青い月『下弦の月』
于禁が夏侯惇へ白い水仙の花を贈ってから、何十もの季節が逝った。
そしてある年の、稲が実る直前の季節のことだ。
樊城を守っていた曹仁の元へ、関羽の軍が攻めてきた。だが苦戦を強いられているとの報せを曹操は受け、于禁の率いる軍に援軍として向かわせることにした。
「生きて、帰って来い」
于禁が城内で急いで出陣の準備をしているところだった。当然周りも、戦の為に忙しなく準備をしているが。その喧騒の中で夏侯惇はごくシンプルにそうに言う。
毎回のことだが夏侯惇が城に居るとき、于禁の出陣する際の前に見送り、そして何らかの言葉をかけていた。そして今回も例外ではなかった。夏侯惇は于禁の戦や力の強さを知ってはいるが、それを大袈裟に過大評価している訳ではない。
個人的にとても深い関係があっても、それは関係なく。
素早く一人で鎧を着込んでいる途中ではあったが、于禁はそれに力強く頷いた。だが二人は触れ合うこともなく、ただ目を合わせる。それだけで、意思が通じるのか。
そこで曹丕が近付いて来たので、二人は無理矢理に会話を終わらせた。
「また、あなたの元へと戻って来ますゆえ」
「あぁ」
夏侯惇はそれに短く返事をすると、片手をひらりと振って于禁の元へと離れたのであった。だがその背中を、于禁は見る暇が無かったらしい。曹丕から何か話しかける素振りが見えたのと、出陣を一秒でも早めて曹仁の援軍に向かわなければならないために。
結局、曹丕からは特に変わった会話はしていない。しかし「夏侯惇と仲が良いのだな」と話しかけられたが、于禁はそれに平静な態度で頷いていた。
だが于禁の軍が曹仁の元へと援軍に来たのは良いものの、状況は最悪であった。向かったこの地は大雨が降っていた。それも視界が確保できなくなるほどに視界が白くなっている程に。
ようやく曹仁の元へと到着したが、どう関羽の軍を退けば良いのか全く検討もつかないでいる。なので少しはこの大雨が弱まった頃を狙って、一気に関羽の軍を叩くしかないと曹仁と判断したらしい。曹仁の軍と分かれて別行動を取った。しかし大雨は何日待っても止まず、そして弱まる気配もない。
そうしているうちに雨水が周辺の河川に貯まっていき、氾濫が起きる。于禁の軍はそれに巻き込まれ、兵のほとんどが溺死してしまった。
辛うじて于禁は何とかそれを逃れて近くの高台へ、生き残っている兵を必死に導きながら避難した。しかしそこには関羽やその軍が既に待ち伏せしていたようだ。歩兵は剣を構え、弓兵は矢を引いて構えながらこちらへ向いている。まるで到着する時間も考えも、最初から全て分かっていたかのように。
だが于禁も兵も、疲労困憊の状態である。今から戦う気力など、于禁にも兵にもない。それに待ち伏せしている兵は、于禁の軍の生き残っている兵よりも明らかに多い。この状況で戦っても死亡する兵の人数が増えるだけである。いわゆる、完全に詰みの状態である。そう判断した于禁は、関羽に降伏したのであった。
于禁の生涯の中で『戦に敗北する』というのは初めてである。雨に打たれながら関羽の前に両膝を地面に着けて顔を伏せていたが、顔を大きく悔しそうに歪めていた。やはり、降伏するのは屈辱であるのか。
だがせめて、生き残った兵の身の安全は確保して欲しいと懇願していた。それに対して関羽はすぐに頷くと「降伏とは恥じることではない」と淡々とした表情で返す。そして兵に何か指示をすると、于禁や率いていた兵の武装を外して拘束したのであった。「ただの捕虜として扱わせて貰う」と関羽がその際、嘘偽り無いような声音で言いながら。
関羽は于禁を降伏させて捕虜にしたという報せは既に曹操や、夏侯惇の元にも届いているだろう。そして自分を助けに行く為ではなく、関羽を討ち取る為の援軍を送る準備をしている頃だろう。
確かに、于禁や率いていた兵たちは捕虜として扱われた。だが鎧や武器は取り上げられ、ただの着物姿にさせられ、両手を縄で縛られた。どう見ても完全に無抵抗の状態である。陽が沈んで闇夜に輝く下弦の月が、それを嘲笑うようにあった。
于禁は今のその状態に唇をきつく結ぶ。そうなってしまい悔しいのもあるが、打破する為には味方の援軍に関羽を討って貰うしかない。なので、それをただ待つしかできないでいる。
しかし幸いと言っていいのか、酷い扱いはされなかった。雨風を凌げるように屋根のある、山に囲まれた野営の幕舎へと連れて行かれていた。そこは雨が降ろうが洪水が起きる心配もないし、河川からは遠く離れているので少なくとも水害が起きる気配もない。于禁一人だけは手を広げても余裕のある広さのある大きな野営へ。他の兵たちはまとめて、それよりも小さな野営の幕舎へと収容されて剥き出しの地へと座らせられた。
拘束をされていても、于禁の近くには常に関羽の軍の見張りが丁寧にも数人居た。率いていた兵たちにははまとめて見張りがついていたが、朝昼夜の一日三回見張りの交代がある。その際に最低限の水と食料も与えられたが、于禁だけはいくら降伏したとはいえ、頑なにそれらを何日も受け取らそうとはしなかった。なので栄養が無くなっていき顔色が悪くなり、何に対しての反応もかなり鈍くなっていった。
于禁は幕舎や野営の壁や屋根の隙間から見える、とめどなく降る雨粒と暗い空をただただ見る。時折、幕舎の壁の模様がなぜだか外で降る雨のように爛れ落ち、動いているようにも錯覚していく。目を凝らしても視界から外してもそう見えてしまっていた。だが于禁はそれを異常だと思う思考を根底から放棄する。
一方で兵たちはそれらを受け取っていて、于禁がそれを見張りの兵伝で知っても何も言う気は無かった。
それでも受け取らない理由は、于禁が前から持っているプライドというものがあるからだ。今までは于禁は『常勝将軍』と過去形で呼ばれていたからか。
それに与えられている水と食料に毒が盛られている可能性だってある。水や食料を口にしている兵たちは今のところ何も異常が起きていないが、于禁のものだけ毒が盛られているというのも考えられる。降伏前のように鎧や武器を装備していないし、そもそも拘束されているうえに、今の于禁にはまともな視界を持てないからか脱走など到底できない。
関羽やその兵たちは今、于禁の命を左右できる立場である。殺害するなど、容易なことだろう。
それを知った関羽は雨のように冷たい目で「胃に入れなければ兵を殺す」と青龍偃月刀の刃を鈍く光らせながらそう脅す。すると兵を殺す、という言葉を聞いた于禁は更に顔色を悪くさせて体を震わせると、ようやく水や食料を口にしたのであった。于禁は自身が死んでしまえばこんな状況から一気に解放されるというのに。とその思考をしてしまい、何もかもが怖くなった自分が情けないと感じ始めながら。
「夏侯惇殿……」
于禁は次第に心までもが少しずつ弱ってきていた。見張り兵に聞こえないようなごく小さな声でそう呟き、まともな精神を何とか一縷でも保つ。夏侯惇に早く会いたい、と願って。そして脳内で夏侯惇の姿を描き、一時的に現実逃避をした。
そうしないと、于禁の中で何もかもが壊れていくような気がしたからだ。ただただ空から降る雨を見ていたら、気が狂いそうだった。
関羽の軍は今、樊城へ攻め入るのに時間がかかっていた。未だに続く大雨による氾濫のせいもあるが曹仁の軍、それに援軍として既に来ていたらしい徐晃の軍に手こずっているからだ。その状況であっても関羽は于禁に、例えば『曹仁や徐晃の軍の弱点はあるのか』や『この場合ならどう攻めるのか』という戦略的な助言を一切、求めて来なかった。
本当に、ただの捕虜として扱われていた。それに侵攻が上手くいかないからといって于禁や兵たちを、八つ当たりとして暴力などを振るう気配もない。
その間、于禁の精神は更に蝕んでいった。瞳はどんどん濁っていき、光が消えてきている。夏侯惇のことでさえ、もう頭になかなか浮かばない程に。
この大雨という天候のせいでもあるがやはり、捕虜のままで今はもう味方……と言っていいのか分からないが、曹仁や徐晃の率いる軍の兵が次々と死んでいくさまを、関羽の軍の伝令兵から間接的に聞いてきた。主におおよそ何人死んだか、それにまだ関羽の軍が劣勢ではないなどを。
「私を恨んでいるのなら、もう殺してくれ……」
たまたま様子を見に来ていた関羽の前で于禁はそう言った。だが手は出さず、やはり冷静な口調で断られる。于禁は酷く項垂れた。
すると于禁は自分が降伏せず、他に策を考えればよかったのではないかと責めた。だがこの大雨の河川を船を持たなかったので、何もできようがない。武器を持とうが戦の知恵が充分であろうが、無力も同然である。
関羽に降伏した捕虜の身であり、すぐにでも曹仁や徐晃が関羽を退けられたとしても猛烈な批判を浴びることになるだろう。いくら誰にでも優しい夏侯惇だって、軽蔑や失望をするはず。于禁の勝手な想像だけでも、発狂をしそうでだった。
そしていくら兵の為に降伏したとしても、前から個人的な友好関係や親しみは皆無だ。兵からの武力上での信頼だけは厚いが、そのような于禁を兵の誰が『良き将軍だ』と味方の前で庇うのか。
雨風凌げる場所で拘束され、援軍に来た味方が雨の中で死んでいくなか、ただ悲観的な物事を脳内に巡らせて更に精神的に追い込まれるだけ。そちらの方が苦痛であった。だが兵を生かせるため、水と食料を胃に入れる作業をしなければならない。生きなければならないのが。
こんなことなら、捕虜であるので身体的に暴力を振るわれた方が明らかに楽なのではないかと考えた。身体的に暴力でも受けられたならば少しでも外傷により、気を失える機会はいくらでもあるし、そうしたら悲観的な思考を少しでも減らせるのではないかと。于禁はそう望むようになっていった。夏侯惇に会いたいという強い思いは消えていく一方で。
于禁が水と食料を無理矢理に胃に流し、悲観的な思考を巡らせる作業を何回か繰り返したところで、関羽の軍はみるみるうちに追い込まれた。呉が攻めてきたのだ。
呉の狙いは関羽らしく、相当な恨みがあったようだ。すぐさま首を討ち取ると、于禁は次は呉に捕虜として連行されることになった。しかし呉側は捕虜である魏軍の兵士が居るとは聞いていたが、まさか于禁も捕虜としてまだ生きているとは思ってもいなかったらしい。
捕虜の人数などを確認すると、かつて率いていた兵たちは、呉に連行された。その時の兵たちほぼ全員は顔色が悪い。だがその後はどうなったのかは分からない。呉に捕縛される形になった後は、于禁とは別の場所へと誘導された後に連行されていたからだ。
なので于禁は兵たちの行方を呉の兵に聞いてみたものの、答えてはくれない。連行された直後に孫権と話す機会があったので聞いてみたが、やはり答えてくれなかった。なので于禁の精神が薄い紙ほどの薄さになるまで削ってまで死なせなかった兵たちの行方を、于禁は何も知ることができなかった。
呉の捕虜になってからも、孫権も関羽と同様に死なせてはくれなかった。だが関羽とは違う点は、腕の拘束が無いところくらいだろうか。
孫権の場合は「あと数日したら魏に帰そうと思うので、準備させて欲しい」と于禁を釣った。于禁が魏へと帰りたがっているのを知っているのか。だがその『数日』を具体的に提示をしてくれないでいる。その『数日』という単語を魅力的な餌として扱っていた。于禁に未だに、曹操への忠誠心が残っているのを知っているからか。
だがそもそも于禁を生かしても、もはや軍事的交渉に使える程の価値はない。于禁自身でもそう思っている。呉が捕虜として于禁をわざわざ置いておく目的は不明だ。
そして捕虜の身としては贅沢に思える程の待遇であった。呉の捕虜となってから、関羽の捕虜であった時と同様に一日に三回水と食料が与えられている。勿論、毒は盛ってないと孫権自ら証明していた。実際に孫権が抜き打ちで食料などを口にして。
そして于禁の収容される場所は野営ではなく、呉の城内のただ何もない静かで小さな部屋であった。ただ、そこに窓が一つあるものの日当たりはかなり悪く、昼間になると少しだけ薄暗い。孫権曰く元々倉庫として使用されていた部屋らしく、少し埃っぽかった。
なので急いで部屋の準備をしたことが窺えるが、寝台と机と椅子は丁寧に置いてある。そして窓際には少し粗末な寝台があり、入口の扉近くに机と椅子があるといった具合で。
扉には内側から鍵が掛けられるようになっているが、部屋を出るとそこはとても広い廊下である。どこを向いても巡回兵が視界に入ったが、死角など無さそうだ。しかし実際に連行されている最中、目隠しなどされずに部屋へと連れて行かれている。その時の于禁は道順などを大まかに覚えていた。
だが于禁には脱走するという考えなど微塵もないし、部屋を少し出て巡回兵がそれを見ても「部屋に戻れ」などと言うような気配も、携えている刀を抜かれることも無かった。呉側は于禁にそのつもりは全くないと、確信しているからか。
実際には、于禁はそうなのだが。
于禁が捕虜になっている間は、呉や特に孫権は于禁に特に何もしようとはしなかった。殺そうともせずに魏や蜀相手に戦わないか、とも言ってこない。ただ暇潰しに、と竹簡を幾つか与えられたが于禁は読もうとは思わなかった。
于禁には手や視線を動かして脳を働かせて何かをする、そのような気力などもう無いのだ。脳がそれを受け付けなくなったのか、読んでも文章が理解ができなくなっていた。文字をひたすら追う、ということは何とかできていたが。
すると于禁は小さな部屋で与えられる水と食料を胃に流すこと以外は、ほとんど何もしなかった。夏侯惇のことなど、もう忘れてしまったかのように。かの戦で作った傷跡だけが、時折疼いていたが。
于禁は寝台の上で部屋の壁や天井をひたすら見るのみで、全く動かなくなった。だがそれ以外で何かするといえば夜の時間帯の空に浮かぶ、月の満ち欠けを毎日見るくらいだろうか。ここに来て何日経過したのかは、于禁自身は何となく把握できていた。
しかし月を見て、それ以外に思うことは何も無い。
夜に月を見てからは、陽が昇る頃に少しの時間だけ眠りにつく。なので睡眠時間は以前と比べてかなり短くなっていた。体力を大きく使う機会など、もう二度と無いと思っているからか。なので戦の為に体に負荷を与えなくなったし、睡眠を取れるときに取るという習慣もなくなった。
すると于禁の黒かった髪や髭の色は、いつの間にか全て白く染まっていた。それに眉間に常に刻まれていた皺は薄まっており、覇気がない。関羽の捕虜になってからは精神が狂う為の綻びができ、呉の捕虜になってからはそれの穴が拡がってきた。修正をするなど、不可能な程に。
下弦の月が沈んでいっていたある日、孫権が部屋に訪ねて来た。于禁が、目が覚めてから少し時間が経った頃だろうか。
だが巡回兵などは連れてはおらず孫権一人のみで。于禁に反抗などをする力やそれに、それの根本的な気力が全く無いと判断されたのか。
「私を……魏へと帰国させる……?」
孫権は于禁を釈放し、魏へと返すと伝えてきた。それも次陽が昇った日、すなわち明日である。
その時の于禁の心境は、無に等しい。魏へと戻りたいという気持ちを思い出せなくなっており、このまま現状維持するという心さえない。無の状態であった。なので于禁は、内容を上手く反芻できずにただ漠然と返事をした。
「……私と共に捕虜になっていた、兵たちはどこだろうか」
だが一つだけ、と于禁は光の無い瞳を向けて孫権にそう聞く。しかし孫権の口から出たのは、あまりにも残酷な答えであった。
それは、兵など関羽を討った後に一人残らず河川に落として殺したという。それでも這い上がって来た者は、刀で引き裂いた。つまり兵たちは全員、既にこの世には居ないという。
于禁はそれを聞いた瞬間に目を見開き、発狂した。その際に瞳にはとても久しぶりに光を灯したが、于禁の心は光を全く灯せなかったようだ。何も考えず、孫権の首を両手で掴んで襲いかかろうとする。
しかしやはり今の于禁の身体や健康状態では、赤子の手を捻るかのように簡単に阻止をされた。いともたやすく、両手を掴み返されてそれから硬い床に叩きつけられたのだ。于禁は悔しさとそれに怨念の籠もった、低く重い唸り声を漏らす。
すると孫権はとどめの言葉を、于禁に放った。
「兵と捕虜になってくれたおかげで、関羽の動ける兵が少しでも削れた。関羽を恨んでいたから。捕虜になってくれて関羽を楽に討てた。感謝する」と皮肉を込められながら。
于禁の瞳を灯していた光は再び消え、硬い床の上で深く項垂れた。叩きつけられた痛みに、後で遅れて急激に襲われながら。だがそれを孫権は無の表情で見ると、何も言わずに部屋を出る。
一人残された于禁は涙が出ず、痛みを感じながら絶望して床に俯いていた。その際に夏侯惇の顔や今までの言葉が脳内を突然過り、于禁はとても苦しんだ。