青い月 - 12/16

青い月『三日月』

夜が明けた。
夏侯惇が目を覚ましたのは、二日月が明るい空に見えてからそれなりに時間が経過した頃だろうか。空には既に白い太陽が青い空の上に乗っている。
二日前の夜、于禁に抱かれた際の体の痛みはほぼ引いているので、日常生活がまともにできない程ではなくなっている。夏侯惇は安堵の息を漏らした後、隣を見ると于禁はまだ眠っているようなので、背を向けてから起こさないようにベッドから静かに出ようとした。そこで、何やら于禁の苦し気な声が聞こえた。
「……ない。気の迷い……」
「于禁?」
恐らく寝言のようだが、何を言っているのかは不明である。上手く聞き取れない。夏侯惇は振り返って于禁を見たが、その顔は悪夢にでもうなされていない、とは言い難い表情をしていた。
夏侯惇からその悪夢か何かの内容が何なのか、見当がつく訳がない。だが于禁の表情までもとても苦し気である。
それをただ見るだけ、あるいは放っておくことを夏侯惇はできなかったらしい。なので夏侯惇は懸念の視線を目一杯送ると于禁へと近寄り、肩を大きく揺さぶった。大事な存在が悪夢を見て苦しんでいるのならば、一縷でも早く解放させたかったのだ。謹厳ではあるがその中でも優しさがある、いつもの于禁の様子を取り戻すために。
「于禁! 起きろ! 大丈夫か于禁!」
夏侯惇は肝を冷やしながら于禁の名を何度も呼ぶと、ようやく悪夢から夏侯惇側へと向かえることができたらしい。覚醒した直後の于禁は飛び起きると目を見開き、多量の汗を流しながら顔を青ざめさせていた。加えて激しく息を切らせている。夏侯惇は何も言わずそして聞かず、その状態の于禁に包まれるように抱く。于禁の体が、新しい火のように熱さを感じながら。
夏侯惇の耳で于禁の胸に当てると早鐘を打っていて、それの振動がよく響いた。まるで不整脈でも起こしているように。だがそれでも夏侯惇は、于禁が落ち着くまではその状態を保つ。例え心臓音がバクバクと大きく鳴る音を耳で直接拾い、それが不愉快であっても。
数分後にようやく于禁の様子は落ち着いてきたが、顔色は悪く表情が暗い。夏侯惇はそれを案じる短い言葉を掛けるが、于禁は首を横に振った。
「緊張を……。恐らく、緊張をしていたことが原因かと思われますので、良くない夢を見てしまったかと。あなたには多大なご心配をおかけしました。申し訳ありません」
落ち着いてきている鼓動を夏侯惇は聞きながら、于禁の体からゆっくりと離れる。それと同時に、于禁の体の熱さからも。
「それならば良いのだが……。原因は、それならば大方……慣れない環境で睡眠を取ったせいだったのだろう。誰に起きても不思議ではないことだ。……すまんな」
「いえ、お気になさらず」
夏侯惇は于禁の言う良くない夢についてのことは会話の内容から外し、話題を大きく入れ替えた。場の空気や于禁の顔色を少しでも戻す為に。
「腹減ったから何か食うか……そういえば何も無かったな。外で何か食うが、于禁は何か食いたいものはあるか?」
夏侯惇がベッドの縁へと移動して座ると、于禁もそれに続いてくっつくように座った。夏侯惇は再び于禁の体の熱さを感じながら、互いに目を見て会話を始める。
「……私は、特には無いですが」
夏侯惇は于禁の回答に溜息をついた。答えになっていないというのもあるが、もう一つ理由があるらしい。夏侯惇が于禁へとより体を密着させるようにもたれてから、その一瞬で笑みを浮かべた。
「なんだ、俺を食いたいなどとは言ってくれないのか?」
于禁は顔や耳を赤くして、困ったような表情を見せた。先程までの顔色の悪さが、真っ赤な嘘だったかのように。
「まったく、お前はすぐに顔を赤くするな」
「……そのようなことを軽々しく仰るならば、今から本当にあなたを食べても、良いのですが」
于禁は夏侯惇の言葉に負けじと、腕を強く引いてからそのままベッドの上に押し倒して覆い被さった。だが夏侯惇は「好きにしろ」と言わんばかりの、それを迎合する視線を寄越した。すると于禁は力が抜けたのか、そのまま夏侯惇の上へ軽くのしかかる。
「何か適当に、カフェかどこかに行って食べましょう……」
赤い顔を隠すように夏侯惇の胸へと顔を埋める于禁だが、やはり耳まで赤くなっているのであまり意味がないようだ。夏侯惇はそれを見て静かにくすくすと笑うと、愛しげに腰に手を回した。
「ん、じゃあそうするか。……もう少ししたら、出るぞ」
その言葉に対して、于禁は声の代わりに行動で示す。未だに顔を隠したままで夏侯惇の肩を両手で探って見つけると、優しく巻き付いた。
そうしてしばらくの間、夏侯惇は于禁の熱の温かさを感じていたのであった。一方で于禁は、頑なに赤い顔を夏侯惇に見せたがらなかったが。

二人が家から外へと出たのは、昼などとっくに過ぎている時間帯である。太陽が真上にあるので、気温は高めである。
結局はあの後に夏侯惇は、顔を隠し続けている于禁を剥がそうとしていた。だが力を入れても剥がれてはくれなかったので数分ものじゃれあいの末、于禁は夏侯惇の体を触っているうちに、人間の三大欲求である食欲ではなく性欲が勝ってきたようだ。自然と夏侯惇へと下半身を押し付けてしまう。
その変化に気付いてしまった夏侯惇は、腰に回している手を無言で背中へと回した。『良い』という合図の意味を込めて。
するとその合図の意味を汲み取れたらしい于禁は、呼吸を獣のように荒くしてから未だに赤くさせている顔を上げ、夏侯惇と短く甘い情事に耽っていた。

「お体は、いかがですか?」
二人は家から歩いて約五分のところにある最寄りの地下鉄を利用し、二駅先にある一番大きな街中へと向かっている最中であった。目的は遅めの昼食と、それに買い出しである。
二人は走行途中の列車内に居るが、休日なので乗客はかなり多い。座る場所など当然ないからか、二人は乗降口にある吊り革を立って掴むとそのまま列車に揺られる。
「……大丈夫だ」
夏侯惇は少しだけ無理をしている。今はまだ暑さが残る季節であり、それに朝食も昼食も取れていないことや、気温が高いことを拍車にかけて。自身でも分かるくらいの若干の顔色の悪さを自覚していた。于禁も同じく朝食と昼食を取れなかったが。
それでも意地を張ってそう答えると、于禁は心配の言葉ばかりを少し高い位置から降らせてくる。そして既に癖になりかけているのか、夏侯惇の腰に手を回しかけては引かせるのを繰り返す。今居る場所が公共の場だからか。
それを視界の隅で捉えた夏侯惇は再び「大丈夫だ」と言う。体のことや、その心遣いに対して。
「荷物はできるだけ私が持ちますので。それと、食事はなるべくくつろげる店で取りましょう。やはりあなたのお体が心配ですので」
于禁が夏侯惇へとそう言った直後、目的の駅に列車が到着したようだ。于禁は夏侯惇の腕をそっと取って引くように一緒に乗り場へと降りる。だが夏侯惇のことも考えて乗り場から階段ではなく長いエスカレーターで地上へと上がり、駅の構内の利用客が密集していない、割と空いた場所へと移動した。その際に于禁は手を離すが、少しだけ遅めになってしまっている夏侯惇の歩調に合わせて。
「すまんな」
「いえ、お構いなく」
やはり人が密集している場所からそうでない場所へと移動すると、少しは気分が和らいだ。夏侯惇の顔色がいくばくかよくなっているので、于禁に笑いかける。それを見た于禁は一安心をしたようで、安堵の息を漏らした。
だが何かを思い出したらしい于禁は先程の様子を訂正するかのように、夏侯惇へ一つの提案をする。
「帰りはタクシーで帰りましょうか」
「いや、それはいい」
夏侯惇はその提案に対し、直ちに否定をした。するとどうしてなのか聞こうとしている于禁ではなく、どこか遠くを見ながら。
「お前とこうして、外でも何の変哲もない人間同士として普通に二人きりで休日を過ごしていたいのだが、だめか?」
夏侯惇は于禁の方へと向き直るがそのときの夏侯惇の目は、于禁ではなくやはり遠くを見てしまっていた。
発言の理由は前の時代は二人の身分からして、自由に歩き回れる範囲や時間がかなり限定されていた。二人で例え数分でも領地内の街や山へ行こうとしようにも、兵や他の将らが頻繁に「領地内とはいえ危ない」という警告を頻繁に耳に入れてきている。実際に当時の治安からして、やはりそうなのであるが。
兵や他の将たちの言う通りでそこが領地内とは言え、いつの間にか至近距離に居た敵にいつ殺されるか分からないし、いつ攫われるか分からない。そのような状況が城の外でいつどこで起きてもおかしくなかった。二人は魏の要の一部になっているので、それを周囲が案じてくれているのは有難いことではあるが。
だが二人は身分相応の窮屈な思いをしてきていた。周囲に二人の関係など、言える訳がないからか余計に。なので二人きりで会う場合は酌み交わすなどと理由をつけて、どちらかの寝室か隠れ処に行くしかなかった。
とにかく、二人きりで周囲の目をそこまで気にする状況があまり無かったのだ。当時二人は、その不満について頻繁に話し合っていて。
だからか『何の変哲もない人間同士』に于禁は強く反応をして頷くと、微かな声で肯定を出した。それを夏侯惇は、周りの雑踏を掻き分けて鮮明に聞き取る。
「それよりほら、早く飯を食いに行くぞ。お前のおかげで、二食も抜いてしまったからな」
そこで夏侯惇は空腹に限界が来ていたようだ。軽装の上から自身の腹を擦ってそれをアピールすると、于禁が珍しく人前で僅かに笑いそして顔を赤くさせる。家から出る前に行った行為を、この場で脳内に過らせてしまったからか。
「はい、そうしましょう……」
于禁は恥ずかしさに口元を手で覆いながらそう返すと、夏侯惇はそれを見て一瞬からかいたくなっていた。しかし今は胃を満たすことしか考えられないようで、そのような思考はすぐにどこかへと流れた。于禁に早くと急かしながら、駅構内の飲食店が密集しているフロアへと移動する。だが構内もとても広く、何十もの飲食店が立ち並んでいるのは分かっていた。
そのフロアに着くなり二人は通行人がそれなりに居る広い通路の端をゆっくりと並んで歩き、幾つもの飲食店の前を通り過ぎながらどこに入るか相談をする。主に、客の入りが少ない店を選ぶことを意識して。
そこで夏侯惇は何かに気付いたのか、良さげな飲食店を探しながら于禁に話しかける。
「そういえば、これがお前との初めてのデートになるな」
「はい、そうで……」
初めは夏侯惇の言葉に耳を傾けていた于禁だが、徐々にそれを止めてしまったようだ。それに加えて最後まで出しかけていた返事や、夏侯惇に合わせていた歩みを止める。
「どうした?」
完全に立ち止まった于禁に対し夏侯惇も同じように立ち止まると、そう訊ねた。しかし周りの通行人は立ち止まった二人など見向きもせず、何事も無いように避けていく。立ち止まった二人は、この場に完全に溶け込んでいるからか。
すると于禁は顔を俯かせたので、夏侯惇はちらりと覗く。于禁の頬はそれでも仄かに赤くなっているので、夏侯惇は「今日は俺のせいで、何度も顔を赤くさせているな」と言いながら顔をほころばせた。
「あなたのせいです。あなたのことが……好き過ぎるせいです……」
告白にしか聞こえない于禁の言葉は次第に周りの雑踏と混じって消えていくが、夏侯惇はそれを最後まで聞き取れなかった。『あなたのことが』までは、確実に聞こえていたのだが。
「ん? よく聞こえなかったが、最後は何と言ったのだ?」
「な、何でもありません! ……あの店で食事を取りましょう!」
于禁は夏侯惇の聞き取れなかった部分を再度口にするのがとても恥ずかしいらしい。それを避けて誤魔化すべく、適当に視界に入った飲食店を指差すと入店を促した。
「……まぁいいい。そこで食うぞ。お前が言っていたであろう言葉は、何となく分かるからな」
肩をすくませるように夏侯惇はそれに賛同をすると早速、その飲食店の入口へと向かいそして入って行く。
どうやらこの飲食店は一般的な洋食店で、この時間帯でもほぼ満席であった。利用客の話し声などが絶え間なく聞こえる。駅の中の多数ある飲食店の一店舗にしか過ぎないので、当然のように面積は狭い。だが一つ一つのテーブルに備え付けてある椅子は四本足のものではなく、席は全てソファである。それに各テーブル間に、ある程度の間隔が空けてあった。
店員にちょうど空いていた奥のテーブル席を案内されて着席するなり、お冷を提供して足早に去っていく。他の客の接客などに忙しいのか。そこで于禁は夏侯惇の顔色を伺う。于禁はどのような飲食店なのか全く確認せずに指差していたので、本当にここで良かったのかと。
于禁は夏侯惇を見るが、頬を緩ませながら各テーブルの端に置いてあるメニューを見ていた。どうやらここで良かったらしい。夏侯惇のことなので、不満があっても口に出さないのは分かってはいるが。
于禁は静かに安心していると、それに気付いた夏侯惇はメニューを見ないのかと話しかけた。注文するものが決まったようで。
「どうした? メニューはもう一つあるが、見ないのか?」
「見ます」
于禁が慌ててメニューを取ろうとすると、夏侯惇が代わりに取って渡す。于禁はそれを受け取ると、メニューを開いて何を食べるか考え始める仕草を取った。約二分間ほど、ページを捲って真剣にメニューを見る。
少し前に注文するものを決めていた夏侯惇は、于禁のその様子を片肘を着きながら見るなり可愛らしいと思った。そしてそれが自然と声に出る。
「やはりお前は可愛らしいな」
「あ、あなたこそ……」
于禁はメニューで顔を隠しながらそう言い返した。夏侯惇からの、魅惑的な言葉を防ぐように。それを夏侯惇は、つまらないと言うような視線を少しばかり送った。しかし于禁からはそれが見えないので、更にその視線を強めた。そのようなことをしても意味が無いというのに。
「……決まりましたので、注文しましょうか」
未だにメニューで顔を隠している于禁は夏侯惇の顔も見ないままそう言った。夏侯惇は笑いながらそれをゆっくりと取り上げ、メニューを元にあった場所に戻す。于禁は少しだけ驚いている。
「そのままでは店員に失礼だろう?」
「はい……」
夏侯惇の至極当たり前なことに、于禁は納得しかできないらしい。そう短く返事をした後、夏侯惇はテーブルの上の呼び出し鈴のボタンを押した。すぐに店員が来ると、二人から注文を聞き取りそして去っていく。
「そういえば、どこで買い物をするんだ?」
二人はこの後行く場所を全く決めていなかったらしい。于禁はどうにも答えを出せずにいると、数秒置いてから夏侯惇は何か思いついたので言葉を足す。
「まずはお前との食器などを買わなければならないから……ここの近くのデパートに行くか」
「そうですね、そうしましょう」
この後の予定がひとまず決められた二人だが、その次の予定は既に決まっているので他の話へと切り替わった。
「今日の晩飯は何がいい? 好きなものはあるか?」
夏侯惇は于禁にそう聞く。どうやら夕食は家で夏侯惇が作るつもりではあるが、于禁はそれを拒否した。
「あなたに作らせる訳には……! 私が夕食を作りますので!」
それに対して夏侯惇は遠慮するなと言おうとしたが、注文した料理を店員が運んできたのでその話は自然と打ち切られた。店員が注文した料理をそれぞれ、二人の前に置くとまたもや足早と去って行く。それに最低限の言葉を掛けた後に、テーブルの上に会計表も伏せて。やはり他の客の対応をしなければならないのか。
二人は提供された料理を見て、緩んだ表情や言葉を出すとあっという間に完食した。だが次に席から離れて会計をしなければならないが、その前に夏侯惇が伏せて置いてあった会計表を素早く取って先手を打つ。
「昨日はお前に払わせてしまったからな、これは俺が払う」
于禁は断ろうとしたが、既に会計表は夏侯惇の手にある。なので于禁は多少の躊躇を見せた後に、素直に畏まった態度で礼を言った。
「ありがとうございます。ごちそうになりました」
「そこまで堅苦しい礼をしなくてもいい」
小さな溜息を漏らした後に笑みを浮かべた夏侯惇は、立ち上がったので于禁も立ち上がる。すると夏侯惇はレジへ行き、于禁は店の出入口周辺で待つことにした。
そしてわずかな時間で会計を済ませた夏侯惇は、于禁の元へと向かう。
「いい店を選んだな。今度の休日、またここに来よう」
二人は歩き出し、次の目的地へと徒歩で移動する。そこで夏侯惇はそう言うと于禁はすぐに頷いた。
「はい、是非とも」
次の目的地は駅から出てすぐ見える、地上八階あり、地下が二階まである大きなデパートである。二人はそれぞれ何回か来たことがあるのでそこへとまっすぐな足取りで向かった。だが『于禁とは二人では』来たことは無いからか、夏侯惇は内心とても心を躍らせる。好きな相手と共に行動すること自体、嫌いな人間など居ないように。
「この後買い物にも行くから、今から買う食器は郵送してもらおう。電車で割れ物を持ちたくないしな」
于禁はそれに賛同した。そうしていくうちに目的であるデパートへと到着したようだ。二人は早速建物に入る。
デパートの中は買い物客がかなり居た。その内訳は家族連れ、一人での買い物、それにカップルまで多岐にわたる。それに加えて二人のように同性同士での買い物客も居て、二人のような存在は不自然には全く見えなかった。世間一般では、二人のような存在は異質極まりないのを知ってはいるが。
「ほら、売り場に行くぞ」
夏侯惇は于禁の手は引かず、肘で軽く腕を突っついてそう促すと、二人は目的の売り場へと行き食器を選んでいく。
大きなデパートであるので、種類やサイズが様々であった。なのでか二人はどれにするか悩んでいると、それを見かねたフロアの店員が話しかけてくる。どういったものを探しているのかと。だが夏侯惇はそれをやんわりと断ると、二人で選ぶことに集中した。
そして一〇数分後にようやく決まる。それは黒い茶碗と皿と箸がそれそれ二つずつあるもの。デザインは同じで、どちらがどちらかのものと判別させるのが面倒だと二人で話し合っていた。それにそれぞれ違うデザインのものとなると、夏侯惇からしたら不平等のような何かを感じてしまうと思っていて。一方の于禁はそのようなことはまったく気にしていないが、それでも夏侯惇の意見を尊重した。
購入券を一枚取って会計をしようとしたが、夏侯惇は于禁にまたもや先手を打つ。
「お前への感謝としてでも、受け取って欲しい」
「感謝、ですか?」
于禁は首を傾げていると、夏侯惇は深く頷いた。
「あぁ。またこうして、俺と居てくれることに対してな」
「はい……。でしたら、その感謝をありがたく頂戴致します」
夏侯惇は「それでいい」と短く返事をするとレジで会計をして、後日郵送するように頼んだのであった。
「次は買い物だな。駅に行くぞ」
「はい」
二人はデパートを出て駅へと再び行くと、エスカレーターで地下へと降りて改札を通る。そしてホームに立っているといつの間にか来る程、頻繁に来る列車へと乗って家の近くの駅で降りた。最後の目的地は、降りた駅から歩いて五分以内の場所にある普通のスーパーであった。
だが今の時間はもう夕方である。スーパーへと入ると、かなりの買い物客でごった返していた。二人はうんざりしながらもこの時間帯なので仕方ない、とそう言い合ってスーパーでなるべく早く買い物を済ませた。その頃には、陽が沈みかけるような時間になっている。空は濃い橙色に染まっており、その中に次第に紫や黒が侵食してきていた。
「今日は楽しかったな」
「はい。それにこのような何て事のない日常を、あなたと過ごせたのがとても幸せでした。休日が合えば、またその時もご一緒願えますか?」
家まで歩きながら、スーパーで買った食料などの入っている袋を二人は提げていた。しかし夏侯惇の顔に疲労が濃く見えていたので、于禁は重いものを率先して持っている。そのときに夏侯惇は断ろうとしていたが、于禁が強く駄目だと言って手を引いていて。
「勿論だ」
マンションのエントランスへと着き、二人は住んでいる部屋までエレベーターで昇る。そして目的の階へと辿り着き、玄関を開けて閉めた。だが買ったものは一旦床に置いてから、夏侯惇は于禁に抱き着く。
「于禁、キスしてくれ」
于禁の持っている荷物を無理矢理降ろした夏侯惇はそうねだる。家に帰った瞬間、于禁へと甘えたくなったのか。
だが于禁も同じ気持ちであったらしい。夏侯惇の腰に手を回して体を包むと、そのまま口付けた。
「……っは」
唇を数秒だけ合わせただけというのに、夏侯惇は外に居る時とは全く違う表情を見せた。頼れる年上の顔ではなく、ただ于禁を誘惑するような妖艶な顔を。それを視界に捕まえた于禁は欲望に従おうとしていた。しかし夏侯惇に早く休ませるために解放する。
「……早く休まれた方が良いかと。夕食は私が準備しますので」
「だが、夕飯は俺が……」
夏侯惇は口付けにより重くなった手を伸ばすが、于禁はそれを優しく掴む。
「これの続きのために体力を温存して頂かなければ、私が困ります」
今度は夏侯惇が于禁に弄ばれる羽目になったらしい。それに大人しく従うと、寝室ではなくリビングのソファへと歩いて行く。そして横になると、すぐに眠りへと着いた。
于禁はスーパーで買ったものを収納すべき場所へしまった後に夕食を作り始め、様々な準備を終えると眠っている夏侯惇を起こそうとする。だが普通に起こすのは少しつまらないと思ったのか、短い口づけをして起こした。
すると目が覚めた夏侯惇は少し前まであった夕空に負けないくらいに、顔をとても火照らせていたのであった。夏侯惇は「まだこの時間は暑いから」などと言い訳をしていたが。