青い月『小望月』
約一か月が経過しようとしているが、二人の間にはあれからも沈黙が形成されていた。だが夏侯惇はそれが、次第に当たり前のように思えてきている。何年も前からそうであったかのように。
ある真冬の、小望月が夜空によく輝いている頃である。この日は光り輝く小望月の邪魔をしないようにと、空にはそれ以外は浮かんでいなかった。だからか雲の欠片さえ見えない。
まだ寒さが厳しい時期が続いているのか夏侯惇自身の表情や体も、通勤や退勤時に着ているコートも、何もかもが重い。于禁には何も変化が無いが。
この日の夏侯惇は重要な会議や用件に追われ、ようやく帰宅できたのが二〇一時を過ぎた時間である。この時間にはさすがに于禁は帰宅していたらしい。軽装姿でリビングにあるワークデスクのパソコンを睨んでいた。できる範囲の仕事を持ち帰ったのだろうか。
于禁の向かっているワークデスクやチェアはベランダの方を向いており、玄関から短い距離を歩いたところにあるリビングダイニングキッチンの入口には背を向けている状態である。夏侯惇はその于禁の背中に向け、帰宅時の挨拶を疲れながらも行う。于禁が振り返る、そのようなことはないと思いながら。それは沈黙ができてしまった頃からずっとであり、最初は寂しいなどと思っていたが。
「……お帰りなさいませ」
だが夏侯惇の前からの予想は大いに、初めて外れてしまった。于禁が、振り返って挨拶を返したからだ。しかもチェアから律儀に立ち上がり。
「あ……あぁ……」
しかし夏侯惇は于禁へのまともな返事の仕方を忘れてしまったようだ。なので適した言葉が見つからないまま、そう返すのが限界であった。于禁はそれに対し、何も口出さなかったが。
すると気まずさから、夏侯惇は着ていたコートを脱ぎながら「風呂に入る」と言ってリビングから出ようと踵を返した。しかし背後から、唐突に于禁に無言で抱き締められる。夏侯惇の肩の周りに于禁の両腕が巻かれる形で。
だが夏侯惇は久しぶりの感覚や于禁からの直接の温もりに、全身を硬直させてしまった。慣れなど失ってしまったからだろうか。
そして、遂には何も言葉が出せないでいて。
「……夏侯惇殿、お疲れのようで申し訳ありませんが、今から久しぶりに、どこかへ出かけませんか? 無理に、とは言わないので」
于禁は静かな静かな声でそう言うが、次第に放つ声や夏侯惇の体を覆っている手が震え始めていた。何かに怯えているように。しかし同時に夏侯惇の体も震わせながら、返事を喉から出そうとした。答えは「行き先は分からないが、それでも良い」と。
返事の仕方の他に、更に声の出し方でさえ忘れているように思えてきた。だからか出そうと思っていても、声が全く出ない。夏侯惇はそれを諦めたのか、于禁の手の甲にゆっくりと手の平を重ねる。振り返ることもなく、僅かに首を縦に振りながら。
すると于禁はその夏侯惇の返事の合図を確認できたらしく、震わせている手を離すとゆっくりと礼を言った。それが聞こえた夏侯惇はようやく振り返ると、于禁の表情は沈んでいた。
「私が運転しますので、お車の鍵を貸して頂けますか」
そう言った于禁は、夏侯惇に手の平を差し出した。表情は沈んでいることに加えて少し硬い。だが夏侯惇自身の表情も同じであるだろう。
夏侯惇はすぐに何も言わずに通勤バッグから車の鍵をすぐに取り出すと、それを于禁の手の平の上に乗せる。夏侯惇はこのとき、必要最低限以外のやりとりも久しぶりにしたからか、何故だか懐かしい気分に襲われてしまう。何十年も会ってない知り合いと話しているような気分に近いのだろうか。
車の鍵を確実に受け取った于禁はソファの座面にいつの間にか置いてあったコートを羽織ると、夏侯惇も一旦脱いでいたコートを再び羽織り直した。コートは、まだ暖かい。
「行きましょうか」
支度を終えた二人は、玄関から出てマンションの一階部分の駐車場へと向かった。外はやはりかなり寒いが車の中へと入り、助手席へと座る。車の中もまだ暖かさが残っているので、寒さからはすぐに解放される。それに于禁が車のエンジンをかけると、すぐに暖房をかけたので外の寒さなど忘れるくらいに暖かくなっていった。
「……行き先は、ここから一番近い海に行こうと思いまして」
于禁はそう言いながら車を発進させる。ゆっくりとマンションの敷地外を出て、車線のある道路に出るとスピードが次第に法定速度に近いところまで上がっていった。
「海?」
夏侯惇はそこでようやく声が出せた。なので運転席で運転している于禁を一瞬だけ見ると、当たり前のことだが運転に集中しているようだ。なので夏侯惇も前を見ていると、前の大きな交差点の信号が赤になった。前には数台車があるのでそれに合わせてゆっくりと停車する。
ここの信号は長い、夏侯惇はそうぼんやりと思っているとブレーキペダルを踏んで待っている于禁に片手の平を掴まれた。あまりの唐突なことに、夏侯惇は于禁の方を見る。そのときの于禁の表情は悲し気であった。なので夏侯惇はどうしたのか、そう聞こうか悩んでいると前の車のブレーキランプが消灯する。信号が青になっていたので于禁は夏侯惇の掴んでいた手を離し、車を発進して運転を再開した。
それからは二人は車中で無言である。二人が乗っている車の微かな走行音や周囲の車の走行音、歩道を途切れないほどに道行く人々。それらの喧騒のみが二人からは聞こえ、二人の互いの声など全く無い。
しばらく車を走らせると、先程の車や歩行者が次第に見えなくなっていった。徐々にそのような景色は消えていく。すると車窓からは高さのある建物や何車線もある道路など見えない山の中へと入っていった。だが夏侯惇はここがどこなのか、于禁の言う「一番近い海」がどこなのかつい先ほど分かったので視線を様々な方向へ巡らせることはなく。
すると山を出て、小さく平らな海が見えてきた。
今の時間は日付が変わる少し前なので、二人が乗っている車以外で走っている車を見かけない。それに道路の脇は歩道ではないので、歩行者も居ない。車窓から必ず見えるのは、等間隔にある外灯と海と未だに隅にある山、それに夜空に浮かぶ小望月のみ。
だからか、夏侯惇はこの世界で二人きりになってしまったのかという錯覚に陥っていた。そのようなことなど、ありえないと思いながらも。
「そろそろ着きます」
于禁はそう言うと行き先の海の駐車場へと入ると当たり前のように、ここに二人以外で来ている人間など居ない。今は季節外れだからなのか、車を二〇台は駐車できる駐車場は空だ。そのうちの一つを埋める。
「あぁ」
そして駐車された後に車のエンジンが切られてから夏侯惇は短く返事をした。少しずつ、言葉が出せるようになったと感じながら。
二人は車から降りたが、鋭い寒さが襲い夏侯惇は一瞬だけ顔をしかめる。だが二人の間には停めた車があるので、于禁からはそのような様子は確実に見えないことに夏侯惇は安堵の息を漏らした。
「もうすぐ、満月ですか」
于禁はそう言いながら車を施錠してから、駐車場からすぐそこに見える浜辺と空を見る。そして浜辺の手前に数段のコンクリート製の階段があるので、そこに腰を掛けた。夏侯惇も続けて腰を掛けて于禁と同じ方向を見る。
この周辺の道中のように、ここにも障害物が無いので絶景であった。二人の住む喧騒と隣り合わせの街とは違い、円に近い月がよく見える。夏侯惇はそれを惚れたかのように見上げると、それのおかげか顔が月明りによく照らされていて。
一方の隣に腰掛けた于禁は、輝いて浮かんでいる月に明かりを吸い取られたかのように、あるいは欠けてしまった月のように、表情も何もかもが暗い。なので夏侯惇は明るい夜空に向かって指を差すが、于禁は見上げようともしなかった。
夏侯惇は眉を下げながら差していた指を下ろす。
「綺麗なのに、見ないのか? ……それにしても、何だか懐かしい気分になるな。お前と二人きりで、外でこうして月を見上げるのは。目の前には水仙ではなく、海が見えるがそれでもだ」
「…………」
夏侯惇は思ったままのことを呟くが、于禁は黙ったので夏侯惇は何か尋ねようとした。しかし車中でもしたように于禁は再び片手の平を掴んで夏侯惇の方を見る。空にある、満月一歩手前である月ではなく。
外は寒いが于禁の手は暖かいので手がその感覚に支配されていき、夏侯惇は頬を緩める。
「……暖かい」
そう言うが于禁はやはり悲し気な顔をしていた。だが、于禁は夏侯惇に短く簡単な質問を投げかける。
「私は、暖かいですか?」
「さっき言った通りだろう? 暖かいと」
夏侯惇はそう答えると、空いた手で于禁の掴んでいる手を重ねた。夏侯惇の両手が、じんわりと于禁の熱を奪っていくように暖かくなっていく。
すると于禁としばらく続けていた沈黙の日々を思い出したが、自身の手の冷えが無くなっていくように、どうでもよくなっていた。こうして于禁と触れられたからと、なんと単純な性格だと内心で笑いながら。
「……于禁、どうした」
熱で心さえも溶けていった夏侯惇はとても短くシンプルな質問を于禁にする。
だがそれに含まれている意味は膨大で深いものであり、于禁の何もかもをガラスのように壊して粉々に容易くできる、武器にもなり得る可能性がある。前はそれを聞くことにかなり慎重になっていたが、今はその慎重さを取り払った。聞くべき時は、今しかないと。
すると于禁はそれをすぐに察したのだろう。ほんの数秒だけ表情を険しくしてから、眉間の皺をかなり深くさせた。そのような態度を見せている自覚があったのか、顔を隠すように伏せたが。
しかし小望月が地さえも明るく照らしているからか、顔を伏せても表情は殆ど隠れない。すると于禁は呼吸を整えるように溜息をつくと、意を決したように顔を上げてから夏侯惇の方を向く。
于禁は鋭い痛みと重く鈍い痛みの両方に、耐えるかのようにとても辛そうな顔をしていた。夏侯惇自身の前、いや、恐らく人前に初めて見せているのだろう。夏侯惇はそう思いながらも、ただ于禁を見ることしかできないでいて。
「夏侯惇殿、少しでも良いので……聞いて頂けますか?」
夏侯惇の片手の平を掴む力が強くなった。だが痛みを感じる程ではないので、夏侯惇はその手を見ながら肯定の返事をしてから于禁に言葉をやんわりと促す。于禁の顔の半分に、月明りが差し込んでいるのを見ながら。
数秒だけ于禁は黙ると、その間に静かな潮騒の音のみが聞こえる。夏侯惇は再び世界に二人きりだという錯覚に陥ったが、このときはそうなってもいいと別に良いと思っていた。理由は夏侯惇自身でもよく分からないが。
「私は、あなたとこのような綺麗な月が見れるとは思いませんでした。満月は恐らく明日の夜ですが」
「あぁ」
顔全体に月明りが差し込まない様子を見てそう返事をすると、于禁は夏侯惇の手に挟まれている状態であった手を抜き取る。温もりが無くなった夏侯惇は、少しの寂しさを募らせた。
再び二人が沈黙していると、于禁は空を見上げた。このとき、于禁の顔全体に月明りが差し込み始める。暗かった于禁の顔に、月の光が優しく当たっていく。
「……私は、まさか再び殿やあなたと、前のような関係になるとは思いもしませんでした」
「俺もだ」
すると于禁の両頬に一粒の涙が伝い、それが月の光に反射する。夏侯惇はそれが綺麗と思い、自然と手を伸ばしてから人差し指で優しく掬い取った。于禁が樊城で受け続けた雨も、これほど冷たかったのだろうと思いながら。なのでその指のみが、潮風で冷えていくのを感じる。
手を下ろし、夏侯惇は于禁に笑いかける。だが于禁は、夏侯惇の下ろした手の方を目で追った。
「ですが、前と同じ外見、性格、顔をしているというのに、私だけが前の罪を一方的に覚えているということが、辛いのです。殿の顔に泥を塗ったというのに、あの方は当然のように前の記憶が無い。そして他の者たちも、あなたを除いた全員が。前のようにあなたからも、何もかもから逃げるのは止めようと決心をしたというのに……。私は、この世で罰を受けているのでしょうか。あなたからも、何もかもから逃げ出した、懺悔をしても赦されない罪を……だから、今も前も、同じ悪夢を……」
夏侯惇は特に『悪夢』という単語を聞いて目を伏せると、その頃には于禁の涙を掬い取った指が乾いていた。同時に于禁は両手で顔を覆い、浴びていた月明りは完全に遮断される。そして于禁は、次第に発狂していった。
「私は、常日頃から兵を大切にしていました。ですが、悔しくも降伏して同時に捕虜になった兵は、私のせいで皆殺されてしまったのです。私のせいで、私が、出陣前にもう少し地形や天候のことを考えていれば、兵たちは理不尽に殺されなくとも済んだというのに……! 悪夢だって、あれは現実で起きたことではないのに……!」
「もう……いい……」
夏侯惇は于禁の顔を覆わせている両手を取り払った。すると于禁が大量の涙を顎にまで伝い、そして腰掛けている階段や服に落としているのを見る。なので夏侯惇は微かに触れる程度に、于禁と唇を合わせた。久々の口付けは、涙の味がすると舌で感じながら。
于禁は目を見開かせ、体を硬直させながら夏侯惇の方を見る。先程の発狂は、ひとまず鎮まったようだ。次々と発生する潮風や波の音に乗って消えていくように。
「……私は、捕虜になったときから、月を毎晩見ていました。満ちていき、欠けていく月を独りで毎晩毎晩、月が見える晩であれば、必ず。そして、魏に帰国して……曹丕様に、謁見してからも……」
于禁の言葉は終わりに近づくにつれ、潮風や波の音にさらわれていった。よく聞き取り辛くなっていく。
だが言葉を察した夏侯惇は数摘の涙を流し、自身の涙の味も若干だが混ざり合った。頬は氷のように冷えるが、目頭は炎のように熱くさせながら。
「于禁……」
更に数滴の涙を流して落とすと、夏侯惇は于禁をそっと抱き締めた。于禁が身に着けている衣服は、とても冷たくなっている。
だがそこで夏侯惇は曹丕のことで一つ、于禁が確実に知らないことを思い出したのか語り始めた。
于禁が帰国してから、強く拒絶されてから数日後のことだ。あのときは今と同じく、厳しい冷えが素肌にまで貫く頃である。夏侯惇は于禁の私室の扉越しに言葉をかけるも、何も返って来ずに心や体も疲弊していった。何日も続き、そして悪くなる一方で。
ある日、寝室に曹丕が見舞いの理由で訪ねて来て、そのときは夏侯惇の体調が優れない日が続いていた。そこで曹丕は夏侯惇に于禁のことを話した。夏侯惇の体調が悪いからこそ、もう時間が無いと分かったからか。
曹丕曰く、夏侯惇と于禁が個人的な関係を持っていたことを知っていたと言うが、誰にもそれを漏らすことはなかった。勿論、父である曹操にも。
それを知ったのは、樊城の戦いで于禁が出陣する前に夏侯惇と会話している様子を見て分かったらしい。二人の、意味ありげな目線を送り合っていたのを見たからと。一方で、他の武将や兵たちは分からなかったようだが。
しかしそれから、帰国した于禁の様子を見て曹丕は腹が立ったらしい。情人である夏侯惇からも、何もかもから逃げたことから。なので曹丕は于禁に、情けないと怒りの意味で酷く責めていたことを。そして、于禁を馬鹿にするためにではないことを。
夏侯惇はゆっくり諭していきながら、于禁の頬に両手を添えた。于禁はまた頬を濡らし始めていたので、冷たいという感覚はありながらも。
「……だから、お前をただ馬鹿にしていた訳ではない。分かってくれたか?」
「分かりたくも、ありません」
曹丕のことについては、今でも酷く拒絶しているらしい。于禁は顔を青く染めながら首を横に振るが、月明りに未だに当たっている。しかし本来は綺麗であるはずの、その月明りがとても不気味なものに見えてしまっていた。それはただの、錯覚でしかないが。
その間に分け与えられたように夏侯惇に伝わってきていた熱が、于禁の頬へと元に戻って吸い込まれていった。夏侯惇は温くなった感覚を手の平で感じる。
しかしその手を、于禁は邪魔だと言わんばかりにすぐに取り払おうとするが躊躇した。そしてまた取り払おうとする素振りを見せたが、やはりまた躊躇するの繰り返しを何度も行う。
「それが、どうしたと言うのですか。……やはり、あなたと関係を解消して、ただの同じ会社に勤務している者同士の関係になればよかった……! やはり、あなたと関係を修復するのは止めておくべきだった! 貴方と、別れるべきであった!」
于禁は頭を抱えながら再び発狂した。夏侯惇はそれに一瞬だけひるんでしまってから歯を食いしばると、右手で思いっきり于禁の頬を叩いた。乾いた音は海の湿った音に紛れることなく、響き渡っていく。
「……ふざけるな」
地の底から這うような、重く低い声を夏侯惇は出す。そして涙を流しながら、酷く怒っていた。一方で于禁は夏侯惇の初めて見る顔や初めて聞く声音により、発狂を中断していた。目を見開き表情を硬直させていたが、それを気にしないかのように涙はどんどん落ちていく。
「どうして、お前は……!」
怒りのあまりにもう一度頬を叩こうと、夏侯惇は手を上げた。しかしそのようなことはもうできないのか、手を震わせながら手を下ろして于禁の肩へと乗せる。償いようのない罪を犯してしまったかのような顔をしながら。
「……すまん、頭に血が上り過ぎた。本当に、すまん。……それで、于禁。どうしてお前は一人で、そこまで抱える? 何もかもを。俺がお前のパートナーであることを、忘れてしまったのか? 話してくれても、良いだろう?」
夏侯惇はあまりの心の痛さに、嗚咽を吐きながら俯きながらそう話す。自身が叩いてしまった于禁の頬が、赤く腫れている様子を見たくないというエゴからか。
「私だって、あなた相手であっても話したくないことの一つや二つくらいはあります。あなただって、そうでしょう」
于禁は無機質という言葉が相応しいと思えるくらいにそう言い、淡々と夏侯惇の後頭部を見た。頭上から降って来る正論でしかない意見に、夏侯惇は何も言えなくなっている。
しかし後頭部を視界に入れられる時間は一〇数秒間であった。俯いた夏侯惇は言葉を必死に探してから見つけると、すぐに于禁の方に向き直ったからだ。
「それはそうだが……。しかし、俺にもきちんと話して欲しい。お前はほとんど毎日、悪夢を見て苦しんでいるのだろう? どんな内容とまでは聞かないが……」
必死に探し当てた言葉を夏侯惇が最後まで言いかけた。だが何もかも投げてしまったような様子になった于禁は、それを妨げる。
「それは、あなたの悪夢ですよ……全て……」
夏侯惇はあまりのショックに于禁の肩に置いていた手を、まるで熱い炎に触ってしまったので火傷をしないようにそれから離れるように急いで引かせた。悪夢の内容など夏侯惇には全て予想できなかったので、于禁本人から自分の悪夢と聞いてとてつもない衝撃を受けてしまっていて。
「全て……俺……?」
だが自身以外の見る悪夢を少しでも予想するならば、于禁の見ている悪夢を少しでも予想するならば、夏侯惇は自分が出て来ないものとばかり思っていた。
例えば樊城の戦いで降伏した瞬間が鮮明に記憶に残っていて、脳がそれを忘れたがらないのかそれを悪夢として映し出す。あるいは捕虜としての記憶が実際のものとはかけ離れ捏造され、残酷なものへと変わって映し出されるものかと思っていた。
夏侯惇は視界も思考も全てが真っ白になっていく。それは寄せては返す、強い波のような真っ白さに似ていて。波や風の音も、次第に遠くなっていく。目の前には一杯に海が広がっているというのに。
「あなたが私を言葉で捨てたものと、行動で捨てたものを、何パター……」
心が死んでしまったような于禁が淡々と言葉を足すと、次は夏侯惇が言葉を妨げる。
「違う! 悪夢の中の俺は、本当の俺ではない! 偽物だ! そのような下らないものを信じるな!」
とめどなく涙が流しながら夏侯惇はそう訴えたが、于禁は首を横に振る。
「……いえ、時折……分からなくなるのです。どちらが本当の、貴方なのか……」
視界が涙で霞んできたが、その中でも夏侯惇は于禁の胸倉を力強く掴んだ。そしてぐいと引き寄せると、于禁は息を詰まらせる。呼吸をスムーズにできないらしく、息を浅く吐く音がよく聞こえるからか。
「俺がさっき平手打ちした頬は、今でも痛いか!? 俺が今掴んでいる胸倉だって、今は首が苦しいだろう!? だから、今お前の目の前に居る俺は、悪夢の中の俺ではない! お前を捨てる悪夢の中の俺ではない! お前が、いつも信じてくれている俺だ!」
息継ぎをしたのは、二回くらいだろうか。言い切った夏侯惇は掴んでいた于禁の胸倉を離し、そして睨みつける。
涙の海が邪魔で、于禁の表情など見えなくとも。涙の海に溺れて、呼吸が荒くなろうとも。
「私が……信じているあなた……」
于禁が手を伸ばすと夏侯惇も手を伸ばして取ったが、互いの手は冷たくなっていた。その冷えを解消させるように、夏侯惇はしっかりと握る。于禁がもう離れてしまわないようにという意味も込めて。
「そうだ」
次第に涙が引いてきたとともに夏侯惇は于禁を見ると、次は于禁が涙をぽろぽろと再び流していた。夏侯惇はそれにゆっくりと微笑むと、于禁へ本日二度目の口付けをする。だが一度目よりも長く、そして深く。
口付けの最中は、于禁の涙がすぐに引いた。夏侯惇はその間、両瞼を閉じていたのでそれには気付かなかったが。
そして口付けを終えた二人は何も言わないまま、互いを見つめ合う。空にある月明りにより、二人の顔全体が明るく照らされながら。