青い月 - 3/16

青い月『居待月』

翌朝、于禁はゆっくりと目が覚めると、うつ伏せの体勢で寝ていたので、のそりと起き上がる。いつもは仰向けになり姿勢良く寝ているのだが、久しぶりにいつもとは違う体勢で寝ていたせいで腰や手足の関節が少し怠かった。
于禁は自身の部屋をふと見渡す。散らかる幾つかの酒壺が見えるが、昨夜のことをほぼ覚えていなかったらしい。夏侯惇が訪ねて来たことまでは覚えているが、それ以降は何も覚えていない。かなり呑みすぎたのか。
夏侯惇はいつ帰ったのだろうか。もしかして、記憶のないほどに酔っている間に帰ってしまったのだろうか。
そう何となく思っただけで、ほぼ毎朝の日課である、自慰をしたくなったようだ。于禁は膨らんだ股間を見ると、急いでそれを取り出すといつものように自慰を始めた。
「ん、ぐ、っふ、ふっ、うっ……!」
手の平に精液を撒き散らすと、それを見て于禁は自嘲気味に呟いた。
「これはもう、病ではないか……」
その後于禁は、手の平に撒き散らした自身の精液を水で洗い流してから手拭いで拭うと、何食わぬ顔で支度を始めたのであった。

一方の、夏侯惇は翌朝から于禁のことしか考えられなくなっていた。理由はやはり昨夜の出来事があり、どうしても意識をしてしまう。泥酔した于禁に襲われたことが、どうしてかあまり嫌ではなかった。
ふとした瞬間に顔を赤く染める。なので周囲の人間にそれを何度も指摘される始末である。どうしたのか聞かれるとすぐに染まっていた赤さは一時的には引くも、再び顔を赤く染めてしまう。
夏侯惇は昨夜の一件以来、于禁への気持ちが分からなくなってきていた。

それから二人は近々起きそうな戦やら執務やらで忙しいのか、顔を合わせることは無くなり、自然と話すことも少なくなった。
ただ、互いの立場からして最低限のことは話すが二人は互いに目を合わせられなくなってしまっている。それに対し周囲は、手持ちの仕事のことで頭が一杯なので全く気が付かないでいるが。
だが相変わらず于禁は、一人で寝起きする際は夏侯惇を頭に浮かべ、慰み物にしている。
尽きなかった。とにかく尽きなかった。夏侯惇が少し視界に入っただけで、夏侯惇と最低限の会話をしただけで。夏侯惇を、一種の神聖な存在として見ていたいのに。
この夏侯惇に対しての尽きない気持ちを、どうにかして抑えなければならないが、どう抑えればいいのか分からなかった。そのようなことを、全く経験が無いのだから。それに、誰かに聞こうにも該当する人物の見当もつかない。
なのでどうにもしようが無くなった于禁は心の奥底に、深海のように深い底に。この気持ちを無理矢理にでも沈めておくことにした。決して誰にも、夏侯惇本人にも言わないよう、気付かれることのないよう。
そして、このままの関係でいられるように。

何日か後に、現在で言う『博望坡の戦い』が起きた。戦といっても侵入してきた敵を夏侯惇と于禁と李典の軍で迎撃したのだが、最終的にはその敵は撤退するというものだ。
しかしその敵が撤退しているとき、李典は夏侯惇に『伏兵が居るのかもしれない』というあくまでも、勘を伝えていた。だが夏侯惇はその助言を受け入れず、山の奥まで敵を追った。于禁のことで少し落ち着かないでいるのか。その時に武力などを考慮した結果が于禁の軍を率いて、李典はその場で待機させるという、更に落ち着かない状況を自ら作ってしまう。
その結果、深い茂みや崖の上からいつの間にか待ち伏せしていたであろう、弓兵により奇襲を受ける。馬に乗っている夏侯惇と于禁、それに歩兵たちには当たらなかった。
しかし夏侯惇と于禁がそれぞれ乗っている馬の体には次々と矢が食い込んでいくと、痛みに馬が暴れて二人は振り落とされる。目の前の地面には地の小さな池ができたと思うと、馬は倒れて死んでしまった。
すると次は敵の歩兵がどんどんでてくるなり、夏侯惇や于禁たちを逃がさないように囲う。
窮地に追い込まれてしまった夏侯惇は、とても悔しがりながら歯をギリギリと噛みしめる。敵や自身に対しても。
「くそ……!」
今夏侯惇が率いているのは、于禁の軍の歩兵も含めて百人程度。それぞれ半分ずつ、剣を持っている兵と弓兵が居る。
対して敵の伏兵は夏侯惇らの倍の二百人くらいだろう。剣を持っている兵が約百五十人、それに弓を構えている兵が約五十人で、数だけで見ても夏侯惇側が圧倒的に不利であった。
夏侯惇とそれに率いている兵たちは一瞬、どう対処すべきか分からなくなってしまっていた。
皆がざわつく中、だが于禁だけは敵を猛禽類のように睨み付け、戦う意思を示した。先陣を切り敵の方へと向かう。この不利な状況でも戦って生き延びるという意思を、味方に示す為か。
「この于文則が相手をしよう!」
于禁は三尖刀を構えると、途端に敵の伏兵は一斉に于禁へと攻撃していく。
飛んできた弓矢は三尖刀を頭上で回転させたり、柄の部分で弾かせたり、刀身そのもので切り捨てている。金属同士のぶつかり合う激しい音が響いた。すると剣を持った敵の伏兵数人が斬りかかってくるも、それを避けたり三尖刀で兵を素早く斬り殺したりと、見事な戦いをしていた。
三尖刀の刀身には、次々と新しく血が付着しては地面に落ちていく。
それを見た夏侯惇は鼓舞されたらしく「于禁に続け!」と叫ぶと、夏侯惇は兵とともに敵の伏兵を倒すために突っ込んで行った。
敵兵は夏侯惇の突然の動きに大きく動揺して、そのおかげで大方の敵の伏兵を倒すことができたようだ。兵の数からしてこちらが有利な傾向が出てきて安心してしまったのか、夏侯惇はふと力を抜く。
だがその瞬間、剣を持った兵三人と弓矢を構えた兵二人の、合計五人がいつの間にか夏侯惇の近くに迫っていた。
少し遠くからそれに気が付いた于禁は、戦闘の途中であったがそれを放棄し、背後から剣で斬られながらも夏侯惇の元へと急いで駆け寄った。夏侯惇を助けるべく。
だが何か反撃しようにも間に合わず、夏侯惇を庇ってそれを受ける。刀が于禁の左脇腹に深く刺さっていき、右側からは矢の雨を受ける。それを見た夏侯惇は目を見開き、何も言葉が出ない。戦闘中にも関わらず、体を動かせない。
敵の攻撃により于禁の鎧を貫通し、左の脇腹に数カ所剣で斬られたり刺されたのと、右肩を数本の矢で射抜かれていた。だが于禁はそれにどうにか耐え、力を振り絞り、剣を持っている三人の首を一気に三尖刀で切り落とした。そのときに敵兵の熱い鮮血が夏侯惇や于禁の鎧や顔に大量にかかるも、そんなものを気にする余裕はなく。
そして少し離れた場所で弓矢を構えている二人を見やると、于禁は思った。今から三尖刀を持ち、飛んでくる矢を最初のように三尖刀で凌ぎながら弓兵を倒す体力などもう残っていなかった。それまでに攻撃を何度も受けて血を流し、右肩が役に立たなくなってきているからだ。それに、夏侯惇に弓矢が当たる可能性だってある。三尖刀では、飛んできた矢を弾くことしかできないのだから。
すると手の届く範囲に、先程倒した歩兵の落とした三本の刀が目に入る。于禁は三尖刀を地面へと乱暴に投げ捨て、即座に右手に一本、左手に二本の剣を地面から拾うとまずは右手に持っている剣を投げる。だが右手で投げた剣は当たらなかったので、左手で二本連続で投げると、それぞれの剣先が弓兵の頭部や首へと何とか命中した。敵兵の頭のみが地面に落ちたり、剥き出しになった頭蓋骨から脳の欠片を落としたりと。
その結果、夏侯惇の近くに居た伏兵の合計五人を仕留められていた。
すると于禁が夏侯惇を庇った時点で、李典は夏侯惇の危機にようやく気付いていたようだ。やけに帰還が遅いからと。待機場所から急いで駆けつけ、到着した頃には負傷している于禁が敵兵をとても乱雑なやり方で排除していたが。
その直後に急いで駆け寄って来た李典の方を見ると、于禁は安心したのかどさりと倒された大木のように地に伏せる。
于禁は先程、複数箇所に怪我を負ったうえに五人を仕留めたので、立つ体力さえもう無いようだ。自らのものに加え敵の酷い鉄の匂い、それに土臭さを少し不快に思いながら。
「李典殿……夏侯惇殿を早く、安全な、場所へ……」
唇の端と右肩と脇腹から大量に血を流し始めながら、今にも消えそうな声で言う。既に于禁は敵兵を仕留めた際の返り血と、于禁自身から流れる血が混じっており、とても見ていられない状態だった。それにいつもは力強い瞳が、今は光を失いとても虚ろでいて。
李典は負傷をしてしまった于禁の姿を見ておののくも、戦闘に集中できない様子の夏侯惇に襲いかかってきた敵兵を倒していく。
「于禁……! 于禁……!」
「……夏侯惇殿、よそ見をしないで下さい!」
「だが……! あぁ……すまん……。情けないな……」
李典は于禁のことを気にかけていたが、今最優先すべき事は夏侯惇を守ることだ。夏侯惇がやられてしまってはどうしようもない。なので李典は負傷している于禁から目を逸らすしかなく、夏侯惇へそう強く言った。
夏侯惇の表情は明らかに落ち込んでいる。その中でも李典は夏侯惇をしっかり守りながら残りの敵兵を何とか倒し、敵の伏兵をどうにか全員排除できたのであった。
その途中、夏侯惇はずっと自分の情けなさを責めていた。判断を怠ったうえ、于禁に大怪我を負わせたために。
戦闘を終えた夏侯惇は急いで倒れている于禁の元に駆け寄るが、様子を見て声が出せなかった。于禁は眠るように瞼を閉じていて、名前を呼んでも反応はなく、地に伏せたまま一切動かなかったからだ。

于禁がふと目を覚ますと、そこはかなり見覚えのある城内の、白い陽が差している明るい自分の寝室だった。今の時刻は朝なのだろうか。すると軟膏のきつい匂いが徐々に判別できようになってくる。
今は部屋の真ん中に置いてある寝台に仰向けに寝かされていて、布団が丁寧に被せてある。横には四角形の木のテーブルがあり、その上に水の張った桶とその隣に清潔な包帯がある。その前には高さが約ニセンチメートルと、底が半径五センチメートルある白色の陶器製の何かが入っている容器があった。
それを取るためにふと右手を無意識に動かそうとするも、肩に鋭い激痛が走って動かせなかった。なので左手を上げると思い通りに動かせたので、それを取ってみる。容器の中身は、きつい匂いのする軟膏であった。于禁は顔をしかめると、元に戻そうとした。
だが胴体は右手と同様、激痛が走り動かしにくい。だが脚はあまり怪我を負っていないので、普通に動かせてはいるが。太腿などは動かすための反動や胴体に力を入れなければならないので、結果的には動かしにくいという状態だ。その中でも、容器を元にあった場所に戻した。
痛みや匂いを感じ取っていくうちに于禁はようやく実感した。
今は夢ではない。自分は死んではおらず、今、この現実を生きているのだ。
「……生きて、いたのか」
天井に向けて声を発せられたが、少し力まないと出ないようだ。それに自分でも分かるくらい、弱々しい声だ。恐らく失ってしまった体力が完全には戻っていないのか。
于禁はあのとき、もう自分は死んだのかと思っていた。あれほどの怪我を負っていて、大量の血を流していたのに。奇跡としか思えなかった。幸いにも頭や首や心臓などの急所には当たらなかったものの。
于禁の今の格好は長い髪は解けていて、布団をゆっくり捲ると衣服は下に薄い履物が履かされていた。だが上半身と右肩を中心に包帯がぐるぐると巻かれている。包帯の下は多量の軟膏がつけられてはみ出ているのと、今でも滲み出る若干の血と軟膏が付着していた。
自分の体にこれほどの包帯と軟膏がついているのは初めてらしく、于禁は思わず少し笑いながら捲っていた布団を直す。
すると足元の方向にある扉が静かに開く音がした。誰かが寝室へと入ってきたようだ。
なので于禁は仰向けになっている状態で、顔のみを動かして扉の方を向く。
「夏侯惇殿……」
于禁の寝室へと入ってきたのは、平服姿の夏侯惇だ。しかしその表情は無く、かなり深く沈んでいて。
だが瞼を上げている様子の于禁を見るなり、夏侯惇は悲しげな表情に変えた。それに声は震えている。
「于禁……! よかった、目を覚ましてくれて……」
于禁の左側に立つと膝を床につけ、于禁と同じ目線になると左手を両手でぐっと握り締める。そのときの夏侯惇の両手は冷たかった。
「貴方の手は、冷たい……」
「すまん……すまん……俺のせいで……すまん……」
夏侯惇は泣きそうになりながら、握り締めていた手を離さずにそのまま懺悔の言葉を吐いた。于禁を今の状況に陥らせてしまったことと、そして手が冷たいことに対してなのか。
だが于禁は手を離してもらいたくないようで、今はあまり入らない力で弱く握り返す。
「于禁……」
「……私のことはお気になさらず。夏侯惇殿、その……しばらく、ここに居て頂けますか? わがままですが……」
于禁は弱々しくそう言う。体だけではなく、心まで弱っているらしく。それに対して夏侯惇は首を横に振った。すると于禁の弱く握っていた手は力が抜ける。
「あぁ、傍に居てやる」
「ありがとうございます……。少しだけで……良いので……」
力の抜けた于禁の手を握っていると、夏侯惇の両手は温くなってきたようだ。同時に夏侯惇の表情は明りが灯ったように、暗さを次々と消していく。
「あの、夏侯惇殿……」
「なんだ?」
夏侯惇の声はとても優しくなって。いた。于禁はそれが心地よくなったのか、先程までずっと眠っていたはずなのに突然睡魔が襲ってくる。瞼は次第に重くなってきているが、それに耐えて于禁は話す。
「貴方を守りきれなかった……そのような私は、いけないのでしょうか……」
「おい、于禁!? ……もういい、そろそろ体力が無くなってきたのだろう。回復してから話を聞くから、もう……」
夏侯惇は話が見えないのか、意識が朦朧とし始めながらも、うわ言のように喋り続ける于禁の様子を見て止めようとした。顔を、とても青ざめさせながら。
すると于禁の左手は再び、先程よりも弱いが夏侯惇の両手を握る。その時の瞳は、微かに光っていた。夏侯惇はそれを見逃さなかったようで、于禁の方をじっと見る。すると于禁は意識をどうにか保ちながら、ずっと奥底に沈めていた意思を伝えた。
「私は、貴方のことを好いております。いえ、あなたを愛しております。前からずっと……」
于禁の奥底に沈ませていた感情は、途端に溢れ出した。自分でも分からず、止まらなかった。壊れた噴水のように、とめどなく。
確かに、少し前に沈めておこうと決意したのに。それは今回のように、死んでしまっては何も夏侯惇に伝えられないと強く思ったからか。
その瞬間、夏侯惇の顔は真っ赤に染まり、握り締めていた両手をゆっくりと離した。
于禁はそれを見て、夏侯惇の手の温もりが残っている左手を上げようとした瞬間、夏侯惇は口を開く。
「……俺は、お前への気持ちが分からなかったが、今ようやく分かった。お前のおかげでな」
そう言うと夏侯惇は于禁の両頬を、両手でそれぞれ添える。
「俺も、お前のことが好きだ」
夏侯惇は少しだけ、恥ずかしそうに言う。すると于禁の両瞼は一瞬だけだがピクリと上がった。左手を動かし夏侯惇へと震わせながら手を伸ばそうとすると、そこで意識を失った。その時にバタリ、と布団の上に腕を落としたが、夏侯惇はそれを掬う余裕が無かった。
気持ちを通じ合えた、あまりの喜びからか。

それから一週間後、于禁は傷こそは完全に塞がらないものの、それ以外はほぼ回復していた。
就寝時以外は常に上半身を起こしていても平気なうえ、寝台から起き上がり、自分でまだ塞がらない傷口に軟膏を塗って包帯を巻くことができるくらいに。しかし軽い運動でさえ医者から、傷口が開くと強く禁止されていたが。
その間に于禁は特にすることも無かったので、療養中でありながらも竹簡と向き合った。ただ時間に制限があり、一定の時間が来ると決まった時間帯に診察に来る医者に止められたが。
そしてその間、夏侯惇は時間を作って于禁の見舞いに来ていた。だが見舞いと言っても夜しか来れないらしい。夏侯惇は申し訳なさそうに于禁の寝室へと見舞いに来ていた。
「お忙しいのに、わざわざありがとうございます。あなたにそこまでさせて……」
「気にするな」
夏侯惇は于禁の頭を優しく撫でると、于禁は擽ったそうに笑った。
「お前も、そのような可愛らしい表情をできるではないか」
その瞬間に于禁は顔を赤らめた。自然と出た表情と、可愛らしいなどと言われてか。
「あの、夏侯惇殿」
すると上半身を起こしている于禁は、寝台の横の椅子に座っている夏侯惇の方に体を向けて名を呼んだ。
「どうした?」
「その……私の体が完治したら、私の方が落ち着いたら、またあの庭園で二人で、酌み交わしませぬか? お忙しくなければ、の話ですが……」
于禁はあまり自信無さそうに、目を伏せて言う。夏侯惇だって、曹操のこともあるし、軍のことで何かと仕事に追われている。それも于禁以上に。なので控え目な言葉を使い、そう聞いた。
「あぁ、いいぞ。楽しみにしている」
それに対して即答した夏侯惇は、椅子から立ち上がり、于禁へと近付いた。それに驚いて目を合わせた于禁だが、夏侯惇はそれに構わず顔を近付ける。だが互いの鼻先が今にも付きそうな程に近かったので、于禁は緊張や照れにより顔を赤くした。それでも、于禁はその距離を離す気がないのかその状態を保っていたが。
「于禁、口吸いしてもいいか?」
顔を赤くしている于禁に、夏侯惇は優しく聞いた。二人でのそれが初めてではないのは、夏侯惇のみが知っているが。
勿論、と于禁は頷く。夏侯惇は于禁の肩に手を添え、互いの鼻先に付きそうだった距離であった。しかしその互いの鼻先が軽くぶつかると、夏侯惇の唇は于禁の唇へと向かって行く。
「んっ……ん……」
于禁が声を漏らしたところで、夏侯惇の唇が離れる。そして于禁の顔を見ると、耳や首まで赤く染めていて、平時と変わらない様子であった夏侯惇は笑った。
「以外と初なのだな」
「あなたとの口吸いですので……」
口に手を添え、相変わらず首から上を赤くする于禁は、夏侯惇と目を合わせられないようだ。
それでも夏侯惇と口吸いをできて、于禁は嬉しいらしい。恋仲である間柄である夏侯惇と、そのような行為をできたからか。
于禁自身は口吸いの経験など幾らでもある。だが夏侯惇に対しては、前から慕っていたので余計に。
視線を逸らし、窓から見える居待月を横目に見ていると、夏侯惇に頬を撫でられた。そこで于禁は、視線を元に戻す。
「普段の様子からは想像できないくらい、お前は可愛らしいところもあるではないか。……だがこれから、口吸いにも慣れておけ」
「はい……」
夏侯惇はそう言うと、そろそろ見舞いを終えなければならないらしい。就寝前の医者が診察のため、于禁の寝室の扉をノックしたからだ。
「もうこんな時間か。では、またな」
「はい。……あの、夏侯惇殿。明日も、また会えますか?」
「勿論だ。明日もまた、時間を作ってここに来る」
于禁は少し寂しげな顔をしたが、夏侯惇は「そんな顔をするな」と言う。そして扉の前で反応を待っている待医を待たせてはいけないと、扉を開けて于禁に診察を受けさせたのであった。
その頃には、于禁の顔の赤らみは引いていたが。