隠れた甘え

隠れた甘え

ある日の定時前の時刻、于禁は社内での会議に出席していた。それの内容は更に会社の規模などについてで。
その会議では縦長のテーブルが口の字に配置されていて、椅子も配置してある。約二〇人程の男女が会議に参加していて、于禁含めて全員が重役ばかりだ。部屋の広さはおおよそ、縦が一〇メートルで横が六メートルの縦長の部屋。部屋の出入り口は横にあたる一辺に一つだけあり、それの反対側の奥には天井から吊るしてあるスクリーンや、脚にキャスターがついている両面のホワイトボードがある。そして縦にあたる二辺に等間隔に窓が幾つもあるので陽が差しているが、天井からは照明も照らしているのでかなり明るい。
その中で于禁は出入口とスクリーンの間にある席に座っていた。そして奥のスクリーンやホワイトボードの前には勿論、曹操と夏侯惇が立っていて。
それは長い会議だが、実は昼過ぎに始まっていた。予定では一時間で終了させる予定のところが、定時前までと大幅か時間オーバーをしていた。その原因は会議の内容について、かなり白熱した議論が続いていたからだ。于禁も多少はそれに混じっていたが、白熱していたのは主に他の重役だ。曹操と夏侯惇、それに時折だが夏侯淵はそれに対して意見を述べたり異論をひたすら返していた。
それが約三時間以上続くとようやく会議が終わった。会議に参加していた人間はほぼ一斉に、濃い疲労の顔色を作ってのろのろと会議室を出る。だが一番最初に退室したのは曹操で、何やら予定があって、かなりギリギリのスケジュールになってしまったらしい。何やらスマートフォン片手に電話をしながら小走りで退室して、それを見送るかのように重役たちは曹操の為に道を空けて譲っていた。
その後は出入り口は退室する人間が集中しているので、于禁はそれが完全に解消されるのを待つことにした。デスクに戻っても、今は特に急いでいる案件など無いからか。
渋滞が解消されてきている出入り口を見て、未だに席を立たないでいると隣に疲れた表情の夏侯惇が座る。
「……いかがなさいましたか? 貴方は社長に同行されないのですか?」
于禁は周りにまだ人間が居るのか、わざと堅苦しい話し方をする。実際に、于禁と同じく出入り口の渋滞が完全に解消されるのを待っている人間があと二人は居た。それも于禁の向かい側に。その二人の目の前で、堅苦しい態度を取って演技をしなければならない。それを于禁は頭や視界の隅に入れつつ、返事を夏侯惇の待つ。
「孟徳だけの用事でな。そうだ……于禁、時間があるならお前の知見を借りたいから、少しでもいいから資料室に着いて来てくれるか?」
夏侯惇はいつもの口調で、とても事務的な会話の内容を口にする。特に断る理由が見つからない様子の于禁は頷いた。
するとそこで出入り口の渋滞は完全に解消されたようだ。向かい側に未だに座って待っていた二人も含めて、夏侯惇と于禁は席を立ったのであった。

定時を過ぎているのか人通りの少なくなった廊下の、隅にある資料室へと向かうと二人は資料室へと入る。だがそこは普段は滅多に人が出入りしないところだった。少し埃っぽい。夏侯惇は部屋の照明を点けると、扉を室内から施錠する。それに疑問を思った于禁は聞くべきか迷った。すると夏侯惇が于禁に事前に、と話しかけた。一安心したような表情で。
「ここなら誰も来ない。それに、鍵もしてある」
「あの……」
于禁はこの状況にひたすら動揺した。それにこの資料室はかなり狭いうえ、棚が幾つかあるがファイルや冊子が数冊程度並んでいるのみ。なのでなぜだか小さな隠し部屋のように思えた。だが于禁はここが資料室というのは知っていたが、一度も入ったことがない。というより、用事が無いうえに縁が無いのか。なので于禁は夏侯惇に、この資料室についての疑問を投げ掛けた。
「ここは?」
「言っていなかったか? 前の備品の資料が纏めて保管してあるだけだ。社内の誰がここの資料を見ても問題ない。だからコンプライアンスについては全く気にしなくていい」
于禁はなるほど、と返したが最大の疑問が一つ残っていた。先程の会議室で『知見を借りたい』と言っていたが、それがどのような知見なのかと。だが備品の資料が保管してある部屋へと呼び出されたので、それに関する事柄だと于禁は察した。
「それであなたの仰る、借りたい知見とは?ここに保管してある資料に関することでしょうか?」
于禁は普段の口調に戻してそう聞くと、夏侯惇は首を横に振る。
「違う。それに、知見を借りたいというのは嘘だ」
「それでは……どのようなご用事で?」
于禁は頭が混乱した。夏侯惇は何のためにここに呼び出したのか。一瞬の間にそう考えると、夏侯惇からすぐに答えを吐き出した。
「疲れたから、しばらく頭を撫でてくれ」
そう言うなり夏侯惇は于禁にジリジリと近寄る。于禁は少し驚きの表情を見せたがすぐに愛しい恋人を見る目に変えると、一つ返事でそれを承諾した。それを断る理由など、微塵も無いのか。
「えぇ、喜んで」
于禁は夏侯惇の整えられた髪を崩さないよう、柔らかく手の平で撫でた。すると夏侯惇は上目遣いになりながら、もう一つ要求の言葉を出す。
「俺のことを褒めてくれ。思い付かなかったら適当でもいい。お前からの言葉なら、何でも嬉しいから……」
ここまで、夏侯惇がこのような要求をしてくるのは珍しく感じた。先程の会議で相当疲れたのであろう。だが珍しいからこそ、于禁はそれに期待以上のことをしたくなってきたようだ。最初は仕事に関することを褒めていたが、次第にエスカレートしてきていた。
「皮膚がとても柔らかく白く、とくに胸部や太腿や尻が……」
「……ッ!? 于禁……違う。今は、それはいい……」
夏侯惇は于禁の言葉で恥ずかしくなったのか、急激に顔を赤くした。何でもいいから褒めて欲しい、そう頼んだのは夏侯惇の筈だが。なので于禁は首を傾げるように、どうしたのか聞いた。全て本心で言ったのに。
「あの、夏侯惇殿……?」
「もういい、仕事に戻る」
夏侯惇は于禁の撫でていた手首を掴んで自分の頭から離すと、資料室を出ようとした。だが于禁はそれを言葉で止めようとする。
「お待ち下さい! 全てを言い終えてはいな……」
「お前にそのようなことを言われると調子が狂うからもういい! ……くそ! 俺は仕事に戻るからな!」
相変わらず顔を真っ赤にしたまま夏侯惇はそう言うと、扉の鍵を開けて逃げるように資料室から出て行く。一人残された于禁は、何か変なことを言ったのかと疑問を抱えたのであった。