青い月 - 14/16

青い月『十三夜月』

相変わらず于禁は悪夢か何かを見ていたが、その間に曹操の経営する会社へと入社していた。
二人の前の記憶にある一部の人物も既に同じ会社に勤務しているが、それに対して于禁は夏侯惇から見える範囲で何か引っ掛かるようなリアクションは起こしていない。
しかし夏侯惇は于禁を案じていた。もしも于禁の悪夢か何かが酷くなってしまったらと。
入社初日はいつもと変わらない様子であったし、周囲からの評価は前と同じである。ただ、中途採用された者としてはそれなりに高い役職として入社してきたので、陰で妬みの声がちらほらと上がっていた。しかし僅か数日経つと、于禁の普段の勤務態度のおかげかその陰の妬み声は叩き潰されたようにほとんど無くなっていたようだ。
なので周囲からの陰からの幼稚な悪戯、それに関しては全く問題がないと夏侯惇は判断した。

于禁が曹操の経営している会社に入社してから、約一か月が経過した。
今の時刻は十三夜月が見えなくなる直前の、深夜と早朝の狭間である。なので外はまだ暗く、それに仄かなサイドランプの灯りにより寝室は薄暗かった。まだ真冬と言える時期なので、部屋は寒々としている中で。
そして二人は日付にして昨夜、久しぶりに深く肌を重ねた直後であった。それを誘ったのは、夏侯惇であって。
「うきん……」
そのときの于禁は寝室のベッドの枕元の上にある、窓にはカーテンが閉じている。しかし少しの隙間から見える、その見えなくなる直前の十三夜月を見ていた。毛布を肩から被って上体を起こし、わざわざ振り返りながら。
少しずつ行為による熱が引いてきている夏侯惇だが、于禁が肩から被っていた毛布を少し剥がすと軽く乗り上げてからぴったりと抱き着き、そして離れないように片手の指を絡めて手を繋ぐ。すると于禁はそれに応じるように夏侯惇の腰へ、空いている手をまさぐってからゆっくりと回した。振り返らせている顔は、夏侯惇へと向ける気は無いようだが。
そのときの夏侯惇からは于禁の横顔しか見えないが、何故だかとても悲しそうに見えた。だが夏侯惇でさえ、于禁のそのような表情を初めて見る。そのときの目は憂いを帯びていたが、理由は分からない。
しかし、行為の最中の于禁は夏侯惇へと、確かに情欲に満ちた目を向けていた気がするのだが。
「いかがなさいましたか?」
視線はまだ月へと向いていた。なので嫉妬した夏侯惇は于禁の視線を独占したいがために、顔を近付ける。そして無理矢理に唇を奪うと、ようやく視線も奪えた。なので夏侯惇は合わせていた唇を離す。
「……月に、嫉妬してしまったではないか。俺を差し置いてそこまで夢中になって見ているが、どうした?」
「…………」
于禁からは何も言葉が出て来ず、口を硬く閉じている。于禁は何か躊躇しているのか、それとも言葉が見つからないのかは不明だ。
なので夏侯惇は于禁が月など見ないように腕をぐいと引くと、突然のことだったので力を抜いていたらしい。次は于禁が夏侯惇に覆いかぶさって抱き着く形になり、そしてベッドの上へと二人で倒れ込んだ。ベッドからは大きく軋む音が一つ鳴る。
「……シャワーを浴びて、休みましょう」
すると于禁はようやく言葉を出した。しかし明らかに夏侯惇から何か隠すように、あるいは誤魔化すように。
「だったら浴室まで運んでくれ。疲れてしまってな」
夏侯惇は于禁の唐突の違和に気付く。だがそう言いながらも、于禁の背中に両手を回して優しく撫でて甘えた。
行為の最中にそういえば背中につけていた、未だに赤く、血管のように膨らんでいる爪の痕を指先でなぞって把握しながら。それも、位置や大きさを触覚のみで完全に覚えるようにゆっくりと。
「擽ったい……」
ようやく于禁は目を笑わせながら、自分の背中に巻き付いている夏侯惇の両手をゆっくりと解く。次に起き上がってから横になっている夏侯惇を軽々と横抱きすると、二人で浴室に行って身を清めた。
それを終えると二人はベッドの上で寒さから逃れるように身を向かい合って横になり、毛布を被るとすぐに眠りについたのであった。それも、二人はほぼ同じタイミングで。
その頃には夏侯惇が一時的に嫉妬していた月は、いつの間にか空の中へと溶けて消えていた。

時間が経ち、空に太陽が昇ったところである。二人が毛布を被ってから数時間しか経過していないが、この日は平日だ。なので出社するために、特に夏侯惇はかなり気だるげに起床した。
「おはよう……」
「おはようございます」
被っていた毛布を、本当はあまりの寒さや体の怠さに剥がしたくなかった。しかし夏侯惇は自らを律するために剥がす。一方で于禁は夏侯惇よりかはまだ状態が良いらしい。すんなりと起床してから「あまり無理をなさらない方が……」と控えめに言うが、夏侯惇は煩わし気な顔をしてそれに適当な返事をした。
「何ともない」
夏侯惇はそう言うが、かなり疲れた顔をしている。なので于禁は剥がされた毛布を夏侯惇の体へとかけようとしていた。だが夏侯惇はそれを頑なに断る。
「ですが……」
「お前を誘った俺が悪いから気にするな」
「…………」
于禁は就寝前のように再び言葉が出て来なかったようで、二度目の短くも長いような沈黙を作る。夏侯惇はその沈黙を、少しだけ睨んだ。
そして両腕伸ばしてから何とか起き上がろうとした夏侯惇だが、やはり体の怠さには負けるらしい。一瞬だけ顔を歪ませた後に、今度こそと無理矢理に体を立たせてようやく起床できた。
その後の夏侯惇はいつも通り、于禁と共に朝の支度を済ませる。
玄関へと向かってから外へ出る為に扉を開ける、その前に夏侯惇は于禁へ一つ訊ねた。ついさっき、何か重要な物を無くしたからかそれを探すように。
「……お前は、未だに何を悩んでいる?」
「私は、何も……」
于禁は夏侯惇の問いに対し、すぐに視線を逸らす。夏侯惇はその逸らした視線に腹が立ったのか、小さな舌打ちをしてから毎朝の日課である口付けはせずに出社して行ったのであった。その毎朝の日課である口付けをできるというのに、しないというのは今日が初めてである。余程のことがない限りは、全く怠らなかったというのに。
夏侯惇により閉められた扉を、一人になった于禁は沈んだ表情で短い間見つめていたのであった。

二人はこの時は知らなかった。二人の心を丁寧に紡がれていた細い糸が、次第にほつれて絡まっていくのを。

それからは暗い空にある月が見えていれば、于禁はそれを毎日見ていた。「月が綺麗なので見ている」という訳ではなく、十三夜月の日のように今の夏侯惇からしたら見慣れてしまった悲哀の表情を。
十三夜月以降、二人の雰囲気はとてもぎくしゃくとしていた。理由はやはり、夏侯惇のとてもシンプルな内容の質問に于禁が答えたがらないせいで。
そして毎朝の日課として行われていた口付けや、体を濃密に重ねる行為も自然と無くなっていく。加えて二人の会話も少しずつ減っていき、必要最低限のやりとりしかしなくなっていった。どちらからもそれらを言及しないのもあってか。
一言で言うならば、あの十三夜月以降の二人の関係は唐突に拗れているのだ。だが仕事の方では、滅多に顔を合わせないので夏侯惇は悔しくも内心で安堵してしまっていた。
勿論、于禁のはっきりとしない態度に対し、あのような発言をした夏侯惇自身も悪いのだが。夏侯惇はなのでかそれを強く後悔し、そして十三夜月以前のように元の関係へと戻りたいと思っていた。于禁にどう謝れば良いのか分からなくなったまま。

だが于禁の悪夢か何かは、二人の関係が拗れた今でも続いている。夜中に悪夢か何かを見ている際の、苦しんでいるうわ言の内容に変わりは無く。
「于禁……」
夏侯惇は愛しくも、どう接すれば良いのか分からなくなった者の名を呼ぶ。だが呼び慣れているはずのその言葉は、初めて覚えた言葉を口にするようにとても拙いものであった。
「于禁……」
それでもまた名を呼びながら、苦しげな于禁の顔を見る。
だが睡眠の中で苦しんでいる様子を見る夏侯惇は、月を見ている于禁のように悲しげで憂いの視線を与えているのかもしてない。そう思った夏侯惇は首を横に振ると、于禁の後頭部へ恐る恐る手を伸ばして触れた。
夏侯惇が于禁へと触れるのは久しぶりであり、ここ何週間もまともに触れられていなかった。言葉を互いに交わさなくなったのと同様に。
于禁の頭を優しく撫でてやると、悪夢か何かはすぐに見えなくなったようだ。苦しみを放つだけのうわ言は消え、今は規則正しい寝息のみが聞こえてくる。夏侯惇はそれを見て安堵すると、今は心の距離のように離れて寝ていた于禁に気持ち近付いた。
「俺は、お前と居られれば、それでいい……」
一粒のみの涙を枕に落とした夏侯惇は于禁にそう言った。于禁は熟睡をしているので、夏侯惇のその言葉を聞き取れる訳などないのに。
溜息なのか吐息なのか分からない呼吸をした後、夏侯惇は眠りについたのであった。

そして朝を迎えたが、二人はやはり最低限の会話をするのみ。
気まずさに全身を包まれた夏侯惇は、どうにかそれを剥がしてしまいたかった。于禁の目を一瞬見たが、視線を寄越してはくれない。なのでどうすればいいのか分からないまま、いつものように夏侯惇が先に出社していった。

それからまた夜が来たが、帰宅したのは夏侯惇が先だったようだ。いつもは于禁から毎日、何時に帰るなどの律儀な連絡があるが今はない。なので于禁がいつ頃帰って来るのかは不明である。
灯りの点いていない暗い部屋に入るが、夏侯惇は何もする気が起きなかった。部屋の闇を一瞬にして消す事さえも。リビングのソファの真ん中に一人きりで座り、部屋の暗く何も見えない空間を見ると様々な思いが駆け巡った。
まずは于禁との沈黙をどうにかして止めたいこと、これは最優先で考えなければならない。前のように于禁自らが夏侯惇の手を完全に振り払う気が無いというならば、まだ沈黙を止められる可能性があると思って。それとまだ夏侯惇にとっては、まだ近く浅い闇と思って。
実際に、于禁から沈黙を止めたいのか夏侯惇へ必要最低限しかしていなかった会話の他に、何か言葉をかけようとしていたことが度々あった。夏侯惇はそれを見逃してはいないので、それを拾ってから必ず返事をする。絡まった糸を切ってしまうことがなく、丁寧に解くように。しかし返事を返したところで于禁が「何でもない」と言うと視線を逸らし、そこでまた二人に沈黙が訪れたのであった。しかし夏侯惇はそれを、悲愴の眼差しで静かに追いかけていて。
逆に夏侯惇から何か話そうともしたが、于禁は生返事をするのみ。なので会話など、続く筈がなかった。
そして夏侯惇から見た于禁とは、人生の伴侶ともいえる存在である。それは前から少しも変わらないでいて。そして于禁側としても同じ存在として、夏侯惇をまだそう認識してくれているだろう。それを、まだ信じていたかった。
次に于禁がほぼ毎晩のようにに見てしまう悪夢か何かついてだ。夏侯惇は前から一人で気にかけていたことではある。それを見た日の朝は必ず疲れたような顔をしていたが、それらに気付かないふりをするのには夏侯惇の精神的に限界があった。愛しい存在のそのような顔は、やはり見たくないからか。
だが夏侯惇はやはり、于禁の心の中へと未だに踏み込めないでいた。于禁に酷く突き放されてしまうのがとても怖いと、臆病になってしまうからだ。前の時代の晩年や今の時代に出会ったとき、酷く突き放されていたのだが。
最後に、樊城の戦いの後の晩年の于禁のことだ。このことは何も知らない夏侯惇でさえ、生涯を共にする相手であっても本当に踏み込んではいけないことであるのは分かっている。なので、それについては一切触れずに接してきた。于禁本人から切り出す話題でさえも晩年のことについては全く出していないし、それに近いものも出していない。
それは、今の照明の点いていない部屋よりも更に深く暗い闇であることは確実だろう。照明などの強い光など照らしても、無駄な程に。
一通りの思考を巡らせた後に夏侯惇はようやく腰を上げて室内を光で照らそうとした、そこで玄関の扉が解錠される音が微かに聞こえてきた。于禁が帰宅したらしい。
「おかえり」
夏侯惇が慌てて部屋の照明を点けてから短い廊下に出て于禁に静かにそう話しかけると、帰宅時の挨拶が返ってきた。二人の必要最低限である会話のうちの一つである。
すぐに背を向けた于禁はスーツのジャケットを脱ぎながら、ウォークインクローゼットへと向かおうとしていた。だが夏侯惇はこのままではいけないと思い、意を決してぎこちない声音で会話を投げかけた。前のような、必要最低限とはかけ離れた内容のを。
「于禁、今から飯を食いに行かないか?」
名を呼んで引き止められたものの、相変わらず背を向けている于禁である。だが夏侯惇はそれでも構わず用件を話した。
「……申し訳ありませんが、今日は疲れているので」
そう言い終えた于禁は止めていた足を再び動かす。
ここで何もできなかったら二度と沈黙など消せないうえ、一生このままなのだろうか。何故だかそう思ってしまった夏侯惇は于禁の背中へと駆け寄り、そして抱き着いた。両腕を于禁の胴体へと巻き付かせる。
そのときの于禁の体は酷く強張り、夏侯惇の声は真冬の海に居るようにとても震えていて。
「于禁、毎晩空を、月を見ているのは、何か意味があるのだろう? だが俺は、お前の中の闇を全く知らない。……だから、そろそろ話してくれても良いだろう? 打ち明けて、共有してくれてもいいだろう? ……俺に、その権利があるはずだ」
于禁は夏侯惇を振り払うこともなく、振り返ることもなく黙って聞いている。夏侯惇は于禁のその『無』の態度に、何とも言えない恐怖心を抱いた。だが、それでも巻き付かせた両腕は離す気は無く。
しかし夏侯惇がそう言い終えても于禁からは何も返って来ない。外から微かに聞こえる、断続的な車の音や歩行者から聞こえる楽しげな話し声。それらが二人の耳に入った。
二人の間に僅かに静かな沈黙が流れてから数分後、そこでようやく于禁が口を開いた。
「貴方は……あなたは、何も知らなくても良いことです」
于禁の初めの声はとても重く荒いが、そこから急激に落ち着きを取り戻していく。そして何かを思い出したように言葉を幾つか足した。
「第一、あなたに知って頂いてどうなるのですか? 確かに、しゃ……殿や他の者には前の記憶が無く、あなたと私だけが唯一、記憶があるだけだというのに。……もう、失敗を犯してしまったことを、あなた以外の、殿や他の者に謝罪も何もすることを、二度とできないというのに」
夏侯惇は于禁のほんの一部の告白を、黙って聞いていた。外からの喧騒など、全く聞こえなくなるほどに集中しながら。
そして夏侯惇の中であることが分かった。于禁の様子がおかしくなったのは、曹操の会社へと引き抜かれてからである。夏侯惇はそれを全く気付けなかったので今、とても悔しい思いに溢れていた。苦渋の表情を浮かべる。
だが于禁のほんの一部の告白にあったように、前とは外見も性格も同じである他の者に対しての懺悔のこと。これは前に于禁が夏侯惇のみにしか謝罪をできていない。対してそれ以外の者には、二度とできないことだ。今は記憶を持たない者しか居ないので覚えている訳がなく、謝罪してもただの無駄なのだから。
それを聞いた夏侯惇は、それだけにはただ、心臓を抉り取られたように小さな呻き声を漏らすしかないようだ。あまりにも残酷なことだからか。
思わず、夏侯惇は呼吸がしづらくなっていた。薄い薄い酸素を必死に取り込むように、大きく息を吸っては吐く。
「……もう、宜しいでしょうか、離して頂いて」
于禁は夏侯惇の両腕を取り払おうとしたが、それを頑なに拒む。更に巻き付かせる力を、しがみつくように強めた。
「だが、これだけは言わせてくれ。……今は話せなくともいい。だが、いつかは話してくれ。ゆっくりでいいから、心の整理がついた時でいいから……お願いだ……お前が辛いのは分かっている。だが、いつか全てを、俺に話してくれ……」
夏侯惇はそう言うと、自然と巻き付かせていた両腕を離していった。