雨中の狸寝入り
よく雨が降っている、ある休日の朝のことだ。
于禁は目を覚ますが、寝室のカーテンは閉まっているので薄暗い。今が朝ではなく、日の出や日没の直前のような時間と思える程に。
今の時間は平日でもまだ少し、ベッドから出なくても良い時間である。隣では夏侯惇は仰向けになってぐっすりと眠っている。それを見ていると寝返りをうって于禁の方へと向くので微笑むと、蚊の鳴くような声で思ったことをそのまま呟いた。
「今日も、好きです……明日も、ずっと……」
それが外の雨音に吸い込まれて消えていったような気がしながら、于禁はそこからゆっくりと静かに起き上がるとベッドから出た。理由は目が覚めてしまったからと、二度寝できる程の眠気が不思議と全く無いからか。
しかしベッドから少しでも出ると、いくら寝間着を着ていても寒かった。夏侯惇とそれに、自分の体温が恋しくなったが引き返す訳にもいかない。于禁は腕と太腿や首に鳥肌が立ったのを感じると眉間に皺を深く刻み、雨音と夏侯惇の寝息のみが聞こえる寝室から出た。
于禁は寝間着から軽装へと、着替えるのは寒いので面倒だったらしい。そのままの格好で冷えた廊下を歩き、洗面所に入って軽く身支度をした。だが蛇口から流れたのは冷水であり、温水が流れ始めた直後に身支度を終えてしまっていた。なので洗面所に入る前よりも更に鳥肌を立たせると、少し足早でリビングダイニングキッチンの部屋に入りエアコンの暖房を入れる。
エアコンからの温かい風が循環しないまま、キッチンの部分へと向かう。そこで近くの壁に掛かっているアナログ時計を見ると、平日であれば起きなければならない時間を示していた。于禁はそれをチラリと確認した後、朝食でも作ろうとする。しかし夏侯惇がいつ起きて来るのか分からないので、電子レンジでも温め直せるものを作ろうと考えた。
冷蔵庫を開け、入っている食材を確認した後に一旦扉を閉じる。そして思考を数秒巡らせた結果、生地なしのキッシュを作ることにした。大方の具材を切ってから陶器製の容器にそれらを乗せ、オーブンに入れたところだ。そこで部屋の外の廊下から足音が聞こえ、洗面所へと向かって行く。夏侯惇が起きたようだ。その時にはエアコンの温かい風が、部屋を循環し始めていた。
于禁はおおよそ焼き上がる時間をオーブンで設定した。そこから離れてコーヒーを淹れる準備をするため、小さな片手鍋に水を入れてコンロの火にかける。次にコンロに向かい合って設置してある食器棚から、マグカップを二つ取ろうと手を伸ばした。そこで夏侯惇が部屋へと入って来る。
「おはよう……」
眠たげにそう挨拶をすると、于禁は挨拶を返す。夏侯惇はフラフラとした足取りで、相性の良い磁石のように于禁の背中にぴったりとくっついた。そして寒いのか、そのまま腕を肋骨のあたりに回して抱き着く。于禁は全く身動きが取れなくなった。
だがキッシュを焼いているその間に、コーヒーの準備をしようとしていた考えはどうでもよくなってきたらしい。食器棚へと伸ばした手を降ろしてそれを夏侯惇の手の上に軽く重ねると、夏侯惇のその手は驚く程に冷たかったからだ。特に指先が。于禁と同様に、ほとんど冷たい水に当たりながら軽い身支度をこなし、終わる直前にまた温水が流れ始めたのか。
なので于禁は特に指先で、夏侯惇の冷たさを奪うように手で包み込んだ。
「もう少しで……」
于禁は「もう少しで湯が沸く」と言おうとしたが、それを中断させた。背後から抱き着いている夏侯惇が、そのままの体勢で再び眠ってしまったからだ。于禁の体から頑なに離れない様子で。
静かな寝息が聞こえ、于禁はゆっくりと重ねた手を離す。そして回されている腕もゆっくりと剥がしていくと、小さな片手鍋に入れていた湯が沸騰し始めた。なので火を止めてから、夏侯惇の体を支えながら体を向ける。
再び眠りについている夏侯惇の顔を見た後、それに顔を近付けた。僅かに触れる程度に唇を合わせた後、顔を離そうとした。すると夏侯惇の手が動いて于禁の後頭部を固定し、今度は唇をぴったりと合わせてからゆっくりと離れていく。
「お前が目が覚めたときからずっと、狸寝入りをしていたのだが、気付かなかったのか?」
夏侯惇は口角を上げながらそう言うと、于禁は体を硬直させて首から上を赤くした。それはキッシュに熱を加えている最中の、オーブンの中よりも遥かに赤く。
そこから于禁は恥ずかしさのあまり、その日は一日中夏侯惇と全く視線を合わせられなかったという。夏侯惇からは思春期の学生か、と笑いながら言われてしまっていたが。