雨の帰路

雨の帰路

とっくに定時を過ぎた頃、于禁は疲れた顔で会社を出るとかなりの雨が降っていた。仕事の最中は気が付かなかったらしい。朝は青く澄んだ晴天だったというのに。
幸いにも会社の玄関口には屋根があったので、于禁はそこで一旦留まる。だが後ろから退社する社員がそれなりに居るので、あまりそこでの長居はできなかった。
だが于禁には策があった。それは会社の玄関口からすぐ見える近くの正面のコンビニまで濡れながら走り、ビニール傘でも買って帰宅するまで雨を凌ぐというものだ。しかし今の季節は冬だ。当然のように一秒でも多く雨に濡れる程、体が冷えるので無いよりかは良い方なので致し方ない。于禁はコンビニのある方角を一瞬睨むと、会社の玄関の屋根の下から出ようとした。すると横から開いた傘を差し出される。
「傘を持って来ていなかったのか? お前にしては珍しいな」
夏侯惇も今の時間まで会社に居たらしい。于禁同様に疲れた顔をしながら「入れ」と言った。
「夏侯惇殿……ありがとうございます」
会釈をして傘の中に入った于禁は、夏侯惇の持っていた傘の持ち手を代わりに右手に持つ。持ち手が二人の間に来るように。そして夏侯惇の方へなるべく傾けると屋根の下を出た。
「傘を持って来るのを忘れてしまいまして」
屋根の下から出ると、二人が入っている傘に大量の雨粒がうるさいほどに打ち付ける。周囲の音も互いの声も聞こえづらい程に。
「だが、ちょうどよかった……もう少しこっちに寄れ」
「ですが……」
「お前と家の外で恋人同士らしく歩ける機会など滅多に無い今、これはまたとない機会だというのに。だから、早く」
実際に二人は家の外を一歩出れば、普通の恋人同士のようにベタベタすることをしなかった。その理由は同性同士のカップルは、世間からは奇異の目で見られるからだ。
夏侯惇はそれを気にしないが、一方の于禁は気にしていた。前のことを嫌でも鮮明に思い出してしまうかららしい。前の記憶と、同性同士でのカップルを周囲に晒すことにより奇異の目で見られることは、全く関係ないがそれでもだ。前の記憶を未だにずっと引き摺っているせいで。
そして夏侯惇にも于禁自身にも場所こそは分からないが、于禁の精神のある一点を突かれれば何もかも一気に崩れる危うさがある。夏侯惇も于禁自身もそれを恐れた。于禁の心は夏侯惇が思うより、ガラスのように繊細で弱いからだ。
今の状況では密着して歩かなければならない。それにかなりの雨なので周囲はすれ違う人間を見る余裕など無いし、傘を忘れたから知り合い同士で相合い傘をしていると思われる程度なのだろう。夏侯惇はそう于禁に諭すと、ようやく納得したのか夏侯惇の方へと寄った。
「お前の声がよく聞こえるようになった」
「私も、あなたの声だけははっきりと聞こえるようになりました」
すると于禁はまるで二人きりの世界に居るような気分になっていた。夏侯惇はそれを見て微笑む。
「こういうのも悪くないだろう? 無理強いをしたくはないが」
「……はい」
そうして二人は夜で暗いのをいいことに、于禁は傘の持ち手を右手から左手に持ち替えると、互いに静かに指を絡めて手を繋いで帰路についたのであった。