表社会からこちらに来ることは珍しくはない。理由は様々であり、大吾はわざわざ聞くことはなかった。組員のことは大切であるのだが、そこまで踏入りたくはないからだ。プライバシーの為だということも大きい。
今日はたまたま本部に居た。この日は雨がよく降り、もしかしたらマンホールが動いてしまうくらいの大雨である。大吾は会長室の椅子に静かに座り、そして窓を見る。
そこで少し乱雑なノック音が二つ聞こえる。組員の誰かと予想してみるが、性格の荒い者しか分からない。そう考えながら「入れ」と一つ言えば、すぐに扉が開く。入って来たのは、二人の男であった。
「突然に申し訳ありません、六代目」
スキンヘッドで上はジャケットのみを着ている、錦山組三代目組長、神田強である。大吾でも強烈に覚えている男で、それに他の者からのイメージも聞く。強欲で、野心が強く荒いと。
その後ろには一人の男が居た。見覚えのない男であり、神田とは違い上品なイメージが持てる。髪を丁寧にかき上げており、スーツをサラリーマンのように着こなしていた。それに顔立ちはとても良く、さぞかし女にもてたことだろう。だが血の匂いがあまりしないことから、表社会から来た人間だということを感じた。ただの勘なのだが、本人に直接答え合わせすることなどない。
「どうした」
「いえ、こいつを紹介したいと思いまして」
神田が連れている男を紹介し始めた。
「峯と言いまして、表から来ました。ほら峯、六代目に挨拶をしろ」
肘で峯という男を突いた。しかし苛立ちを見せることなく、峯という男がすらすらと自己紹介をしていく。落ち着いた、低い声をしていた。だがこの声は、外の雨でかき消されるような気がした。ふと消えそうな気がした。自身でも分からないのだが、まるで何かに囚われているような気がする。大吾の知り得ない闇という、檻に。
それに人間自体を嫌っているように、微塵も信頼していないようにも見える。これは大吾の知り得ない闇が関係しているのかは分からない。
「峯義孝と言います。表では会社を立ち上げておりまして、社長をしています。今後、東城会に金を上納するつもりですので、よろしくお願いします」
峯が頭を下げるが、この世界では一般的な頭の下げ方をしていない。まだ慣れていないのだろうか。大吾はそれに咎めることもなく「よろしく頼む」と返したのだが、隣に居る神田が更に肘で小突いていた。頭の下げ方を修正させるつもりらしい。神田の方が立ち位置は上なので当たり前のことであるが、やけに偉ぶっていた。
「いや、今度から気を付けてくれたらいい。話はこれで終わりか?」
「はい」
神田ではなく峯が返事をする。
しかし峯の言う会社とはどこまでの規模なのかまだ聞いてはいない。なので質問をしようとすれば、次は神田が答える。
「峯の会社は、かなり規模が大きいそうです。近い内に、白峯会を発足するらしいです。何でも、金を東城会に上納するためには、そのような組織を立ち上げなければならないとか、法律とか俺はよく分からないんですがね……」
髪の無い頭を掻きながら神田がそう説明してくれるが、大吾だってそのようなことは分かる。要はフロント企業のようなものを立ち上げるだけの話だ。そこまでは後で詳細を聞けばいい話なのだが、そこは良い面をしておこうと思った。なので適当に返事した後に、峯をふと見る。少し、機嫌が悪そうだ。
大吾は最後にと「期待してるぞ」と言うのだが、峯の顔は変わらない。ここまで来ると人に嫌われる経験はあまりしたくないのだが、どこまでであれば機嫌が良くなってくるのか試したくなる。なので「なぁ峯」と言うのだが、やはり変わらない。それを見た神田がまずいという顔をするものの、峯から先に「これで失礼します」と言い会長室から出た。神田はフォローの為か、何か言い訳をしようとしていたのだが、大吾は「いい」と言いながら片手を上げる。
「まだこの世界に入ったばかりで、緊張しているんだろう。気にするな」
「は、はぁ……分かりました。では、俺もここで失礼します六代目。峯には、しっかりと金を流して貰いますんで」
最後にリップサービスとそのようなことを言ってきたのだが、神田自身が行う訳ではない。内心で溜め息をつきながら、神田はこのような人間なのだと改めて思う。
神田が会長室から出ると、部屋が静まりかえった代わりに雨の音がよく聞こえる。そこで峯の声を思い出すが面白いと思えてきた。慢心でしかないのだが、東城会の頂点に立つ自らに媚びないとは。
口角を上げながら雨空を見る。すると次第に頭が峯と雨を結び付けるようになってきた。そこまで、峯の印象が強い証拠だ。それに峯の存在は期待できる。あの神田があそこまで言うのだから、きっと規模の大きな会社を経営しているに違いない。最近の東城会は予算不足もあり苦しかったのだが、きっと懐を支えてくれる存在になってくれるだろう。そう期待しながら、椅子から立ち上がった。
数日後に峯の会社から早速に上納金が振り込まれていた。様々な口座を通して分割してだが、それを知った大吾は嬉しくなる。数字ではなくきちんと上納してくれたことだ。なので直接にでも礼を述べたいのだが、自身の立場もある。なので神田に連絡を取ると、伝えておいて欲しいと言った。神田を信用していないのだが、自身からの命であれば聞いてくれるだろう。そう思いながら金が上納されていき、そして神田伝に礼を伝えるように繰り返した。
幾つもの日々が経過したのだろうか。また、雨が降る日に本部に峯が来ていた。何でも、経営している会社の報告を直接にするためだ。他の者から聞いてはいるのだが、経営は順調らしい。
会長室の椅子に座っているところに鞄を携えた峯が入って来るが、やはりこちらを警戒しているような雰囲気を出す。それに、大吾は笑ってみせた。だがそのようなものは効かないようで、峯は何も返してくれない。
「峯……!」
「六代目、私如きの名前を覚えて頂いて恐縮です。こちら、私の会社の現在の状態です」
「あぁ……そうだ、上納金をきちんと振り込んでくれていて、俺は助かっている。おかげでうちの資金は潤沢だ」
「それが私の仕事ですので」
事務的に返した後に、鞄から何枚かの折れ目のない紙を取り出した。こちらに見せた後に、会長机に近付いて手渡してくれる。その時に峯の目を見たが、やはり闇の檻があるように見えた。
その檻をどうにか折ってみたい。そう思いながら紙を受け取って書類を見る。経営状況はとても順調なので峯の方へと視線を移すのだが、表情はまるで変わらない。会長椅子をぎしりと鳴らしてから書類を机に置くと、大吾は考えた。峯とどうにか仲良くなりたい。その為には、飲みに誘うのが一番である。なので口を開き、峯を飲みに誘った。
「書類は読んだ。お前はやり手の経営者だな……なぁ、今夜空いていたらどこかで飲まないか? どこのクラブがいい? 気に入っている店はあるか?」
さりげなく褒めてからそう聞くが、峯の表情はやはり変わらなかった。まるで顔が鋼鉄できているように見えてしまう。
「申し訳ありません、この後に会議が立て込んでいまして」
想像はしていたが、断られてしまう。だが大吾はめげずに「じゃあまた今度はどうだ?」と聞くのだが、峯は首を横に振った。これは予想外である。瞳の黒い部分を見るが、相変わらず暗い。
「申し訳ありません。ですが私ではなくて、他の者とはどうでしょうか。例えば、神田組長とか……私から伝えておきましょうか」
「いや、いい」
更に予想外の答えが来れば、次は大吾が首を横に振る番だ。そして回答に困っていれば、峯は素っ気なく「これで失礼致します」と言って会長室から去る。
大吾は雨の音を聞きながら、会長椅子をまた軋ませた。そして背もたれにもたれると、天井を仰ぐ。
また峯の闇のような部分を見たのだが、あの闇を壊すにはどうすればいいのだろうか。
またしても興味が湧いた大吾は机にあるノートパソコンの電源を立ち上げた。ホーム画面にあるのは組員のリストで、東城会に属する者の履歴は全員ここにある。それを開いてから錦山組のリストを開いた。カーソルをまずは一番下に移動させれば、峯の名前はすぐに見つかった。まだ舎弟の身分であるが、表ではやはりかなりの身分である。
詳細をクリックすれば、峯の経歴が表示される。とはいえ履歴書のように学歴や住所などしか記載されていない。それを見ると年齢は同じだ。親近感が湧く。学歴は高校までは都立の学校で、大学は偏差値の高さで有名な大学を卒業している。それを見るだけでは、峯のことは何も分からなかった。正直、学歴だけではこの世界ではやっていけないのだから。
すると普通の履歴書のように、電話番号までも記載してあった。思わず紙とペンを取り出すと、峯の電話番号をメモしてしまう。私用で電話番号を記録するのは良くないというのに、してしまっていた。この番号に、今すぐ掛けたくなった。今すぐ飲みにでもまた誘いたくなった。また断られてもいい。また、誘えばいい話なのだ。だが大吾にはまだその勇気がない。
いけないことをして溜め息をついてしまった大吾は、組員のリストを閉じてからノートパソコンも畳む。外を見れば空は灰色の雲で覆われており、夜も雨が降るだろうと思った。雨に苦い思い出などないのだが、最近は峯の存在が上書きされている。なので峯の顔を思い出しながら、会長椅子から立ち上がる。
そして机に置いた峯の番号が書いてあるメモを一旦はぐしゃぐしゃにする。次にゴミ箱に投げ入れようと思ったのだが、聞こえ続ける雨の音を聞いていればその気を無くした。丁寧に広げてから畳むと、胸ポケットに入れる。自身は、何をしているのだろうと呆れながら。
すると時計を見れば、もうじき幹部会の時間であった。神田は出席しているのだろう。そして峯はそれに出席すべきではない立場なのは分かっている。
今はあまり出席をする気は起きないのだが、今日の仕事はこれで終わりだ。珍しく夜は空いている。なので気を引き締め、幹部会に臨んだ。
思ったよりも長引いた幹部会が終わるが、会議室の窓を見ればまだ雨が降っていた。幹部会に出席したいた者たちが殆ど退室していく。それを見ていれば、幹部会に出席してい真島吾朗が声を掛ける。
「んん~? 大吾、どうしたんや?」
「いえ、何でも無いです。それより真島の兄さん、幹部会お疲れ様でした。真島建設は今期も順調で何よりです」
至って普通の会話をしようとしたのだが、目の前に居るのは嶋野の狂犬だ。予想外の答えが返ってくるだろうと、心の中で構えた。すると予想通りに、真島が回答をする。
「……お前、今は悩んでいるなぁ?」
「えっ……あぁ、はい。まだ若い俺じゃ、東城会をきちんと引っ張れる自信が無くて……」
「違うで。まぁええわ……大吾、自分に正直になるのも大事やで。ほな」
そう言うと、真島が片手をひらひらと振りながら部屋を出た。すると残った者も退室していき、大吾一人だけが残される。雨の音が大きくなった。静けさが生まれたせいだろう。
真島は自身の悩みについて、気付いているのだろうか。単に仲良くなりたい者と距離を近付けたいだけだというのに。
胸ポケットを探り、幹部会の前に畳んで入れていたメモを取り出す。峯の電話番号をメモしたものだ。良くないという気持ちもあるのだが、真島が言っていたように自分に正直になるべきなのかもしれない。そう思い携帯電話を取り出したところで「六代目!」と呼ぶ声がした。振り返ってみれば、こちらまで走って来たらしい神田が居る。息を切らしているが、どうしたのだろうか。
「どうした」
「そういや伝えるのを忘れていました。峯からの上納金が、今後増えるらしいです。経営が順調のようで」
「そうか。わざわざありがとう」
伝え終えた神田が頭を下げると、すぐに部屋から出た。大吾一人きりになるが、そこで背中を押された気がした。神田の言うことが正しければ、改めて礼を伝える良いタイミングになるのではないか。峯に電話を掛ける理由ができたのではないか。
そう思うと携帯電話を開き、紙に書いていた番号を押した。後は発信ボタンを押せばいいのだが、そこでまた正気が邪魔をする。先程の峯は、仕事で忙しいと言っていた。邪魔になるのではないかと考えたが、自身は東城会のトップだ。邪魔も何も無いだろう。
目を閉じながらボタンを押せば、発信音が聞こえる。もう戻れないと思いながら、スピーカーに耳を当てた。何度かの発信音の後に、通話に応じる声が聞こえた。かなり低い声で「もしもし?」と。
「あぁ、俺だ。堂島大吾だ。峯だよな?」
『六代目……? いや嘘だ。俺に掛けてくる訳がない』
そう言って通話は終わった。そこで冷静になるが、堂島大吾と名乗って電話を掛けてくる者は幾らでも居るだろう。特に、裏社会に詳しい表の者であれば。
完全に何も考えておらず、携帯電話を閉じてから溜め息をつく。そして窓を見れば、やはり雨。
いい加減にこの天気が鬱陶しいと思いながら、ようやく会議室から出た。すぐそこに部下が頭を下げて待っており、はっきりと「お疲れ様です!」と言ってくる。今はそれさえも鬱陶しいと思いながら、適当に返事した後に会長室に戻る。東城会本部には今日は用事が無い。なので帰ろうとしたところで、まだ神田が残っていたことに気付く。自身の存在に気付くまでは、その辺の組員に威張っていたらしく。
そこで大吾は何か閃いたような気がした。なので遠くから神田の姿を捕らえながら考えた後に、ようやく思いつく。峯が直接電話に出てくれないのならば、神田を通じて呼び出せば良いのだ。どうして今まで思いつかなかったのか不思議に思いながら、神田にそっと近付く。すると案の定、神田は大層に驚きながらこちらを見た後に頭を深く下げる。
「ろ、六代目!」
「なぁ神田」
「は、はい!」
さっきまで部下に威張っていた姿を思い出せば笑ってしまうくらいに、神田は畏まっていた。背筋を反るくらいに伸ばし、顔には緊張が走っている。大吾は少し笑いそうになった。
「峯に伝えてくれないか? そうだな……」
銀座の高級クラブの名前を挙げ、ここに来て欲しいと告げる。だが時間は指定しなかった。峯だって忙しいだろう。それくらいは大目に見るのが上の立場の役目でもあるのだろう。それは父の背中を反面教師にして思った。
「分かりました! 峯に伝えておきます!」
「あぁ、頼む」
腕時計を見れば、まだ夜にはならない時間であった。自宅に戻ってシャワーを浴びるくらいは許されると思い、そこでようやく本部から出て、エントランスに停めてある黒塗りの高級車の後部座席に乗る。エンジンは既に掛かっており、後はクラッチペダルを踏みギアチェンジをしてアクセルペダルを踏むだけだ。
大吾は運転手に「自宅まで頼む」と言えば。すぐに運転手が「分かりました」と言い、丁寧に発進させた。あるはずの揺れは殆ど無く、大吾は快適に自宅まで帰ることができた。
住んでいる高層マンションの最上階に向かい、このフロアは大吾しか住んでいないのだがカードキーでタッチをすればすぐに解錠できた。部屋に入り、靴を乱雑に脱いでからまずはリビングにあるソファに雑に座る。
気が付けば疲れていた。しかし自ら峯と、銀座の高級クラブで待ち合わせるという約束をしている。
なので腰を重くしながらも立ち上がると、シャワーを浴びる為に脱衣所に向かった。そこで洗面所の大きな鏡を見れば、顔が疲れているように見える。顔色が悪く、目に輝きがない。このまま峯と会うのかと思ったのだが、自身としては峯は目上の者ではない。だが威厳というものがあるので、両頬を軽く叩くとスーツを脱いだ。今や慣れた不道明王のある背中を鏡越しに見ながら、シャワーを浴びていく。
かき上げた髪は湯で落ちていき、整髪料が溶けていく。そこでまた支度をするのは面倒だと思えたが、やはりまともな格好をしなければならない。なのでシャワーを浴び終えてからすぐに体を拭き、髪を乾かせばウォークインクローゼットに入りスーツを着ていけばいつもの自身の姿が作られていく。最後に髪をまたしてもかき上げれば、携帯電話を取り出してから運転手に電話をする。すぐに着信に出た後に、何も言わずとも「自宅までお迎えに参ります」と言ってくれる。話す手間が省けると思いながら返事をして通話を終える。
「あと五分くらいか……」
リビングに行きまたしてもソファに座れば、時計を見てそう呟く。そしてすぐに立ち上がってから窓を見るが、外はもう暗い。雨はやはり降っており、水滴の一粒一粒が夜の街を反射させる。だが大吾としては見飽きた風景であるので、目をすぐに逸らしてから洗面所に向かい身だしなみを確認した。問題はない。
そこで五分くらいは経っただろうと思い、部屋から出てからエレベーターで一階のフロントに向かう。しかしそこでここでは見慣れぬ人物を見た。峯の姿があるのだ。
「六代目、お疲れ様です。そして酒の席へのお誘いを光栄に思います。今から向かうクラブまで、私も同行させて頂きます」
何と、移動に峯まで着いて来てくれるのだ。大吾としては嬉しいのだが、峯としてはどうだろうか。かなり目上の者とほぼ二人きりになるようなものなのだが、気まずいとは思わないのだろうか。いや、誘ったからにはもう遅い。
「あぁ、じゃあよろしくな峯」
そう言った後にエントランスに向かえば、いつもの車が停まっている。その後ろに複数台あるのだが護衛の組員が数人居るのだろう。大吾にとってはいつものことだ。
エントランスには屋根があるので傘は必要ない。すると峯がエスコートでもするかのように車のドアを開けてくれた。なので車に乗れば、隣に峯が座りドアを閉める。運転手がゆっくりと発進をすると、まるで揺れなど無いかのように思えた。それくらいに運転が穏やかなのだ。この運転手は元から大吾が信頼している者であるので、フロントにあるバックミラー越しに視線を合わせた後に峯に話しかけようとした。
ちらりと峯を見るが、少し畏まっているように見える。緊張をしているのだろうか。
「そういえば峯……」
「あの、六代目……!」
そこで互いにハッとした後に、峯が発言権を譲ってくれる。しかし峯は何を言いたかったのか気になるのだが、折角に譲ってくれたのを無下にしてはならない。なので軽く咳払いした後に、大吾が言う。
「……峯、仕事が忙しかったんじゃないのか?」
「いえ、神田組長からの伝言を聞きまして」
一度は自身が直接に誘ったというのに、神田伝であれば付き合ってくれるのか。溜め息をついたのだが、よくよく考えれば峯がどうしても犬のように見えてしまう。だが犬といえど、懐かない犬だ。そう思えば可愛らしく見え、笑みを浮かべながら「そうか」と返す。
対して峯の態度は変わらない。やはり、飼い主に反抗的な犬だ。
「分かった。で、お前が言いたかったことは何だ?」
そう聞けば峯が顔を強張らせる。
「……信じがたいのですが、幹部会の後に私に電話を掛けられましたか?」
「あぁ、そうだが」
もしかしてあの時電話したのが大吾自身なのだと、半信半疑であったのだろうか。それにあまり怒りの感情を向けていないものの、峯の顔を見れば震えていた。飼い主に歯向かったことをようやく理解したような顔だ。
「いや、別に構わない。急に連絡してきたからな。不審に思っても仕方ねぇだろ。俺は気にしていない」
すらすらとそう述べるが、峯の緊張は変わらない。このままでは固まってしまうかのように、体の動きの一つ一つが鈍い。
「いえ……! ですが……本当に申し訳ありませんでした!」
峯が車の中といえど立ち上がり、そして膝を着こうとした。さすがにそこまでは大袈裟だと、峯の動きを制止させる。
「いや、だからいいって峯。突然俺が電話を掛けた俺が悪かった。組員リストを見て、そこに電話番号があったから掛けたんだ。私用でそうした俺が悪い」
宥めた後に、峯の頭に垂れた耳が見えるような気がした。何だか可愛らしいと思っていれば、目的地に着いたようだ。車窓から見えるのは、大吾がよく行っている銀座の高級クラブだ。
先に峯が降りるのだが、濡れることもいとわずにどこかから傘を取って差した。黒色の撥水生地が花咲くように広がると、大吾が座っている側のドアに向かう。そしてドアを開けてから傘を差し出してくれた。おかげで自身は濡れなくて済む。だが峯を見れば、ずぶ濡れになっていた。
店の出入り口には屋根がある。そこまで辿り着けば峯が傘を閉じるが、かき上げた髪が多少は垂れてしまっていた。だがその顔が、男である大吾にとっては美しいと思える。言葉こそは陳腐であるのだが、本当にそう思えたのだ。凝視してしまう。
「六代目、このような姿では……」
「いや、大丈夫だ。雨だからな、仕方ない」
峯が申し訳なさそうな顔をしているが、傘を畳んで入ろうと促せばそれに従ってくれる。言う通りに傘を畳んだ後に店に入った。
この店は外観からして高級クラブそのものであるのだが、建物そのものは黒い。看板は控えめにあり、まさに御用達のような姿をしている。入れば、すぐに黒服が出迎えてくれた。すると顔を見るなり「すぐにお通しします」と言ってくれる。二人は中に入った後に、護衛の組員も着いて来た。その者らも、峯同様に雨でスーツや髪などが濡れたりしている。
通されたのは、店の奥にある個室だ。黒服が扉を開いてくれれば、高級なソファやテーブル、花瓶などがある。大吾としてはいつもの場所であるのだが、峯はやはり少し緊張しているようだ。峯ほどの人間でも、このようないわゆるVIPルームには入ったことがないのか。
「ここは初めてか」
「はい、そうですね。前までは、裏社会とは無縁でしたから……」
峯の言葉からして、このクラブを知らなかったのか。或いは裏社会の者たちがよく利用しているのを分かっていて、避けていたのか。どちらなのかは分からないのだが、大吾は頷いた。
護衛の者たちは入らずに、入り口付近で立っている。なのでそのまま黒服が扉を閉めるのだが、その前に大吾は「いつもの酒を頼む」と言う。黒服が了承の返事をしてくれると、ゆっくりと扉を閉めた。峯と二人きりになる。キャストは呼ばない。
「あの、六代目」
「何だ?」
「どうして、私のような下っ端を、酒の席に誘ってくださったのですか?」
来ると思っていた疑問が飛んできたのだが、答えは既にある。なので理由を口にする。
「俺はただ、お前と飲みたかっただけだ。それに他の奴等よりも上納金は多い。上の立場としても、何かもてなしてやりたいんだ。お前だって、経営者だから分かるだろ?」
返す言葉も無いらしく、峯が押し黙る。だがそこで大吾が言葉を続けていく。勿論、峯の瞳にはまだ闇が見えていることを把握しながら。
「それに、上納金を増やしてくれるんだろ? 俺としては嬉しいと思ってな」
「分かりました。その言葉、ありがたく受け取らせて頂きます。ありがとうございます」
そう言って少しは笑みを浮かべてくれるが、峯の闇は未だ堅い牢に居座っているような気がした。その闇は何なのだろうか。これは自身が取り除くことができる闇なのだろうか。そう考えていれば、黒服が酒を持って来てくれた。二人分のグラスに、琥珀色の液体に球体の氷が浮かんでいる。
まずはウイスキーのロックであるのだが、ここが扱うウイスキーはかなりの上物である。なので大吾はここのウイスキーが気に入っており、ボトルキープを常にしている程だ。
「じゃあまずは乾杯をしようか」
「はい」
互いにグラスを持った後に、軽くぶつけてから乾杯をした。グラスの高い音が鳴り響くのだが、この音は大吾は好きであった。こうして、好きな酒を誰かと飲める感覚を強くしてくれるからだ。味の良い酒を、まるで共有しているような感覚にもなる。
「美味いですね」
一口飲んだ峯がすぐにこちらを見てくれるが、やはり目は輝いていない。大吾は再度確認をしながら語っていくが、内容は主に峯の資金の頼もしい源になってくれるというものだ。今の峯には、まだそれしか無いのだ。しかしいつか金以外にも、峯からの信用を得たいと思った。人間の本当の信用など、金を積んでも手に入れられない故に。
そして峯と一杯だけ飲んだ後に、峯のポケットから電子音が鳴った。峯は無視しようとしていたのだが、やはり仕事の電話なのだろう。電話に出て欲しいと促せば、渋々と峯が電話に出る。
会話の内容が聞こえたのだが、それはやはり仕事のものであった。大吾は通話中にも関わらず「俺のことはいいから」と言うと、峯が必死に頭を下げながら部屋を出た。
一人きりになった大吾は、峯の飲んだ空のグラスをずっと見つめる。峯の中にある闇は、ガラスや氷のように容易くはないと当たり前のように思いながら。
数日後のことである。この日は曇っており、日が差さない。故に少し肌寒く感じ、大吾は息を震わせる。現在居るのは、都内の奥深くにある廃墟のような建物だ。
そこには複数人の組員が居り、一人の男を囲んでいる。一人の男は手足を拘束されてから椅子に座らされていた。顔には複数の新しい傷跡があり、組員たちが作ったのは明白である。
だがその中で、大吾は組員から離れた場所に居る。組員たちを遠くから見ているのだが、その中に峯の姿があった。
大吾は峯が居るからこの、組員たちの詰問の場に来ている訳ではない。そう言い聞かせながら、組員たちの言葉を聞いていく。罵詈雑言が聞こえ、一人の男を責めているのが分かる。しかし一方で峯は無表情で何も言わないようだ。ただ無言で男を見つめていた。
そもそも大吾はどうしてこの場に居るのか、それはこの日の数時間前に遡る。
この日もまた曇っており、空にはやはり灰色の雲がある。昼間でも薄暗く、どんよりとしていた。気付けば今日は峯からの上納金が振り込まれる日であり、大吾は東城会本部の会長室の椅子でそわそわとしていた。入金されることは確定しているし、短期間でこれほどの金を流してくれるのはありがたい。正直、このままいけば幹部クラスにまですぐに登り詰めるのではないのかと思えた。
机の上のノートパソコンには銀行の口座の画面が表示してあり、オンラインで金の動きを見ていた。いつ、峯からの入金があるのか。一種のイベントのように待っていた。
たまに空や携帯電話、それに腕時計を確認していく。それを何度も繰り返していっていると、ノートパソコンの画面に動きがあった。峯からの上納金が来たのだ。早速画面を見ていれば、様々な口座から金が振り込まれていく。それは前回よりも額が高く、大吾は口を半開きにしながら見ていた。
合計金額を確認すれば、0が一つ多い。つまりは神田の言う通りに上納金が増えたのは本当であったのだ。神田のことを悪く思っている訳ではないのだが、普段の部下への態度からしてあまり信用ならないのは確かだ。
早速に峯に電話をしようか。そして礼の電話をした後に、また飲みにでも誘おうか。そう思っていれば、会長室のドアがいきなりバンと開いた。驚いた大吾が部屋の出入り口を見れば、そこには冷や汗をかなりかいている組員が居る。見張りの者はどうしたのだろうか。
しかしその組員はかなり動揺しているようだ。何か悪いことでもあったのか。
「六代目! 大変です! さっき振り込まれた筈の金が、持ち出されました! 誰かは分かりません!」
「な、な……!?」
大吾には理解が追いつかなかった。そもそも、峯からの入金を知っている者はごく僅かなのだろう。それで持ち出されたとなると、人数は絞られるのだがやはり見当がつかない。東城会とて、巨大な組織故に。
椅子から立ち上がりノートパソコンを放置していれば、他の組員もまた報告に来た。最初に来た組員同様の表情をしている。大吾は焦りながら「やはり金が……?」と聞けば、組員がはっきりと肯定の返事をした。更に机の上に放置していた携帯電話が鳴り響けば、すぐに手に取って通話を始める。相手は、金庫番の組員からだ。
曰く、やはり他の組員同様の言葉を聞き、大吾は頭を震わせる。まずはせっかくの峯からの上納金であるのに、次に東城会にとって大事な金であるのにと考えながら。
しかしそこで組員たちが峯に嫌疑をかけ始める。表社会から来て日が浅い故に、まだ裏社会に馴染めなくて辞めたい、抜けたいなどと勝手に妄想をしては空想上で攻撃を始めようとしていた。流石に聞き耐えられなくなった大吾は、大声で「落ち着け!」と叫ぶ。室内が静まりかえったところで、見張りの組員が来た。騒ぎに駆けつけたのだ。
見張りの者も鎮める為に「何でもない」と言うと、あっさりと引き下がってくれる。自分たちでは手に負えない問題が起きていると、察したのだろう。心の中でその者たちを褒めた後に、報告に来た二人の組員に言う。
「落ち着け……思い込みで誰かを疑うことは、やってはならねぇ……証拠を集めてから、犯人を見つけ出すんだ。いいな……」
すると二人の組員が頭を深く下げながら「申し訳ありません!」と謝ってくれる。だが謝ることなど誰でもできるので、心を鬼にしてから言い放った。
「犯人を見つけろ。話はそれからだ」
すぐに二人の組員が部屋から去るが、その際にドアを律儀に閉めてくれた。なので一人で考える時間ができるのだが、そこで不安が過る。峯が犯人であったらどうしようということだ。峯が確実な犯人となれば、大吾は庇いたくとも立場上できない。それにこの社会の法則に基づいて始末される筈だ。拷問された後に海に沈められる峯の姿を想像し、顔から血の気が引いてしまっていた。
「そんな訳がない……」
体から力が入らなくなっていれば、自然と椅子に座り直してしまう。そしてノートパソコンの画面を見れば、口座から一気に引き出された履歴が残っている。引き落としのみしか記載されておらず、支店名などはない。
これでは、せめてどこで引き落としたのか分からない。大吾が顔を歪めていれば、急いでいるようなノック音が聞こえる。大吾が「入れ」と言うと、入って来たのは最初に突然入って来た組員である。顔面蒼白で、あれほどの短時間でやつれていた。怒りを通り越して恐怖なのは分かる。
「どうした」
「分かりました。金がどこで引き落とされたのか、分かりました……」
店名を告げるが、本部から一番近い銀行の支店から引き出されていたらしい。その銀行とは繋がりが深い組員が居るので、すぐに監視カメラの様子を確認させたらしい。それに大金を引き出すので窓口での人相も。
すると組員曰く、普通のサラリーマンのような男で変装も何もしていなかったらしい。何とも無防備で、そして無計画だと思った。大吾は驚いていたが、既にその男の捜索をしているらしい。迅速な対応に、ひとまずは胸を撫で下ろす。
「後は奴が見つかるかですが……ん?」
組員の携帯電話が鳴った。捜索に当たっての報告だと思い、大吾は「出ろ」言う。組員が会釈をしてから、携帯電話を開き通話を始める。
組員の様子からして、何か良い進展があったらしい。次第に顔色が肌の色に戻っていく。
そして通話を終えると、組員が急いで報告をし始めた。口調はとてもはっきりとしている。
「盗んだ奴が見つかったようです。捕まえたらしいです。後は自分たちが……」
「俺も着いて行こう」
何を思ったのか、そう口走っていた。大吾でも驚いてしまう。だが組員はもっと驚いていた。本来、会長の身分の人間が現場などあまり足を踏み入れないからだ。汚れるということもあるが、組織の中で見れば小さなこと故に。
「……そいつが何で盗んだのか、どうやって知ったのかくらいは聞いておきたい。今後の方針の為にもだ」
「分かりました。多少は、いえ……少しは汚い場所になりますが……」
組員はあまり大吾が来ることを歓迎していないらしい。それほどに、吐き出させる『場所』は壮絶な所なのか。返り血を少しでもスーツに付着してしまうくらいなのか。そう考えながら頷くと、組員が渋々と言ったような顔で「着いて来て頂けますか」と述べた。扉へと歩いて行くと、大吾はそれに着いていく。部屋から見れば、見張りの組員が目を見開いている。
「六代目、どちらへ?」
「野暮用だ」
そう返すと引き下がってくれ、普段は護衛をしている組員までも着いてくる。先頭には知らせてくれた組員が歩いているが、足取りが覚束ない。そこら中に見える赤色の絨毯を踏みしめていき、階段を降りれば他の組員までも驚いていた。しかし何も言わずに頭を下げてくれる。大吾はただそれを見た後に、本部の建物から出た。
組員たちに乗るように促せば、ドアを開けてくれるまずは大吾が乗った。そして組員たちが乗れば、目的地を聞く。返って来た答えは意外にも都内なのだが、奥深い所にあるのだろうか。そう考えながら車が発進した。
本部から目的地までは、ほんの十数分である。案外近い場所だ。部下たちの吐き出させる『場所』を全て把握している訳ではないので、大吾は車窓から見える都内の見慣れた風景を見た。
「あの中華料理屋です。自分の顔を店主が見れば分かりますので」
車から降りた際に組員が言えば、早速に古びた中華料理屋に入る。現在の時刻は昼食にするには中途半端なのか、客が誰一人居ない。そして店主が模範的な接客言葉を放とうとして口が止まる。組員の顔を見るなり「どうぞ」と、店の奥へと通される。油の焦げる、良い匂いがした。
まずはキッチンに入れば、料理人たちが仕込みや調理器具の手入れをしている。だがその後ろを歩いている大吾たちの存在など、見えないかのような仕草をしている。吐き出させる『場所』として利用されるのに慣れているのか、或いは関わりたくない故なのか。どちらなのかは分からないが、こちらとしては好都合である。
そしてキッチンの角に向かえば、そこには一つの扉があり、組員が開ける。すると地下へと繋がる階段があるので降りて行った。中は暗いのだが、先頭の組員が懐中電灯を持っている為に足元はどうにかなる。古びてはいるが手すりもあるので、それを伝いながら降りていく。降りきったところに、また扉があった。先頭の組員が扉を開ける。そこで油の匂いから一気に鉄の匂いがした。これは、確実に血の匂いである。空気がひりつくような気がした。
部屋に入れば、そこには薄く明るい電灯が周囲をぼんやりと照らしている。その下には一人の男が手足を拘束されて、椅子に座らされているのだ。この者が金を盗んだらしい。顔には複数の赤い切り傷から打撲痕まである。服はぼろぼろで、組員たちにそうされたのだろう。
「六代目!? お疲れ様です!」
その周りに数人の男が居り、スーツ姿の者からジャージを着ている者が居た。大吾を見るなり驚く。やはり自身がこのような場に居るのは異例らしい。様々な地位の人間が居るのだが、その中で大吾は見つけてしまう。峯が居るのだ。
つい峯の名を呼ぼうとしたところで、椅子に座らせている男が叫ぶ。それは腹の底から出す、悲痛なる叫びであった。
「ろ、六代目! 違うんです! 俺は、俺は! 家族を助けたかっただけなんです! 金が全く無かったんです! それで、せめてガキでも、養ってやりたかったんです! ガキに、何日も食わせていないんです! 俺と嫁はいいんです……! ですから……!」
すると周囲に居る男たちが一斉に「黙れ」と言い、数人が囲って男を殴る蹴るなどの暴行を加えていた。椅子に座らせられている男は口を閉じ、そしてこちらを泣きそうな顔で見る。助けて欲しいらしい。
だがこの男は悪いことをしたまでだ。表の世界で言うならば、人から金を盗んでからそう言うのに等しい。つまりは窃盗罪であり重い罪だ。この世界でも同じである。だから、今からこの世界なりの制裁を下すのだ。表の世界で裁きを受けるなど、決して許されないのだから。
すると男の近くに居る組員が、黙らせる為にまたしても一発殴る。既にぼろぼろの姿をしているので、威力は分からない。しかし殴られた方向に顔が動いたことから、相当なものだろうということは確かである。口の中はかなり切れているらしく、口の端から血を流していた。歯は赤い。
「うっ、皆さんだって、分かりますよね……家族を養う必死さが……」
「でもよぉ、お前金を盗んだじゃねぇか。峯が儲けた金を盗んだじゃねぇか。その金で家族を養うつもりか?」
情に語りかけるような言葉を放つが、一人の組員に一石を投じられる。そうなのだ。この男は、人の金を盗んだのだ。決してこの男の手柄ではない。峯の手柄でもあるのだ。
男が黙り俯くが、他の組員が顎を持ち上げた後にもう一度次は正面から殴る。もはや、負傷した数など数え切れない程に男の顔は打撲痕だらけだ。そしてその時に鼻の骨が折れたのか、血を流している。だが周囲の組員は平気そうに、もう一度殴った。血が更に散り、男に返り血が少し飛ぶ。
「おい峯、お前も一発殴ってやれよ。こいつ、家族のためにとか抜かしながら、金を盗んだんだぜ。それも、お前の金だったものだぜ。やっちまえよ」
そういえば峯の様子を見ていなかった大吾は、今更になってそちらの方を見る。峯は相変わらず無表情だが、いつもより顔が険しい。金を盗まれたことに怒っているに違いない。なので大吾が声を上げてしまう。
「峯、お前は怒りてぇんだろ?」
更に殴ろうとしていた組員が驚きこちらを見る。そして言葉を聞くなり、殴ることを止める。
峯の反応を見るのだが、やはり表情は変わらない。どうしたのだろうか。大吾としては、峯の人生にこの男の言うような貧困とは縁が無い筈だ。峯は一般的な道を歩いた後に、こちらの世界に来た。理由は分からないのだが、この男に同感などできる筈が無いだろう。いや。微塵もない。返事を窺う為に峯を凝視するのだが、峯は考えているらしい。痺れを切らした組員が峯に突っかかろうとするのだが、大吾がそれを声で制した。峯を殴る前に、組員はさっと身を引く。
「……六代目、私は怒りたいのはやまやまですが、問い詰めることが私の仕事ではありません」
とても理性的だと思った。大吾は頷いてしまうが、他の組員が首を傾げるばかり。するとドアが開いた。入って来たのは神田である。波乱を巻き起こす可能性があり、大吾が神田を注視した。
「おい、お前らどうしたんだ! はやくこいつを痛めつけてやれよ! なぁ……ろ、六代目!? お疲れ様です!」
神田はまずは男しか見ていなかったのだろう。次に周囲の組員を見た後に自身の姿を捉えたらしい。気付いた瞬間に、頭を深く下げる。
「俺はたまたま来ただけだ。気にするな」
「六代目! では、俺を助け……」
大吾の言葉にどうしてか男が反応していた。助けてくれるのだと、免じてくれるのだと勝手に希望を抱かれていたらしい。なので大吾は男の言葉を遮る。とても冷たい言葉を浴びせた。
「どうしてそうなる」
そう返せば、男ががっくりと項垂れた後に絶望を始める。ぶつぶつと人の名前のような言葉を呟くが、女のような名前などがあったことから貧困に喘ぐ妻子の名を呼んでいるのだろう。
しかし誰一人同情などしていないと大吾は見る。なので溜め息をついていると、神田が男に対して「お前の嫁は風俗行きだ」と軽く笑う。男は更に絶望していれば、神田の笑いは大きくなる。そして更に絶望を与える為に「ガキの臓器は高く売れるだろうなぁ」と笑った後に、男を思いっきり殴る。あまりの威力の強さに、男が声を出すくらいにだ。男の顔が血塗れになり、顔のどこかの骨が折れたのか人の顔の形を成さなくなってきている。見せしめの為にも充分に問い詰めたというのに、神田はやり過ぎだ。
「う……う……そんな……そんな……どうして、そんな……」
最早出す言葉が無いのだろう。男が涙を流せば神田が「うるせぇ!」ともう一度殴る。男の血や涙が床に散るが、このようなものなどただの染みにしかならない。
そこで大吾は峯からの上納金を盗んだ者、盗んだ理由を知ることができた。だが一つ、謎がある。どうやって盗んだのだろうか。峯の入金のタイミングなど、どうやって知れたのだろうか。
男と目が合うが、絶望しきっているのか虚ろだ。それに充血しており、もうまともな人間の見た目では無くなる。だがそれでも男を見続けていれば、口を震わせながら開く。衝撃の言葉であった。
「……そいつが、知っていて、教えてくれたんです」
男の視線の先には一人の組員が居り、周囲に注目をされると全力で否定をし始める。
「いや、こいつは何を言っているんですか! 違いますよ! だって……」
言い訳をしようとしたが、複数の組員が二人で話す様子を目撃していたと騒ぎ始める。それはどれも場所などが一致しており、更に日付も同じであった。これは黒であるだろう。
周囲の組員が一人の組員の身柄を拘束すると、粗末な椅子を一脚持ってきて座らせた。組員は抵抗したものの、複数人が相手となれば敵わなかった。椅子に無理矢理に座らせられ、他の組員の他に神田に鋭く睨まれる。
神田がその組員を見ると、ハッと驚いた。
「お前は確か……確か俺のところの……」
錦山組の会計担当の男らしい。すると神田が怒りに震えた後に、組員の顔を強く殴った。たった一発でもごきりと骨が折れた音が鳴る。そして皮膚が裂けてから出血をすると、あっという間に醜い顔になる。歯が折れたらしく、口腔内から唾液や少量の血と共に吐き出した。
「お、お前、言う、なよ……」
「俺を殴っただろ、道連れだ……」
両者睨み合ったところで峯の方を見ればやはり無表情である。しかし目を凝らして見れば、拳を作っていることが分かった。微かに震わせていて、それは近くに居る者でも分からない様子であった。自身とは違って皆、二人の『容疑者』を見ているのだから。
「……いやぁ、すいませんね六代目、うちの奴が」
そこで両手をこねながら神田が大吾に謎の媚びを売ってくる。何のつもりなのだろうか。
「はっ、そういや峯、お前も……」
「いや、峯は会計担当の奴にしか言ってねぇ筈だ。金を送る日時を報告するのは、普通だろ」
どうしてなのか庇ってしまっていた。いや、冷静に考えても峯の行動に何か不審な点は無い筈だ。何も知らないというのに、そう思ってしまっていた。峯を特別扱いするつもりはないのに。
「たしかに、そうですね……ハハ……おい、お前ら、一応聞いておくが、峯の行動で怪しいところは無かったか?」
神田がそう聞けば周囲がザワザワとし始めるのだが、峯の行動に不審点を見つけた者は居ないようだ。皆、口を揃えて「ありません」と言う。なので神田が少し考えた結果、峯は白ということになった。嫌疑を掛けられなくて済むのだが、峯はどうしてか自身を睨む。いや、見返りを求める為に峯を庇った訳ではない。決して、個人的な目論みなどないのだ。
「六代目、ご助言をありがとうございます」
神田が頭を下げるのだが、大吾は片手を上げて「いいんだ」と返す。すると神田の頭が上がり、二人の男へと視線を向けた。ボロボロの男は何も反応を示さない一方で、もう一人の男は体をガタガタと震わせていた。手足を拘束しなくてもいいのかと思ったのだが、これだけの人数の男が居れば問題はないだろう。
そして組員がどこからか工具箱を持って来た。所々が錆びており、開いて見せれば神田はまずはハンマーを取り出す。拷問では定番の工具である。しかし普段は拷問には使わないのか、手入れをしてあるのかは分からないのだがやけに綺麗だ。使用感はあるが錆びは見当たらない。
神田がハンマーを持てば、まずは最初の男の顔をそれで叩く。思いっきり振り下ろした。頭蓋骨が折れたのか凹んだ音がした。ぼこ、と妙な音が聞こえる。
「うわああああぁああぁぁあああ!」
もはや叫ぶしかできないのだろう。最初の男が体を必死にもがいたのだが、脳内に血が混入したのかもしれない。痙攣を何度も起こした後に、頭をがくりと落としてしまった。
失神したのか或いは、命を落としてしまったのかは分からない。大吾が居る距離では確認をできないと思っていると、神田が殴った男の首筋に手を当てる。脈を確認しているのだろう。このままでは死んだと思ったのだが、神田が「しぶといな……」と舌打ちをしながらハンマーを握り直す。男の目や鼻からは血が流れており、口からは浅い息を漏らしていた。まだ生きているのだ。
それを確認した神田はもう一度ハンマーを振り下ろした。今度はドンと大きな音が鳴ったかと思うと、男の頭から血が出ていた。頭をついに割ったのだ。男の瞳が上へと向いた後に、ぐるぐると回った。すると目を見開いた後に体からぐったりと気力を失う。ここで、人間の命が失う場面を目の当たりにした。この世界では当たり前なことであるのだが、大吾には既にその耐性がついている。目を閉じることなく、男の体がぐったりとしている姿を見る。
「……で、次はお前だな。そうだな……峯、お前がやれ」
「はい」
ハンマーを差し出せば、峯が神田の所に向かう。そして受け取った後に柄を握るのが分かった。周囲の者は「やれ!」や「やっちまえ!」などと騒ぐ中で大吾だけは峯を見据えていた。これが、峯の人生の中で恐らくは最初の殺人になるのかと思ったからだ。
峯を観察をするのだが、こちらの視線には気付かないのだろうか。今、穴が空くくらいに見つめている。それだというのに、峯はハンマーを見つめた後に会計担当であった男を見ていた。今、峯の心境はどうなのだろうかと聞きたくなる。あまりこのようなことなど興味は無いのだが、やはり峯のことであるので気になってきた。
「……一発でやっちまった方がいいですか?」
「お前に任せる」
「分かりました」
短い会話を神田としていたのだが、声には少しの震えを感じる。やはり恐れているのだろうか。いや、もしかしたら興奮をしている可能性もある。この世界に入って来たのならば、そのような嗜好を持っている者だって居るのだ。否定してはならない。
峯が小さく深呼吸した後にハンマーを上げた。会計であった男が「止めてくれ……!」と怯えているのだがもう遅い。多数の証拠を挙げられたうえでの罪は、消せる訳がないのだ。それに人間とはどの立場であっても悪者を見つけては、やいやいと正義の棒で叩くことが好きだ。誰もが持つ本能であるのだが、周囲の組員たちはそれに支配されている。この世界に居ても、正義の棒で人を叩きのめしたいのだ。殺すまで、ずっと。
峯がハンマーを振り下ろした。しかし頭の頭頂部には綺麗には当たらず、耳や側頭部にハンマーが擦れる。それでも痛みはあるらしく、会計であった男は痛みに苦しんでいた。耳の付け根からは血を流しており、しかもハンマーで上から下に振り下ろされたせいでちぎれているのが分かった。これだけでも、人間の体の一部が欠損しかけている。
「い、痛い……! う、うぅ……峯! もう、やめてくれ!」
「それは神田組長に言って下さい。俺は組長の命令に従っているだけです」
その言葉だけは、峯の声音に冷静さがあった。峯はこの世界に入って何がしたいのか。金はあるのでそれ以外でも何も考えられない。暴力か、いや峯はそれを好むからというのか。
大吾は少しの間目を閉じれば、次の瞬間には峯がもう一度ハンマーを振り下ろしていた。次は頭部をきちんと殴ることができ、骨が凹んだり軋んだ音が聞こえる。
「痛い痛い痛い痛い……! もう、峯……!」
「動かないで下さい」
「おい峯ぇ、ちょっと下手くそだなぁ。初めてだから仕方ないが、次やるときはもっと上手くやれよ。こいつの脳みそを見せつけるまでやっちまえよ」
神田が溜め息をつきながらそう言うと、峯は素直に従っていた。頷いた後に、深呼吸をする。その間にも会計であった男が助けを求めるのだが、周囲の組員は「殺せ!」と叫んでおり、神田もまた「やれ!」と大声を出す。それらに包まれながら峯が腕を上げた後に、ハンマーを思いっきり振り下ろす。ばき、と何かが破壊される音が鳴った。頭蓋骨を割ったのだろうか。ハンマーで叩いた場所からは血が流れていく。すると鉄の匂いが強くなっていくのだが、ここに換気扇というものはない。吸う空気が全て、死人の血の匂いであった。
頭頂部の真ん中ではないが、命中したらしい。会計であった男の口から変な声が出た後に何も言わなくなる。そして峯や大吾の方を見た後に、絶命をした。この男もまた目を見開いていた。周囲の組員たちや神田が歓声を上げる。とても嬉しそうだ。正義の棒を、ここまで振り上げることができたからか。一方で峯はハンマーを床に投げてから、会計であった男を見つめている。今の峯は、何を考えているのだろうか。
人の命は呆気ない、大吾はそう思いながら側近の組員に「帰る」と囁く。すると頷いた後に神田の方へ向かった。大吾が帰ることを伝えたらしい。するとこちらに向かって「六代目、お疲れ様でした!」と頭を下げる。喜んでいた組員たちが気付けば一斉にこちらに頭を下げた。勿論、峯もだ。唯一こちらに頭を下げていないのは、二体の死体のみである。
側近の組員に案内をされてからドアを開けてくれる。そして階段を上ってすぐにまたドアがある。それを開ければ、油の匂いが漂う厨房にまた入っていた。しかし血の匂いが鼻の中に残っており、すぐにそれに掻き消される。そして何だか眩しいが、厨房に居る者の服が白いせいもあるのだろう。厨房で働いている者たちは、こちらを見ようとはしない。視線も合わせてくれない。
その中を抜ければ中華料理店のホールに出た。客はやはり居らず、腕時計を見れば一時間しか経過していない。溜め息をつくと、そのまま中華料理店を出て車に乗った。行き先は自宅である。流れ行く街中の景色を見ながら、大吾は考える。
やはり峯がこの世界に入った訳を知りたいのだ。だがそれを知ってどうするのかは不明である。やはり大吾もまた欲深い人間のようで、そこからは峯のことばかり考えていた。遂には、次の上納金の送金があった時は何か礼をしなければならないなどと。
しかし峯は自身のことをどう見てくれているのか分からない。またしても流れていく車窓の景色を見る。どれもはっきりと見えず、まるでこちらから見た峯の心だと捉えてしまう。なのでいつ、くっきりと見えてくれるのかと待ち侘びてしまっていた。今か今かと。
数週間が経過した。峯からは変わらず上納金が送金されており、本部で会う度に礼を述べる。しかし峯の返事はとても呆気ないものである。当たり前かのような顔をしていた。
なので何度か飲みに誘ったものの、最中に何度か仕事の電話が掛かってきて断念させられたことがあった。それに、途中で峯が体調が悪いと申し出たこともある。とにかく、毎回何かしらがあってまともに飲めないのだ。だがこちらとしては金を優先して欲しいし、峯はまだ舎弟の身分である。あまり無理にはできないし、峯だけに構う訳にはいかない。あまりにも、偏りすぎるからだ。
なので今日も大吾は灰色の曇り空が上にある本部の会長室で、ノートパソコンで口座の入出金をオンラインで見ていた。他にすることもあるのだが、こればかり見てしまう。峯からの上納金の送金があるときは、こうして毎回だ。飽きもせずに画面を見ていれば、数字が変わった。入金がされたのだ。いつもの支店で、金額は毎回増えている。
正直、これほど金の面で働きぶりを見せていれば、舎弟から身分を上げても良いのではないのかと思えた。神田とて、入金する金額くらいは把握しているだろう。なのに峯は未だに舎弟のままで溜め息をつくと、ノートパソコンを閉じた。次に見るのは空で、そこでようやく仕事を思い出せば机に視線を戻す。机上には書類が沢山あり、ほんのたまに会長の身でなければと思ってしまう。しかし自身が会長に相応しいと判断されたのだ。なのでペンやたまに印鑑を握りしめ、書類に向かっていった。
空が橙色になれば、もうじき約束の会食の時間になる。今夜は取引先との会食であるのだが、相手は気難しいと有名の者であった。裏社会の人間であってもそれは変わらず、大吾は苦心をしていた。現在はこちらに若干の不利がある取引をしており、いつかは公平な取引に持ち込みたいと思った。他の者も「難しい」と言うのだが、仕方ないとは言わせたくない。なので闘争心を微かに燃やしていきながら立ち上がった。すると穏やかなノック音が二度聞こえ、側近の者だと判断した。少し低い声で「入れ」と促す。
「失礼致します」
入って来たのは側近の者ではない。険しい顔をした峯であった。大吾が驚きながら峯を見ていれば、次の言葉を吐いていた。
「あの、六代目……」
「何だ」
何か願いに来たのだろうか。なのでそう問うと、峯が予想外の返事をした。
「上納金に対しての礼やもてなしは嬉しいです。しかし……」
少し言いづらそうにしているが、峯の言いたいことは何となく分かる。つまりは礼などいらぬ、もてなしも必要ないと言いたいのだろうか。そう構えていれば、予想通りであった。
「私には大事過ぎます。それに、他の者にも同じ対応を取るべきです。話はこれだけになりますが……」
峯が最後まで言いかけたところで、大吾が諦めたくないと思った。やはりどうしてなのか、本心がそう思ったのだ。なので峯の言葉を遮るように、大吾が口を開く。
「いいじゃねぇか。組織とは、繋がりが大事なんだぜ? 気に入った奴にそうするのは自然だ。お前だって、会社の経営者だから分かるだろ? 組織を良くしてくれる奴とは、仲良くなりてぇだろ?」
悪気なく言えば、峯が黙る。返す言葉が無いのか。
確かに、峯に対しての礼などはやりすぎだと思える。組織のトップが末端の者にする礼としては過剰だ。しかしやはり気に入った者に対する礼儀としては普通のことであり、峯も分かってくれるだろう。そう考えていれば、峯が僅かに口を開く。それは大吾の言葉への肯定である。
「確かに、仰る通りです。ですが、何故、私を……?」
「理由なんていいじゃねぇか。それに、お前はうちに金をたくさん流してくれる……金も目的で汚いと思うが、理解をしてくれ」
「金……」
少しは腑に落ちたのか、顔に穏やかさが出てくる。このような顔を初めて見た気がする。幾ら褒めても、もてなしても見れなかった顔だ。それをこうしてふと見るのは幸運だと思えてしまう。
「……ですが、貴方とは……何もかもが違い過ぎる」
「違う、とは?」
違うの意味が分からなかった。何の違いか分からずに聞くが、峯は「いえ、何でもありません」と答えてから俯く。なので会長椅子からようやく立ち上がれば、峯の元に歩いていく。
あまり嗅いだことはないが、爽やかな香水の香りがした。これは、峯の匂いなのだろうか。
「なぁ、峯」
優しく語りかければ、峯の顔がびくりと動いた。驚いているのかもしれない。そう考えていれば峯が踵を急いで返して「失礼致しました」と言って部屋を出る。
峯のおかしな行動に首を傾げていれば、またノック音が聞こえた。これは聞き慣れているので分かる。側近の者のノックなのだろう。だがそれでも立ったまま「入れ」と言えばドアが開く。やはり側近の者であった。
「会食の時間になります」
「あぁ」
机に戻ってから鞄に書類を入れる。それに他の物も入れた後に、側近の者に着いて行く。本部を出る際には、すれ違う全員の組員が頭を下げてくれた。
車に乗ってからしばらく走る間に、大吾は考える。やはり峯にとっては迷惑だったのかもしれない。だがあのような態度をされていても、嫌いにはなれなかったし気に食わないなどとも思わなかった。
するともっと峯のことを知りたいと興味が湧いたのだが、これは何の感情なのか一旦立ち止まる。時折に左折や右折で体を揺さぶられながらも、大吾は髭のある顎に手を添えた。
友情、そのような言葉が出たのだがこの世界に存在するのだろうか。確かに信頼できる者ならば居る。例えば真島は外面ではまさに嶋野の狂犬とも言っていい振る舞いをしているが、根は芯が通っている上に実直だ。他にも信頼できない点が見つからない者も居るが、友情には結びつかない。全て、ビジネスの結びつきが強かった。
思えば友人と呼べる者は、人生に居ただろうか。金持ちのうえに親がヤクザとなれば、近寄らない者も居た。しかしそれでも近寄るのは、金目当ての者ばかりで上っ面だけの友情しか芽生えていない。
そこで今ぴんと来てしまったのが峯になるが、そういえば「何もかもが違い過ぎる」と言っていた。やはり峯も普通の家庭に生まれた人間だからか、あまりにもある大吾の出自の差にあまり近寄りたくはないのだろう。それに自身は東城会の会長であり、一方で峯は直系であるが一つの組の舎弟だ。比べるのはどうかと思うのだが、やはり差がありすぎる。
そう悩み初めていれば、会食の場となる料亭に到着した。会食といえど、商談も兼ねているのだろう。しかも相手は難しい相手だ。心の中で溜め息をつきながら、大吾は車を降りていった。
この日の夜、自宅に疲れながら帰れば大吾はリビングにある大きなソファに倒れる。やはり会食、いや商談の相手は手強くこちらに分が悪い商談で今日も終わってしまっていた。東城会の会長であるのに情けない。目一杯に空気を吸い込んだ後に、息を吐き出すが気分は疲れたままだ。
次回もこれからも分が悪い取引しかできないのだろうか。そう考えれば憂鬱になり、仰向けになって広い天井を見た。
だがこのようなことをしている場合ではない。シャワーを浴び、入りベッドに入って休まなければならない。休むこともそもそも社会人としての仕事に含まれているのだが、大吾の体はどんどん重くなっていく。なのでそのまま目を閉じれば、自然と眠っていった。
どれだけ眠ったか分からない。聞き覚えのある電子音が聞こえたのだが、これは携帯電話の着信音だ。誰かが電話をしてきているのだが、緊急事態であっての連絡などもあり得る。なので無理矢理に意識を起こしてから、皺だらけになったスーツのポケットを弄る。取り出した後に、若干重い声で通話を始めた。
「……もしもし」
『もしもし、俺だ。今すぐに』
「誰だ?」
通話相手がそういえば分からない。なので聞いてみた。
『俺だ。まったく……取引先の社長の名前も忘れたのか。峯義孝だ』
「峯……?」
電話の相手は峯らしい。しかしこれは間違えているのだと思い、大吾は名乗った。
「堂島大吾だが、お前峯か?」
『ろ、六代目……? そんな訳が……いや、確かに前に、六代目の名を騙って俺に電話してきたな……? 着信履歴から遡って掛けたんだが、間違えたのか? ……まぁいい。まだお前は堂島大吾会長の名を使っているのか?』
まだ峯は自身のことに気付いていないらしい。それにすぐに自身の電話番号を忘れてしまっていたらしい。大吾は思わず小さく笑っていれば、通話を峯から一方的に切られていたらしい。ツーツーという電子音が聞こえた後に、携帯電話を手放す。そして床に落とせば、目元を手で覆った。
会長の名を使っている、その言葉を聞いて少し傷ついてしまった。確かに会長に任命されたのだが、会長らしい仕事をできていないように思える。今日の会食だって、また上手くいかなかったのだ。大きな溜め息をつけば、寧ろ動く気になれた。なので起き上がってから、まずはシャワーを浴びる為にとぼとぼと歩いていく。今だけは、この家の広さについて後悔をしながら。
数週間後に、また峯からの送金があった。会長室でそれをリアルタイムで見るのが、恒例行事のようになっている。外は次は雨が降っており、これからの予定をこなすのが面倒だと思っていた。しかし今は手が空いているので、ちょうど机の上にある携帯電話を見た。そういえば峯は自身の番号を拒否しているのだろうか。そう考えながら着信履歴をかなり遡り、ようやく峯の電話番号を見つける。峯の電話番号は、どうしてなのか暗記してしまっていた。
これに掛けてしまおうか。そう考えていれば思い切って通話ボタンを押す。するとコール音が聞こえる直前に、ノック音が聞こえた。誰かが入って来るのかと思ったのだが、誰も入って来ない。そうしていると峯との通話が始まった。同時に会長椅子から立ち上がってからドアを開ける。すると目の前には、携帯電話で通話をしている峯が居る。機嫌が悪そうで、また迷惑電話だと思っているのだろう。ならば着信拒否でもしたら良いのだと思うのだが。
そこで大吾が笑った。峯の通話相手は、自身だからだ。
「よぉ峯」
「な……!?」
携帯電話のスピーカーから耳を離し、呆然としている。近くに居た見張りの組員が何だと見てくるが、この状態で峯の土下座を見せつける羽目になるだろう。なので峯の手を引いてから部屋に入れると、すぐにドアを閉めた。峯の様子は変わらない。携帯電話を落としたので、拾ってあげてから手に掴ませようとするのだが、手に力が入っていないように感じる。なのでポケットに入れてあげた後に、大吾は自身の携帯電話の通話を終えた。通話時間は僅か一分居ないである。
まるで凍って固まったように動かない峯が、膝をようやく落とす。視点を合わせるように大吾も床に膝を着ければ、そこで峯に話しかける。
「俺だったんだ。この前知らない電話の相手は。二度もすまねぇな」
はっきりと言えば、峯の顔が一気に青ざめる。今頃は、指を詰める本数などのけじめの内容を考えているに違いない。しかし大吾としては必要がないのだ。これはある意味差別かもしれないのだが、峯だからという単純な理由である。
「あ……その……申し訳」
「謝罪はいい」
「えっ」
情けない声で峯がこちらを不審げに見る。もしや怒っているとでも思われているのだろうか。
「俺が悪かったんだ。今まできちんとその番号が俺のものだって言わなかったせいだ。すまねぇな」
なるべく優しく声掛けるが、それでも峯の顔色は変わらない。なので溜め息をついた後に、このままでは話ができないと思った。なので峯をまずは立ち上がらせてから、大吾もまた立ち上がり肩をぽんと軽く叩く。
「俺は怒ってねぇし、お前に過酷なけじめつけさせるわけでもねぇ。大丈夫だ、いや、約束をしようじゃねぇか」
右手の小指を差し出した。それを見た峯が小指を凝視するだけで、体を微動だに動かさない。なので左手で峯の手首を掴むと、小指を無理矢理に差し出してから結ばせた。
「今回の件はお前は悪くねぇ。それに何も企んでもないから、安心しろ」
「は、はい……」
ようやく再び峯の声が聞けると、一安心した大吾が指切りの約束をした。それは今回の件は何も咎めないことだ。そして小指を離した後に、峯と目が合った気がした。真っ直ぐな目をしており、顔はやはり整っている。すると、心臓が発作を起こしたかのようにどくんと心臓が鳴った。これは、かつて若い頃に聞いたことのある音だ。
もしかしたら、どうしてなのか分からないのだが峯への感情が変わったのかもしれない。興味のある者或いは仲良くしたい者から、恋愛へと変わってきたのかもしれない。
大吾の中で動揺をして体を停止させていれば、峯がこちらの様子を窺う。体がぴたりと止まり、疑問に思ったからなのだろうか。
「いや、大丈夫だ……それより、もう電話の件はいい。俺に用があるから来たんだろう?」
「そうでした……私の経営している会社の現在の状況を報告しに参りました。白峯会を発足させることができ、これから上納金が更に増えます。それを報告させて頂きました。組長は現在不在なもので、私が直接です」
「なるほどな……」
遂に峯の能力が存分に発揮されるときがきたらしい。よく稼いでくれると神田が言っていたのだが、これは予想以上だ。今度、幹部会の時にでも神田に峯のことを褒めようと思ってしまう。脳の片隅にメモをした。
「私からは以上になりますが……六代目、本当によろしいのでしょうか? 私が、無礼を働いたことは……」
「いいって言ってるだろ。それとも、そんなにけじめっていうもんが知りたいのか?」
何となくそう聞いてみれば、峯の視線があちらこちらに動いていく。
「いえ、私は遠慮します」
「じゃあいいだろ」
会長椅子に座り直した後に、携帯電話を見た。まだ次の予定には時間があるのだが、どうにも峯と二人きりの状況が気まずいと勝手に思うようになる。やはり恋に変われば、自身の心境はまるで逆転したようだった。寧ろ会話が見つけられなくなる。
「それでは、今回はありがとうございました。お騒がせしました……ってあれ、携帯は……」
「ポケットに入れた」
指摘をすれば、すぐに気付いた峯が頭を何度も下げる。そして礼を述べた後に急いで部屋から出た。
一人きりになった大吾は、そこで今日はまだ雨が降っていることを思い出した。体を回し窓へと向けると、溜め息をついてからポケットを弄る。煙草とライターを取り出せば、火を点けてから煙草から煙を出させる。咥えてから数回吸うのだが、どうしても落ち着かない。やはり、峯との会話を思い出した今でも恋心など落ち着いてくれないのだ。
吸った煙を吐いた後に「恋か……」と呟く。女に惚れたのならまだしも、相手は男である。いや、この世界でも男同士で惚れ合ったという話を何度か聞いたことがある。確かに同じ世界の人間であり同じ性別ならある意味合理的かもしれない。
それにこれは純粋な恋であるのだが、大人になってからも存在することに驚いた。幼い頃に純粋な恋に夢見ていた時もあったのだが、心身の成長につれそれはただの夢でしかないと気付く。そうしたまま大人になっていた。なのに今になって純粋な恋をするとは。
灰皿に煙草を押しつければ、もう吸う気は無くなったので長いまま煙草を押し潰す。室内に煙草の匂いが充満すれば、それを吸った後に大吾は立ち上がる。
この純粋な恋をどうすれば良いのか、それは自宅に帰ってから考えることにしようと思った。なので仕事をするためにスケジュールを確認した。そういえば少ししたら規模の小さな幹部会があるのだが、今回は直系の組は抜きでのものだ。内容は簡単で、東城会の財政がまだ苦しいので上納金を増やすこと、それにシノギを増やすことが主題だ。峯の稼ぎでは今は足りず、少しでも他の組員を楽にできるくらいだ。だが将来的には、峯の稼ぎを収入の主にできることを期待していた。峯の働きぶりは会長としても良いうえに、とても自身に従順だ。東城会の良い人材になることに期待をしていた。
時計を見れば規模の小さな幹部会には余裕がある。なので窓から景色を見ていたのだが、雨が少しは止んできた。どうしてなのか心の詰まりが少しは取れたような気がすると、もう一本煙草を吸うことにした。会長椅子にもう一度座り、そして机の上に置きっぱなしにしている携帯電話を見る。そういえば、峯の番号はまだ通話履歴にあるのだ。なので電話帳にこっそり登録しておくが、そういえばどうして電話を掛けてきたのか理由を聞かれなかった。まだ自身が怖いのだろうか。
部下に『恐れ』を持たせるのも大事なのだが、やはりそれでは寂しいと思える。もう少し、フレンドリーになれないのか考えた。裏社会の人間が考えることではないのは分かっている。しかし威厳を崩してはならず、難しい。
ふと、もう一度峯に電話を掛けてみようと思えた。対面ならば、峯は少しは恐れを解いてくれるだろう。なので早速に電話帳から峯の名前を探すと、電話番号を見る。峯には、この後飲まないかという誘いをする為だ。
通話ボタンを押してからスピーカーに耳を当てれば、数コール後に峯が通話に出る。今度は自身の番号を分かっているので、相手が分からないということはないだろう。
『もしもし、六代目、いかがなさいましたか』
「峯、今何をしている?」
『今、会社のビルに向かっています。運転をしていますが……』
すぐに仕事に戻るつもりであったのだと分かる。大吾はこの誘いも断られるだろうと、意を決しながら酒の席に誘った。
「なぁ峯、今夜空いているか? よかったら、俺と飲まないか?」
『今夜ですか? えぇっと……申し訳ありません。今夜は予定がどうなるか分かりませんが……』
「じゃあ折り返し電話をしてくれ。じゃあな」
一方的に切れば、携帯電話を閉じた後に体を伸ばす。無意識に緊張をしていたことが分かるのだが、やはり峯に純粋に恋をしているせいなのかもしれない。
良い返事を期待すると共に、幹部会の時間を知らせる為に組員が入って来る。なので大吾は会長室を出てから会議室に向かうのだが、部屋に入れば神田が居た。今回の幹部会は直系の組は対象でないというのに。
「神田、お前は錦山組だろう? どうしてここに居る」
「いやぁすいません六代目。俺も、この幹部会を傍聴するだけでもさせて頂きたいと思いましてね……へへ」
胡麻を擦るように神田が両手で揉むジェスチャーをするのだが、今回の幹部会で自身の組の存在をアピールしたいのだろう。峯というカードがあるのだから。
そこで大吾は思ったのだが、この幹部会をきっかけに峯の地位が少しでも上がればいいと思った。他の組員を踏み台にさせるのは申し訳ないのだが、これは峯には当然の権利だと思えた。かなりの金をこちらに流してくれるのだから。
「分かった。いいだろう。だが、発言したかったらきちんと俺の許可を得てもらおうか。それができなかったら容赦なく追い出すからな」
「はい、分かりました」
神田が畏まれば、そこで幹部会に参加する者たちが揃っていることに気付いた。神田がどうして居るのかざわついているのだが、大吾は単に「自身の許可を得ている」と話せば落ち着いた。なので幹部たちが並んでいる奥のソファに座れば、幹部会が始まった。
幹部会が終わった。内容はこちらに流す金を少し増やして欲しいというものだが、どの幹部たちも難しい顔をしていた。峯のようにホイホイと増やせることが異常なのだ。それに気付いていながらも、大吾自身が頼み込んだ。すると幹部達は考えてみるという答えを出してくれて、安堵をする。同時に神田が自身の許可を得てから発言をした。幹部会が終わる頃だ。
それは他の幹部に比べてこちらはかなりの金を流している、というものだ。これは全て神田の手柄ではないのだが。わざわざそれをアピールしに来たらしい。
だが大吾にしてはそれは峯を昇進させる良い機会であった。まずは神田のことをそれなりに褒めた後に、峯のことを聞く。そうしていれば、かなりのことを話してくれた。
まずは峯は、東城会の大黒柱になりたいらしい。これは大吾にとっては朗報である。なので峯についても賞賛をすれば、どうしてか神田が頭を弱く掻いていた。
そして峯を舎弟のままにするのは惜しいのではないのかと提案すれば、神田が考える。今まで考えていなかったのだと驚くと同時に、神田に対して内心で溜め息をついてしまう。本当に、自身のことしか考えられないのかと。
検討をして欲しいと告げてから、そこで幹部会を終える。少しの部分は、錦山組について話している気分になっていた。
会長室に戻れば、あとは残りの書類を片付けるだけである。それらをこなせばもうじき帰る時間になっていた。最近は峯の金もあって時間にも余裕ができた。なので今夜峯と飲む際には盛大にもてなさないといけない。それも、上司の仕事なのだから。
空の雨雲が少しな流れていくのを見た後に、大吾は書類とのにらみ合いを始めた。
日が暮れ、ようやく本日の書類を片付けた。しかしまた明日になればまた、白黒の書類を見続けなければならないだろう。いつの間にか手に少しついていた、判のインクを見ながら思う。
携帯電話を見れば峯からはまだ連絡が来ていない。峯をもてなしたい気持ちが強い。なので携帯電話の電話帳を開いてから、峯の名前をじっと見る。今すぐにでも電話をしたい気持ちがあった。今は密かに峯に恋をしてしまったのだが、この気持ちはどこにぶつけたら良いのかと考えてしまう。言ってしまうべきか、このまま感情を表に出さないまま人生を終えるか。どちらかになるのだが、生きている世界からしてどちらも、最終的には不幸になる予感しかしない。
まずは前者はどちらかが先に死ぬこともあれば、何か悪事を働いて内部で殺されることもある。後者は大吾だけが悲しい思いをするのだが、人にただ片思いし続けるのは地獄だと思えた。一生、想いを口に出さないのだから。
いっそ自身がこちら側の人間でなければ、という感情が過る。だがそれはよくない考えだ。この世界に居たからこそ峯と出会えたのだ。あのまま、前のように居続けたら峯とは一度も出会えることができなかっただろう。
液晶画面で峯の名前を眺めていれば、突然に画面が切り替わった。着信を知らせるもので、無機質な音楽が鳴る。峯からだ。しかしこのまますぐに出るのは恥ずかしいと思えた。なので数秒待ってから通話を始める。まるで着信音に気付いてから、携帯電話を取り出したかのように取り繕うように。
「もしもし」
『もしもし、六代目、お疲れ様です。今夜の件ですが……』
「あぁ」
心の中ではかなりの期待を寄せていた。今から峯と酒の席を共にできるのではないのかと。なので携帯電話を強く握りしめる。
『申し訳ありませんが、また今度にさせて頂けませんか。今、立て込んでまして……本当に、申し訳ありません』
「いや、いい。うちの為にも働いてくれてるんだ。これからも期待しているぞ。じゃあな」
通話を終えれば、しっかりと東城会の会長らしい会話ができたのか考える。しかしどうしてなのか通話しているときの会話を忘れてしまう。そして心臓が何度も何度も鳴っていけば、緊張していたことが分かる。
ここまで人と話していて緊張したことはない。やはり恋というものは、ここまでにさせることを実感した。
机の上に置いている煙草を取り、ライターで火を点ける。その手が震えており、相当に峯に惚れてしまっているのが分かった。そして今更になって峯に断られたことがショックに思えれば、煙を吸ってから吐く。
先程思っていた、想いを吐き出すか否かについて考える。しかし考えれば考える程に、峯への想いが辛くなり煙草を吸うことを忘れてしまっていた。高価な机の上に灰をこぼしてしまえば、自身の重症さに笑う。恋は病とはこのことだ。一人で笑った後に、あまり吸っていない煙草を灰皿の中で潰していく。
携帯電話を再び取り出すが、運転手に電話を掛ける。自宅まで送って欲しいと伝えれば、本部の前に車を停めていると言う。気が利いていると思いながら返事をすれば、会長椅子から立ち上がり携帯電話や煙草などをポケットに入れてから会長室から出た。
そして帰宅をするのだが、シャワーを浴びてからはすぐにベッドに入ってしまう。何もやる気が起きないのだ。なので携帯電話を開いてから電話帳の峯の名前を見る。
「峯……好きだ……」
そう呟いてしまえば、顔が熱くなっていることに気付く。すると峯のことを意識してしまうのではないのか、本人に気付かれるのではないのか。それらに恐れると、大吾は体をシーツでよく包んでから目を閉じていた。だが瞼の裏にも峯が存在している。
もう、峯のことしか頭にないのだと実感していた。
しばらくしてから、峯の地位がようやく上がり始めた。立ち上げた白峯会の存在や金のこともあるのだが、峯自身が活躍することにより神田に認められたのだ。だが明かりが強ければ影は濃くなる原理と同じで、峯のことを想わない者たちは少なくない。特に同じ組からの不満が目立つような気がした。だが自身にはどうにもできないし、組長である神田に何か言う資格もない。黙る。
結果として錦山組若頭補佐に短い期間で登り詰めるのだが、それでもやはり悪く言う者は減らない。寧ろ多くなる一方であった。
何度か直系を抜きにした幹部会を開いていたのだが、峯の話題が度々に上がる。主に金の面でだ。それは良いのだが次に挙がるのは素行について。若頭代行となり神田に認められることは、即ち野心が強いと見なされる。実際にあまりにも義理が薄いやり方に、不満の声が上がってきていた。それを直に聞いていた大吾なのだが、何か理由があるのかもしれない。そう思いながら、峯のことを少し心配していた。
あまり懸念していなかったことなのだが、事件は起きた。傘のいらない、小雨が降る頃である。峯のことを悪く思っているだろう者たちに襲撃をされたのだ。襲撃をした者たちの動きは当然ながらに把握していたので助けに向かった。戦闘に関しては精鋭の者を十名以上連れて。
状況は最悪で、捕らえた峯を一方的にリンチにしようと、峯を椅子に縛りつけていたのだ。格好はワイシャツとスラックスのみであり、まだ人間性は保証されていた。場所はあの、中華料理店の汚い地下で拷問紛いの処刑が行われる寸前である。他にも場所の候補はあったのだが、ここが一番最初に思い浮かんだ。どうしてなのだろうか。
峯を囲う者たちはそれぞれ拷問器具を手に持っていた。中には峯が初めて人を殺したハンマーを持っている者も居り、とても残酷に思えた。峯が初めて人を殺した場所と道具で、殺されかけるからだ。
峯が連れられた場所は大吾の勘であったのだが、運良く合っている。安堵をしたのだが、地下の扉をこじ開けた時の組員たちの顔はまさに青ざめていた。自身の顔を見るなり「ろ、六代目……」と言った後に、辻褄の合わない言い訳を口にしていたのだが言語道断である。
それに大吾には表面上では、収入の面で居なくなったら困るというものもあった。なので容赦なく峯と捉えた組員たち、総勢十名近くだが銃は使えなかった。この部屋が銃声によって一般の者に知られる恐れがあるので、刃物で刺し殺していく。狭い部屋なので少し歩いただけで峯を囲う者たちに接近できた。
この部屋が更に鉄の匂いに塗れる。そして死体の小さな山がすぐにできていた。素直に首や頭、それに心臓を狙われており、血に汚れて死ぬことはなかった。あまり苦しんで死ぬことはなかった。そこが悔しい点だと思える。そしてスーツのジャケットのピンバッジを見れば、錦山組を含む直系の組と直系でない者が入り交じっていた。組を越えての、峯を消す計画であったのだろう。
ようやく脅威を取り払うことができたのだが、峯の体はぼろぼろである。拘束を解くと、こちらを不思議そうに見ていた。まるで、牢から出たかのようにきょとんとしている。しかし今の状況をようやく理解できたらしく、汚い床に整った額をじりじりと擦りつけて礼を述べてくれていた。大吾は峯に顔を上げさせる。
複数人の者に暴行を加えられたらしく、見える皮膚は青かったり赤かったりしていた。口の中は切れており、唇の端からは血が流れている。なので清潔なハンカチを取り出してから、峯に差し出した。峯の目が見開き、そして目が合う。
「……六代目!」
「助かってよかった。お前はうちにはなくてはならない存在だ。もしも万が一のことがあったら、俺も困るんだ。とにかく、助かってよかった。これは使ったら捨ててくれ」
片膝を着き峯と視線を合わせながら本心を述べる。すると峯の瞳からは涙が垂れていた。見たことのない、峯の涙だ。透明で純粋な色をしている。ハンカチを受け取った峯は、貴重な物を扱うかのように大事に手に持つ。汚い床に決して落とすことが無いように。
すると峯が何かに囚われていたことに気付く。ようやく分かったのだが、人からの信頼に飢えていたのだろう。今まで気付かなかった自身に悔いるものの、一秒でも早ければそれでよかった。
峯は涙を流し続けながら自身にしがみつこうとする。その姿を見て背中に手を伸ばし、優しく擦ると嗚咽が聞こえてきた。
「この恩は、一生忘れません……六代目……」
「分かったから。怪我をしているだろ? 病院に行こう」
「はい……」
涙が尽きることは無かった。厨房に出て、裏から店を出て表に停めてある車に乗せる。ボロボロの峯には不釣り合いであったが、今はそれどころではない。
裏の繋がりがある総合病院に電話をしてから、受け入れ許可を貰えばすぐにそちらへ向かう。なるべく早くと言ったせいで、いつもは穏やかな運転が荒かった。それくらいに、自身の命令に忠実である証拠である。口を挟むことも、文句を言う気など全くない。
ようやく病院に到着してから医師による検査や診察が行われた。大吾も立ち会っていたのだが、そこで峯の彫り物を初めて見る。それは、綺麗で立派な幻獣である麒麟が描かれていた。大吾がそれに見惚れていれば、医師からの診断結果が下される。肋骨に何カ所かのヒビが入っているだけらしい。正に不幸中の幸いであった。大きく安堵したのだが、念のため一日入院を言われる。峯はそれに素直に従った。
ボロボロのワイシャツではなく、清潔な患者服に着替えさせられた。そして与えられた個室に入れば二人きりになる。これは大吾があえて人払いをしたのだ。峯と二人きりになれるタイミングなど、無いと思ったからである。自身が待望していたことなのだが、いざ二人きりになれば、自身の心音がよく聞こえた。峯は何も喋らず無音で、この心音が聞こえるかと思ってしまう。
部屋は薬品の匂いなどなく、無臭に近い。だが鼻の中に鉄の匂いがこびりついているので、少し不快な気分になってしまう。しかし今は峯と二人だ。そのような顔をしてはいけないと、必死に顔を取り繕った。
大吾の胸が更に高鳴るものの、ここは今の立場として相応しい言葉を峯に捧げなければならない。なので考えていれば、先に峯が口を開く。
「ありがとうございました」
言いながら頭を下げてくれるのだが、もう礼は受け取った。頭を無理矢理に上げさせれば、峯は涙を流していた。あの峯が、涙をだ。
「俺……この世界に入ったのは興味本位もあったんです……」
峯の口調はどこか砕けている。それくらいに峯の感情が収まらないのだろうか。
「興味本位?」
この世界に入る理由などあまり聞く気はないのだが、やはり峯のことは気になる。なので相槌を打てば、峯が話してくれる。
「……俺の元には、金目当ての奴等しか集まらなかったんです。だから、この世界の深い絆っていうやつに憧れて、入ったんです。だけど、表と同じ……そう思っていましたが違いました。大吾さん、貴方だけは他の奴等とは違います。大吾さんとしては、一構成員でしかない俺を、わざわざ助けてくれたからです」
峯を助けた理由に金のこともあった。しかし峯が、自身の汚れた膝を指差してから言ってくれる。これは峯を助けた時に、あの『部屋』で膝を着いたせいであった。あの時は口もだが、体も自然に動いていたのだ。それを忘れていた大吾が頭を掻きながら笑うと、峯も笑みを見せてくれる。これは峯なりの信頼の証なのだろう。
「俺はまだ錦山組の若頭補佐でしかありません。ですが、いずれかは大吾さんの元で心身を尽くしていきたいです。これが俺のここに居る理由になりました。なので大吾さん、これからもよろしくお願いします」
今からの峯は、自身に忠誠を捧げてくれる者となったのだ。大吾は嬉しい反面、抱えている想いをどうすればいいのか悩んでしまう。このまま告白をしたとしても、峯は無理に付き合ってくれることになるだろう。頭を垂れさせる存在からの頼みだ。人間、そうなれば無理に聞いてくれる性質がある。つまりは、その存在に嫌われたくはないのだ。
無理に付き合ってもらうのは困る。だが想いをぶつけたくて、堪らないのもああった。これをどうしようかと思っていたのだが、一旦冷静になる必要がある。なのでここで今日は峯と分かれることにした。次の予定がある振りをしたのだ。携帯電話を取り出す。
「本当によかった。峯が無事で……じゃあ、俺はここで、もう少ししたら商談があるんだ」
携帯電話を見た峯が畏まる。その際に背筋を伸ばしたのだが、やはり肋骨にひびが入っているのであばらが痛いらしい。顔を大きくしかめた。整った顔が乱れるところを見た大吾は、胸を疼かせる。その表情が、本能が良いと言っているのだ。しかし理由も何も分からない。
「……ッ! そうですか。ここまでお付き合い頂き、本当に感謝致します。それと、先程は言葉に失礼がありました」
「いや、大丈夫だ。明日退院だが、俺は行けそうにない。すまねぇな」
「いえ、お構いなく。それでは」
部屋を出てから携帯電話を開きながら歩く。このフロアは人気がなく、本当に総合病院なのかと思えてしまう。ここはVIP専用フロアというせいもあるのかもしれない。エレベーターの前まで向かえば、そこでようやく運転手に電話を掛けた。本部までと伝えれば、表の駐車場に待機しているとのこと。気が利くと言えば、嬉しそうにしていた。通話を終えた後に、エレベーターで最下層まで降りる。
そして一階の受付などの前を通るのだが、ここに居る皆は誰も自信がカタギではないと思っていないのだろう。当たり前だ。今は見張りも側近も傍に居ないからだ。病院から出れば、そこでようやく側近が後ろを歩く。まるで普通の歩行者のように。
「本部に行く」
「はい」
振り返ることなくそう呟き、そして車に辿り着く。返事をした側近なのだが、運転手が車のドアを開けたところで都会の喧噪の中に消えていった。まるで、影のようだった。
車に乗れば、すぐに本部へと向かって行く。途中で前後に挟まってくる黒い車は、ナンバーからして同じ東城会のものである。大吾だってナンバーを把握しているので分かった。峯との二人きりの空間が少し恋しくなったのだが、ある意味この人という檻に囚われているのかもしれない。自嘲気味に考えてから、車窓を見る。
峯の顔を思い出すのだが、まず過ったのが痛みに歪ませた顔だ。いつもは涼しい顔をしているというのに、先程はそのような顔を見せてくれた。瞼の裏に丁寧に焼き付いてしまったのだ。
だが次第に本部へ近くなってきたことが分かれば、現実へと引き戻される。そこで檻に入っているのは自身もだと思えてくる。それでも峯は何に囚われているのか分からない一方、やはり自身は人間という檻に入っているのだ。守られているという言い方もできるのだが、人間で作られた檻に入っている方が表現が正しいのかもしれない。
溜め息をつけばバックミラーに写る運転手の顔が強張った。運転に何か悪い点があるとでも思ったらしい。なので溜め息をつくことを止めるのだが、それでも運転手の顔は変わらなかった。
結局、東城会本部に到着してからもその顔は続いていた。
本部へ来たのは理由がある。まずは臨時の幹部会を開き、峯を拉致した者について聞き出すことだ。場合によっては血が流れることも想定する。懐に使い慣れた拳銃を一丁忍ばせ、会議室の奥にある椅子にゆっくりと座る。その頃にはまだ怒りが湧いておらず、ただ犯人を突き止めたかったのだ。
臨時で開く幹部会であるので、自身が最初に部屋に居るのは当たり前だと思っている。幹部会に呼ばれた者たちが大吾の顔を見る度に驚いていた。何これは一体、事なのかと。
拉致した者たちの組の者については密かに睨みを利かせた。すると一番手前に座った真島や柏木が、どうしたのかと聞いてくる。表の立場では自身が上なのだが、本当はこの二人の方が上であり自身は下だ。なので小声で「後で話します」と答えれば、二人は黙って幹部会が始まるのを待つ。
空席が無くなったところで、ようやく幹部会が始まった。参加者たちの殆どがざわめきながら、大吾の言葉を待つ。
「よく集まってくれた」
まずはねぎらいの言葉を出すのだが、参加者たちの緊張は解けていない。やはり緊急で幹部会を行うことが、あまりにも異常だからか。
そして次の言葉は、峯を拉致した組員が所属する組の名前をすらすらと呼ぶ。その中には風間組や真島組は含まれておらず、寧ろ錦山組が多かった。組長である神田が、椅子から勢いよく立ち上がり異議を唱える。
「ろ、六代目! 俺の組がどうしたって言うんですか!?」
「最後まで話を聞け」
神田が関与しているのは分からないのだが、まだそれは判明していないことだ。それでも神田を強く睨めば、神田が無言で頭を下げてから椅子に座る。大吾は神田の様子からして疑ってしまうが、怪しいという一言で罰を与える訳にはいかない。唇の動きを無理矢理に変えてから動かす。神田に向けて「お前が悪い」など、絶対に言ってはならない。
「今や東城会の資金面では大黒柱になっている峯が拉致された。それに、神田組の奴数人が関与していた。他にも俺がさっき言った組の奴も居るんだが、神田組が一番多い。これに、他にも関与した奴等を洗い出せ。死なせるな。生かして俺に差し出せ。理由をじっくりと聞いてやる」
喋っていく毎に、峯を拉致したことについての怒りがようやく湧いてくる。今まで峯を助ける一心、そして安堵包まれていたからだ。
体中の血が巡りそして沸騰していくのだが、柏木が「落ち着け」と言ってくれる。まだ確実に洗い出せていない事柄だというのに、あまりにも感情的になりすぎた。なので一言だけ返事をしてから咳払いをすれば、再び室内にざわめきが起きていく。
「ふーん、で、洗い出して、どうするんや? 特に錦山組とかなァ」
真島が鶴の一声のようにそう言えば、ざわめきは一瞬にして消えていった。そして皆が神田の方を見る。
「然るべき処罰を受けてもらう」
大吾の言う然るべき処罰とは、最悪の場合は処刑などではなく破門なのかもしれない。この世の法律はまだヤクザにとっては緩いものの、元ヤクザとなればそれまた肩身が狭くなる。法律の面や、世間の面でも。生き地獄と成り果てるのだ。
参加者たちは想像したのか怯えたものの、柏木と真島は関係なさそうにしているのか何も言わなかった。寧ろ椅子にどかりと座り、周りのリアクションを見ている。大吾はこの二人の組はシロだと、何となく思えてしまう。
「以上になる。質問はあるか?」
話を終えてから質問を促してみるのだが、誰も質問しなかった。なので臨時の幹部会を終えるのだが、すぐに神田がこちらにやって来た。懐にしまっていた拳銃の存在を意識するものの、神田は予想外の行動を取る。土下座をしたのだ。
「俺は! 俺だけは峯の拉致に関与していないんです! ですから、俺は! 俺のことだけは大目に見てやってくれませんか!」
人間が高価なカーペットに額を擦りつけている様は、何とも無様なのだろうか。思わず笑いたくなった。それに処罰の内容の緩和を求めているのだが、大吾には全く関係がない。ただ、峯の復讐を代わりにするだけなのだ。
未だに退室していなかった柏木や真島がそれを見る。
「神田、お前のことはまだ分からねぇだろ。六代目を困らせるな」
そして柏木が神田の土下座を何とか止めさせたものの、顔が真っ青になっていた。
「で、ですが! 六代目!」
「くどい」
たった一言で神田を一蹴した後に、部屋から出ようと椅子から立ち上がった。まだ神田が頭を下げているのだが、瞬く間に全身が怒りに包まれてしまった。膝を相変わらず着いている神田を蹴り上げたくなったのだが、その衝動を耐える。今ここで情けない振る舞いをしてしまえば、会長としての信頼が失墜すると思ったからだ。何度も呼吸を繰り返しながら、怒りが過ぎ去るのを待つ。
「俺はよぅ分からんけど……大吾、落ち着けや。俺だって、太い資金の柱が壊れかけた危機感はあるんや。やけどな……」
真島がそこで口を開く。最初は元の声音であったのだが、次第に低くなっていた。自身のやり方に、大まかには賛同してくれているらしい。
「もっと穏やかに対応した方がええで。偽物掴まされて、足元を取り払ってくる奴も居るんや」
「……はい」
言う通りである、冷や水を掛けられた気分になれば、徐々に怒りが鎮まっていく。そしてあるのは、今回の事件をどう解決するかだ。
「まぁでも、少し、やり過ぎと思うんやが」
真島が自信の汚れた片膝を凝視する。
「やり過ぎとは……?」
「また探せば、峯みたいな太い資金源が現れるかもしれんっちゅうことや。それは、運でしかないんだけどな……んじゃ、ほな、またな大吾」
ひらりと手を上げてから振った真島が部屋から去る。それを見た柏木が溜め息をつくのだが、真島の意見に反対はできないらしい。なので改めて言ってくれる。
「あいつの言う通りもあるかもしれねぇな」
そう言えば次は柏木が去るのだが、未だに神田は頭を垂れている。正直、もう神田を説得するのは面倒になってきた。次のことを考えなければ、と土下座を続けている神田を無視して会長室に戻った。
椅子に座ってから携帯電話を握りしめる。今、峯はどうしているのだろうか。携帯電話片手にでも、仕事をしているのだろうか。同じ組の者に拉致をされ殺されかけ、怒りをどれくらい感じているのだろうか。
今更になりそれらを知りたいのだが、知ってどうするのかと思った。いや、好きならばどうでも良いことでも知りたいと思えた。それもまた、人間の本能の一つなのだろう。大吾の場合は、あまりにも峯のことに傾倒し過ぎているのもあるのだが。
結局その日は、手つかずのまま残りの時間を過ごしてしまった。
翌日になったのだが、昨日よりも雨が降っていた。傘は必要なくらいに雨が強い。
朝一番に峯から退院したという連絡を入れてくれた。それは、今日もまた東城会本部で仕事をしようとした時である。携帯電話を力強く握った大吾は、思わず会話を続けようとしていた。具合は聞いたのだが、今は大吾が代わりに復讐をしようとしていることも伝えたくなる。そうして、峯を喜ばせたいからだ。喜ぶ顔が見たいからだ。
しかしその欲を抑えた後に、通話を終えると机の上に突っ伏してしまう。何をしようとしているのだと。
想いの行き先を迷わせていた。犯人を突き止めることの次に出るのが、大吾のその感情である。峯のことを好きという感情である。まだ伝えるか心に封じておくか悩んでいた。どちらにせよ同じ闇や血を被るのだから、結末は同じだ。だが、足掻くか否かの話にもなる。
そこで前の真島の言葉を思い出す。自分に正直になることも大事だと言っていた。確か、峯がこちらの世界に来た頃のことである。しかし大吾は正直になりすぎて、行き過ぎた復讐をしようとした。無駄な復讐を加えようとした。反省はしている。今は熱くなりすぎた怒りは無い。平温を保った怒りしかない。
「俺って、今までどうやって生きてきたっけ」
たかが一人の人間への感情の伝え方が分からない。傷はどうせつくだろう。それでも、想いは変わらない。峯のことがどうしても好きで堪らない。数回酸素を取り込み、二酸化炭素を吐いていく。煙草も吸ってみるかと懐からライターを出したのだが、どうやら煙草を忘れたらしい。
煙草を吸うということは、思考整理に繋がる。それができないとなると憂鬱なのだが、誰かに買いに行かせようかとも思った。しかしそれだけのことで頼むのも面倒だ。なの深い溜め息をついていれば、扉からノック音が聞こえた。これは聞いたことのあるノック音なのだが、一瞬峯かと期待してしまう。だが音からして側近の者なのだろうか。とりあえずは入室を促す。
「入れ」
「はい」
聞いたことのある声だ。そう思って扉を見れば、そこには峯の姿があった。整った顔には所々に処置の跡などがあり、少し見慣れない。
息を切らしており、スーツはやや乱れている。こちらに、急いで駆けつけてくれたのだろうか。思わず、大吾が立ち上がりかける。
「峯……どうした。退院してすぐここに来ていいのか?」
「その、昨日の礼を、改めてしたいと思いまして」
「礼……? もういいんだ」
あくまでも冷静に返事をするのだが、興奮が抑えきれない。それに煙草を忘れたのでそわそわとしてしまう。だが懐にはライターしか無いので、いつもの煙を吸うことはできない。余計に心がざわついて、峯の言葉にノイズが入っていく気がした。息切れをしている様子はもうない。
「ですが……」
あまりにも峯が謙虚であるので、そこで大吾の平温であった怒リに薪がくべられたような気がした。今の復讐の状況を、伝えたくなったのだ。先程あった、ノイズが消えていく。
「峯……今は、お前を襲ったことに関与した奴らを探している」
「えっ……?」
喜んでくれるかと思った。峯の為に自身が動いてくれることを喜んでくれるかと思った。
「あの、六代目……それは、どういう……?」
だが峯は大きく動揺している。まるでこちらが、予想外の行動をしているような気分になった。なので遂には意味のない身振り手振りで説明をしていく。どうしてなのか、顔から汗がよく流れてくる。
「お前が被害に遭ったから、俺が懲らしめるんだ。つまりは……」
「私の代わりに、復讐でもするつもりですか。私の代わりに、罰を与えるつもりですか」
「あぁ……」
次には俯いており、峯の顔が暗い。どうしたのだろうか。
「ですが……失礼ですが私はそれを望んでいません。どうせ、またしても私のことをよく言わない人間が出るのは分かっていますので。貴方はやり過ぎです」
「だがなぁ……!」
「即刻止めて下さい。貴方にしたら無駄な時間にしかなりません」
口調は冷たいのだが、心から軽蔑しているような感じでは無さそうである。峯は、言葉の最後に「私如きが申し訳ありませんが……」と、ばつが悪そうに付け足したからだ。
「……だがもう犯人捜しの要請を幹部会でしちまった。今度は気を付けるし、お前に変な奴がつく気配もないだろう」
そこで真島の「やり過ぎだ」と言われたことを思い出せば、やはり自身がやっていることは過剰なのかと思えてくる。峯が言っていたことも反芻していけば、ようやく正気を取り戻せる。
「……すまねぇ」
「貴方は悪くありません。油断をしていた私が悪いのですから。今後は気を付けますし、貴方は貴方がやるべきことをしてください。お願いします」
頭を下げる必要などないというのに、峯が深く頭を下げていた。大吾はそこで、峯が求めている深い絆を自身が作れることに気付いた。峯を助けてから、どう見ても態度が柔らかくなっているのだ。
いや、作れる可能性というべきか。とにかく、もしかしたら理想でしかないが兄弟にもなれるかと思った。想いもあるのだが、叶わなくとも良いのではないか。峯が柔らかくなってくれているのだから。
「分かった。だが今回は幹部会で……特に神田にかなり言っちまったが……」
「神田にですか? ふふっ」
峯が笑った。あの峯が。驚いた大吾は、脳裏や瞼の裏に刻みつける暇もなく時が通り過ぎてしまう。もう、峯の笑った顔を鮮明に記憶できる時間は過ぎてしまったのだ。
しかしもう一度見たい。そうするにはどうすればいいのかと、自然と椅子から立ち上がってしまう。峯は自身が神田の肩を担いでいると思ったのだろう。びくりと反応し、失言したと慌てている。峯であっても、そのような場面があると思って意外だ。だが今はそれどころではない。神田の肩を持っていないことを証明しなければならない。
「お前を襲った奴は、錦山組の奴等が多かった。だから神田に諭されたと疑っているが、証拠はねぇ。だがどうにも神田は怪しいんだ」
「少し、私もそう思っていました」
言葉だけでも峯の警戒心は解けたらしい。再び笑みを浮かべてくれれば、それを心の中で必死に刻みつけていく。これで、もう二度と見られない可能性も考慮して。
「六代目……貴方とは話が合いそうです。また、お話ができればと思いますが……」
「だ、だったら、今夜飲まねぇか? 空いてたらの話なんだが……!」
「喜んで」
返事を聞き、大吾は歓喜をしかけた。やはり峯という男の間に、恋愛は無くとも深い絆が結べると思った。峯の求める、金では買えないものを与えられると思った。
なので礼を述べれば、落ち着く為に椅子に座る。そして咳払いをした。一度ではなく、三度も。
「……で、場所は前飲んだあのクラブにしよう。場所は覚えているか?」
「勿論です。必ず窺いますが、お時間はいかが致しましょうか」
峯が懐から手帳を取り出し、ペンで何か線を引いているような動作を確認できた。何か予定があったのだろうか。しかしここで引いてはならない。ここで引いては、峯の心を掴めないと思ったのだ。表面上ではなく、心から自身に忠実であって欲しい欲というが湧いていく。
「一度、本部から出る時に電話をする、がいいか?」
「はい。それでは、お手数ですがお電話をよろしくお願いします。私はここで失礼します。ありがとうございました」
律儀に改めて礼をしてくれるが、それを見て大吾は思った。今夜、峯の好感度を上げれば更に自身に従ってくれるのではないか。些細なミスなど許されない。
そして峯が退室して一人きりになれば、煙草が吸いたくなってくる。だがライターしか持ってきていないことを思い出すと、溜め息をつく。だがライターを出した。
「あぁ……そうだ」
そこで気付いたのだが、今夜峯から煙草を一本貰いたいと思った。吸っているかは分からないのだが、この世界に入れば煙草など当たり前である。なので峯が吸っている銘柄を想像し、そして今夜のシュミレーションをしようとする。出したライターをしまうと、未だに雨が降っている空を見ていた。
「煙草ですか?」
夜になり、峯は約束通りにクラブで酒を共にしてくれることになった。電話を掛けてみれば、快諾してれたからだ。
今はVIP専用ルームでキャストを呼ばずに二人きりになっているのだが、ソファに並んで座っていた。テーブルにはキープボトルしていた酒と、それにグラスが二つある。それぞれには酒が並々と注いであり、二人はここに来たばかりだということが一目瞭然だ。
その時に煙草を持っているか聞いてみた。
「えぇ、持っていますので一本差し上げます」
「すまねぇな。忘れちまって」
上品なスーツから煙草の箱が取り出される。銘柄は自身のものとはメーカーから違うのだが、誰もが知っているメーカー品であった。
スムーズに煙草一本差し出されば、それを摘まんで受け取りライターを出そうとする。そこで峯がライターを差し出し、火を点けてくれた。遠慮なく火を貰うと、煙草を吸い始めた。
「……忘れるということは、あまり吸っておられないのですか?」
「いや、そうでもないんだが、お前のことを心配してたらな……」
最後に冗談だと伝えるのだが、峯がやけに真剣な顔をする。
「どうした?」
「いえ、この度は……」
「いいから、それよりも飲もうぜ」
まだ口をつけていないグラスを峯に持たせれば、飲酒をすすめていく。そして自身もグラスを持ち、一口飲めば峯も続く。飲んでいる酒はまたしてもベタにウイスキーのロックなのだが、峯は苦手ではないようだ。安心をした。喉にウイスキーを通していく。
煙草を再び咥えてから煙を吸うのだが、いつもとは違う味が心地良い。それにこれが。峯がいつも味わっている煙の味や匂いだと思うと興奮をする。気持ち悪いと言われても、否定はできなかった。だがこれが峯のことを好きだという証拠にはなる。
灰皿に煙草の灰を落としていけば、口を開く。できた沈黙が心地良いのだが、やはり峯と話していたいと思えたからだ。
「会社経営は、どうだ? 上納金を見るに、かなり順調じゃねぇか」
「おかげさまで順調です。東城会のバックアップのおかげで、業績が上向きになっていまして」
「そりゃいいことだ」
調子よく更に酒を喉に流していけば、脳にアルコールが回ってくる。次第に舌がどんどん動いていった。すると、大吾は酔ってしまったのだ。こんなに早い段階で。
「なぁ、もしもなんだが……」
酔っているので舌が止まらない。なのでこのようなことを口走ってしまう。
「もしも、今の倍の上納金を収めたら、お前と兄弟として盃を交わしてもいい。それくらいに、お前が大事なんだ。どうだ? 悪くねぇ話だと思うんだが」
「倍で貴方と、兄弟に……!?」
峯は言葉に驚くものの、特に嫌悪感は見られない。寧ろ計算を始めたのか、視線が天井を向いていく。もしや、自身の言葉を信じてくれたのだろうか。
「勿論、善処しますが……期間は?」
どうやら峯は盃を交わすことに積極的のようだ。想像以上の食いつきに、大吾は嬉しさが止まらない。
「期間は一年以内だ。できるか?」
「えぇ、やりますが、本当に私のような人間と兄弟に?」
「二言はない。撤回も絶対にないと言っていい。俺からは以上だ」
言ってしまったことは仕方がないのだが、大吾に後悔はない。寧ろ酔いのおかげで峯との間に進展が見られて嬉しかった。口角を上げながら煙草から煙を吸い、吐いていればその様子を峯が凝視をする。
「……私が普段吸っている銘柄なのですが、どうですか?」
言葉を促せば峯が恐る恐る質問してくる。煙草の味や匂いはどうか、そう聞かれるのだが好きな者の物であればどれでも良いに決まっている。なので機嫌良く答えていく。勿論、回答は峯にとってポジティブなものだ。
「あぁ、美味いぞ。このメーカーのは前に吸っていたんだが、こんな美味い銘柄が出てたんだな。知らなかった。ありがとう」
礼を述べれば、峯が恥ずかしそうに「こちらこそ」と返しながらグラスに口をつける。こちらの印象が良くなってきているのだろうか。
「因みに、大吾さんはどのような銘柄を吸っているのですか? 私も、今度吸ってみようと思いまして」
普段吸っている銘柄はどれか、大吾はそれに答えれば峯が興味深そうに頷く。かなりの好感触だ。思わず、峯の体に触れてしまいたくなる。酔いのせいにして。
「成る程……で、話は戻りますが、大吾さんは……やはり金ですか? 金が、目的ですか? 失礼には、なりますが」
表面上では金が目的だ。しかし心の目的は金ではない。峯の心だ。峯の心が欲しいのだ。それにはまず、金を理由にしなければならない。
ぎこちなく頷けば、少しは酔いから覚めてしまう。なので酒を二口飲んだ後に、再び脳にアルコールを回していく。峯に告白するには、今がチャンスかもしれないと思ったからだ。
充分にアルコールを回していってから、大吾は口を軽くする。
「金もある。だが俺はお前が欲しいんだ」
「欲しいとは……? 私が……?」
いまいち言葉の意味が分からないらしい。曖昧過ぎると思い苛立ち、そしてグラスにあるウイスキーを全て飲み干した。頭にたくさんのアルコールを流すと、頭がふわふわとしてくる。だがそれに耐えながら、大吾は告白をしていく。
「お前が好きなんだ。お前の金じゃない。お前の、心が好きなんだ。分かるか?」
「心……」
復唱した後に峯が考えている様子なのだが、自身の心はやはり要らないのだろうか。自身とはまだ、深い絆があるに値しないのだろうか。
煙草を再度咥えるのだが、峯の様子を見ていくうちに味がしなくなる。先程まで峯と同じ味を感じていると嬉しく思っていたのだが、味覚を次第に失っていっているようだ。
「六代目……貴方の心を得て、私は」
「俺の心を手に入れたんだ、お前は」
まだ好きという言葉が分からないらしい。なので煙草の煙を吸った後に吐き、そして咥えるのを止めてから顔を近付ける。峯の瞳に怯えや拒絶が無いのだが、やはり何かの檻が見えた。峯のことが気になるのは確かなのだが、やはりこの檻を壊して見せたいと思える。しかし壊すにあたって、何でできているのか全く分からない。単に、抽象的に堅牢だとしかやはり思えなかった。
峯の反応は変わらない。峯は相変わらず考えている様子を見せており、嫌なのか良いのか分からない。
なので灰皿に煙草をぐいと押しつけた後に、自由になった両手で峯の肩を掴んだ。
「なぁ、峯……」
相変わらず整った顔を見るが、冷静さはずっと保たれている。今、峯は何を思っているのだろうか。
すると大吾は、峯に縋り付くように更に顔を近付けた。しかし鼻の先が衝突する手前で、突然に峯の鼻先とぶつかった。これは、峯から近付いてきたのだ。驚きのあまりに反射的に身を引かせようとすれば、峯が体を引き寄せてきた。
「からかいではないのは分かります。ですが……貴方のような方と私では違いすぎます」
「違う? 同じ人間だろ」
視線がどうしてか合うのだが、峯の瞳にある檻は何度見てもとても堅牢に見えた。やはり壊すことは難しいと思っていれば、不意に唇が軽く重なる。峯が、キスをしてきたのだ。案外に柔らかいのだが、髭が当たって痛くないのかと思えた。唇を重ねる者に、毎回言われることなのだが峯の顔にはそのような不快感が見られない。もしかして、峯は男を抱くことを慣れているのだろうか。或いは逆か。
「同じ人間……そうであれば、私で試してみますか? 後悔なさっても私は責任を持てません」
「俺は後悔しない。だから、お前も後悔させねぇ……!」
恐らくは峯のような人間であれば、自身でも抱くことはできるだろう。大吾は体の繋がりであればどちらでも良いので、それを加えようとした。そこで峯が先に口を開く。
「ホテルに、行きますか?」
「勿論だ」
立ち上がってから峯を見る。こちらを見ているが表情を変える気は無いようで、淡々と立ち上がった。
強がっているのだが、実は大吾は男との経験がない。人を抱くことに恐れなど無いのだが、抱かれることに関しては未知の分野だ。だからこそ、その初を峯に捧げたいと思えた。好きだからこそ故に。
体が震えてくるのだが、それに耐えて部屋から出た。案外早い退室なのだが黒服は何も言わない。ただ「ありがとうございました」と頭を下げ、クラブから出る様子を見送ってくれていた。
待ち構えているのは側近と車の傍に居た運転手で、適当なホテルの名前を言えば頷いてくれる。そして峯も同行することも伝えれば、それも頷いてくれる。峯が車のドアを開けてくれるので、後部座席に乗る。続けて峯が乗ればいつの間にか運転席に乗っていた運転手が、確認した後に車を走らせた。
雨の街中を走る中で、二人は無言だ。やはり峯の顔は変わらず、対して自身は様子を窺ってしまう。緊張をしているのだ。自然と煙草を吸おうと懐を探るが、またしても煙草が無いことを忘れていた。指先で探り当てたライターを懐の中で爪弾きしてから、車窓からの景色を見る。
雨が降っている様子は、まるで檻のようだった。まるで、雨が檻になっているかのようだった。だがこの檻は、折れることも何もないだろう。
「煙草、ですか?」
するとこちらの様子に気付いた峯が煙草を差し出してくれる。しかし頑なに断った後に、またしても車窓からの景色を見る。見慣れているというのに、峯と共に見るこの雨の街中の景観は特別のように見えた。今から行くホテルで、抱かれるからなのか。余計にである。
次第にホテルの建物が見えてくれば、エントランスの下に車が丁寧に停まる。先に峯が降りてからドアを開けてくれるので、車から出た。雨の中だというのに、エントランスの下に立っていたホテルマンが案内をしてくれる。それも、自身の顔を見ただけで「ご案内します」と言う。顔パスであった。
建物内に入り、広く豪華なフロントに向かった。しかし受付をすることなどなく、ホテルマンの後ろを着いて歩く。既に待機状態であるエレベーターに向かって行った。
「最上階に向かいます」
「……分かった。部屋はいつものところだな? 後はいい」
「かしこまりました」
ホテルマンが下がれば、二人でエレベーターに乗る。そしてパネルなど操作しなくとも自動で閉まり、動き出す。
「戻るなら今ですよ」
「峯、俺は戻らねぇよ」
「そうですか」
短い会話をしていくが、今は何階なのか分からない。そう思っていれば止まり、最上階に辿り着いたようだ。エレベーターの扉が開く。目の前には、無人の最上階フロアがあった。部屋のドアは一つしかない。
空気を小さく吸い込んでから吐けば、ゆっくりと歩き出す。峯が無言で着いて行く中で、部屋のドアを開けた。室内に入れば、そこで踵を返して峯を抱き締める。爽やかな香水の香りや、それに自身が先程吸っていた煙草の香りが混じっている。悪くない。
「男との経験は、あるのか?」
「何度もありますよ」
「そうか」
予想外の言葉に驚くと共に、役割を聞いていない。峯はどちらの役割なのか、そう考えていれば、聞かなくとも峯が答えてくれる。
「抱く方なのですが。よろしいでしょうか」
「あぁ……いいさ。それなら抱かれてやるよ」
ならば峯のいつもの役割に従う為に頷き、そして「シャワーを浴びて来る」と言って脱衣所に向かう。峯からはただ「はい」という返事が聞こえる。
脱衣所に向かえば、そこで一人きりになって腰を床に落とす。
峯がまさか男との経験があるとは思わなかった。一方で自身は女を抱く方であり、男を抱くことも抱かれたこともない。男とは未経験なのだ。
大きな洗面所があるのだが、そこで顔を見れば顔が真っ赤に染まっていた。脳内では峯に抱かれることばかりを考えており、着ているスーツを脱ぐことを忘れてしまいそうであった。
「……峯が待っている」
そう言い聞かせながら、ジャケットを脱いでいく。だが腹のあたりが熱く、緩やかに勃起していくのが分かった。初めてのことであるのだが、やはり峯のことをあまりにも想い過ぎているからなのだろうか。
ワイシャツ姿になり自身の姿を改めて見る。峯が好んで抱く男は、中性的な見た目なのだろうか。女のような見た目の者を好み、そして体型は華奢なのだろうか。そう考えながら鏡を見るが、それとはかけ離れた容姿をしている。目は垂れているものの、険しい顔や髭の生えた口元。そしてこのワイシャツを脱げば、筋肉がまとわりついている体がある。背中には厳つい不動明王が鎮座しており、普通の人間が見れば逃げてしまう容姿をしている。
本当に、自身のような男を峯は抱くのだろうか。抱いてくれるのだろうか。
不安になるものの、やはり峯が待っているという言葉が頭から離れない。なので次々と脱いでいけば、そこで裸になる。女を抱き慣れた体をしており、勃起している股間のものは赤黒く膨らんでいた。皮は充分に剥けている。
「……シャワー浴びねぇと」
顔を左右に振った後に、ようやくシャワールームに入る。シャワーコックを捻れば、湯がすぐに出てくる。体に湯を掛けていった後に、気が済むまで清潔にしていった。どれくらいの時間を要したのだろうか。そう思いながらシャワールームから出て、バスタオルで体や髪を拭いてからバスローブを纏う。前を閉めてから脱衣所を出て、ベッドルームに向かった。峯が窓際に立ち、カーテンを少し開いて夜景を見ていた。まだこちらの存在には気付いていないので、話しかける。
「峯、先にシャワー浴びたぞ」
気付いた峯が、カーテンを閉じた。その時の峯は、何か考え事をしていたのか、肩がびくりとはねる。
「……はい、では私も浴びます。お待ちください」
峯が振り返るが、表情はやはり崩れていない。何を思って自身を抱くのだろうか。やはり自身に迫られたからかと今更にネガティブに思いながら、峯が脱衣所に向かうのを見送る。
ベッドの縁に座れば、色々なことを考える。まずはこの勃起しているものについてだ。峯にこれを見られることは確実なのだが、何を思うのだろうか。
峯は試してみるかと言ったのだが、男を抱き慣れた者を満足させられるのだろうかと不安になる。自身は初めてなのだ。初めて男に抱かれる処女の気持ちなど考えたことがなかったので、まずは体を震わせる。人間とは、知らないものには恐怖を抱く性質がある。大吾の心理はそれに忠実になっており、体が次第に大きく震えていた。しかし勃起している股間のものは、相変わらずである。今か今かと刺激を待ちわびていた。
「もう少し……もう少し……」
このまま峯がシャワーを終えるまで、時が止まって欲しいとも少し思えてくる。ここまできて、勇気が無くなってきたのだ。クラブでは、峯に対して強気であったというのに。とんだ恥だ。これを知られたら、あまりの恥ずかしさに峯と話すこともできないと思えた。
「いかがなさいましたか?」
「ッ……!? い、いや、何でもない」
峯がシャワーを終えたようだが、少しいつもと雰囲気が違うと思えた。髪が違うのだ。格好は自身と同様にバスローブを纏っている。つい股間のあたりを見てしまうのだが、興奮してくれているかどうかは分からない。
峯はいつもは髪をかき上げているのだが、今は水気でよく垂れていた。いつもより外見が幼く見えるうえに、やはり顔が整っている。これならば、どの人間でも抱くことは当然だとひどく納得してしまう。
「大吾さん」
ふと名を呼ばれれば、顔が熱くなっているのに気付いた。だがもう遅く、峯がベッドの上に乗り上げて体を引き寄せている。峯に抱き締められたのだ。
「心臓の音が、よく聞こえますね……」
「お、お前のことを好きだからって言っただろ」
動揺を見せるものの、峯がそれを笑みで返せば心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられるような気がした。今まで、この顔を他の物に見せていたのかと嫉妬まで覚える。
そう思えばようやく心に火が点き始め、峯の体を掴んでから押し倒した。峯は少し驚いているが、予想外の行動を取ったからなのだろうか。顔を崩しながら「大吾さん……?」と言う。その時の瞳には、堅牢な檻が見えなかった。ただ見えるのは、反射で見える自身の姿のみ。
「お、俺は初めてだが……他の奴等でもできたなら俺にもできるはずだ……お前を、満足させてやるよ! 初めてでも、俺ならできる!」
そう言いながら峯のバスローブの襟を掴む。内心では未知の恐怖と興奮が入り交じるのだが、脳内麻薬を分泌させながらそう言った。自身の恐怖心をどうにかごまかしていく。
襟を少し開けば、鍛えられた体が見えたが美しい。早く背中の麒麟も見たいのだが、それはまだお預けだ。更に開いていくのだが、気付けば手が震えているのが分かる。峯も気付いたようで手を見た後に、そっと添えてくれる。首を左右に振った後に、この手をそっと下ろされた。
「……大吾さん、嘘ですね?」
「な、何がだ」
声さえも震えている。そう感じながら問いかけるのだが、嘘をついているのは自覚していた。峯を満足させられる自信など、微塵もないのだ。あるのは不安のみ。
「初めてなのでしょう。分かりませんよ。ですが……奇遇ですね。俺も、嘘を言っていたんですよ」
「お前が、嘘を……?」
峯の言う嘘とは何なのだろうか。もしや、自身を抱くことは嘘だと言いたいのか。それでは、今まで向けていた感情は何なのだろうか。虚無へと、ずっと感情を向け続けていたのか。
何も信じたくない。峯の言うそれは嘘だ。きっと、言う通りに自身を抱いてくれて試してくれるに違いない。峯は自身に忠誠を誓う素振りを見せてくれたのだから。
そう思いながら峯を見ていれば、そっと抱き締めてくる。そしてもう一度「嘘なんです……」と言うのだが、その声は自身のものよりも震えていた。
「嘘、なんです……男を抱いたことなんて、無いんです……」
「な、なんだ……じゃあ……」
「見栄を張ってしまいました……それに、俺は、大吾さんを好きになったんです。助けてくれたあの日から、俺も大吾さんの心が欲しくて堪りませんでした」
驚きながら首を動かすのだが、今の体勢では顔を確認することなどできない。峯は今、どんな顔をしているのだろうか。
それに自身のことを好きと言ってくれたのだが、それは嘘ではないのだろうか。疑いたくはないが、本当かどうか聞きたくなる。
「これは、嘘ではありません……」
次第に峯の声に嗚咽が混じるのが聞こえてくれば、力強く体を突き放してから顔を見る。峯は、泣いていた。今までの本当の感情は、ずっと隠していたのだろうか。隠したまま自身を抱こうとしていたのか。少しながらもショックを受ける。
「峯……」
「大吾さんのことが好きなのは本当なんです。でも、俺に、そんな資格があるとは思えなくて……」
「資格? どういうことだ?」
人を好きになることに資格などいらない。これは人という存在が生まれてきてから、長い間当たり前になったことだ。それは誰もが知っている筈なのだが、そうとなれば峯は何を言っているのかと思える。資格など、そのようなものは要らないのだ。それは、自身に対しても。
「貴方と俺じゃ……生まれが違います。俺は、生まれた頃から、何もかもを持っていなかったからですよ。金なんて……」
峯の頬からは涙が伝っていた。それに触れれば温かい。それくらいに、峯の言葉に感情が籠もっているのが分かる。
だが峯の言葉など、真っ向から否定していく。
「それがどうだって言うんだ。今のお前はお前だ、それが何だって言うんだ。俺はお前の人間性が好きなんだ。俺に媚びもせず、真剣に働いてくれていたじゃないか。それに今では俺を信頼してくれている」
「でも、俺は、もう誰も愛せないんですよ……金に振り回されて……それで……」
「それが何だって言うんだよ! 金のことは言ったが、好きの後に金は一言も言ってねぇ!」
「貴方には分からない。貴方は、金に振り回されたことなんて、無いんでしょう? 生まれた時から金も何もかも無い経験なんて、無いんでしょう?」
これには反論ができなかった。確かに、生まれた時から金に囲まれて育ってきた。困ったことがないのだ。
そこで峯の出自の輪郭がぼんやりと見えてくる。峯にある檻は、もしかしたら過去そのものかもしれない。金という檻でできた檻に、囚われていたのかもしれない。しかし過去などどうでもいい。過去は変えられないのだが、今は変えられる。これも人間誰しもが思っている筈だが、峯はそれっを忘れてしまったのか。金の檻に囚われた故に、置いて来てしまったのか。
すると怒りが湧き大吾はこちらから見て峯の右頬を思いっきり叩く。室内に乾いた音が一つ響き、そして峯の頬を赤く染めた。自身が思ったよりも、威力があったらしい。反動で峯の顔が横に向く。
「うるせぇよ! お前が今を思ったまま生きろよ!」
そう叫んだ後に峯と無理矢理にキスをした。ぽかんとしている峯を見ながら、言葉を続けていく。今の声には、震えは乗っていない。
「俺がお前を好きで、お前が俺を好きなら、それでいいじゃねぇか……」
自身も涙が出てきたのだが、峯の体をぎゅうと抱き締める。体は温かく、心臓がどくどくと鳴っていた。先程までは聞こえなかった音だ。
「大吾さん……」
峯の顔が首元をすりすりと優しく撫でてくる。これは完全に、こちらの言葉を飲み込んだということなのか。
すると峯が顔を見せてくれるのだが、涙を雨のように垂らしていた。ようやく、峯は分かってくれたのだろうか。
「大吾さん、申し訳、ありません……それと、俺は貴方のことが、好きです……ですから……」
「あぁ、もう分かったから……俺も好きだ。俺はお前以外に、これ以上の奴は居ないと思っている」
子どものように泣き始める峯を抱き締めれば、そこでふと峯と盃を交わしても良いと思えた。峯は東城会直系の錦山組の若頭代行だ。金の面では申し分の無い働きをしているうえに、自身に忠誠を誓ってくれている。ここまで、自身のことを想ってくれていることもある。自身の為に感情を働かせてくれた、峯であれば。
まだ想いを伝えたばかりなのだが、まだ早急だと思うのだが、善は急げと感じた。峯の背中をあやすように擦りながら、その話を持ちかける。
「だから、俺と兄弟になって欲しい。俺は、お前しか居ないんだ。お前じゃないと駄目なんだ。クラブでは上納金次第と言ったが、あれは撤回してもらう」
二言は無いと言ったのだが、嘘になってしまった。少し自身の発言に反省はしていた。そういえばクラブで飲んで回っていたアルコールは、いつの間にか消えていた。まだ、酔っているつもりであったのだが、正気のまま峯に告白していた。どこで酔いが醒めたのか謎であるが、今はどうでもいい。
一世一代の告白のようにも感じた。これはすなわち、峯と同じ闇を浴びることを決意したことにもなる。同じ闇を浴び、血や泥を浴びていくのだ。峯と共にであれば、平気のような気がする。それに峯と共にであれば、乗り越えられるとも思える。普通の人ならば、プロポーズにも相当するようなものなのだろう。それを今、峯に言い放ったのだ。峯の反応は黙り始めたものの、再び泣く声が聞こえる。これは喜びの涙だ。すぐに分かった。
「大吾さん、嬉しいです、俺……」
峯が顔を見せてくれたのだが、顔は涙でぐちゃぐちゃだ。目元は赤く腫れているのでそれに軽くキスをする。笑みをこぼしてくれた。見たことのない顔であるが、これからたくさん見せてくれると思った。そう思えば嬉しい限りだ。
「喜んで……堂島会長……」
抱き返してくれれば、そこで二人は唇を重ねる。これは兄弟としても、それに唯一の存在である印だと互いに知らせる行為のように思えた。唇同士が何度が触れ合った後に、自然と離れていく。互いに見つめ合っており、峯の瞳を見れば檻は壊れていた。今、峯の中にある檻を壊したのだ。
「ありがとう、峯……さっきは、すまなかったな。痛かっただろ?」
優しく声を掛ければ、峯が穏やかな顔を見せてくれる。それを見て心臓が鳴り、やはり峯のことが好きだということを自覚させられる。幸せであった。この世界に来ても、幸せというものは存在するのだと思った。
「いえ、寧ろ、ありがとうございます……」
次は峯から唇を合わせていけば、大吾は一度起きてから峯の体も起こす。そしてバスローブを脱いだ後に、峯のものも脱がせる。互いに裸になれば、峯も勃起していることが分かった。大吾は嬉しさに、峯を抱き締めながら再びベッドの上に転がる。
峯が自身の体の上に覆い被さってきた。その際に峯の麒麟に触れれば、自然と笑みを浮かべてしまう。今から、互いの全てを愛し合うのだから。皮膚同士を密着させ、何度もキスをしていった。その度に互いのものから、我慢汁が漏れる。興奮の証だ。するともうじき限界を迎えつつあるので、大吾はそこで欲情してくれている峯に言った。
「峯、俺はお前のことが好きだ。だから……俺を抱いてくれ」
ベッドが軋む。峯の体が動けば、まずは自身の体を改めて抱き締められる。心臓の音は更に大きくなっており、破裂でもするかのようだった。ばくばくと音が鳴る。
「勿論です……体、触ってもいいですか?」
良いに決まってるというのに、どうしてそこまで畏まるのだろうか。小さく笑った後に、大吾自ら峯の体を触っていく。そして肌を見れば、僅かに紫の打撲痕があるのを見つける。複数あるのだが、それらを優しく触った。
「こ、これは……!」
怪我の痕なのだが、もう治癒が始まっているらしい。だが肋骨にひびが入っているので、あまり無理はさせられなかった。峯の体を撫でる。
「峯、初めてだから、優しくしてくれよ?」
「えぇ、ですが俺もですよ……男とは、大吾さんが初めてです。手加減をしてくださいよ」
二人でそう言い合えば、そっと唇を合わせる。これから、峯とセックスをするのだ。そう思えば幸せに思い、峯の背中を柔らかく触る。ここには、麒麟が居るのだ。
「ん、ッふ……峯、好きだ……」
「俺もです、大吾さん……」
もう一度二人の唇が合わさるのだが、その時に峯が舌を捻じ込んでいた。ディープキスをしようとしているのは分かるが、そういえば『好きな者』とは初めてだ。すぐに脳が気持ちいいという信号を出すと、大吾の股間から少しの精液が垂れた。
「ん、ん……! ん、ぅ、ん……!」
ここまで早く漏らしてしまうとは情けないと思いながらも、峯と舌を合わせていくうちにどうでもよくなった。何よりも気持ちがよくて堪らないのだ。峯と視線が合えば、目が優しく垂れた。
舌は何度も何度も絡み合い、やがては舌の表面の感覚を拾っていく。その感覚もまた良かった。舌で擦られては脳が痺れていけば、峯の舌の動きが大きくなる。唾液までも絡む音が聞こえてきて卑猥だ。時折に、互いの唇の隙間から吐息を漏らす。
そして何度も何度も絡めていくうちに、自身の上顎を掠める。そこがどうしてなのか性感帯になっており、脳が強く痺れた気がした。目を細めてしまえば、峯の舌がようやく引き抜かれる。峯の顎には、唾液がよく垂れていた。
「っは、はぁ……みね、きもちいい……」
とろりとそう言えば、峯の眉間の皺が薄まったような気がした。
「俺も、です大吾さん……見てくださいよ、俺のちんこを……大吾さんとキスをして、こんなに勃っちまってるんですよ」
峯が太ももに勃起しているペニスを擦りつけてきた。我慢汁を出しているのか、太ももがよく濡れていく。それに血管があり得ないくらいに浮いており、見なくとも形や浮き具合が分かる。
「ぁ、あ……峯のちんこ、でか……俺の、ケツに、入るのか?」
「入りますよ」
不安にもなったのだが、その際に峯が頭を撫でてくれる。不思議と安堵をするのだが、峯の呼吸が荒くなっているのに気付く。一度、射精をさせた方がいいのかもしれない。そうとなれば、いわゆる抜き合いをしようと自身のものを擦りつける。峯のペニスは、熱かった。
「ッ……!? 大吾さん、大吾さんのも、でけぇじゃないですか……」
そう言いながら峯が腰を振る。すると互いの股間が擦れるのだが、我慢汁が付着してきて良い潤滑油になった。気持ちが良い。
すると峯のこの熱くて大きなペニスが、自身の中に収まることを想像して興奮が沸き起こる。
「ん、んっ、んっ……あ、ぁ、峯、きもちいい……!」
峯と兜合わせをしていくうちに、射精感がこみ上げてきた。なので峯の顔を見れば、こちらの顔を凝視していた。目はギラギラと刃物のように輝いており、峯までも限界だということが分かる。
なので笑みを浮かべれば、そこで峯の喉から呻き声が聞こえる。すると峯が、自身の体にペニスを向けた後に精液を放った。それは熱く、かなりどろりとしているように見えた。嬉しく思っていれば、自身も達する。峯に向けて射精する余裕は無く、自身の腹に放ってしまえば精液に塗れる。峯の方から、喉を鳴らす音が聞こえた。
「エロ……」
「峯……?」
峯の顔が自身の喉へと沈んでいく。そして首を舐めながら胸を触った。自身の胸など女に比べたら膨らんでもいないのだが、触れて楽しいものなのだろうか。そう首を傾げていれば、峯が喉仏を軽く噛んでくる。これは不意打ちだったので声を上げれば、軽く胸を張ってしまう。すると気付いたのだが、自身の乳首が尖っていた。首を噛まれて、嬉しかったらしい。
「ぁ……!」
「大吾さん……いけないじゃないですか……おっぱいを、こんなに……」
峯がニヤニヤとしながら指摘をすれば恥ずかしくなるのだが、その際に手首を掴まれて動きを封じられた。何もできないでいると、あろうことか胸をぺろりと舐めてくる。まだ皮膚を舐められただけであるのだが、かなり気持ちがよかった。
おかしい。女に舐められた経験はあるのだが、微塵も感じなかった。それなのに、峯に舐められたら感じてしまう。大吾はなんだか嬉しくなり、膝を上げてから股間を峯の体に擦りつけた。互いの体に出した精液がまとわりつくのだが、それよりも快楽を得ることに必死になっていた。ぬるぬると擦りつけていけば、峯が更に唇を動かしていく。次は、乳首を舐めてきたのだ。
「ん、っう、んっん……! 峯、おっぱいは、だめ……! ぁ、ア、あ……ん、ん、ん!」
「大吾さん、おっぱいが気持ちいいんですか? それはいけない……」
すると乳首を咥えた後に、ちゅうちゅうと吸い出した。脳に電流が走ったような気がして、股間に血が集まる。そして射精をしかけたところで、追い打ちなのか軽く歯で挟まれた。とてつもない快楽が走り、腰が震えた後に射精をしてしまう。胸でこんなに感じたのは初めてであった。峯の頭頂部を見る。
「ッ! はぁ、は……みね、もうやめ……」
「ん? どうしてですか? ここ、いいんでしょう?」
峯が顔を上げたのだが、見せつけるように乳首を舌で突いていた。尖った舌先が、勃起した乳首を飴のように舐めているのだ。あまりの恥ずかしさに目を閉じようとした。しかしそこで強く吸い始めたので、目を見開きながらまたしても果ててしまった。
「う、ぅあ……! ゃ、あ……!」
「はぁはぁ、大吾さん……可愛いですね……俺、もう止まりませんよ……」
興奮しきった峯の鼻息が荒い。まるで交尾を行う雄のように、視線はやはり鋭い。このまま、種付けをされるかと思ってしまう。
「ん、んぅ……は、はぁ……みね……」
すると峯から発せられる音を聞く度に、大吾の中の理性が壊れかける。このまま、早く峯と繋がりたいからだ。早く、峯と体を繋げて一つになりたいからだ。
「じゃあ……みね……ちんこ……ちんこを、ちょうだい……」
足を峯の腰に絡ませて、雌のようなアピールをする。未だに股間が勃起しているのだが、それを峯の肌に擦りつける度に少し邪魔だと思えてくる。そこまで、自身の男性性が失われていくように思えたのだが、峯の為ならば悪くない。
「俺のちんこ、ですか……じゃあ……指、舐めてください。ローションは無いので……それにゴムも……」
そういえばこのホテルはそのようなホテルではないので、当然のようにローションやゴムがない。だが生で挿入されても良いと思った。峯の体を、より近くで感じたいからだ。
手首の拘束が解けてから指が近付いてきた。それをすぐに咥えれば、峯が笑顔でこちらを見てくれる。
「ほら、大吾さん……もっと舐めてください」
「ん、んん、っ、ん……」
峯の指は案外にもごつごつとしていた。本来はできないようなたこまであり、この世界に入る努力をかなりしてきたと思える。そして自身の元に辿り着いてくれたことがとても嬉しい。必死に舌を動かしていれば、そこで峯が指を引き抜く。峯の指は、唾液に塗れていた。
「大吾さん、足、広げてください」
「ん……」
言われるがままに足を広げれば、そこで自身の恥部を峯に初めて見せつける。恥はあるものの、やはり嬉しさが勝る。今から自身のもの、そして峯のものになるのだから。
峯が股間を見るのだが、語彙力を失ってきているのかまたしても「エロ……」と言いながら尻に手を伸ばした。しかしそこで、峯が自身の股間を凝視する。
「大吾さん、ちんこ、舐めていいですか?」
「え、だが、汚い……」
「汚いなんてありませんよ」
そう言いながら峯が躊躇なく自身のものを咥えた。峯の口腔内は熱く、すぐに達してしまいそうであった。そうしていれば、峯が尻の入り口を唾液に塗れた指先で突く。
「んっ……! ん、ん、っう……! みね、みねの口のなか、きもちいい……」
まるで股間がとろけるかのようだった。それくらいに気持ちが良いと思っていれば、峯が指先で入り口をこじ開けようとする。
そこは人生で誰にも触れられたことが無い場所であるのだが、そこを今峯が触れているのだ。そして指先が入っていけば、快感よりも先に異物感がこみ上げる。このままではよくないと思っていれば、峯がこちらを見ながら口淫をしてくる。先端に溜まっている精液を舐め取り、そして吸い上げていく。
「っう! ぁ、あ! みね、そこ、だめ……! はぁ、あっ、ぐ……! ぅ、う、ぁ……!」
すると不思議なことに、異物感が消えたと思えば更に指が侵入してくる。異物感が再びうまれてしまった。
「ぁ……! みね、みね……!」
目はこちらを見ており、股間を相変わらず舐められていく。同時に指も動いているので、器用だと思いながら腰を震わせた。達してしまいそうなのだが、異物感がそれを邪魔するのだ。
「ふ、ぅん! ん、あぁ、あ……みね」
名を再び呼んだ瞬間に、股間を強く吸われる。達してしまえば、その瞬間に指を捻じ込まれたことが分かった。腹の中まで、異物感がこみ上げるのだ。しかし今、峯の指が体内に入ってくれたのだ。そう思えば、口角を上げながら言う。
「ぁ、はぁ……みねのゆび、はいったな……」
峯は返事の代わりに唇を動かした。先端をいじめた後に、亀頭を美味そうにペロペロと舐め始めたのだ。
ここはかなり敏感な場所であるので、当然のように大吾は顎を仰け反らせて達してしまいそうになる。そして抵抗をしようとしたのだが、入り口にずぶりと指が入っていくのが分かる。自身が意識を股間に向けている間に、峯は上手く指を挿入したらしい。
「ッあ!? ァ……! はいってる……!」
峯が見せつけるように指でできた結合部を見れば、指の根元まで入っていることが分かる。驚くと共に息苦しさが湧いてくるのだが、それよりもとてつもない股間への刺激が大吾の意識を更に逸れた。
入っているのは中指であるのだが、それがひいては押すを繰り返していく。次第ににゅぷにゅぷと卑猥な音が鳴っていけば、体が震えるのを感じた。これは未知のものへの恐怖からくるものではない。快感からくるものだと思った。手を伸ばして峯の頭を撫でれば、そこで指が曲がったようだ。粘膜を指先で触られていくのだが、やはり気持ち悪さはない。寧ろ嬉しい気持ちでいれば、とある箇所を掠めた瞬間に、視界が真っ白になった。何も分からないのだが、そこがどんな刺激よりも気持ちが良かったのだ。大きく啼く。
「ぁあっ!? あ、あ……! みね、そこ、だめ……! きもちが、いい……!」
そう言ったところで峯が口淫を止め、そしてにこりと笑う。
「ここですか」
「ァ……はぁ、は……なに……!?」
峯の言う場所が何なのかは分からないのだが、やはり気持ちが良かった。またそれを感じたいと、膝を自ら持ち上げて峯を誘う。
「はぁ、はぁ……みね……さっきの、もっと、してくれ……」
「いいですよ」
快諾した峯が再び指で入り口に触れるのだが、その際に次は胸へと口が向かう。また、乳首をしゃぶろうというのか。
「は……ぁ、あ……! みね、もう、おっぱいは、いいから、ぁあ! や、おっぱい、すわないで! ア、あ、ッ……!」
同時に指が入り口に入れば、スムーズに飲み込んでいく。体さえ、峯の指に慣れてきたらしい。
「ん、んぅ……! はぁ、ぁ……みね……」
「大吾さんのおっぱい、うまいですよ……っふ、ふぅ……ん、ん」
そう言いながら乳首を軽く噛み、中指で先程の好い箇所を突いていく。場所を覚えていたらしく、スムーズに辿り着いていた。
「ぁ、あ! おれ、もう、それだけでイくから! はぁ、ァ……みね、イく!」
「ん、ん……イってくださいよ大吾さん。気持ちが良いんでしょう? ほら」
好い箇所を強く押された。すると大吾は背中をしならせながら達した。峯の顔に少し精液を掛けていきながら、恍惚の感情に包み込まれていく。達した瞬間に、幸せだと思ったのだ。
峯が口元に付着した精液を舐め取っていたのだが、その仕草が愛しいと思える。そのまま唇を合わせて、また舌同士をぐちゃぐちゃに絡めたい欲望に包まれる。
「ッあ、あ……! みね、すき……」
「大吾さん、俺も好きですよ……指、増やしますよ」
次は首筋を舐められていくのだが、その際に吸われた胸を見れば少し腫れていた。それくらいに、峯の吸う勢いが強かったのだろう。しかし峯からの好意を、ひしひしと感じられて大吾は嬉しかった。
峯が挿入する指の本数を増やしていく。次は人差し指が入るのだが、縁はもはや受け入れ可能な状態であったらしい。難なく入れば、腹の中の粘膜を指先で捏ねられていく。
「ん、っん、ふぅ……! はぁ、ァ……」
少しの息苦しさがあるものの、やはり快楽が勝る。なのでその際に舌を突き出せば、峯にキスを求めた。
「みね……きす、きすを、してくれ……! キスが、したい」
「ですが……」
これもまた快諾してくれるかと思っていたのだが、渋っている。自身の股間を舐め、そして精液を味わったからなのだろうか。だが大吾には全く関係がないことだ。なので峯の顎を掴んでから、唇を奪う。青臭い味がしたが、唾液を絡めていくうちに気にならなくなった。
「ん、んんっ……ん……! んぅ、う……ふぅ、はっ……! はぁ、はぁはぁ……みね……すき……」
キスをしてからはもう、うっとりとすることができない。なので指が入っている状態で腰を揺らせば、峯を更に誘惑していく。
「みね……はやく、みねのちんこが、ほしい……おれのここに、いれたいんだろ?」
喉が大きく鳴る音が聞こえた。欲情していた峯だが、そこまではよくセーブしていると思ったからだ。しかしこのままでは峯が苦しいのだろうと、そう促した。
「しかし……」
「ゴムなんていらねぇよ……みねの。なまのちんこが、ほしいんだ……」
「大吾さん……もう少し……」
峯の顔に真剣みが帯びれば、挿入する指の本数を更に増やしていく。三本、四本を増える度に大吾は興奮をした。峯のものは、どれくらい熱く大きいのか。指など比にならないだろう。
「分かりました……では……」
結局は四本の指で自身の腹の中を弄った後に、引き抜く。
そして息を荒げながらペニスをみせつけてくれた。それは先程見たものより、遙かにグロテスクな姿をしている。血管は気持ち悪いくらいに浮き、先端からはビシャビシャと我慢汁を流しているからだ。
「あ……みねの、ちんこ……」
膝裏を掴んでから持ち上げれば、峯の顔を凝視した。
「みね……はやくおれの、はじめてを、うばってくれ……」
「勿論です……大吾さんの体は、俺のものだ……!」
腰を強く掴まれれば、顔が近付きそして縁にペニスの先端を擦りつけられる。
「大吾さん、挿れますよ……ふぅ、ふぅ……うっ……! はぁ、ァ……!」
「あ、あつい! みねのちんこ、さきっちょでも、あつい……はいる……!」
そこからは大吾の期待通りの熱は腹の中に入っていく。亀頭のくびれに引っ掛かるものの、そこで唇が合わさる。もはや何度も味わった峯の唾液を舌に絡めていきながら、体を抱き締める。
熱がどんどん腹の中に収まっていくのだが、亀頭が抜けたらしい。竿がずるずると入っていけば、舌の力が抜けていく。しかし峯の舌に拾われ、互いに舌を舐め合った。すると全身が熱に包まれていくようで、汗が浮いてくる。
「ん、ふ……ぅ、ん……! んっ……んん!」
竿が全て入っていったように思える。そう思っていれば峯の肌と密着した。やはりペニスが全て入ったようだ。
まずは体を繋げられた喜びの感情を起こしたいものの、口が塞がれている。なので峯の背中に手で触れた後に、背負っている麒麟を撫でた。中にあるペニスが、更に膨らんでいくように思える。
「んん!? ん、んッ! んぅ……!」
「ッはぁ、はぁ、大吾さん、分かりますか? 俺の、ちんこが全部入りましたよ」
キスを終えた峯が口を開けば、腰ではなく自身の背中に手が這っていく。そして峯もまた不動明王を撫でてくれれば、大吾は汗を流す中で笑みを浮かべた。
「はぁ……みねの、ちんこ、おっきい……このまま、イかせて……」
背中から後頭部に辿り着き、そして額同士を軽くぶつけた。すると峯が小さく「はい」と言いながら、腰を揺らしてくれる。途端に腹の中で衝撃が生まれた。これは、感じたことのない感覚だ。しかし悪くはない。なので峯に更にと促した。
「ぁ、ア! みね、もっと、もっと!」
「っぐ……! はい……!」
途中で峯が苦しげな声を上げたのだが、腰の動きが大きくなっていくのが分かる。そして揺れからピストンへと変わっていけば、大吾は全身を震わせながら高揚した。腹の中をペニスで擦られただけで、気持ちがいいのだ。
このような感覚はやはり無いのだが、ずっとこの感覚を浴びていたいと思えた。峯からのものであれば、尚更。
「大吾さん……! 気持ち、いいですか?」
「ぅあ、あ、ア! きもち、いい! もっと、もっと! ちんこ、ちょうだい!」
嬌声を吐きながらそう言えば、峯の腰の動きが早くなる。しまいには肌と肌が衝突していけば、峯のペニスが膨らんだ瞬間にぴたりと動きが止まる。中に、出すつもりらしい。
「あ、ぁ……! おねがい! なかに、だして……! みね……!」
「はい……! っぐ、ぁ、あ……! 出てる……!」
険しい顔をした峯に、精液を注入される。すると中に熱いものが入っていき、その感覚ですら良かったらしい。大吾も同時に果てれば、二人で大きく荒い息を吐く。見れば自身のものは萎えており、そして峯のものは小さくなってきていた。
「はぁ、あ……ア、みね……すき……」
「俺もです、大吾さん、俺も、大吾さんが好きです……!」
二人で抱き合えば、繋がれた喜びに歓喜しあう。そして未だ繋がったまま軽いキスを何度もしていく。何もかもが気持ち良かった。
「っう……ふ、ぅ、ん……みね……」
「大吾さん……」
二人でそう呼び合いながら、最後にと深いキスをしていく。唇を離してから、峯がペニスを抜いた。尻からは、濃い精液が流れ出る。
「みね……きもちよかった……」
「それはよかったです」
これ以上にない笑顔を向けてくれるのだが、行為の前に叩いてしまった頬が赤くなっている。少し反省をしながらも、峯と体を密着させてから甘えていった。
「みね……シャワーしたいから、はこんでくれ……」
「いいですよ、では……」
峯がそう言って体を持ち上げようとしたのだが、どうにも持ち上がらないらしい。情けないと峯が呟けば、頭をぐしゃぐしゃにしながら撫でる。そのような様子の峯が、可愛らしいからだ。
「たぶん、歩け……た……?」
床に足を着けてから進もうと思ったのだが、視界が歪む。どうやら体力を消耗してしまったらしい。ぐらりと体が傾いたところで、峯が腰や背中に手を当てて支え得てくれる。
「大丈夫ですか、大吾さん……申し訳ありません、無理を、させすぎたようですね」
「ん、そんなこと、ねぇよ……じゃあ、俺を支えてくれ……」
「喜んで」
峯に支えられるままにシャワーを浴びれば、清潔にしたベッドの上に乗って抱き合う。正に幸せの瞬間であった。そしてまたしてもキスをしていきながら、夜を明かしていく。
翌日、空は曇っていた。本部に呼ばれて来てみれば、入り口のところで数人の組員が拘束されていた。峯を拉致して殺そうと企てた者たちらしい。胸のバッジを見れば、全員が錦山組であった。傍には神田が頭を下げており、無言だ。大吾はその神田の態度が気に食わなかったのだが、黙ることしかできない。
「俺の組のもんが、申し訳ありません! きっちり、相応の罰を与えます!」
「そうしてくれ。破門でもしてやれ」
そう言えば通り過ぎ、会長室に向かう。その途中で峯が居た。昨夜の顔はもう無く、少し寂しいと思えた。だが今は一人の組員として接しなければならないと、首を横に振る。
そして今回の件だが、やはり神田が絡んでいるように思えた。峯の金が目的なのだろう。峯を殺せば、大金が手に入ると安易なことを考えていたのだろう。浅はかだと思ったのだが、これも黙っておかなければならない。今はただ、神田を疑うことしかできないからだ。証拠など何も無いというのに。
「……峯、ちょうどよかった。お前に用がある」
「何でしょうか、六代目」
会長室に共に入った。椅子に座ってから、峯に兄弟の盃を交わしたいことを伝える。峯は勿論、と快諾してくれた。そして頭を下げてくれて、礼を言われる。
「ありがとうございます。私と貴方とは兄弟になりますが、貴方への忠誠心は変わりません」
「おいおい、兄弟になるんだから……もういい、好きにしろ」
峯は頭を上げない。なので立ち上がってから峯の元に歩み寄る。やはり昨夜の熱など一切無いと思いながら、肩に手を乗せた。
「よろしくな、兄弟。今夜、早速飲みに行くか……あぁ、盃を交わす儀をしなきゃな……」
そう言いながら窓を見れば、晴れていることが分かる。そういえば、峯と何かあるときは雨が降っているか、曇っているかのどちらかであった。だが今は晴れており、少し驚きながら峯の方を見返す。
「今日も、良い日ですね」
「あぁ」
契りを交わさなければならない。なので相応の行為をする為に準備を始めいかなければならない。大吾にとって兄弟とは初めての存在である。それに峯とは特別だ。心も体も、繋がっているのだ。これは永遠に切れることが無いだろう。そう思いながら、会長室から峯と共に出る。
これからは、同じ闇を浴びて同じ運命を辿ると思いながら。
峯と兄弟の盃を交わして数日なのだが、気付けば峯は死んでいた。信じられなかった。
自身が銃に撃たれて意識を失っているうちに、病院の屋上からリチャードソンを道連れに飛び降りたらしい。大吾への忠誠心を揺らがせてしまった、せめてものけじめにと。
今は自身が入院し、峯が飛び降りた病院の霊安室で峯の死体を見る。形など成していないくらいに体はぐちゃぐちゃになっており、背中ですら判別がつかないらしい。これが本当に人間なのか、峯であるのか疑わしくなった。顔すら、もう分からない。医師によれば、全身の骨が折れており、落下した衝撃で骨が砕けたり肉が潰されたらしい。何とむごいのだろうか。
なので、誰かに嘘だと言って欲しかった。これはただの嘘だと言って欲しかった。しかし誰も峯だと肯定するばかりで否定を一切しない。視界が涙で溢れてくる。そしてそのまま白い布に包まれた何かを渡されてから、霊安室から追い出される。目の前には桐生が居たのだが、ありがたいことに何も言わずに立ち去った。人にはそれぞれの優しさがあるが、桐生はそのような形の優しさを選んでくれたのだろう。少しの安堵をしながら廊下のソファに座り、項垂れる。
側近がそっと近付いてきて、次の予定はどうするか話しかけられる。勿論全部キャンセルすると返した後に、峯の葬式を行いたいと思った。側近に葬式の手配を頼めば、すぐに従う返事が来る。その後、大吾は長時間その場で体を丸めた。
「峯……約束を破るなよ……」
ようやく白い布の中身の存在を思い出し、開けて見ればそこには峯が巻いていた腕時計の残骸がある。峯が生きていた証拠は、これしか残されていないと再び涙が溢れてきた。
だがそこで峯が吸っていた煙草の銘柄を思い出せば、買いに行こうと立ち上がった。同じ銘柄の煙草を吸い、微かにしかない峯との思い出に浸ろうと思って。
数日後に、峯の葬式が行われた。この日は雨が降っていたが、前が見えないくらいの雨である。とても簡素なものであるのだが、参列希望している者が複数居た。それを一切断る。
なので葬式は参列者は自身のみであった。葬儀場の一室に、峯の遺体と読経している僧侶と自身しか居ない。屋外に側近は居るものの。
それに峯の墓などなく、無縁墓に供養するしかないらしい。火葬場へ行き遺体を焼いてから、箱に納骨された峯の姿を見て大吾は涙ぐむ。しかし自身以外は誰も居ないので、慰める者など居ない。峯との思い出は少ない。そこで大切に保管していた腕時計の残骸とそれに煙草を取り出す。もうじき納骨なので墓地に向かえば、無縁墓をただ大吾は見る。傘など差していないので、ずぶ濡れだ。
「峯……」
僧侶の手によって納骨されれば、そこで手を伸ばした。しかし雨が遮るようで、まるで檻の中に囚われているように思える。次々と落ちていく雨粒の軌跡が、そう見えたのだ。それも雨足は弱くならずに、まるで折れない檻に居るようだった。それでも片手を伸ばしてみるが、雨の檻は折れない。峯とはもう永遠に近付くことはできない。
その中で峯が吸っていた同じ煙草を咥え始めると、ただ大吾は立ち尽くしていた。一生この雨の檻に、ずっと囚われていくだろうと思いながら。