青い月 - 7/16

明日、また会えたら。

寒い時期に于禁は魏へと帰国したがしかし、人には一切会いたがらなかった。勿論、夏侯惇にさえも。その理由は捕虜生活により、心を患ってしまったからだ。それも深く、重く。
なので日中は寝室に閉じ籠り、寝台の上で脱け殻のようにただただ呆然としている。だが、夜は違った。
城内に人気が無いからか外を夜着姿で、一人で静かに無の表情で出歩き空を見上げていた。そしてしばらくしてあの狭い庭園の近くまで自然と足を進め、人知れず表情を歪ませながら寝室へと帰っていく。毎晩、その繰り返しだった。于禁自身でも、庭園の近くまで来てしまう理由が全く分からないまま。

ある、満月の夜のことだ。このときは寒い時期から、少し暖かい時期へと移っていた。
いつものように于禁は空が暗い色に包まれてから寝室から出、人気のない伽藍とした城内をしばらく歩く。そしてまたいつものように、あの庭園の近くへと足を進めてしまっていた。しかし今夜は、ついには庭園へと足を踏み入れてしまっていく。
そこには白や黄の水仙の花が咲いていた。于禁はそれに思わず見惚れてしまうのと、夏侯惇との思い出が甦ってしまい、自身の感情が分からなくなってきていた。
そこでまずいと思った于禁は寝室へと帰ろうとすぐに踵を返す。しかしそこで何者かに腕を、力強く捕まれた。
于禁は何事かと思いながら振り返ると、そこには夜着姿の夏侯惇が居た。それも今まで見たことのないような、とても必死そうな顔で。だがそのときの夏侯惇の生きている瞳には、満月が映っていないのを于禁は刹那的に見た。
「やっと……俺の元へと帰ってきてくれたのだな……!」
夏侯惇は今にも泣きそうになりながらそう言う。しかしそれとは正反対に、于禁は無の表情から不快そうなものへとすぐに反射的に変わっていった。
「……離して頂けますか」
于禁は抑揚のない言葉を夏侯惇に向けた。だが夏侯惇はそれに怖じ気も、掴んでいる手を離す気配もないようだ。なので腕を振り払おうとしたが、掴んでいる手には相当な力が込もっている。于禁はとても久しぶりに眉間に皺を深く刻んだような気がしていた。
「俺はもう、お前とは離れない」
夏侯惇は怒りではなく、慈しむような声音を出す。
「もう、止めて頂きたい……」
しかし于禁は次は苦しげな表情へと変えると、それを見た夏侯惇は掴んでいる腕をぐいと引く。力など抜いたつもりは無かったが、于禁はいとも簡単に夏侯惇の方へと引き寄せられ、抱き締められてしまっていた。それに抵抗すべく于禁は夏侯惇から離れようともがいたが、びくともしない。だがそこで諦めたのか、于禁は体をがくりと一気に脱力させたが。
「私に構うのは、もう止めて下され」
「なぜだ?」
夏侯惇は于禁を抱き寄せたままそう聞くが、返事が返って来ない。于禁は深く押し黙ったのだ。なのでか夏侯惇は心に思っていることを、一気に吐き出した。
「……お前は俺に会いたがらないが、降伏したことも、孟徳の死に目に会えなかったことも、お前はずるずると負い目に感じているからか? 情けないと思っているからか? ……それがどうした。降伏したのが、何と言うのだ。孟徳の死に目に会えなかったことが、何と言うのだ。降伏などしても、こうして今生きているからいいだろう。それに孟徳の死に目は、墓参りさえしてくれれば、それだけで孟徳は喜んで許してくれるはずだ。……お前から見る孟徳は、そこまで器の小さい男だったか? お前にとっての主であっただろう? そして、それらを最期まで引き摺ってから逝くのか? お前の最期は、それでいいのか? 俺はそのようなことは御免だな。あれからお前とずっと会えないまま終わるのは、拒まれようとも、侮蔑されようとも、お前と会いたい。それが一瞬になってもだ。……だからそうして、逃げ続けている今のお前はとても情けなく見える」
最初は于禁へと優しく語りかけていたが次第に口調が強くなりそして、叱るようなものへと変わっていった。しかし自身の気持ちを全て言い終えたところで夏侯惇はハッとしたような顔になったので、自然とそうなっていたのだろう。少し気まずそうにした夏侯惇は于禁の反応を窺いたいが、どう窺えばいいのか分からなくなっていた。
すると于禁は夏侯惇の方へと顔を向ける。
「私は……」
于禁は泣いた。そうして論じてくれる者が居なかったからだろうか。それとも、そうして慰めてくれる者が居なかったからだろうか。
そのときの于禁の瞳からは涙の粒が数滴、頬に流れていくのみであった。しかしその涙の粒が月の光に照らされていたので、夏侯惇は綺麗だと一瞬思ってから、言葉を加えた。
「だが、そうして綺麗な涙を流すお前を……俺が、嫌える訳がないだろう……」
夏侯惇も続けて泣いた。嗚咽を吐きながら、絶え間なく降ってくる涙を于禁の顔へと溢す。しかしその涙が、于禁はとても暖かいと思いながら。
「夏侯惇……殿……」
すると于禁は暖かい涙を受けながら夏侯惇へと、戦からの帰還の報告を静かにしたのであった。

夜がゆっくりと明けていきそうであった。二人はあれから、庭園で静かに水仙の花を見ながら少し会話をした。とは言ってもその内容は、夏侯惇がこの庭園に植えられていた花や、于禁が前に贈った花について話していただけだ。
「前に白い水仙の花を、俺に贈ってくれていたが」
「はい」
二人はあのときのように二人掛けの椅子に座り、会話を始めた。そのときの二人の表情は、とても白く穏やかであった。目元だけは赤く腫らしているが。
「その礼をするのを、俺は忘れていたようだ。だから近いうちに必ず、俺も花を贈り返す。約束だ」
于禁は頷くと、夏侯惇は右手の小指を差し出した。何かと于禁は思っていると、夏侯惇は空いた左手で于禁の右手を奪うように取り、小指同士を確かに絡ませる。
しかしさすがに二人はそのところで体力に限界がきたので、夜が明ける前に別れた。だが別れる際に于禁は夏侯惇へと言葉を掛ける。
「では……明日も、またあなたと会えますか?」
とても不安げに于禁はしていると、夏侯惇はそれを打ち消すように優しく笑いながら返す。
「当たり前だ」
そのときの夏侯惇の一つしかない瞳に、空に浮かぶ満月が映っていなかった。

夜が明け、陽が高く昇っていた。于禁は既に起床はしているが、寝台の上で上体を起こしている。そこで城内が何やら騒がしいと気付いた。少し経ってから寝室の扉を叩く音が聞こえ、于禁はそれに応じる。
訪ねてきたのは、兵士数人を引き連れている文官であった。その文官がかなり緊迫したような表情で口を開いたので、于禁は黙って文官の言葉を聞く。
その文官曰く、夏侯惇がつい先程亡くなったらしい。死因は病であるとも。文官はそれを于禁へと伝え終えるとすぐに扉を閉じ、どこかへと急いで向かって行った。
再び寝室で一人になった于禁は途端に涙を流し、どこかへと向かって葬送の言葉を口にした。それはとても悔しげに、頬を濡らしながら。
「私が贈ったようにあなたからも、いつか花を贈り返して……。今日は会えなかった代わりに、いつか必ず約束して下され、夏侯惇殿……」