青い月 - 11/16

青い月『二日月』

陽とともに二日月までもが沈んでゆく、そのような時間帯に夏侯惇は長い眠りから目を覚ました。
重い瞼を上げると、薄暗い寝室のベッドの上の真ん中で横になっているのに気付く。そして昨夜の熱く淫らな痕跡は小さな泡沫のように、あるいは短い夢のように消え去っていた。体は清められ、行為により汚れたベッドのシーツは取り換えられていて、于禁が使用した幾つもの使用済みのコンドームも片付けられている。サイドチェストの上には、夏侯惇用の部屋着や下着が丁寧に畳んで置いてある。それらを視界に入れた夏侯惇は、少しだけ名残惜しそうにしていて。
体を起こすために上体を起こそうとしたが、腰が鈍く痛いうえに全身に倦怠感が伸し掛かってくる。小さく短い呻き声を出しながらも、それでも無理矢理に起こす。
昨夜は存分に于禁と体を重ねたことが、それの原因だが。しかし夏侯惇はそのような不快な感覚を鮮明に拾うと、寧ろとても喜ばしい気分に浸った。于禁としっかり深く、そして深く繋がれることができたからか。
だが隣を見ても共に夜を過ごしたはずの于禁は隣にも視界にも、同じ部屋にすら居ない。加えて現在の時間帯からして室内の気温が低く、何も衣服を着ていない寒さにより、一抹どころではない寂しさに襲われた。なのでサイドランプを辛うじて点けられると同時に、膝を立ててからそれを包むような姿勢を取る。少しの寒さとそれに、視界の寂しさを苦し紛れに埋めるためか。
「うきん……」
夏侯惇は喉を使い過ぎたので、掠れた声で求めている人物の名を小さく呼ぶ。少しだけ声が出しづらいと感じた。
そして于禁からの返事など、当然のように返って来る訳がない。寝室には今、夏侯惇一人きりなのだから。
「隣に、居てくれても、良いだろうに……」
とても悲しげに、相変わらず掠れた声でどこか空に向かってそう言っているうちに、喋りがスムーズになってきたところで寝室の扉が静かに開く。なので夏侯惇は沈ませていた表情を、水底から出るようにゆっくりと浮かび上がらせた。今、最も求めている人物が入って来るのが分かっているからか。
「夏侯惇殿!」
「于禁……!」
夏侯惇の思う通りに、軽装姿の于禁が寝室へと入ってきた。だがかなり疲れた顔をしており、目の下には濃い隈まである。
だが于禁は目を覚ました夏侯惇を見るなり、驚いたものへと一変させてから急いで駆け寄って来た。ベッドの上で上体を起こしている夏侯惇と視線を合わせるべく、両膝を今は冷たく硬いフローリングの床に着けながら。
「昨夜は、申し訳ありません! あれほど、あなたに無理をさせてしまい……!」
「俺は構わん」
夏侯惇の掠れた声による返事に、于禁は驚きを隠せない様子を見せた。目を見開き、まるで大怪我でも負わせたかのような。しかしそのような夏侯惇の掠れた声など、前の時代で何度も何度も聞いたことがあるというのに。
「しかし……!」
于禁は夏侯惇の言葉に首を横に振ってから何か言おうとしたが、夏侯惇は于禁の頭を撫でて遮ろうとするが空振りをしてしまう。夏侯惇の手は、空を仰いだだけであった。気付くと陽は完全に沈んでいったのか、寝室は更に暗くなっていたからだ。夏侯惇が点けていたサイドランプのおかげで、完全に真っ暗にはなっていないものの。
手の平を一瞬だけ、夏侯惇は軽く一睨みした。
「俺がお前を求めていたから、いいと言っているだろう」
「ですがあなたを、何度も……いえ、何でもありません……!」
于禁は昨夜のことをはっきりと思い出すと、いつの間にか沈んでいったかつての陽のように顔を赤く染めた。それを見た夏侯惇は悪戯心が芽生えたらしい。近くに居る于禁を引き寄せるために腕を引き、互いの顔の距離を縮めた。
「なんだ、俺のことを『元譲』と呼んでくれないのか? 文則」
呼吸音がはっきりと分かるくらいにまで近付くと、夏侯惇は口角を上げながら于禁にそう言った。それにより于禁は首から上の皮膚を全てを、面白い程に赤く染め上げる。ずっと向けていた視線を、フローリングの模様を見るように逸らしつつ。
「か、からかうのは止して頂きたいのですが!」
「からかってなどいないぞ。……やはりお前は可愛らしいな」
クックッと喉を鳴らしながら夏侯惇が笑うと、床へと向けていた于禁の視線は再び元の場所へと重たそうに向ける。その顔は赤みが少しも変化していないまま、眉間に深い皺を作っていた。夏侯惇からの発言を、全てを否定したいようではあるが。
「……私よりも、あ、あなたの方が、可愛らしいので!」
于禁は勇気を一滴も見逃さずに振り絞ったかのような、そのような顔つきで夏侯惇に思っていたことを返した。しかし夏侯惇はそれに対して、于禁のような顔色には微塵も変えなかった。寧ろ、于禁を弄ぶだけの言葉を返してくる。
「なんだ、俺を口説いてくれているのか?」
いつの間にか短く甘い舌戦のようなものが起きるも、于禁は開始早々すぐに降参したようだ。顔を両手で覆ってから「これ以上は、ご勘弁を……」と情けない声音を出した。なので夏侯惇は勝ち誇ったような顔をする。
「お前の負けだな。……とりあえず俺をキッチンまで運んでくれ」
「はい……」
于禁は理由も聞かずに言いなりになるが、今さら夏侯惇が下にも何も身にいないことに驚いた。だがこのままでは寒いからと、昨夜の情事の後に変えたらしいベッドのシーツで赤子を包むように肩にかけさせてから前を閉じる。昨夜サイドチェストの上に置いておいた部屋着などは、着られない状態だと判断したのか。
そして于禁は手際よく夏侯惇を横抱きした。夏侯惇を落としてしまわないよう、痛いと遠回しに訴えている腰に負担をかけないようにしっかりと優しくと抱えて。
「もしかして、食事をお取りになるのですか? それならば、私がここまで持ってきた方が良いのでは? お体をあまり動かせないでしょうし……」
夏侯惇を軽そうに持ち上げてから寝室のドアの前まで来たところで、于禁はそのような疑問を口にする。だが横抱きをされている夏侯惇は于禁の首の後ろに両手を回してから、小さな溜息をついた。先程まで上げていた口角を水平へと直しながら。
「分からないのか?」
「はい?」
先程よりも大きな溜息をついた夏侯惇は寝室のドアを開けて欲しい、と指示してから言葉を付け加える。
「目が覚めてから、お前が隣に居なくて寂しかったというのが分からなかったのか?」
「そ、それは……」
于禁は言葉を返そうにもなかなか出せなかったので、それを誤魔化すかのように寝室のドアを開けてから歩き始めた。
だがそれを間近で見ている夏侯惇は、首の後ろに回していた両腕のうちの片手を離す。何かと于禁が思いながら見ていると、夏侯惇の片手が自分の右頬へと向かって来るのを確認した瞬間に、ほんの軽い力で数秒間だけつねられた。
「お前とこうしてまた、関係を持ち始められたのだから、もっとお前の傍に居たい、そして話していたい。俺はそう思うのだが」
短い廊下を歩いてリビングダイニングキッチンの部屋のドアの前に辿り着いたところで、夏侯惇にしてはかなり珍しく大きな我儘を于禁にぶつける。そのときの夏侯惇の表情は玩具を与えられない幼子のように、とても悲しげなものに変わっていた。
于禁はそれを見ると胸が痛くなったようで、ドアを開けてからキッチンを通り過ぎてからリビングの空間まで距離にして約五メートル程進んだ。そこにある扉に背を向けている二人掛けの黒いソファの上に夏侯惇をゆっくりと降ろし、楽な姿勢にさせる。
同時に于禁は表情を曇らせ、夏侯惇ではなくソファの下に敷かれているラグを見つめる。なので夏侯惇は「さっき言っただろう……」と呟きながら于禁の顎を掬って視線を合わせてから于禁へと抱き着くが、その際にバランスを崩したらしくソファから落ちそうになった。
それを于禁は色を失ったような顔つきで抱きとめると、夏侯惇は僅かに笑う。互いの胸が密着しており、やけに于禁の鼓動が感じられるからだ。
「今、お前は幸せか?」
抱きとめられたまま于禁と向かい合っている夏侯惇は、そこで恐れも怯えも無くそう問い掛けた。于禁からは想定している答えが返ってくると、そう確信しているようで。
「はい、勿論です」
「だったら、それをそのまま俺にぶつけて来い、躊躇などするな。……前も似たような会話をしていたな。何度も言わせるなよ。これで最後にするからな」
「はい」
夏侯惇は確かな返事を確認すると大きな犬の頭を撫でるように、少し乱暴に于禁の髪を撫でてやる。于禁の髪が乱れ、静かに照れ始めた。だが元からセットなどしていなかったので、表情以外は大した変化は無い。
それをつまらなさそうに夏侯惇が見た後に、とあることに今さら気付いたらしい。于禁から離れると、そのまま両肩に手を置く。
「……そういえばお前、その隈はどうした?」
夏侯惇は于禁の目の下の隈について指摘をすると、于禁は「昨夜は寝れなかった」と隠し事をするように答えた。なので夏侯惇は少し考えた後にそれの原因であろう、小さな仮説を立てる。
「もしや、昨夜のあれから寝ずに荷ほどきをしているのか?」
ここへと着いた于禁の荷物はかなり少なかった。リビングの部分の空いたスペースに一時的に段ボール数箱を、引っ越し業者に置いて貰うのを夏侯惇が立ち会ったのでよく分かっている。さすがに閉じられた段ボールを開き、中身の確認などをする訳がないので、実際の荷物の量など分からないが。しかしこの段ボールの量ならば、今日だけで半分程度は終わるはずなのだが。
于禁からの遅い返事が返ってくる前に夏侯惇は于禁の荷物が入っている段ボールたちを見たが、それの数は減っていないと錯覚するほどに手を付けられていない。だが、数箱のみは封をされていたガムテープを剝がされていて、その隙間からは衣類であろう物が見えた。于禁が今着ている軽装が、確実にそこから取り出したという確定事項を把握しながら。
「俺が寝ている間に、何をしていたんだ?」
「あなたのお体が、心配で寝れませんでした。その、久しぶりであったので。……荷ほどきの方はほんの少しという程度ですが、しました。仕事用のスーツ類をあなたが指定したクローゼットのスペースに入れて、それだけです。あなたのことが心配で心配で、集中できなくて……。先程は構わないと仰っていましたが……」
ようやく于禁が答えると夏侯惇は一笑に付した。于禁が少ししか荷ほどきをしていないということではなく、夏侯惇の体をとても案じていることに対して。
「全く、お前は相変わらず頭が堅いな」
「申し訳あ……」
「だが、お前のそういうところが好きだ」
夏侯惇のその言葉に、于禁は完敗を喫したようだ。消えていた顔の赤らみを強引に引き摺り出したかのように、再び同じ色へと染め上げる。それも、範囲まで同じでいて。
「み、水を! 水を持って参ります!」
見つからない返事と表情をどこからか探すように、于禁は踵を返すとキッチンへと足早に向かった。それに夏侯惇がゆっくりと微笑するとすぐに、水が並々と入った白いマグカップとともに于禁が戻ってくる。依然として、顔は朱に染まったままで夏侯惇にそれを手渡す。
「ありがとう」
受け取った夏侯惇は、それをすぐに喉に通した。空になったマグカップの白い底を見た于禁は、二杯目は必要か聞く。だが夏侯惇はそれで充分だと答えると、于禁はそのマグカップを洗うべく手を差し伸べた。それと同時に、もう一つの事柄を訊ねた。
「お食事はいかがなさいますか? ……冷蔵庫を勝手に開けて中身を拝見しましたがほとんど何も無いようですし、マンションのエントランスの目の前にある、コンビニで何か買って参りましょうか?」
「あぁ、そうし……そういえば、お前は朝昼の分の飯をどうしていた? ほとんど食うもの無いのは知っていたが、昨夜は合鍵を渡すのを忘れていたしな……」
重要な物を渡し忘れていたことに気付いた夏侯惇は、それを言い終えると項垂れた。やはり昨夜は、今の時代で于禁と夜を過ごすことしか頭に無かったからか。
「あまり食欲が無かったので一〇五時頃に、唯一あったインスタント食品を頂きました」
于禁の報告を聞いた夏侯惇は、垂らしていた頭を上げて安堵の息を漏らす。そして于禁への食事に関しての憂いは無くなったのか、言いかけていた言葉を続けた。
「では、すまんが、前のコンビニで何か買って来てくれないか? それと金は後で払う」
「……いえ、結構です。お気になさらず」
それに異論があったのか、夏侯惇は何か言おうとする。しかしそれを喉のあたりで飲み込むと、于禁の言葉に甘えることにした。なので買ってきて欲しいものを伝え、于禁が夏侯惇から離れようとしたところで腕を掴んで引き留める。
その力はあまりにも弱かったが、于禁はそれを確実に繊細に拾う。そしてどうしたのかと、優しい声音で問い掛けた。
「合鍵は、寝室のサイドチェストの引き出しの中にある。……それと早く、早く帰って来てくれ。お前と近い場所にさえ離れると、心細くなってしまうから……早く帰って来てくれ」
捨てられた小犬のようにとても悲しげな表情で夏侯惇が言い、于禁はただ何も言わずに頷く。
だがその心細さを和らげてから体温を少しでも覚えさせるように、夏侯惇と数秒間抱き合う。その数秒間が経過して夏侯惇がもっと体温を覚えていたいと思っていると、于禁が「行って参ります」と言って離れた。
そして寝室へと向かってサイドチェストの引き出しから合鍵を確実に手に取ったらしい。于禁の静かな足音は玄関へと歩いて行き、そのまま玄関の扉の開閉音が聞こえた。それからは于禁の出す音が何も聞こえなくなり、夏侯惇は再び覚える寂しさを紛らわそうと部屋の天井にある明るい照明を見つめる。
「たった一晩のみ、それだけ過ごしただけというのに、今までどうして一人きりで過ごしていたのか、全く分からなくなってしまったな……」
それでも寂しさを紛らわすことができなかったらしく、視界の全てを手の平で覆う。解決することなど到底無い、と分かっていてもなお。
夏侯惇が手の平で視界の何もかもを隠してから数分後、于禁が帰ってきたらしい。扉の微かな開閉音でそれに気付く。手の平を素早く引かせてから、コンビニの袋を片手で持って近付いて来る于禁を視界に入れた。
「おかえり、ご苦労だったな」
「ただいま戻りました」
「……お前とこういうやりとりをするのは初めてだな」
喜色を浮かべながら夏侯惇は手を伸ばすと、于禁は応じるかのように空いている方の手でそれを包んだ。「……はい」という返事とともに、頬に若干の紅潮を浮かび上がらせる。いつも見せる険しい表情の中に、嬉し気な表情を交えながらも。
于禁は夏侯惇が頼んでいた食事を渡したが、それは軽い食事と分類できるものであった。ついでにと于禁も食事を買っていたが、それと比べると随分と少ない。于禁は憂色を示すが、夏侯惇は気にするなと一言掛ける。
「ずっと寝ていたからそこまで腹が減っていなくてな。明日はきちんと食うから、そのための買い出しは明日の午後か夕方のところで、一緒に行こう」
夏侯惇のその提案に于禁はすぐに賛成をすると、隣へと並んで座った。
二人はそれから穏やかな空気の中で食事を済ませると、于禁は細々とした物や今シーズン着る衣類だけでも荷ほどきでもしようとしていた。なのでそれを見てか夏侯惇は腰を庇いながらソファから立ち上がる。そして部屋着と下着を身に着けるべく寝室に向かおうとすると、それに気付いた于禁が驚いた様子で阻止をした。
「お待ちを! どこに向かわれるのですか?」
「どことは、寝室だが。お前が置いてくれていた服を着るだけだ」
立っていると腰が少し痛いらしい。なので腰に片手を添えながら夏侯惇はそう答える。
「私が取りに行きますので、あなたは座っていて下さい」
「持って来てくれるのは嬉しいが、それくらいは自分でやる。……ほう、もしや俺の着替えをそこまで見たいのか? 目の前で見るか?」
夏侯惇が意地悪を言うと、于禁は必至に否定の言葉を吐く。だが目は泳ぎ、顔を面白い程に紅くしているので、その否定の言葉に何の効力も無かった。
それを愛しげに見た夏侯惇は「冗談だ」と言って宥めると、寝室へとのそのそと歩きながら向かって行く。そこまでが例え短い距離であっても何とか辿り着くと、包まっていたベッドのシーツを取り払う。サイドチェストの上に置いてある部屋着と下着を掴み、時間を掛けながら身に着ける。
リビングへと戻ると、壁にかかっている時計の時刻は二〇一時前を示していた。
于禁は既に段ボールから細々としたものと、今シーズンだけでも着る衣類を出している最中である。律儀に背筋を伸ばし、正座をしていて。だがそれらも量が少ないので、その作業はすぐに終わったらしい。まずは細々としたもの、例えば食器や雑貨を床の上に丁寧に分類していた。夏侯惇はそれを少しだけ手伝うと伝える。
「少ししかできないだろうが、荷ほどきを手伝ってもよいか? 今出している物の中に、仕事の書類などは無いだろう?」
「無いですが、あなたに手伝わせるのは……」
首を横に振る于禁の顔は変わらず疲れた顔をしている。夏侯惇は肩を小さくすくめると、于禁の隣に腰を下ろすと床にあぐらをかいた。しかし腰が痛いのでとても慎重に、そして表情を険しくさせながら。
于禁は言葉を詰まらせてからしばらく考えた後に、何か答えを導き出したらしい。夏侯惇と目を合わせてから、遠慮気味に答えた。
「……はい。では、お言葉に甘えて、少しでいいので手伝って頂けますか?」
「あぁ」
夏侯惇からはは腰が痛くとも、先程生まれていた険しい表情が消えていた。
まずはほんの少しの量ではあるが食器類を食器棚へと二人で運んで入れる。于禁は先程座ったばかりの夏侯惇へ、かなり申し訳なさそうに立って貰うとそのまま食器類を渡す。そして于禁自身も食器類を持つと、キッチンの空間へと向かうと二人と同じくらいの高さがある、上下に分かれており扉が合計で四つある観音開きタイプの食器棚の前に立つ。
「空いたところに入れてくれればよいが……たったこれだけか?」
夏侯惇がそう質問すると、于禁は控えめに肯定の返事をした。
「仕事が忙しくて、家では寝るだけですし……」
そうしながら、于禁は食器棚の上の扉を開いた。入れるスペースは中に棚板が数枚と、ちょうど横に半分空いたスペースがある。なのでそこに于禁が持っている食器類を綺麗に収納すると、夏侯惇は自身が持っている食器類を渡してそれも綺麗に収納されていった。
「そうだろうな……」
しおれた様子へと、夏侯惇の顔が変わった。于禁はそれを見て夏侯惇の腰を労わりながら、両手をやんわりと回す。
「独りであった頃はそうだとしても、これからは違います。あなたと二人で暮らしていくのですから、その暮らしを保つ気はありません。ですので明日、買い出しの際に……その……箸かコップでも、買いませんか? あなたと私で、お揃いのものを……」
最初のうちははっきりと言葉を発していたが、次第に詰まらせていった。だがそれでも、于禁は自身の望みを言い切る。
「それはいいな。明日は、楽しみだ」
夏侯惇は腰を抱き返す。于禁は夏侯惇の額に唇を軽く付けた後に腰に回していた手を離し、残りの物を収納すると言った。なので夏侯惇も渋々と言ったような顔で抱き返していた両手を離す。
「後でまた、ゆっくり」
頬を緩ませた于禁は食器棚の扉を閉めてから夏侯惇と共に、リビングの空間へと戻る。つい先程言った通りに雑貨類を、夏侯惇からの指示や手伝いなどにより収納や設置をした。
その頃には、夏侯惇が着替えてから一時間が経過していた。次に今シーズン着る衣類をウォークインクローゼットへと移動して収納しなければならない。
だがそれも夏侯惇からしたら寂しいと思える量であった。私服よりも仕事で着るスーツの方が多いのだから。だからと言って私服まで増やせというのはそもそも、休日が少ないと前から言っていたので何も言わなかった。
スーツ梱包用の段ボールはそれなりの数があったのでそれらは全て于禁が運ぶ。そこから夏侯惇はハンガーに掛かっているスーツなどを、次々とは言えないがハンガーパイプに吊るしていった。そしてそれよりも少ない私服なども。
それが終わると、于禁はようやく一息ついた。荷ほどきが全て、完全に終わった訳ではないが。
「先に風呂を済ませたらどうだ。昨夜から寝ていないから、疲れているのだろう?」
夏侯惇はそう促すと、于禁は素直にそれを聞き入れたのか「ではお先に」と言って入浴の支度を始める。
于禁が入浴を済ませている間に夏侯惇は何もすることが無いらしく、どうするか考えていた。そこで浴室へ向かう前、疑問を持った于禁が話しかける。
「あなたは入浴はなさいますか?」
「お前の後に入るつもりだ」
于禁は何か言おうとする。しかし夏侯惇が「俺のことは気にするな」と言うと、于禁は浴室へと向かっていった。

先に于禁が入浴を済ませ、その後に夏侯惇も済ませた頃には二〇二時を回っていた。
さすがに于禁に限界がすぐ直前に見えていたらしい。夏侯惇が寝室へと入ると、天井の明るく白い照明が点いたままで于禁は仰向けの姿勢で既に眠っていた。穏やかな寝息を立てながら。加えて于禁の下には新しいシーツが敷いてあるものの、四隅に固定されていない状態で皺がかなり寄っている。
夏侯惇はそれを見て柔らかい笑みを浮かべると、シーツを固定しないまま部屋の照明を消す。于禁を起こさないように。
だがサイドランプの灯りも点いているので、その微かな明るさを頼りにベッドへと静かに乗ると、サイドランプの灯りを消して于禁の隣に横になった。部屋は真っ暗だ。
「おやすみ……」
目が覚めてからたったの数時間しか活動していないものの、夏侯惇は眠れないという訳ではないらしい。手探りで于禁の胴体を探して見つけると、抱き枕に抱き着くように控えめにくっつく。于禁の体は布越しでも温かかった。入浴を済ませてからそこまで時間が経過していないからなのか。それとも最初から暖かいのか。
夏侯惇は後者の方だと思いながら、心地良い温かさと共に眠りについたのであった。