青い月 - 8/16

二度と甦らない夢の中で

ある日の朝、夏侯惇はとても長い夢を見ていた。

時刻は朝の七時前。目覚ましが鳴る数分前の時間に夏侯惇は目を覚ます。住んでいるマンションの外からは、鳥のさえずり声が微かに聞こえた。
夏侯惇は溜息をつきながら鳴る直前の目覚ましを止めた。ベッドの上から手を伸ばしても手が届くサイドチェストの上から眼帯を取り、生きていない方の眼に眼帯をつけるとベッドからダラダラと出て立ち上がり支度を始める。
この眼帯は夏侯惇が社会人になりたての頃、不慮の事故で片眼を失明して摘出したことによるものだ。しかしその当時は医師や周囲からは義眼を薦められていたが、夏侯惇は頑なにそれを拒んだ。やはり生きている眼球以外のものを入れたくなかったのと、なぜだか眼帯の方が自身の中でしっくり来るからだ。その、しっくり来るからという理由は、夏侯惇自身でもよく分からないが。
それに今はもう慣れているが、時折謎の鈍い痛みが失明した眼の方に押し寄せる。だが痛みが来るタイミングはとても不規則であった。例えば、ふと花を見たときや空に浮かぶ月を見たときである。それを医師に訴えてみるも、過去にそのような例が無く原因など分かる筈が無いので、治すこともできず夏侯惇のそれなりに大きな悩みとなっていた。
そして夏侯惇はとある、幼馴染みである曹操という男が経営している会社に勤務しているが、今日は新しい顧問弁護士が来ることになっている。
なんでも前任である顧問弁護士が前から患っていた病が悪化したことにより、入院することになっていたからだ。しかしその顧問弁護士は初老を過ぎた年齢であるためか、夏侯惇の勤務している会社へ迷惑をかける訳にはいかない、と判断したらしい。なのでその顧問弁護士はかなり信頼している、同じ法律事務所の弟子のような存在である者へと交代して欲しいと頼み、対し曹操は快諾していたが。

それから夏侯惇が出社し、もうじきその顧問弁護士が直々に社長室へと挨拶に来る頃であった。夏侯惇は曹操の右腕となっている存在だからか、曹操に「一応顔合わせしておいて欲しい」と言われ、夏侯惇は少し面倒そうに社長室にとどまる。
そのとき、なぜだか今朝にとても夢を見ていたことを思い出す。
詳細までも忘れてしまったが、どこか遠い場所で想い人と出会い、深く繋がり、そして永遠に別れるもの、であったのがぼんやりと頭の中に残っていた。だがその想い人がどのような人物であったかも思い出せない。顔も声も、まるでノイズがかかったように妨げられていて。今朝の夢の中では、散々に想い人を追っていたというのに。
そうしていると、約束の時間である少し前に新任の顧問弁護士が来たようだ。社長室の扉へのノック音が数回聞こえた後に、成人男性のとても低く畏まった声が聞こえた。なので曹操は入室を促す返事をすると、扉が開く。
その新任の顧問弁護士はスーツをきっちりと着こなしており、外見からしてとても厳格そうで、そして頭が堅そうである。夏侯惇は苦手なタイプの人間だと少し思った。それを本人の前で決して口に出す気はないが。
新任の顧問弁護士は一通りの挨拶などを済ませる。それと同時に曹操と夏侯惇とも名刺交換をする。その新任の顧問弁護士の名は「于禁」というらしい。だが前任の顧問弁護士がとても頼りになるという評価を、入院する随分前から曹操に話していたらしい。夏侯惇はその評価が外見からしてもとても相応しいものと感じられた。
だがその于禁にはおかしな点があった。于禁が曹操へ名刺を交換する際は畏まった様子を崩さなかった。しかし夏侯惇と名刺を交換をする際、于禁は一瞬だけ目を見開いて体を強張らせる。それが夏侯惇の中で引っ掛かったがおそらく、つけている眼帯のせいだろうと思った。大抵の初対面の人間は、夏侯惇の眼帯を見て驚いたような表情や、何か気を使うような様子を見せるからだ。なので夏侯惇はそう、一人で納得して思い事の異物感を消化させる。
そこで三人はそれぞれ社長室の扉と反対側の上座にあたる一人掛けのソファに曹操が、その隣に夏侯惇が、そして下座の二人掛けのソファに于禁が座った。
すると曹操の胸ポケットに入れているスマートフォンがバイブで電話の着信を知らせたので、曹操は一言詫びを入れながら社長室を出て廊下で通話を始める。着信相手が、仕事の関係先であったのか。夏侯惇はそれに対し柔らかい苦言を呈していて、于禁は「構わない」と言っていたが。
曹操が一時的に退室したことにより、夏侯惇と于禁は二人きりになってしまい沈黙が押し寄せる。なのでか夏侯惇は気まずさを感じると、何か話題を振ろうにも何を話せば良いのか分からなかった。于禁のような種類の性格の人間と、話す機会があまり無かったからか。夏侯惇が内心で唸っていると、于禁が口を開く。そのときの于禁は穏やかな顔をしており、あまりの表情の変化ぶりに夏侯惇は驚いた。
「最近、あなたはおかしな夢を見ましたか?」
夏侯惇は更に驚いた。初対面の人間からそのような質問を投げ掛けられることと、実際に今朝におかしいと言える夢を見たからだ。
「なぜそのようなことを聞く?」
夏侯惇は怪訝そうな表情を作り、于禁にそう言う。しかし于禁は平然とした顔をしている。その質問を投げかけることが、まるで常識であるかのように。
「それでは、前世の記憶は?」
「あったら、良いのだがな」
于禁の意図が全く分からない夏侯惇は、少し冗談混じりにそう答えた。そのようなことが、あり得る筈が無いと。
「……やはり、何でもありません。忘れて下さい」
すると于禁の表情にほんの数秒間だけ陰りができていた。夏侯惇は少し悪いことをしてしまった気分に陥ってしまったらしい。なのでどうしたのか聞こうとする。
その瞬間に于禁が初対面であるのにも関わらず懐かしい雰囲気がふと感じられた。それは今朝見た夢に出てきた、顔も声も分からない想い人に何となく似ていて。それを確証できる要素など、どこにもないが。
そこで曹操の通話が終わったのか廊下から社長室へと戻ると、二人は何事も無かったかのような顔をしていた。特に于禁は元の厳格な表情へと。

あれから夏侯惇の中でその日に見た夢の内容は一欠片も、二度と思い出せなくなる。そうしていくうちにその夢を見たことでさえ完全に忘れてしまい、同じ夢を二度と見ることはなく。同時に生きていない方の眼の、謎の鈍い痛みもすっかりと出てこなくなった。
そして、たまに仕事で会う于禁は夏侯惇へ、密かに悲しげな顔を向けていたのであった。勿論、夏侯惇はそれに全く気付かないままで。