いのでは?」
表情を歪ませた夏侯惇は、更に腕を捕らえる力を強くすると近くにある、あまり使われていない古い資料室へと強引に連れて入った。抵抗をしていた于禁だが、それでも夏侯惇は掴んでいる腕を離さずに。
その資料室に入らせると扉を閉め、すぐに部屋の奥の方にある棚に囲まれた場所へと移動させ、壁へと詰め寄る。そして一つ深呼吸してから、言葉を吐き出した。光を取り戻した代わりに、眼光を刃物のようにとても鋭くさせている于禁へ向かって、多少の怖じ気を含ませ、そしてそれに耐えながら。
「……于禁。やはり俺はお前のことが、好きだ。何があっても諦めきれない」
次第に夏侯惇の瞳には涙が溜まっていく。怖じ気に耐えていた心の堤防が、壊れてしまったからか。だが于禁はその涙を、特に何も思っていない様子でいて。
「お前はあのときから、俺を嫌いになってしまったのか?」
恐る恐る、夏侯惇がそう聞くと于禁は静かに頷いた。留まっていた夏侯惇の瞳にある涙が、ダムのように大量に流し始めながら。最初はどうにか止めようともしたが、どうしても止まらないらしく頬の全体を濡らしていった。
そうしながら夏侯惇は、于禁にもう一度同じような内容の質問をした。
「……俺のことを、もう好きではないのか? どちらか、はっきり答えてくれ。もしもお前が俺のことを嫌いであれば……お前とは二度と、関わらないようにするから……」
夏侯惇の声が消えかけいき、于禁の表情はとても強張った。言葉の一つ一つに対してなのか。
「貴方のことは嫌いでもあり……未だに、好いております。しかし……貴方は、分かっているはずでしょう?」
すると于禁の眉間に皺が深く寄り、そして瞳が微かに潤んできていた。だが既に視界が涙により霞んでいる夏侯惇には、それが見出だせなかった。
だからか「どういうことだ」と更に質問を重ねると、于禁は苦しむように答え始める。
「あの頃、貴方を悲しい思いをさせた私は、貴方と親しくして良い権利など、もうありません。私はあの頃から、それを罪として一生背負っていくと決めました。なので私ではなく、どうか、他の者と幸せに生きて下さい。私のことは、もう一生思い出さず、忘れて下さい。貴方のことを未だに好きである、私からの……せめてもの願いです……」
于禁は涙を落としそうであり、途切れ途切れにそう言いながら、必死に流れるのを堪えた。それに対し、夏侯惇は于禁の両肩を何とか掴み、于禁へと顔と体を密着させる。于禁のスーツが涙で濡れていた。
その時、于禁はそれを拒みたいサインなのか、夏侯惇の体に手を添えようとしなかった。代わりに背後にある冷たい壁に、両手の平をぴたりとつけたが。
夏侯惇はそれを視界の隅に何となく捉えると、于禁へと顔を向けた。
「……俺は別に、そのようなことは気にしていない。だからお前が俺にしてくたように、お前から明りが消えようと、俺が灯してやる」
夏侯惇の声は変わらず消えかけたようなものではあったが、于禁は一瞬、強い光を当てられたような眩しげな顔へと変えていった。そう思う程、夏侯惇がなぜだか眩しいと感じられたからだ。実際にはただの于禁の気のせいであるが。
「ですが、貴方とは、もう……」
于禁は苦しげにそう答えるが、夏侯惇は僅かに首を横に振った。
「本当の心を騙し続けるのは……もう止めないか?」
すると夏侯惇に何か暖かいものが降ってくる。何だと思っていたが、それは于禁が流して落とした涙であるのがすぐに分かった。
「于禁……」
それを把握した夏侯惇は右手を震わせながら于禁のスーツのネクタイを掴む。そしてぐいと引っ張ると于禁の首が無理矢理に下がったので、夏侯惇は顔を濡らしながら于禁と無理矢理口付けをした。突然のことに于禁は顔を真っ白にしていると、口腔内に舌が入って来たようで、微かに声を漏らす。
「ふっ……ん、んぅ……」
夏侯惇は舌を少し絡ませたところで限界が来たのか、掴んでいたネクタイから手を離す。そして後ろに倒れそうになったので、于禁はすかさず夏侯惇を抱き寄せた。于禁の心臓音が、夏侯惇からよく聞こえる。
「お前なら、そうしてくれると信じてた……」
夏侯惇は于禁の背中にゆっくりと両手を回す。
「俺を悲しませても、お前なら一言謝ってくれるだけで赦したというのに……。俺たちは、そこまで薄い関係ではないだろう?」
「夏侯惇殿……」
二人は暫く沈默した後、涙が引いた様子の于禁が口を開く。
「……あの頃は、本当に申し訳ありません。その……差し出がましいのですが、再び私とお付き合い頂けないでしょうか?あなたが、好きです」
「あぁ、喜んで……」
于禁の冷たい目が、氷のように解けてなくなっていく。同時に、今まで夏侯惇にあった左眼の奥の激痛は二度と起きることがなかった。
※
二人は、周りには秘密の上で再び付き合い出すが、それは于禁の希望であった。それに夏侯惇は理由を聞かず、ただ一つ返事で頷く。
ちなみにあの資料室を出た後に、社内の人間に出くわしたが『資料を二人で探していたところ、あまりにも埃っぽかったので目にゴミが入って涙が出た』などと言い訳をしていたが。
それからは互いに仕事が忙しく、交換していた連絡先で他愛もないメッセージのやり取りをするだけだった。なので二人きりで直接何か話すことは、あれから一度もない。
そこで夏侯惇はあることを思いつき、すぐさま于禁ととあるやりとりをし始めた。
ある日、二人は残業も定時以降の用事が無かったので、会社から少し離れたカフェで待ち合わせをしていた。
とあるやりとりというのはメッセージで、夏侯惇が于禁にいつ時間が空いているかというものだった。于禁は今の時点で空いている日時を返事で送ると、夏侯惇は「大事な話をさせて欲しい」と返す。待ち合わせ場所として長年経営しているという喫茶店の地図も添えて。
于禁はそれに快く了承していて、二人が待ち合わせした喫茶店というのは、于禁の勤務している法律事務所から少し近い場所にあった。一番近い駅からは徒歩で五分といったところか。
しかし于禁はその喫茶店の存在を知らなかったようだ。休日があまりなく、周辺にある店のことを気にしている余裕が全くないらしく。
そして夏侯惇が待ち合わせ場所としてその喫茶店を選んだ理由は、まずは于禁の勤務している法律事務所から近いからだ。前に一度だけ、曹操と前任の顧問弁護士と三人で来たことがあるので、この店を知っていたらしい。
約束した当初は于禁は、朝から夕方までは法律事務所に居るという予定であった。しかし当日になって予定が狂い、日中は事務所に居ないとの連絡を夏侯惇は受けた。それから夕方から一時間程空き、夜からは予定通りにこの喫茶店や事務所の近くでの用事があるらしいが。
もう一つはこの喫茶店内のテーブルは、それぞれ簡単な個室のようなものになっているからだ。テーブルには二人掛けのソファが対になっているが、それぞれの後ろは座ると頭がちょうど隠れるくらいの、木製の厚い仕切りがあった。それに仕切りの頂上部分には厚さが五ミリで、高さが一〇センチ程のガラス製の板が立つようにある。通路を歩く店員や行き帰りの際の客のみが、少しだけテーブルを視認できるくらいだろう。そして席は全て窓際にあるほどに小さな店だが、街中といえどとても静かな景観が見えていた。
夏侯惇は今日は于禁に大事な話をするつもりである。なので多少の人目があるものの、少しの時間の間でも落ち着いて話せる場所と言って思い付くのがここくらいしかなかった。
そして今回も、夏侯惇の方が来るのが早かったようだ。約束の時間にはまだ早いが。あと、三〇分の余裕はあるだろう。
それなりの客足をぼんやりと確認しながら店員に席を案内されてから席に着くと、スマートフォンを取り出して于禁へ「着いた」という旨のメッセージを送る。だが于禁と話すのをどうしても待ち切れないのか。その際に店員にお冷を出されたのでそれを少し喉に通してから、コーヒーを注文した。
すると数分後に于禁から「もう少し待って欲しい」と返事が返って来ていた。于禁は今は、電車に乗ってこちらへ向かっているという。すると注文したコーヒーが来た。とても無難なデザインのコーヒーカップだ。それを少しずつ口にしていく。于禁をとても待ち焦がれながらも。
それから数分後、夏侯惇はコーヒーを飲み切ったところである。約束の時間である数分前に、于禁は夏侯惇の待っている喫茶店へと到着した。
「お待たせてしまい、申し訳ありません」
恐らく駅からここまで走って来ていたらしい于禁は、息切れを起こしながらカフェの店員へと案内される。そして席へと座りながら謝った。
そのときの夏侯惇は、少し懐かしい気持ちを甦らせていた。そして一刻も早く于禁に触れたいという衝動を抑えながら、于禁へと気にしていないことを伝えた。そもそも、約束の時間に遅れていないことも含めて。
「時間に遅れていないから構わん。……それより、お前に大事な話がある」
喫茶店の店員が于禁にお冷を出し、注文があったら呼んでほしいと言ってテーブルを離れた。そして夏侯惇の空になったコーヒーカップを、于禁が自然と申し訳なさそうに見た後に返事をする。
「……話、とは何でしょうか?」
「于禁、俺と一緒に住まないか?」
夏侯惇はすぐさま、はっきりとそう言った。一方で于禁はそれを聞いた途端に顔を熟れた果実のように真っ赤に染め、言葉がスムーズに出ないのか詰まらせた。
「えっ、あっ、その……えっと……」
なので自らを落ち着かせようと于禁は出されたお冷を飲み干してから、ようやく言葉を再び出す。その際、夏侯惇はそれを見て愛おしそうに笑っていたが。
「よ、喜んで! ……ですが、住む場所はどうされるのですか? 新しく決めるのでしょうか?」
于禁はその疑問を問い掛けると、最初からきちんと決めていたらしい夏侯惇は、すぐに答える。
「俺の家だ。来い于禁」
于禁は「あなたの家ですか……?」と恐る恐るといった様子で質問をすると、夏侯惇は深く深く頷く。すると于禁は顔が溶けてしまうのではないかと思うくらいに、さらに顔を赤くさせた。
「前から住んでいるマンションで、部屋の広さは1LDKなのだが、二人で住むには充分な広さのはずだ。どうだ?」
「はい、問題ありません。……夏侯惇殿、このような私ですが、よろしくお願いします」
「俺がそう望んで我儘を言っているだけだ。そこまで畏まるな。こっちこそ、よろしく頼む」
やれやれと言ったような態度で夏侯惇は話を終えて、せっかくだからとここで軽くでも夕食を取らないかと提案をする。于禁はそれに賛成をすると、メニューを開いて注文するものを決めてから店員を呼んで注文をした。そのときの于禁は顔の赤らみが少し残っていたが本人はそれに気付いていないようで、注文を聞いて店員が去った後に夏侯惇が指摘をすると、再び顔の赤らみが戻っていったが。
※
そして数週間後の、真夏が過ぎた頃である。
諸々の手続きを終えた于禁の荷物の方が先に来たのは新月の日である金曜日の昼過ぎの時間帯であったが、それまでの間二人は直接会えていない。そして于禁は仕事のため、荷物が来た日の夜に夏侯惇の家へと着いていた。だが今日は有給を取っていた夏侯惇は、于禁の荷解きを翌日にするように指示をする。
「ようやくだな……」
于禁が家の中に入る。すると夏侯惇はすぐに思いっきり抱き着き、念願であった于禁の肩や首のあたりに顔を埋めた。そして離さないと言わんばかりに、于禁の背中に手を回す。その状態で数秒、静かに過ごした。
「はい……」
このまま二人はずっとこうしていたかったが、夏侯惇は于禁にまずは部屋の案内などをしないといけない。なので名残惜し気に回していた腕を解こうとした。そこで于禁から甘い妨害を受ける。
「もう少し、このままでいるのは駄目でしょうか……?」
夏侯惇からは于禁の様子が見えなかった。それでも何も不安はないらしい。だが返事をするよりも先に、再び于禁の背中に手を回してからようやく顔を上げる。二人は、そこから数分程口づけを交わしながら抱き合っていた。
二人での触れ合いをようやく中断できると、夏侯惇は簡単に部屋を案内し始めた。玄関、リビング、キッチン、浴室、ウォークインクローゼットなどを。そして残りは寝室のみとなったが、于禁は首を傾げる。
「……ここが寝室だ」
そこには枕が二つあるダブルベッドが一つ、左側にサイドランプが置いてあるサイドチェスト、そしてベッドの上にカーテンのついている窓があるだけだ。それを見た于禁は何かに納得したような顔をする。
「私は暫くはリビングのソファーを借りて寝ます。仕事が忙しいので、ベッドの注文は後日……」
「待て。お前の寝る場所など無いとは、一言も言ってないだろう。この寝室も、このダブルベッドもお前と俺で一緒に寝るためだ」
「え……えぇっ!?」
夏侯惇は平然としているが、于禁は顔を真っ赤にする。夏侯惇は「今更そのリアクションか……」と溜息をついた。だが夏侯惇はそれを面白がってか、次にサイドチェストの引き出しを開けると、入れていた物を二つ取り出して于禁に軽く投げて渡す。于禁は慌てながらそれを落としかけるも、何とかキャッチをできた。
「それと、これも必要だから確認しておけ。サイズは前と変わらないだろうが、お前はこれくらいの大きさだろう?俺の記憶違いでなければな。……違っていたら今夜は使わなくてもいいぞ」
于禁は何かと確認すると、それは未開封のコンドームの箱と未開封のローションだった。于禁は顔を真っ赤にしながらそれを床に落としかける。夏侯惇は于禁のリアクションを見て、想定通りであったらしい。悪戯が上手くいった子供のように、口角を上げた。
「……こ、今夜!?」
「そうだ、今夜だ。今夜、俺とヤりたくないのか?」
「そういう訳では……。ですが、いいのでしょうか……」
「俺はお前とヤりたい。で、サイズはそれで大丈夫か? もう一つ大きいものだったか?」
「いえ、恐らくそれで……ですが……」
于禁は夏侯惇をまともに直視できないらしい。なので夏侯惇は本日二回目の溜息をつく。
「俺がいいと言ったんだ。ほら、先にシャワー浴びて来い。俺は後でいいから」
夏侯惇は于禁にバスローブを無理矢理手に渡す。そして早く早くと言いながら、浴室へと押し出して行ったのであった。