青い月 - 6/16

青い月『晦』

于禁は魏へと本人の希望で密かに帰国したが、それはまだ寒い時期であった。于禁が帰国したことを知っているのは、曹丕や口の固い一部の文官のみ。表面上では歓迎していたが、内心ではいい顔をしていないだろう。
理由は夏侯惇に帰国したことを知られたくないのと、会う気が無いからである。その以前にそもそも、その資格も権利もないと思っていた。
第一に関羽との戦での降伏により散々に汚名を被り、その後に心を打ち砕かれて何もかも皆無の状態だ。そのような者とは、夏侯惇は会いたがらないだろう。
実際に帰国してから曹丕からは、心無い言動を振り掛けられていた。このとき、曹丕はやけに怒っている口ぶりと表情だったが、それがなぜだか夏侯惇と被ってしまっていた。場所は玉座の間で、側に兵をつけずに二人きりで。
それに曹丕は、夏侯惇との関係を前から知っていたらしい。どこからどのようにそれを知ったのかを曹丕は言わなかったし、于禁からもそれを問う気は無かった。だがその場に夏侯惇が居ないのもあってか、それはとても馬鹿にされる。
それに応じている最中は、于禁は脳が麻痺したように何も思わなかった。現に壊れたからくりのように、肯定の返事をするのみ。曹丕の話が終わり、数時間後になってようやく悔しさや怒りの感情が押し寄せていたが。
第二にかつての主であった曹操の死に目にも会えず、帰国してからの墓参りをしても涙は出なかった。涙など、とうに枯れてしまっているのか。なので何も言わず、何も表情を貼り付けずに墓を去る。それからは二度と、曹操の墓には近付かず、視界にも入れなかった。
そして最後に、先程のものと関連がある。以前使っていた部屋を帰国してからも使用しているが、夏侯惇との思い出が幾つも甦ってしまっていた。それは平時の于禁の感情を動かすことはなく、ただ睡眠時に頻繁に悪夢を引き寄せるものとして役割を果たしている。悪夢には幾つか種類があった。
例えば夏侯惇と帰国後に会うと酷く軽蔑された挙げ句、別れを切り出されるもの。夏侯惇の目は真冬の空のように酷く冷たく、あれは一時的な気の迷いだったと告白された。場所は、よく二人で会っていたあの狭い庭園にて。
それと別の情人を作っていたもので、意を決して夏侯惇の寝室へと何も連絡も無しに向かったところ、別の情人と実際に関係を持っている最中を目撃してしまっていた。それも、その情人は若い異性だ。于禁に向ける感情よりも、そちらの方が深かった。
というように、夢は一種の幻覚であることを于禁は分かっていて、実際に起きたことではない。しかしあまりに声も表情も空気も、とてもリアルなものであった。のでそう錯覚してしまう時がほぼ毎日のようにあり、于禁は疲弊していった。
なのでもしも夏侯惇と久しぶりに会っても、悪夢の中の夏侯惇と現実の夏侯惇が重なってしまうのではないかと思った。それにより、夏侯惇のことが嫌いになってしまうのではないか、于禁はそれもとても恐れていた。
これほど情けない情人とは、夏侯惇は会いたがらないと思うと怖くなっていた。いくら夏侯惇の表面が優しくても、それを知られたら内心では軽蔑されるだろう。なので于禁は夏侯惇の元へと、決して向かおうとはしなかった。于禁からの夏侯惇への気持ちは、ずっと変わらないとしても。
そこで于禁は考えた。夏侯惇に嫌われてしまうくらいなら、自身から先に嫌ってしまえば良いと。最初はそれを拒んでいたのだが。少しでも楽になる方法はこれしかないと。
しかし心の奥底では、それがどうにもできないでいるが。

ある日のことであった。いつものように夏侯惇の悪夢に苦しまれ、夜明け前に部屋が真っ暗の中で目が覚めた。悪夢をほぼ毎日見ていても慣れない様子で、寝台から起き上がって苦痛に歪んだ顔で窓から空を何気なしに見る。しかし月は出ていない。毎晩月を見ているので、今日は月が出ていないのは分かっていたが。
思えば捕虜である方が、周囲からの直接的な扱いがまだ良かったと思えた。相変わらず、肉ではなく心を深く抉られることばかりだったが。そう思いながら手探りになりながら立ち上がると、この黒い夜にずっと溶け込んでみたくなってきたようだ。薄い夜着のまま、寝室から外へと出る。しかし寝室の外へと出るのは、久しぶりであった。自身の体重が掛かる感覚に酷い違和感を覚える程に。
灯りを持っていないので周囲の障害物にある、于禁を導いてくれる光がほとんど無いまま城内を出歩く。やはり深い夜なので周囲は伽藍としていて、于禁自身の呼吸と静かな足音ばかりが聞こえる。
だがこの誰も居ない静かな状況が、今の于禁にとってはとても心地が良いと感じていた。以前ならばこのような不気味な空間を、あまり好んでいなかったが。
「ずっと、このままでいられれば……」
于禁は小さくそう言った。しかし誰にもそれを聞かれることがなく、暗い空へと溶けて消えていく。そうしていくうちに体の冷えにより限界がきたらしい。寒さから逃れる為に寝室へと戻ることにした。それに再び悪夢を見て精神を疲弊させる為に。
だがこの寒さのなかにずっと居れば、見続けなければならない悪夢から解放されるが于禁はそれも恐れた。やはり自ら死ぬのが怖いらしい。体の冷えを自らの意思で解消させるように、まだ人間としての生存本能が生きているからか。
寝室へと向かう足取りは重かった。寒さのせいでもあるが、次はどんな悪夢を見なければならないのかと恐れながら。なので更に歩みを遅くしていると、どこかから足音がした。それは背後の障害物を隔てた位置だろうか。そうであっても于禁は振り返る気は無いようで、その足音を無視しようとする。だが、それができなかった。
「こんな時間に誰か居るのか?」
男の声が聞こえたが、それは于禁にとても聞き覚えのあるものだったからだ。忘れられる訳がなくそれに、悪夢に必ず出るあの声だ。
「夏侯惇殿……」
于禁は振り返る。夏侯惇は小さな灯りを持っていて、少しの眩しさを覚えながら自然と小さくそう呟いてしまっていた。しかしまずいことをしたと、すぐに振り返るのを止める。とても久しぶりに聞いた夏侯惇の声だからか。
だがそれは先程のように暗い空へと消えてはくれなかったらしく、どうやら夏侯惇に聞こえていた。
「おい、誰だ……于禁?」
その瞬間に逃げたくなった于禁は久しぶりに走ると、夏侯惇も追うように走る。途中で一度だけ、夏侯惇の手が届きそうな程に追いつかれた。その際に夏侯惇は「于禁!」と必死に名を呼ぶ。しかし于禁はそれを無視しながら走ると、夏侯惇の手がどんどん離れていった。自分以外の足音が無くなったので、夏侯惇は立ち止まったのだろうか。だが振り返る気がない于禁は、自分でも行き先がよく分からないままどこかへと走り続けたのであった。
結果、何とか夏侯惇から姿を眩ませることができたが、辿り着いた場所はあの狭い庭園であった。時期的にはやはり白や黄の水仙の花が見頃を迎えていて、とても丁寧に植えられている。于禁は今にも死にそうな程に激しく息を切らせながらそれを睨み付けると、更に重い足取りで寝室へと戻って行った。もう、夏侯惇が于禁を追う気配が全く無いからか。
寝台へと戻った于禁は、夏侯惇に帰国したことを知られてしまったのに対して酷く憂鬱になっていた。

少し前まであった夜が、当たり前のように柔らかく明けていった。
于禁は相変わらず睡眠中に短くとも悪夢を見て何もかもが不快に思いながら、寝台から起き上がる。顔を青ざめさせながら窓から外を見ていた、というより睨んでいた。しばらくすると于禁の元へと来客があるようで、部屋の木製の扉から静かなノック音が聞こえる。
于禁への来客は珍しかったがその心当たりはない。あるとすれば、帰国したことを知っている数人の文官だろうか。だが于禁へ何かの用など、もう無いだろう。于禁はとても重い気分で対応しようとしていた。
「于禁……」
だがノックの主は文官ではなかった。扉一枚隔てて夏侯惇の声がした。しかしその声はとても弱々しい。扉を開けようとしていた于禁は咄嗟にそれを止める。
「帰っていたのなら、俺にも知らせて欲しかったが……」
扉からはドン、と何か音がして于禁は何の音か分からずに眉を潜めるが、その音の原因を考えられるとすれば夏侯惇が扉へと縋ったのだろう。しかし于禁は夏侯惇の言葉に対してに返事をする気はなく、ただもうここから離れて欲しいとしか思わなかった。惨めな姿の自身など見せたくもないし、やはり降伏してしまったことを負い目に思っているからか。
「俺は、寂しかった……。お前と、ずっと会えなくて」
今にも泣きそうであるのか、夏侯惇の声が震えてきた。だが于禁はそれでも何も返すつもりはない。扉をじっと見つめる。
「……今は、体調が悪いのだろう? だから、体調が戻ったらまた今度、会おう。そして、前のように共に庭で花を見よう。それに、あのとき贈ってくれた花の礼をずっとしていなかったからしたい。だから受け取ってくれ。そして、必ずそれを約束してくれ、于禁」
夏侯惇はそう言って、扉から離れて行く。于禁はそれらしき足音を瞳を潤ませながら聞いていたが、すぐに引かせてしまっていた。
夏侯惇に犯してしまった重く冷たい罪を、ずっと背負っていくと決めながら。

それから数ヶ月後のことだ。あれから于禁は夏侯惇の元へと訪ねようとも、何か連絡を寄越す気も無かった。やはり、夏侯惇へ何もリアクションは返す気は無いのか。
その日は于禁の元へととある知らせが届いていたが、それは夏侯惇が息を引き取ったというものだった。文官から扉を隔てて聞くが、于禁はそれを相変わらず無の表情から微塵も変えていない。もう涙が枯れていて、一粒も出せないのか。
文官が扉から離れていくと于禁は誰に話す訳でもないが、どこかへと向かって一人でせめてもの葬送の言葉を口にする。だが、それはとても冷たく重い声であった。
「……これで、貴方とは終わりです。さようなら」