雨音の隣
時刻は早朝前だろうか。辺りはまだ暗いうえ、外は土砂降りだった。それもかなり耳障りに思える程に。
その音で目が覚めた夏侯惇はのそりと寝台から起き上がり、掛けていた夜着の裾を捲ると窓から外を見る。
「寝ている間に降ったのか」
そう言うと、再び寝台に戻ろうとした。だが微かにどこかの部屋の窓から、灯りが漏れているのに気付く。軍師の誰かが遅くまで起きているのだろうと、寝ぼけ気味にふと思ったがそうでもない。灯りが点いている場所から考えると、于禁の部屋だ。
頭を搔いて溜息をついた夏侯惇は、数回瞬きをすると部屋を出た。
于禁の部屋の前へと着くと、扉の下から明るさが漏れている。またもや夏侯惇は溜息をついて扉をノックをしようと右手の平を握った。
だがそこで夏侯惇はふと思いついた。静かに部屋に入って少し驚かせてやろうと。
夏侯惇はニヤけると、扉を静かに開けてゆっくりと于禁の部屋へと入る。部屋はひたすら大量の雨粒がひっきりなしに落ちる音が聞こえるのみで、それ以外はほぼ音がない。
于禁は夜着姿で長い髪をうなじのところで軽く結い、扉に背を向けている。そこでは窓際に置いてある机に向かって椅子に座り、横に燭台に灯りを点けながら一人で黙々と竹簡を開いたり閉じたり、墨を含ませた筆で書き込んだりとしていた。
雨の音でかき消されるくらいに小さく、夏侯惇は三回目の溜息をつく。この調子では、机の上には竹簡が山積みになっていて、それを終わらせるまでは机から離れないつもりだろう。于禁の性格からして、そうとしか考えられない。
夏侯惇は呆れながら于禁の背中に近付くと、物音も立てずに背後から抱き着き、両腕を首へと回す。そして于禁の右肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。
「動くな」
夏侯惇はわざと重く低く言うと、于禁はびくっと体を跳ねさせる。だが二秒ほど経つと、墨を含ませている筆を置いた。
「なっ!? ……いかがなさいましたか、夏侯惇殿。お休みになられないのですか?」
一瞬だけ驚いた様子を示したものの、声だけで背後に居るのが夏侯惇と分かったようだ。それからはいつものように冷静な口調で、顔のみを夏侯惇の方に向けた。なので、夏侯惇も于禁の方へと顔向ける。
だが于禁の顔は疲れていて、それに目の下に隈ができていた。
「何だ、面白くないな」
夏侯惇はそれ見ながら再び呆れたが抱き着いたままの姿勢を保つ。なので于禁は巻き付かれていた手の上に、自分の手をそっと重ねる。
「大雨で目が覚めてしまってな」
「それでも、ご自分の部屋で休まれては……」
「俺のことは別にいいだろう。で、いつからそれと睨み合っている?」
そう夏侯惇は竹簡を見やりながら聞くと于禁は数秒答えを詰まらせた後、あまりはっきりとしない返事をした。
「日が、暮れてから……です……」
すると夏侯惇は眉間に皺を寄せると、上に重なっていた手を払い、于禁の両頬を数秒引っ張った。そこで于禁は情けない声しか出せないうえ、抵抗していいのか分からずに払われた両手を持て余す。
「ひゃひょうひょんひょひょ!」
「もう寝ろ」
両頬を引っ張っていた手を離すと、于禁の両頬は少し赤くなっていた。夏侯惇はそれを見て笑う。
「夏侯惇殿、あの……」
「明日も兵との鍛錬があるのだろう? 雨が降っていようが、鍛錬を行うつもりなのだろう? 兵の前で倒れたらどうするつもりだ?」
夏侯惇は于禁にそう言うと、于禁は何も言えずに黙った。
「それに、それはあまり急いではいないものだ」
再び于禁の首に両腕を回すと、先程と同じく右肩に顎を乗せる。すると于禁も先程と同じく、顔のみを夏侯惇の方に向けると軽く唇を合わせた。
于禁が瞳を伏せがちにしながら唇を離すと、夏侯惇は何か思いついたような表情をする。
「そうだ、俺は今からここで寝る」
そう言った夏侯惇は立ち上がると、机から少し離れた寝台へと向かってそこでゆっくりと横になり、肘枕をした。そして人一人分が横になれる程のスペースを空け、そこをポンポンと叩く。
「……はい!?」
「お前を監視するためだ。だから来い。俺と一緒に寝ろ」
于禁は先程とは打って変わってポカーンとしたが、夏侯惇は相変わらず空いたスペースをポンポンと叩いている。
「来い、于禁」
「はい……」
観念した于禁は燭台の灯りを吐息で消すと、部屋は真っ暗になった。だが暗がりの中でも寝台へとすんなりと辿り着く。夏侯惇の隣へと横になると、寝台がギシギシと音が鳴った。
「やはりお前の隣は落ち着くな」
隣に横になったことを確認した夏侯惇は肘枕をやめて横向きになると、于禁の体のどこかを手で触れる。すると于禁は夏侯惇の方を向いているのか、腹のあたりを触れていたようだ。
「私もです」
対する于禁も夏侯惇の体のどこかを手で触ると、脇腹のあたりを触っていたようで、夏侯惇は擽ったそうな声を出す。
そこからどんどん上へと上っていく。そして首へと辿り着き、顎へと辿り着くと親指の腹を唇に添えた。
「おやすみなさいませ、夏侯惇殿」
添えている親指を頼りに、于禁は唇を寄せる。ちょうど夏侯惇の唇へと触れたようで、そこから少しの口づけを交わした後に離していく。
「あぁ、おやすみ……」
そこから二人はひっきりなしに聞こえる大雨の音を聞きながら、静かに眠りについたのであった。