青い月『上弦の月』
二人で食器を買いに行ってから約三か月が経過した。その頃には、僅かな寒さを少しずつ感じていく季節に入っている。
それまでのところで夏侯惇は、睡眠の底へと居る于禁の悪夢か何かに、僅かにでもうなされている様子を何度も見ていた。頻度は平均すると三日に一度のペースだろうか。夏侯惇はうなされている声が聞こえて深夜に起きてしまうことや、于禁よりも早く起きたときにその様子を見てしまうこともある。
相変わらず「気の迷い」という言葉を苦し気な顔をしながら出しているが、他には「何故」や「私では相応しくなかった」なども聞き取れていた。それは悪夢は何かの内容を読み取ることができる一部の情報ではあるが、夏侯惇にはどんな内容なのかやはり全く分からないでいる。しかし本人にそれの詳細など、到底聞ける訳が無い。夏侯惇の中には親しい間柄ながらも、やはり深い躊躇が生まれてしまっているからか。
そして夏侯惇は毎回、うなされいる于禁を起こして悪夢か何かから引き摺り出していた。初めて見たときと同様に、見ているだけで辛くなるからだ。
夏侯惇が于禁の肩を揺さぶって起こす。すると目が覚めた于禁は顔を青ざめさせ、何かから必死に逃げ切った後のように息を切らしている。肩を大きく、上下に動かす程に。
なので同様に苦し気な表情へと変えた夏侯惇は、そのような于禁を赤子を抱く母のように寄り添うと、何も言わずに頭や背中を優しく撫でてやった。その初めに毎回、于禁の体が大きく強張るがそれでも夏侯惇は、落ち着かせる為に一定の間隔で擦り続ける。
だが于禁がうなされずにそのまま、睡眠の奥底へと至れる方法はすぐに分かった。単純に、夏侯惇と肌を重ねたら良いのだ。
それが判明したときの夏侯惇は、まずどのような気持ちで于禁と愛し合えば良いのか、寧ろ自分が分からなくなっていた。
そもそも自らの体に大きな負担をかかる、肌を重ねるとはそのような行為である。夏侯惇はいつも喜んで于禁に体を差し出し、体に大きな負担がかかっても構わないでいた。しかし于禁がうなされないために肌を毎晩重ねるのは、さすがに無理な話である。
実際に三日連続で肌を重ねようとしたが、于禁の方がそれを拒否した。なので夏侯惇はなぜなのかと聞くと「あなたは御身体をもっと大事にして下さい」と于禁は悲しそうに答えたからだ。夏侯惇の顔色が、自覚できるほど悪いのもあってか。
それからは、二人で肌を重ねる行為が急激に減った代わりに、于禁が悪夢か何かを見る頻度はみるみるうちに上がっていった。
※
ある朝のことで、この日は金曜日である。于禁は変わらず悪夢か何かを、僅かにでも見てから夜を越していた。
朝の時間帯はいつもは夏侯惇の方が出勤のために家を出る時間が早く、それより数十分程遅く于禁が家を出ている。しかし今日は平日であるというのに、夏侯惇は昼前に出勤するらしい。その理由はただ単に仕事の都合なのだが。
「それでは、行って参ります」
二人は肌を重ねる回数がかなり減ったものの、家を出る際の口付けは毎朝時間があれば必ずしていた。それが二人の間の日課の一部へと、当たり前のように組み込まれている。それも二人で暮らし始めたときから。
だからなのかその組み込まれた日課をし忘れると、二人は仕事の最中であってもどうにも落ち着かないらしい。まるで新婚夫婦のようだ、と笑いながら。
しかし二人の性別からしてそれと同様の事柄を認められる日など、来るのかは不明だが。
「ほら、忘れるな」
スーツを着ている于禁と玄関まで向かった夏侯惇は、背伸びをして唇を合わせる。二人は今のところ、それを毎朝しているというのに久しぶりに口付けをしたような感覚に陥っていた。たった一日前に、同じような口付けをしたというのに。
短い口付けを終えた夏侯惇は寂しげな顔をしながら于禁から離れる。そして于禁は名残惜しそうな顔を一瞬だけ見せた後に、玄関のドアを開けて外に出てから出社して行った。
于禁の背中を見送ってから一人きりになった夏侯惇は、たった数時間ではあるが久しぶりにできた本当の一人の時間にまずは困惑する。共に暮らし始めてからというものの、家に居る時はいつも于禁にくっついていた。同様に于禁も、夏侯惇にいつもくっついているが。
なのでか于禁のことについて、ゆっくりと考える時間が無かった。解決するのかも分からないことについて案じている様子を、少しでも于禁の前に見せるのは残酷だと思ったからだ。解決させるためにはやはり悪夢か何かを見ているのか、それを詳細に聞かなければならない。しかし今でもそれの決心がつかないでいる。
もしも悪夢か何かについて于禁に直接聞いてしまえば、前と似たように于禁の心の、何もかもが崩れてしまうのではないかと夏侯惇はとても恐れているからだ。人の心は誰も平等に繊細で、そしてある一点を突かれてしまえば壊れてしまうものなのだから。
そう悩み込んだ夏侯惇は寝室へと向かった。そして二人で共に睡眠を取るのが当たり前になっているベッドの縁にゆっくり座ると、新しく替えたばかりのシーツを静かに撫でる。太陽が沈めば、于禁はまたここで悪夢か何かに苦しめられるのかと思いながら。
「あのとき何があったのかを、俺は聞くべきなのだろうか……」
そして座るのを止めると、ベッドの上の真ん中に横たわると仰向けになった。一人で使うには広過ぎる大きさであるので、夏侯惇の中に大きな寂寥感が生まれる。だがそれを完全に殺す為なのか、いつも于禁が横になっている側へと移動した。今日あった于禁の温かさなど、既にどこかで死んでしまっているというのに。
「やはり、冷たいな……」
しかし全く意味がないというのに夏侯惇は、于禁が寝ている側の冷たいシーツに頬を当てた。それほど于禁が恋しいのか、頬を当てるとそこから動かない。だが次第に睡魔が襲ってきたのか、夏侯惇は再び眠りについた。
数時間程眠った後にふと目を覚ますと、時刻はいつの間にか昼前になっているのに気付く。なので夏侯惇は慌てて起き上がると、スーツに急いで着替えてから家を出たのであった。
同日の夜。于禁が既に帰宅しているという電話での連絡を、会社の地下の駐車場に停めている車内で夏侯惇は受けていた。少しだけ声を弾ませている于禁の声をスマートフォンのスピーカー越しから、笑みを浮かべて聞く。どうやら、于禁に嬉しいニュースが入っているようで。
ちなみに二人の通勤方法は于禁が地下鉄を利用しての電車通勤であり、夏侯惇は車である。通勤時間は于禁が約二〇分で、夏侯惇が約三〇分を要した。
しかし于禁と再会するまでの夏侯惇も、地下鉄を利用しての電車通勤であった。しかしそれを聞いた于禁はすぐさま電車での通勤を強く反対する。
理由は于禁曰く『男女関係なく痴漢の被害に遭った過去の事例が幾つもある』と。于禁はそれと併せて夏侯惇と同じ性別で年代の男性が痴漢の被害遭った事例の詳細を、被害者の個人情報をかなりぼかしてから話そうとした。だが夏侯惇は聞くのがとても面倒だったので、適当に頷いてから通勤方法を車へと変えたのであった。夏侯惇は通勤方法が車でなくとも、前から免許も車も持っていたのもあって。
場面を戻し夏侯惇は、于禁の弾んだ声を聞いた後にスマートフォンをスーツのポケットにしまうと、急いでエンジンをかけて帰路へとついたのであった。
夏侯惇は玄関のドアを開けてから、リビングの部分へと早歩きで向かう。
途中の短い廊下は暗い。しかしリビングの前の扉は照明が点いているので、下の隙間からその明るさが漏れていた。その明るさを浴びようと、夏侯惇は扉を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
夏侯惇が帰宅時の挨拶をするが既に軽装姿の于禁は、リビングの部分の壁に向けて設置してあるワークデスクでノートパソコンを睨んでいたようだ。ワークチェアに座っていたが夏侯惇の声が聞こえるなり、ハッとした表情に変えると慌てて立ち上がって挨拶を返す。
「そういえば……」
「あの、少しよ……」
そして立ったまま向き合って二人が口を開くが、発言するタイミングがほぼ同じだったようだ。互いの言葉が被り、二人で少し驚いたような顔をした後に静かに笑う。
「あなたから、どうぞ」
笑みを浮かべた表情の面影を残したままの于禁は夏侯惇に発言権を譲る。しかし夏侯惇は于禁の話を聞きたいので、それを直ちに断った。すると于禁はショックを受けたような表情を見せたので、慌てて訂正を入れる。
「俺からは話すことはない。お前の話を聞きたいから、俺お前からの話を促したのだがな」
夏侯惇はそう言いながら于禁に近付くと、手を繋いでからソファへと並んで一緒に座った。夏侯惇はスーツに確実にできるであろう皺など、気にしていない様子で。
そして夏侯惇が聞く姿勢を取ると、于禁は繋がれた手を離さないまま話を始める。勿論、綻んだ表情など消さないまま。
「かなり急な話なのですが……あなたが勤務されている会社に法務部を設置をすると殿が今日仰ったのですが、その法務部に引き抜かれる形で私が来月から所属することになりました。その際に、私の前任であった鮑信殿から推薦も頂いたので」
前任の顧問弁護士とは、鮑信のことである。曹操は鮑信と顧問弁護士の契約を結んでいて、前から自身が経営する会社に法務部を設置したいと考えていた。会社の規模が大きくなってきたために。
曹操は多忙や更に鮑信の入院と重なりなかなか検討ができなかったらしい。しかしつい最近になりようやく曹操の多忙が解消されると、鮑信への見舞いがてら法務部の設置について相談していた。
鮑信の見舞いに夏侯惇は同行していなかったので、その話は全く知らなかったというリアクションを取ったが。
「孟徳め。……だがまあ良い、俺にとっては嬉しいことだ。お前と共に働くことができるのがな」
「私も、嬉しい限りです」
二人はずっと手を握っていたが于禁の手が強張ることも、緩まることもない。夏侯惇はそれを手の平の感覚で感じ取った。
なので于禁は再び曹操の元に、今の時代ではこの表現はかなりの違和感があると思うが、仕えることになる。
于禁はその話に了承しているのだが、夏侯惇はそこで思った。再び曹操の元に就くのならば、近いうちに悪夢か何かについて聞くことができる時が来るのではないかと。だがその際はかなり慎重に踏み込まなければならないのは、重々承知のうえで。
夏侯惇はその時に瞬時に重い表情へと変わったいたらしい。なのでか于禁が心配しながら夏侯惇の名を呼ぶと、首を横に振ってから内心で案じていることを振り払った。重い表情など捨てて、顔を軽くするように。
そして夏侯惇は何とか誤魔化しながら、話題を変える。
「い、いや……孟徳が今まで俺に黙っていたからな……。それより、今日はめでたい日だ。だから、最近は呑めていなかったから呑まないか?」
互いの鼻の先が今にも付きそうな程に顔をぐっと近付けてから、夏侯惇はそう提案した。だが于禁は前の正式ではないが酒の席での失敗を思い出すと、顔を赤くしてそれを頑なに断った。夏侯惇と恋愛関係となる前に酒に酔って夏侯惇を半ば襲ってしまったのを、今でもずっと引き摺ってしまっているようで。
「あなたとの酒は……申し訳ありませんが……。その……前に、私の寝室でかなり酔っているときに……」
于禁は消え入りそうな声で、しかも視線が迷子になってしまったかのようにあちこちに向ける。
近付けていた顔を少しだけ離した夏侯惇は、その様子を見ると苦笑いをした。そのようなことは、于禁と関係を持ってからは心に引っ掛かりができる物事として全く扱っていない。それは前に于禁に直接伝えていたのだが。現に夏侯惇はそれを気にしていないこそ、そうやって于禁を酒を誘っていて。
「……まぁ、あれから酒を二人で殆ど呑まなくなってしまったが、だからこそだ。久しぶりに、良いだろう? それに今は、お前に相当な酔いが回ってしまっても、俺たちの楽しみを邪魔をする者などいるはずがない。何もかも、気にしなくとも良いのだぞ?」
再び顔を近付けた夏侯惇は于禁と向き合い、首の後ろに腕を回してから額をぴったりとくっつけた。二人にとってはしばらくしていなかった、ある種の誘いをするように。
その時の于禁の額は、顔の色の通りに熱かった。夏侯惇のその様子に、酷く魅了されてしまったからか。
「ですが……」
互いの顔が至近距離にあるので、夏侯惇が言葉を出すその度に息がかかる。それくらいに近いので于禁は視線の逃げ先を失い、迷わせるのをすぐに諦めたようだ。今は夏侯惇に視線を向けている。だが向けているのは夏侯惇の視線そのものではなく、今は二つ対にある眼の下のあたりを。
「断るのか?」
「いえ……」
しかし于禁が歯切れの悪い単語をうわ言のように出すので、夏侯惇は内心で深い溜息をつく。一方で于禁は悩まし気な表情へと変えて数秒経過した後に、ようやく自身の回答を切り出せた。無論、誘いを断るのではなく誘いに乗る回答を。
「……そのお誘い、喜んでお供させて頂きます。ですが明日も朝から仕事の予定が入っているので、少量のみのお付き合いしかできないことを、ご容赦下さい」
夏侯惇は「堅い返しだな」と短く笑うと、密着させていた額を離す。
そして座っているソファから立ち上がると、キッチンへと向かった。夏侯惇による魅了に未だに囚われていた于禁はハッとすると、慌ててソファから立ち上がる。そしてシェルフに未開封の酒瓶が収納してあるのでそれから数本取っている夏侯惇の元へと向かうと、グラスを食器棚から取ってくれという指示が出たのでそれに従った
二人はそれぞれソファの前に設置している木製のローテーブルの上に置くと、夏侯惇はすぐさまソファに座ってある程度の度数の酒瓶を開封した。どうやら、夏侯惇は于禁と呑むことを待ち切れないようで。
「ほら、早く座れ」
夏侯惇よりも先に于禁が酒瓶を開封しようとしたが、先を越される。なので苦笑いをしながら立っていると、夏侯惇にソファに座るよう促された。先程于禁が座っていた、ソファの座面を夏侯惇はポンポンと軽く手の平で叩く。
于禁は短い返事をした後に促された通りに、ソファに座る。
「今では、お前とこうして酌み交わすのは初めてだな」
「私が多忙であるせいです。申し訳ありません」
そして次こそは、と于禁はローテーブルの上に置いたグラスに酒を注ごうとした。しかしまたもや夏侯惇に先を越されていて、開封した酒瓶から透明なグラスへ、アルコールをいつの間にか夏侯惇が注いでいる最中であった。于禁が自身の今までの在宅時間を少しだけ、一瞬だけ振り返っている間に。
「夏侯惇殿、私が……!」
「気にする……あぁ……少し零れてしまったな」
注いでいる最中に夏侯惇の視線はグラスに向けていた。しかし于禁が手を出すか出さないか迷っているのを、視界の端に捉える。それを制止させようとするためにせめて目を向けようとした際、視線と同じく酒瓶の注ぎ口もグラスから逸らしてしまった。
だがローテーブルの上に零してしまった酒は、幸いにも二人の片手の平の大きさに満たない程の面積に留まっている。それに床にも全く垂れていないので、二人は安堵の表情を浮かべた。
「零してしまってすまん。……分かった、お前が注いでくれ」
自らのミスと謝罪を述べた後に、夏侯惇は于禁に酒をグラスに注いで欲しいと頼んだ。于禁はローテーブルの上に零れた酒を近くにあったティッシュで拭き取りながら、それを快諾する。ただし于禁も、夏侯惇と様に自らのミスと謝罪を述べていて。
「こちらこそ、不注意をあなたに発生させてしまい申し訳ありません。……はい、喜んで」
一つのグラスには、半分にも満たしていない酒が入っている。于禁はそれを満たすようにゆっくりと酒を注ぎ、グラスに程よい量の酒が入る。だがそれは零れた際、飲み口に少しの酒が垂れるように付着しているので、于禁は自分が呑む分として目の前に置く。そして空のグラスに綺麗に酒をなみなみと注ぐと、夏侯惇の目の前に置いた。
「そうだ。また、月を見ながら呑まないか? 部屋に花を飾っていないし、ベランダにも花が無いがな。……いっそのこと、ベランダに出て呑むか?」
夏侯惇は冗談だと言うような顔をした後に肩をすくめてから、酒が注がれたグラスを掲げると于禁も続けてグラスを掲げた。それを互いにとても軽くぶつけようとしたが、于禁は夏侯惇の言葉を聞いて乾杯しようとしていた動きを止める。
「……いえ、月を見ながら呑みましょう。さすがに、外に出てベランダで呑むのは、今の時間はかなり冷えるので止めておいた方がよろしいかと」
「そうだな」
夏侯惇は頷くと、于禁と共に掲げていたグラスを置いた。
部屋のカーテンは今の時間が夜なのもあってか、きっちりと閉められている。ここは地上二階以上で、向かいには同等の高さの建築物が無い。しかし約数一〇〇メートルと斜めの方向に離れた場所に、二人が住んでいるマンションと同じ高さのマンションが建っている。そこまで離れているなら、短い時間だけカーテンが開いていても問題ないだろう。そう考えた二人は、カーテンを全開とまではいかないので僅かに開ける。ソファの座面自体が元々、窓へと向いているのもあって。
窓越しにある雲一つない遠くの夜空には、輝く上弦の月が浮かんでいるのがよく見えた。二人は室内にある近い灯りよりも、その上弦の月や小さな明りに目を奪われる。
「……やはり今も昔も、あのような美しく明るいものには敵わないな。例え、欠けていようとも」
「えぇ、そうですね」
二人はそう短い会話を交わした後に、ようやく乾杯ができたようだ。互いの顔を見て自然と唇の端を上げながら、于禁はグラスに注がれた酒を少しだけ喉に通した。だが夏侯惇はあまりにも気分が良いのか、グラスに注がれた酒を一気に煽る。そしてもう一杯注ごうとしたが、ローテーブルの上に飲みかけのグラスを置いた于禁が代わりに注いだ。
「ん、ありがとう」
グラスになみなみと注がれた酒を見てから于禁の顔を見て礼を言った夏侯惇は、一杯目のように一気に酒を煽った。
「呑まれるのは結構ですが、程々にして下さい」
まだ二杯目を空にしたばかりだが夏侯惇にそう案じた于禁は、夏侯惇や上弦の月を見ながらグラスをゆっくりと空にする。だが于禁はもう酒はいらないようで、空になったグラスを持って立ち上がった。
「もう、いいのか?」
「はい」
夏侯惇はせめてもう一杯どうかと薦めようとしたが、明日も朝から仕事をしなければならないのを思い出す。そうとなれば、無理を強いらせる訳にはいかない。なのでそれを、三杯目としてグラスに注いだ酒と共に喉の奥に一気に流し込んだ。キッチンの方で、于禁がグラスを洗う音を耳で拾いながら。
すると夏侯惇に一気に酔いが回り、顔が火照っているうえに頬が少しだけ緩んでいた。今の状態でも、夏侯惇は僅かにそれを自覚しているが。
「もしや、何も胃に入れておられなかったのですか……? 念の為に水を用意したので、よろしければ」
グラスを洗い終えたらしい于禁は夏侯惇の隣に座った。手には半分以上水が入っている、先程自身が洗ったグラスにをローテーブルの上に置く。
「だったら、口移しで、くれ……」
夏侯惇は隣に座った于禁にもたれ掛かってそう強請った。まるで誘うように。そうして于禁が恥ずかしながら、それを断る姿を見てからかいたいらしく。だが夏侯惇の予想は大きく外れてしまっていた。
何も言わない于禁はローテーブルの上に置いたばかりの水の入ったグラスを手に持ち、水を一口分だけ口に含んでから夏侯惇の顎を掴んだからだ。そして夏侯惇の口腔内に、含ませていた水を流す。するとあまりの驚きに夏侯惇は、唇の端から水を溢れさせた。喉に水をほとんど通せなかったようで。
「あなたの仰るがままにしただけでしょう。このまま潰れられては、あなたも、私も困りますし」
唇を離した于禁は冷静にそう述べる。表面ではとても合理的な判断をしているが、内心では夏侯惇ともっと深く触れ合いたくなったのか。
一方の夏侯惇は先程喉に通した液体が酒だったかのように、更に顔を赤く染めた。素直ではない、と思いながら。そしてもう予想など外れても、どうでもいいのか強請る態度を強める。
「うきん……もっと……」
「全く、仕方のない御方だ……」
溜息を漏らした于禁だが、再びグラスから水を一口分含ませると夏侯惇の顎を掴み、そして口腔内に水を流し込む。だが次は、夏侯惇はきちんと溢れさせなかった。于禁から注がれた水を全て喉に通したからだ。
なので于禁の唇が離れようとしたが、夏侯惇はそこで舌を絡めた。だが于禁は驚きのあまりに、くぐもった声を微かに漏らしながら舌を引かせる。夏侯惇は于禁の口腔内の上顎に舌を這わせた。
すると于禁の体がびくびくと跳ねたので、そこで于禁ではなく夏侯惇が唇を離す。夏侯惇も于禁も顔をとても赤らめながら、荒くなった息をだらしなく漏らした。
「ぶんそく……ベッドに、行くぞ……」
于禁の首元に軽く口付けした夏侯惇は重ねてそう誘惑すると、于禁はこくりと首を頷かせる。そして二人は寝室へと向かってから、久しぶりに存分に肌を重ねたのであった。
※
久しぶりに二人で肌を重ね、朝を迎えた。
だが夏侯惇が目を覚ました時には、既に隣に于禁は居ない。そしてシーツにあったであろう温もりも、昨夜の肌を重ねた物理的な痕跡も。
何も着ていない夏侯惇は朝の寒さと腰の痛みに顔をしかめながら、ベッドから出ようとした。そこで動きを止め、ベッドの近くのチェストの上にある、充電されたばかりのスマートフォンを取り出す。于禁が今朝、わざわざそうしてくれたと夏侯惇は思いながらメッセージアプリを開く。
今朝于禁にできなかった朝の挨拶と、加えて簡単なメッセージをすぐに送った。だがすぐに返信など来る訳がないと分かっているのか、スマートフォンを充電するためにチェストに戻すと起き上がって朝の支度をしようとする。
そこでスマートフォンのバイブが鳴ったので、夏侯惇はもしやと思いながらスマートフォンを手に取ると于禁からの返信の通知を確認した。
なので夏侯惇はその返信の内容を、一人で笑みを浮かべながら読んでいたのであった。数分の間に思わず、返信をするのを忘れるくらいに。
そして夏侯惇は于禁の悪夢については、一旦保留して様子を見ると考えていたのであった。いつか、于禁の悪夢が晴れると信じながら。