蜜の月 - 2/3

蜜の月

雨がよく降る季節が明けた。その後に来る暑い季節が、まだ少し続く頃のことである。出社してから数時間後の昼休憩の時間帯に、夏侯惇と営業部である夏侯淵の二人は会社の近くの飲食店で昼食を取っていた。
それは夏侯淵から朝、昼を一緒に食べないかというメッセージが来ていたからだ。夏侯惇は特に断る必要もないので誘いを受けたが。
しかし普段は時間が合えば大抵は、昼を共にしている于禁が最近はとても忙しくて時間が取れないらしい。それが理由で夏侯淵と昼食を取っていた。
夏侯淵とは、何気ない会話をしながら。
昼食を終えた後に、夏侯淵が鞄から半透明の袋に入っている紙を取り出した。大きさは一目で見て分かったが、夏侯淵が持っているのは写真だろう。枚数は一枚だけ、といったところだ。
「そういえばこれ、家の中を掃除してたら出てきたものなんだ。今までずっと、渡すのを忘れちまっていたんだ、惇兄すまん」
夏侯淵はあまり悪いとは思っていない様子でそれを渡してきて、夏侯惇は溜息をつく。
何の写真かと思いながら、夏侯淵から写真を受け取りそれを見る。するとすぐに懐かしく思ったのか、微かに笑った。
「俺が十で淵が九の時のものか。懐かしいな」
受け取った紙はやはり写真で、古いものである。それに写っているのはまだ小学校中学年の年の夏侯惇と夏侯淵と、中学生の曹仁と、高校生の曹操の四人で遊園地に遊びに行って記念に撮った写真であった。とても楽しかったという言葉のみが浮かんでくる。
確かその四人で行った理由が、曹操が大学受験の為にしばらく会えなくなるからという理由だった。結局、曹操本人は大した勉強をせずに偏差値の高い大学に入学できていたが。
だがなぜ会社の外でこれを渡したのか、と夏侯淵に聞こうとした夏侯惇はとあることに気付いた。この写真に写っている中学生の曹仁は今とはかなり違い、かなりやんちゃな外見をしている。恐らく、社内の人間に曹仁の昔の写真をなるべく見られないないように、と配慮したのだろう。
夏侯惇は心の中で腑に落ちると、腕時計を見た。そろそろ会社に戻らなければならないのもあり、夏侯淵の分の伝票を取る。夏侯淵は遠慮している様子であったが、夏侯惇が「写真を渡してくれた礼として」と言うと、ようやく決着が着いたらしい。夏侯淵は引き下がる。夏侯惇が会計を済ませると店を出て、会社に着いてから二人は別れたのであった。

本日の仕事を済ませてから、夏侯惇は帰宅をする為に身支度をする。明日は休日なので、他の社員は浮き足立っていた。スマートフォンを確認すると、数分前に于禁からメッセージが入っているのに気付く。
内容は「今日も遅くなる」という内容である。夏侯惇はそれに了解の返事を送ると、また今日も一人で夕食を取ることになるのかと表情を暗くする。朝は出社する時間が同じなので、朝食は二人で取れるのだが。しかし于禁の部署は今一番忙しいから仕方がないと、溜息をつく代わりに暗い表情を追い出していた。
帰宅してから今日で何日目か分からない一人での夕食を済ませたところで、入浴を済ませてベッドに横になる。今の時刻は二〇二時だが、眠るにはまだ早い時間だ。なので、今日の昼に夏侯淵から渡された写真をゆっくりと眺めた。
写っている四人は年が違っていても、例え学校が同じでなくても幼い頃から今でも連絡を途絶えさせることは無かった。この写真の他にも四人で写っている写真は何枚も持っている。
こうして思い出が残る今が、どれほど幸せかと改めて考えた瞬間であった。于禁が帰宅したのか、リビングから物音が聞こえている。
夏侯惇はサイドチェストの上に写真を一旦伏せて置き、急いで于禁を出迎えた。于禁は疲れた顔で、締めているネクタイを緩めている。
「おかえり」
「ただいま帰りました。お休みのところを出迎えさせてしまって、申し訳ありません」
気にするな、と返事をすると于禁に抱き着いた。入浴後の夏侯惇自身よりも、于禁の体は熱い。それを存分に感じていると于禁が体を剥がしたので、夏侯惇はなぜだというような表情を見せた。
「汗をかいていますので……それと、入浴を済ませてからゆっくりと続きを」
「そうか……待っている」
素直に于禁の言うことを聞くと、夏侯惇は寝室へと浮いた足で戻って行った。そして于禁はすぐに入浴をする。
于禁が入浴を終えると、二人はすぐに肌を重ねた。だが于禁は髪を乾かすことなど頭に無かったのか、髪を濡らして下着姿のままで夏侯惇に迫ってから。
夏侯惇はその于禁の姿を見て嬉しくなったのか、ベッドに組み敷かれるとすぐに与えられる快楽に酷く溺れていったのであった。

「……お体は?」
既に日付が変わり、二人は落ち着いてから身を清めてベッドに仰向けになる。二人は何も身に着けていないので、于禁は背中に爪痕を、夏侯惇は太腿に赤い痕がついているのがよく見えていて。
于禁は夏侯惇の体を労わるが、そこまでの負担は感じなかったのか、すぐに大丈夫だと言う。部屋を暗くしてから于禁は上体を起こしてサイドランプを点ける。するとサイドチェストの上に見慣れないものがあるので、夏侯惇にこれは何か訊ねた。
「あの、夏侯惇殿、この紙は何でしょうか? 仕事の資料でしたら……」
「ん? あぁ、これは俺が写っている、昔の写真だ。淵が今日くれたんだ。今まで渡すのを忘れていたらしくてな。俺も、存在を忘れていたのだが」
「拝見しても、よろしいでしょうか?」
「いいぞ。見ても何もならないのだがな」
夏侯惇は笑いながらそう言うが、早速写真を見た于禁は頬を緩ませて「なんと可愛らしい」という言葉を何度も出していた。写真を持っている手を、大きく震わせながら。
「なっ……! 大袈裟だろう、それは」
特に理由もないのに恥ずかしくなってきた夏侯惇は、于禁から写真を返して貰った。とても残念そうな顔をしているので、罪悪感がすぐに込み上げたが。
「では、お前の幼い頃の写真のアルバムでも見せてくれ。そういえば、お前のを見たことが無かったからな」
すると于禁の表情も声も、突然に岩のように硬くなった。先程までは、雲のように柔らかかったのに。
「……アルバムなどは、全て処分しました。昔の写真は一枚もありません。必要が無いですし、残っていた思い出を見せる者など一生、一人も居ないと思って」
于禁は後悔の顔を浮かべ始めた。
そういえば于禁と再会するまでは、どのような心境で生きていたのか夏侯惇は聞いていなかった。それからは寄りを戻し、きちんと心を開かせるのに必死だったのか。何に対して謝っているのかは分からないが、短い謝罪の言葉を出す。そして、于禁の心境など想像したくないのか、それを頭から追い出した。
これ以上の慰めの言葉を掛けようか考えていると、夏侯惇は何かを思い付いたらしい。起き上がってから、于禁に抱き着く。
「……残っている思い出が全く無いのなら、今からでも作ればいい話ではないか……そうだ! 今すぐにとはいかないが、二人で旅行に行こう。それにカメラを買って、俺との写真を撮ってアルバムを作ろうではないか」
突然の提案に于禁は驚くと、岩のような表情と声は砕けていく。そう提案されたことが、とても嬉しいのか。だが表に出す返事を迷っているのか夏侯惇の顔を見たり、逸らしたりという行動を忙しなく繰り返す。于禁の内心など知らない夏侯惇はそれを、断られるのではないかという、緊張した面持ちで見ていて。
「……旅行とはいえ、どこに行きたいのかは大まかに決まっていらっしゃいますか?」
「決まっていない」
于禁の疑問に夏侯惇は即答した。于禁は項垂れると、夏侯惇は笑いながら言葉を足す。
「行き先など、後で決めたら良いだろう。それより、俺の根本的な質問に答えろ。俺はお前と旅行に行きたいが、于禁はどうなんだ?」
「……はい。私も、あなたと同じく旅行に行きたいと思っております」
「では、二人で行こう。行き先は……どこがいい?」
「分かりません」
于禁も夏侯惇の疑問に即答すると、二人は笑った。だが今は九月に入ったばかり。行き先は決まっていないが、この先のまともな連休といったら年末年始しかない。なので年末年始に旅行に行くことを想定して、二人は真剣に考え始めた。
二人でスマートフォンで調べながら一〇数分間調べた結果でも、于禁は候補となる行き先を決められなかった。しかし夏侯惇は見つけられたらしく、その画面を于禁に見せる。
「水仙の群生地……俺はここがいい。そこは行ったことのない地域だが」
夏侯惇の言う行き先の地域とは、二人の住んでいる街から新幹線で片道で約三時間費やした地域にある。
二人の住んでいる街と比べると面積は二倍以上だが、人口は約三分の二。街の中心地には大きな海が隣接しており、街中であるのに広い河川や豊かな自然もある。それの恩恵があり、特産物もたくさんある。中心部にある駅には有名な建築家がデザインしたもので、街のどこを切り取っても絵になる。なので街そのものが観光地として有名だ。二人の住んでいる街ほどではないが、その街はとても栄えていた。
しかし水仙の群生地はその街から離れた山奥にあり、公共交通機関を利用してはとても行けないだろう。それを地図で調べて知った夏侯惇は、やっぱり止めようと言い掛けたが于禁はそれを妨げる。何か、解決策があるのか。
「……では、レンタカーを利用すれば良いのでは? としたら、やはり年末年始にしましょう。そこは私も行ったことのない土地なので、群生地の他にもゆっくり回ってみたいと思いまして」
「それはいいな。では、日付はいつにする? やはり年末年始か?」
「はい、そうなりますね」
二人が勤務している会社の年末年始の休みは、二〇八日から八日である。なのでその日のあたりからホテルを取るつもりで、何日間滞在するか話し合う。そのときの二人の表情は、寝ているベッドよりも柔らかく、そして優しい。
「世間では、帰省する者が多数居るからな。その新幹線ラッシュを避けたいとなると……三〇一日がいいだろう」
次第にそれぞれのスマートフォンの画面を見るのではなく、夏侯惇のスマートフォンの画面を二人で密着しながら、うつ伏せで見る形となった。普段からスマートフォンでやましい操作をしていない夏侯惇は、それを気にせずにまずは行き先の駅周辺のホテルを探す。新幹線の予約をまだできないことを分かっているからか。
幸いにもどこもまだ部屋の予約は空いている。選び放題である今、二人は話し合いながら宿泊するホテルを決めていく。
二人の共通の最優先事項が二つある。まず一つ目が新幹線で向かい、降りた駅の周辺にあることだ。二人はその地域に来たことがないので、迷う可能性を必ず含ませなければならない。二つ目はホテルに駐車場があるかどうかで、これは群生地のみにはレンタカーで移動することに決めたからである。
それらを重視しながらホテルを検索していった結果、ある程度の数にまで絞れた。そこから更に絞っていった結果、ようやく決めることができた。そのホテルとは駅から徒歩一〇分程度で、更にレンタカー付きである。二人の条件にかなりマッチングしているうえ、どこの部屋からの海や街並みの眺めが綺麗だという高い評価が幾つもあった。夏侯惇は早速そのホテルを予約しようとするが、次に何日間滞在するのか于禁と話し合う。
「やはり、行きと同様に帰りもラッシュを私も避けたいと思っております……となると、四日に帰りの新幹線に乗りたいのですが、夏侯惇殿はどのようなお考えでしょうか?」
「俺も四日に帰る日程でいいぞ」
こうし四泊五日の日程で旅行をすることになるのだが、二人にとってはそれほどの長期間の旅行をするのは初めてらしい。すると夏侯惇はとある重要なことに気付く。
「スーツケースが、今持っているものが二泊三日用しかないのだが、どう考えても買わなければならないな。明日、買いに行くぞ。お前の分と……それについでに、スマホで撮るのでなく、きちんとしたカメラが欲しい。お前との思い出を、しっかりと残したいかららな」
「は、はい……」
二人は予想外の日程になってしまうので、困惑しながら明日の予定を決めた。そしてその後に夏侯惇はホテルとそれにレンタカーも予約を確定させて決済もすると、スマートフォンをベッドの上に乱暴に投げて于禁に抱き着く。
「……楽しみだな、旅行。それに明日も」
「えぇ」
二人は幸福に満ち過ぎている顔をした。日付は既に変わっているので、于禁は夏侯惇の瞼に軽く口付けをする。夏侯惇はそれを嬉しそうに受け取ると、于禁はサイドランプの明りを消してから、二人は密着して共に心地よい眠りに就いたのであった。

翌日、二人は平日よりも少し遅い時間に起床すると、身支度をしてから朝食を取った。とてものんびりとしていたので、いつの間にか一〇時過ぎている。だが二人は焦る様子もなく、ただ丁度いい時間だと言い合う。
そこで気付いたが、二人が買おうとしているスーツケースの大きさはかなりのものになるので、買いに行くのはいいが持ち帰るのが大変だろう。二つであれば尚更。就寝前は旅行に行くことに対しての盛り上がりにより、そのようなことを考慮していなかったのか。
「……スーツケースはネット通販でいいか?」
終えた朝食の片付けの為に二人で流し台に並び、食器を洗っている最中に夏侯惇はそう訊ねる。とても、申し訳なさそうに。
その洗った食器を拭いている于禁は、こくりと頷く。
「私はそれでも大丈夫なのですが、何か不都合である事態が起きたのでしょうか?」
会話をしながらも、二人は手際よく片付けを済ませていく。于禁が夏侯惇にそう質問をした頃には、朝食の片付けは終わる。夏侯惇は溜息をつくが于禁はそれを見て、片付けが終わったからだと思った。しかし理由は全く違ったらしい。
「スーツケースも、お前と二人で選びたかったからに決まっているだろう。だが、店で買っても持ち帰るのがどう考えても面倒でな」
于禁はなるほど、と納得をする。そしてもう一度つきかけていた夏侯惇の溜息は、于禁の言葉により出ることが無かった。
「それはとても残念ですが、カメラを買わなければならないでしょう? カメラは、近くの家電量販店で共に選びましょう」
「そうだな」
キッチンから離れた二人は、ソファに並んで座る。夏侯惇がズボンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出すと、前から利用しているネット通販サイトのアプリを開く。于禁に手招きをして、自身のスマートフォンの画面を一緒に見ろと誘導した。それに応じた于禁は、夏侯惇のスマートフォンの画面を見る。
だがスマートフォンの画面は当然のように小さいので、二人はかなり密着しなければならないが気にする様子は皆無である。ちなみに二人の近くにはスマートフォンよりも画面が大きなノートパソコンがあるのだが、それでネット通販サイトを閲覧するという手段を取る気は無かった。
「予定している旅行の季節が冬だから、四泊用のものよりも大き目のものが良いだろうか」
夏侯惇は商品の検索窓で文字や空白を入力すると、それで検索をした。多くの商品が表示される。選択肢が多いのはいい事ではあるのだが、あまりの多さに二人は軽くページをスクロールした時点でどれがいいのか迷い始める。
「確かに、冬は着替えの服が多いので、少し大き目の物が良いかもしれません。となると、一泊分増やして検索し直されてみてはいかがでしょうか?」
更に少し夏侯惇がスクロールして、検索により出てきた多くの商品を軽く見てから賛同した。五泊六日用のスーツケースを検索し、表示される数々のスーツケースを見ていく。やはり、先程のように多くの商品が表示されているので二人は困惑していたが。
二人でまずは大まかに候補となる商品を見ていき、あらかじめカートに入れていく。そして二人で話し合って候補をどんどん絞っていったところで、購入するスーツケースが決まる。色は濃い青で、小物を細かく整理できるポケットがたくさんついていて、それを二人はお揃いで購入した。
「やっと決まったな」
スマートフォンの左上にあるデジタル表示の時計を見ると、一〇一時を過ぎていた。時間が経つのが早いと思いながら、夏侯惇は購入手続きを済ませる。だがその決済完了後に必ず表示される、ネット通販サイトからのおすすめの商品を見て于禁は顔を赤く染めた。
その表示されているおすすめ商品は全て、様々なメーカーのローションやコンドームだからだ。
「か、夏侯惇殿……!」
「どうした?」
夏侯惇は于禁の顔が赤くなった理由をすぐに把握したが、何も分かっていない振りをする。すると于禁は何も言えなくなり「何でもありません……」と言って出しかけていた意見を引かせるが、一方で顔の赤みは引いていない。
「ほら、カメラを買いに行くぞ」
于禁の様子を見て笑いながら立ち上がると、そのまま手を差し出した。その手を、于禁はしっかりと取ると立ち上がる。
「はい」
まだ于禁の顔の赤みが引かないまま、カメラを買いに家を出た。
一眼レフカメラを買いに行くのだが、家の近くにかなり大きな家電量販店があるのでそこに徒歩で向かう。本日は晴れており、暑さがまだ残っているが不快ではない。
周囲の歩道を行き交う人々は、早かったり遅かったりと様々である。二人は後者の速度で、時間を気にせずに歩いて行く。目的地に到着して、目的の物を早く二人で選びたいのだが、今のゆったりとした時間をまだ終わらせたくないのか。
于禁は歩きながら、上にある綺麗な青い空と白い雲を見る。そこでふと、空というものは前の血生臭い時代と変わらないというのに、美しく思いながら見る時間がどれだけ幸福なのかと思った。前は主に天候を把握する為か、戦に利用する為に空を見ていたというのに。
だがもう前の時代のことなど、もう振り返らないつもりでいる。二人以外の人間は外見や性格が同じであっても、記憶など無いのだから意味が無いのだ。それに前の記憶を二人だけで共有できれば、互いに充分だと今は思っているのか。
最初は二人とも一人で長い間、前の記憶を様々な感情で抱えていたが。
「今日は終日、晴れるそうです」
「そうか、それはよかった」
ただ空を見て于禁はそう言うと、夏侯惇は穏やかな表情で頷く。
すると家電量販店に到着したので建物に入る。冷房が効いているが、肌寒い程に冷えている。今日は休日なので、客が多いせいなのか。
この家電量販店は地上六階建てで、しかも売り場面積がかなり広い。入った所で売り場の案内の為の、黒板程の大きさの電光掲示板があるので二人はそれを確認する。
どの階の、どの辺りにカメラがあるのか把握をすると、まずはその階に向かう為にエスカレーターに乗る。しかしすれ違う客を避けなければならない程に客が多いので、あまりスムーズに歩けないようだった。ようやくエスカレーターに乗り目的の階に到着したのでフロアを少し歩く。するとすぐにカメラ売り場を見つけられた。
売り場には様々な種類、特徴、値段、スペックの一眼レフカメラが販売されている。二人はカメラについての知識など無いので、どれを買うべきか悩んでいた。店員に聞くという手段があるのだが、今は他の客の対応をしているので二人は売り場にある商品のカタログを取って見る。
しかしカメラの知識など素人同然であるので、最近の一眼レフカメラの性能などを見て二人はただ驚くことしかできずにいた。
なので二人は値段とスペックのみで買うカメラを決めていく。するとデータの転送の利便性が高い機能が備わっている物を見つけたので、二人はそれを購入することにした。値段は、他のものよりもそれなりの値段ではあるが。
それに三脚も必要かとその場で考えてから売り場を歩いていると、フォトプリンターという機器が視界に入った。カメラと繋げば、すぐに写真をプリントアウトできるらしい。二人はそれを見てそれと、小さく折り畳める丈夫な三脚を探すとレジに向かった。
レジで会計を済ませて、購入したカメラが入っている箱を夏侯惇は持つ。于禁は三脚とフォトプリンターの箱を。やはりそれなりの重さではあるが、二人は思い出を写し出せると思うとそのようなことはどうでもよくなってきていた。
「沢山、使おう」
家電量販店から出ると、一瞬だけ空を見た夏侯惇は于禁にそう言う。
「はい」
晴れている空のように明るい表情で于禁は返事をして、そのまま二人は帰宅した。

家に着くと二人は早速購入したカメラの箱をダイニングテーブルの上に置く。しかし三脚とフォトプリンターはまだ出番が無いので、部屋の隅に置いた。
カメラの箱を慎重に開封して、説明書を見る。電源の入れ方や撮影する為の設定を一通り確認したところで、夏侯惇は最初に写したいものを于禁に伝えた。
「まずは、指輪をはめた手を写さないか?」
少し前に買った婚約指輪を、普段の二人は着けていないので箱の中に大事にしまってあった。夏侯惇はそれが不満に思っているが。
なのでふと考えた夏侯惇がそれを取って指輪を出し、于禁に提案した次第である。
すぐに「はい」と頷いた于禁はその指輪を落とさないように受け取ると、丁寧に自身の薬指にはめた。まるで指輪のつけかたが分からないかのように、ぎこちなく。それを見た夏侯惇は微かに笑った後に続けて指輪をはめようとしていた。だが于禁にその手を止められる。
「……私が、あなたに着けても、よろしいでしょうか?」
手を差し出されると、夏侯惇は「頼む」と言ってはめようとしていた指輪を手渡す。
普段は婚約指輪が箱の中で眠り続けている。しかしこのやり取りが必ず起きる為か、常に婚約指輪をはめないということも悪くない、と夏侯惇は思ったが。
慎重に夏侯惇の婚約指輪を指先で掴むと、夏侯惇の左手を下から持ち上げるように持つ。そしてゆっくりとゆっくりと、婚約指輪をはめていく。
夏侯惇の左手の薬指に婚約指輪がはめると于禁は、あまりの愛しさに何も言えなくなり、視線を様々な方向に泳がせた。持っていた左手を素早く離す。夏侯惇はそれを見て、于禁の左手を手に取った。
「ほら、撮るぞ」
短くそう言うと、于禁の薬指に微かに唇を当てる。赤面した顔を見せながら「は、はい!」と答えた。
嬉々とした表情で立ち上がり、カメラのストラップを首に提げた夏侯惇は気付く。背景は何にするのかを。テーブルの上というのは味気がないし、どこかの部屋の窓というのも普通過ぎる。それ以前にとある問題が浮かび上がった。
二人の左手のみを写すとなると、どのようにカメラを持って綺麗に写すかだ。空いているのは右手のみだがどう考えてもカメラを支えづらいし、写り具合を上手く確認できないだろう。
夏侯惇の嬉々とした表情は、一瞬にして消え去る。
「……どうやって写すか、何も……考えてなかった」
「えっ……」
夏侯惇は首に提げていたカメラのストラップを、外そうとしている。于禁はそれを止めると少し考えた。
「お待ち下さい。では……安定するところと言ったら……安定するところ……あっ!」
案を見出だせたらしい于禁は、目を見開く。だが途端に恥ずかしそうに、スムーズとはいえない口調で夏侯惇にその案を言う。
「……その、ベッドの上は、いかがでしょうか。横になるので、体勢が安定しますし、もしも万が一、カメラが落ちても大丈夫ですし……なので、その……」
「いいと思うぞ」
口角を上げながら、夏侯惇はその案に賛同した。
「違います! 私は下心があるつもりでは……!」
「あぁ、分かってる分かってる」
どうやっても下がらない口角を夏侯惇が維持したまま、首にカメラを提げ直すと于禁と共に寝室に向かう。
この時間帯の寝室はよく日光が入るうえ、まだ暑さが残る時期なので遮光カーテンが閉まっていて薄暗い。照明を点けると薄暗さは消えて明るくなった。
しかしこの部屋は今はエアコンがついていないので、外のように暑かった。于禁はベッドの近くのサイドチェストの上にあるリモコンを操作する。エアコンの電源を入れると、すぐに冷房の風が少しずつ吹いてきた。
夏侯惇はすぐにベッドの上に乗って仰向けになるが、于禁は縁に座るのみ。なので夏侯惇は手招きして、于禁をベッドの上に寝かせた。
夏侯惇はカメラを操作して、レンズを天井に向けている。しかしファインダーを完全には見ていない。
「このまま、撮ってしまおう。手を出せ」
まずは自身から左手を伸ばして、手の平を天井に向ける。于禁にも同じ動作をすることを促した。
言われた通りに于禁も左手を伸ばし、手の平を同じように天井に向けた。二人の婚約指輪が、部屋の照明により輝いている。それは眩しい照明よりも、二人にとってはなお明るく見えていて。
「撮るぞ」
片手でカメラを持ち、夏侯惇はファインダーを覗いている。撮る位置を決めたのはいいが、少しだけカメラを持ちづらいらしい。それを持っている手を震わせていると、于禁は空いた右手でカメラを支える。
「ありがとう」と短い礼の言葉を言うと、カメラの撮影ボタンを押した。
きちんと撮れたか確認するために、二人は共にうつ伏せになる。カメラの操作画面から先程撮影した写真を見た。
結果、上手い具合に撮れていたようだった。部屋の照明は二人の手によって隠れ、婚約指輪がきちんと写っている。それにピンボケやブレなどもない。
スマートフォンのカメラではなく、一眼レフカメラで撮影したのは初めてらしい。夏侯惇はとても満足げな顔をしながら、先程撮影した写真をずっと見ている。
「撮影はあなたに任せてもよろしいでしょうか?」
「お前のカメラでもあるから、俺に任せるな」
「……分かりました」
普段の于禁にはスマートフォンで写真を撮る習慣でさえないので、困った表情を見せた。夏侯惇は笑いながら于禁の髪をぐしゃぐしゃにするように撫でる。
「また今度、写真を撮る練習の為にでも、そうだな……今夜、どこかの夜景でも撮りに行こう。夜景ならどこを切り取っても画になるしな」
「それは名案ですね!」
「……とは名ばかりの、お前とのデートだがな」
于禁は何も気付いていないのか、言葉の表面のみを受け取っていたらしい。夏侯惇の真の目的をすぐに聞かされ、顔もつけている婚約指輪も直視できなくなるくらいに困惑する。
だが夏侯惇からのその申し出を、断るという選択肢など于禁の中に全く無かった。了承の内容の返事をすぐにするが、やはり夏侯惇の顔を直視できていない。なので代わりに、と夏侯惇と体を密着して抱き着く。
その頃には効きすぎた冷房により、僅かに部屋の温度は低い。だが夏侯惇に抱き着いたことによる、体の暖かさで相殺された。
丁度よい暖かさになると、夏侯惇の瞼が重くなり始めていく。
「……すまん。少しだけ、寝てもいいか?」
未だに首にカメラのストラップを提げた状態で、夏侯惇は今にも眠ってしまいそうである。于禁は慌ててカメラのストラップを優しく取ると、サイドチェストに静かに置く。
「えぇ、夜まではまだ時間があるので大丈夫です」
「お前も言うようになったな」
意識が睡眠へと引かれてはいるが、于禁の返事に対して確実に反応して笑う。それに対して于禁はただ緩んだ表情のみを返す。
于禁は夏侯惇の体を抱き寄せ、背中に手を回した。すると夏侯惇は、すぐに眠りに就く。穏やかな表情の寝顔が、すぐ近くにある。
眠気は無かった于禁だが、夏侯惇の規則的な寝息を聞いているうちに睡眠欲が突然に現れてしまったらしい。だがそれに抗うことなく、于禁も夏侯惇と同じように一時的な眠りに就いたのであった。

二人がほぼ同時に目が覚めると、夕方に差し掛かる時間になっていた。外にあった眩しい日光は既に差していない。
いつの間にか于禁に抱き枕にされる形で抱き着かれていた夏侯惇は、少しの苦しさに溜息をつく。于禁は回していた手を離し、悪いことをしたかのように眉を下げる。
「申し訳ありません、つい……」
「構わん。だが、俺もやり返すからな」
エアコンの設定温度を変えていないので、当然のように部屋全体が冷えていた。なので夏侯惇は肌寒いからと早速、于禁に仕返しをする。
「仰った直後にですか」
「お前の体は暖かいからな」
小さく笑いながら夏侯惇の腰に手を回し、後頭部にも回す。確かに、夏侯惇の肌には僅かな鳥肌が立っている。于禁が体を離したせいだろうか。
「では暖まったら、外に出ましょうか」
腰から背中へと、夏侯惇の体を擦りながらそう言う。すると夏侯惇は、于禁へと顔をぐっと近付けた。今から夏侯惇がしようとしていることなど、于禁は分かっているらしい。于禁からも顔を近付ける。
「少しだけ、ですからね」
「あぁ」
二人で笑い合うと何度も僅かに唇を合わせる。そしてエアコンの設定温度など上げず、互いの体温を分け合っていたのであった。

二人が外に出た頃には、陽が暮れかけていた。空は橙色と紫色が混じり合っている。昼間と比べると、温度は低く肌寒い。だが寝室でエアコンを効かせた程ではないので、二人は軽装の上に薄手のパーカーを羽織っていた。
二人は歩道を歩いている人々の喧騒をかき分けていく。于禁は一眼レフカメラのストラップを首に提げているが、通行人や物に当らないように気を付けながら歩いた。並んで歩いても周囲の通行の妨げになるので、縦に並んで歩いていく。前を夏侯惇で、後ろを于禁が。
だがこの時間帯でもやはり、通行人がかなり多いので于禁は夏侯惇が着ているパーカーを控えめに掴む。
「そういえば、行き先を決めていなかったな」
横を向き、前に注意を払いながらも于禁にそう話しかける。確かに家から出る前も外に出た後も、二人は行き先を決める話し合いをしていなかった。
それを特に気にしていない于禁は、歩きながら行き先を考えてみる。
今、外に出た目的というのは一眼レフカメラの扱いに慣れておくこと。もう一つはプライベートの写真を撮る習慣の無い于禁に、写真を何枚か撮ってもらう。そして少しでも写真を撮ることに慣れておくということだ。
さすがにそのような状態の于禁に、行き先を決めるのは難しいと夏侯惇は判断した。なので考えながら前を向いて歩いた結果、これからの行き先を思いついたらしい。前に注意しながらも再び横を向くと、于禁に向けて行き先を提案した。
夏侯惇の提案した場所というのは、ここから約二〇分歩いた場所にある公園だ。だが公園といっても遊具などなく、ランニングなどの運動ができる、芝生が広がる公園である。視界が開けているので、今の時間帯なら夜景がよく見えるらしい。それに自然が豊かであるので、よくある撮影対象にしても写真として収めやすいだろう。夏侯惇はそう考えて提案した。
「そこにしましょう」
納得した于禁は短く頷くと、二人は目的地が決まったのか確実な方向と足取りを持って向かって行った。

しばらく歩いていくと遊具の無い、ただ芝生が広がっている目的の公園に到着した。所々に、ベンチや自動販売機などはあるが。先程のように人はあまり居ないので、二人は一安心した後にまずはベンチに座って会話を始める。その頃には、陽が沈みきっていた。だが等間隔にある明るい街灯により、夜の暗さはほぼ消え去っていて。
「ここは人が少ないので、落ち着きますね」
于禁はまだ新品の状態である一眼レフカメラを撫でている。買ったばかりの高価な物を傷つけずに済み、とても安心した顔をしていた。
「そうだな」
すると于禁は自身左手にまだある薬指の婚約指輪の存在に気付き、しまったという顔を見せた。同じく夏侯惇の左手の薬指にも婚約指輪があるが、于禁のようなリアクションは全く出していない。寧ろ、それを気にしていないのか。
「どうした?」
「……いえ、何でもありません。それより……写真の撮り方ですが」
于禁の先程の顔をもう忘れたのか、夏侯惇は写真の撮り方について答える。しかし夏侯惇も素人であるし、写真を撮ることを趣味にはしていない。なので夏侯惇なりの回答を出した。
「周りに何か惹かれる物は無いか? あったら、まずはそれを写してみろ」
惹かれる物、としてまず于禁の頭を過ぎったのは遠くの街並みと夜空であった。いつもは狭い場所からしか見れないが、ここは開けているのでよく見える。なので惹かれる物としてそれを選んだ。
「空と街、ですかね」
「ではそれを撮ってみろ」
于禁は言う通りに夜景に向けてから、液晶モニターで設定を変えて調整をしてシャッターを押す。撮影音が聞こえたので、きちんと撮影できていることは把握する。なので二人で液晶モニターから撮影した写真を確認してみた。だが于禁は溜息をつき、夏侯惇は励ますように于禁の肩を叩く。
「……異界?」
「ブレただけだろう。もう一度、撮ってみればいい」
写っている写真は夏侯惇の言う通りであった。暗さの中で目立ち、遠くにある主役の点のような人工的な光が奇妙な弧を描いてる。それ以外にも焦点が合っていないなどの状態。
肩を落とした于禁は夏侯惇の言葉を聞くなり、もう一度夜景を写した。だが液晶モニターを覗くと、先程とほぼ同じ写り具合である。于禁は夜景を見て、深い溜息をつく。
「明日も休みですので、また明日、付き合って頂けますか? また、ここで」
「いいぞ。今日は疲れているせいだろうしな」
二人はそう話すと、夜の公園から出て帰宅した。

次の日、今度は昼間に来ていた。しかし昨夜のような写真を何枚も撮っていたので、于禁は悲しそうな顔でカメラを見つめている。
「時間はまだあるから、それまではできるだけ付き合う。心配するな」
于禁の肩に手をポンと添えてそう言った夏侯惇は旅行までの数ヶ月間、于禁の写真撮影の練習に定期的に付き合ったのであった。
于禁のカメラの扱いに慣れる為、月に二回のペースで二人で外に写真を撮りに行っていた。結果、初めての旅行までに扱いに何とか慣れていく。それも年末年始の長期休暇が始まる少し前であったので、二人は安堵していたが。
そしてそれまでのところで、ネット通販サイトで注文していたスーツケースが届いた。二人の手持ちの物よりも大きい。実際のサイズをあまり見ていなかったので、見比べて大層驚いていたが。
それに旅行一ヶ月の、日付が変わった瞬間に新幹線の席の予約画面を開く。その時点では、まだ予約を取られていない。なので二人は事前に決めていた席を取る。二人は予約完了画面を見ると、安堵の溜息を漏らしていたのであった。

この年では最後の出社を終え、社員全員が明るい表情で定時で会社を出た。だが二人は互いに用事があると連絡しているので、まっすぐ帰宅していない。
夜の七時前、太陽など既に沈んでいる時間に夏侯惇が先に帰宅した。手には通勤鞄と雑誌サイズの薄く茶色い紙袋を抱えている。通勤鞄をリビングのソファーの端に置き、茶色の紙袋をテーブルの上に置いた。コートも何も脱がずに、ソファーの真ん中にぐったりと座る。テーブルの上に置いてある、エアコンのリモコンを操作した。壁に設置してあるエアコンから、今の時期では心地よい温風が出てくる。
ここ数日、年末年始の長期休暇の為に仕事が多忙であった。その疲れを一時的に消す為に、背もたれの部分にだらしなく両肘を上げて乗せる。視線は天井を向けて数分後、そこを見つめていると于禁が帰宅したようだ。玄関の扉を解錠する音で分かった。
夏侯惇は先程の体勢を止め、天井から廊下へと繋がるドアへと顔を向ける。片腕のみは、背もたれに上げて乗せているままだが。
「ただいま帰宅致しました」
「ん、おかえり」
玄関から入ってリビングに入ると、ソファーの背もたれが見える。なので夏侯惇は顔のみを于禁の方に向け、そう返した。于禁は疲れた顔をしながら、着ていたコートを脱ぐ。
すると夏侯惇はとあることに気付く。于禁が、通勤鞄の他に茶色の紙袋を持っていることを。夏侯惇はそれを指摘すると于禁は疲れた表情から一転させ、とても嬉しそうな表情へと変えていった。
紙袋から取り出したのは、一冊の雑誌である。表紙の上部分には二人の旅行先である地名が書いてあり、下の部分にはその地の様々な観光地の写真の切り抜きが幾つか載っていた。いわゆる、観光ガイドブックである。于禁はそれの表紙を夏侯惇に見せながら、とても浮ついた声で話し始めた。
「これは旅行先のガイドブックで、帰りに書店で買って来ました。このような本を初めて買ったのですが、やはり色んな情報が載っていますね。旅行先での具体的なスケジュールを決めていないので、これを参考にしませんか? ……スマートフォンで調べるという手段もありますが、こちらの方が情報が纏まっていると思いまして」
夏侯惇はその様子の于禁とそれに、見せている雑誌の表紙を見てとてもおかしそうに笑う。呆然とした表情へ于禁は変えていた。どうしたのか、というような表情で。
「俺もそれを帰りに買ったところでな。しかも、お前と同じものだとは」
テーブルの上に置いていた紙袋を取り出すと中身を出し、それを于禁に見せた。夏侯惇の言う通り、于禁が帰りに買ったものと同じである。なので于禁は頬を大きく緩めた。
「あなたもですか」
二人は互いの買って帰った雑誌の表紙を見て、静かに笑い始めた。
「別に良いではないか。お前も俺も、旅行を本当に楽しみにしていることが分かったからな」
雑誌を紙袋に丁寧に入れた夏侯惇は立ち上がり、ようやく着ているコートを脱ぎ始める。
「明日と明後日で旅行の準備とそれに、部屋の掃除もしたい。そうだな……明日は晴れる予報だから掃除してしまおう。明後日は雨で、明々後日の旅行の日は晴れだったな。だから、今日は早く休むぞ」
「はい」
二人はそれからは和やかな雰囲気で、この日を終えた。

次の日、空は予報通りによく晴れていて、白い雲がちらほらと浮かんでいるのみ。まさに快晴という言葉が相応しい程である。
二人は年越しを旅行先でする為に、今朝から全ての部屋の掃除に勤しんでいた。だが全てとはいえ基本的には二人で住むには多少狭いのマンションの部屋に住んでいるので、全ての部屋の数自体が少ない。なのでより丁寧にしても、夕方には全ての掃除が終わっていた。
「案外、すぐに終わりましたな」
綺麗になった窓から橙色の空がよく見えた。その後に、これ以上に手を加える必要のない部屋を于禁はぐるりと見渡す。いつもよりも綺麗になった部屋を見て、かなり満足しているようだ。
もうじき夜が来て、冷えが増す。なので于禁はテーブルに置いているエアコンのリモコンを操作してから、温風をいつもより少し強めに出すように設定する。今日は一度も稼働していないエアコンから、温風が少しずつ出てきた。
しかし夏侯惇も于禁と同じ意見であるが、少しだけ考え事をしていたらしい。かなりの達成感を覚えている于禁の言葉に、ワンテンポ遅れて反応したからだ。于禁はどうしたのか、と訊ねるが夏侯惇は首を振って何でもないと答える。夏侯惇の言う「何でもない」という返事は嘘であるが于禁はそれに気付いていた。聞くべきか数秒のうちに考えたが、聞かない方が良いかと思い夏侯惇の引っ掛かる態度を忘れることにしていたが。
「明日は旅行の準備をするが……明日は雨の予報だな。事前に確認しておきたいのだが、買い足す物はあるか?」
今朝からの二人の格好は軽装である。だが掃除する為にと動きやすく生地が薄いものなので、寒さにより体温が徐々に奪われていっていた。エアコンの温風が、まだ部屋を循環し始めたばかりなのか。
夏侯惇は肌に鳥肌が立っていくのを確かに感じながら、寒い様子が全くない于禁の方を見る。その于禁は夏侯惇の質問に対し、思考を巡らせている最中だ。なので夏侯惇は冷え始めていく両手を、于禁の両頬に添える。すると大きく驚いた于禁は目を見開いた。唐突に頬に冷たいものを当てられたこと、そして夏侯惇から寒さを与えられてしまったからだ。
「い、いきなりは止めて頂きたいのですが……!」
特に冷たくなってしまった頬を膨らませながら、体温を取り戻すように夏侯惇の両頬に同じく両手を添える。だが于禁の手の平は暖かいのか、夏侯惇は笑っていた。
されたことを返すという思惑は上手くいかなかったが、于禁も笑っていた。
「夕食を作るのが面倒だから、今日は外で食おう。シャワーを浴びてからになるがな」
そう提案した夏侯惇は于禁へと抱き着いた。ようやくエアコンから出る温風が部屋を循環し始めたのか、冷えが次第に無くなっていく。その暖かさに夏侯惇は于禁から体を離そうとしたが、于禁にそれをすぐに阻止された。
「だが……それは何時になるのやら」
于禁はとても軽い笑い声を漏らすと、夏侯惇の顎を掴んで唇を奪ったが、直後に唇同士は離れようともしない。寧ろ夏侯惇が、上目遣いになると舌を出して于禁を煽っていく。
どちらも『誘い』を断る気は無く、夏侯惇の先程の提案は自然と消えていたが。

睦言を言い合う夜が明けた朝というには少しだけ遅い時刻に、二人は気だるげにベッドから出た。この日は二人での旅行の前日である。
「準備するか……」
まだ寝足りないが、あくびを寸前で止めながら夏侯惇は服を着て身支度をしていく。于禁はそれを見て何か介助でもした方が良いかと思い、タイミングを伺ってみた。しかしその必要は無いらしく、夏侯惇は朝食の準備をする為にキッチンへと向かう。
「旅行は明日からだからな、早く準備をするぞ」
于禁はすぐに了承の返事をすると、率先して手伝いをしていく。
朝食を終えると、二人はすぐにスーツケースに四日分の荷物を詰めていった。まずは荷物の要である着替えだ。今は寒い時期であるので、着替えの荷物が増えるのは当然である。だが新しく買ったスーツケースに日数分の着替えが余裕で入った。
次は細々とした物を詰めていくが、嬉々とした表情で夏侯惇がとある物を自身のスーツケースに入れようとしたので于禁はそれを強く制止する。
「か、夏侯惇殿! それは……!」
「何だ? あぁ、これか。あればある程、お前も良いだろう?」
夏侯惇がスーツケースに入れようとしていた物は、コンドームが五つ程入っている未開封のパッケージだ。それに未開封の小さなローションボトルもある。于禁は顔を真っ赤にして、それらを入れるのを止めさせるべきか悩み始めた。
そうしていると、夏侯惇は詰めたまま他の荷物を詰め始める。なので于禁は顔の赤さを維持したまま、考えていたことを放棄したのであった。止めても無駄であるし、于禁にとってそれが必要ないとは絶対に言えないからだ。
二人が他の荷物も詰めると、旅行の準備はほとんど終わっていた。残りは現地で移動する際の鞄と、財布に入れて持ち歩く現金やカード類の確認、折りたたみ式の三脚、運転免許証、新幹線で行くので電子チケットや席の確認、被ってしまったガイドブック二冊、それにカメラの充電がある。それらはほんの一〇数分で終えると、時刻は昼過ぎになっていた。
二人は時計で現在の時間を確認すると、互いに旅行が楽しみだと言いながら、昼食を取る為に雨が降りしきる外へと出たのであった。

夜になった。
就寝前の二人はスーツケースに詰めた荷物を再度確認し、新幹線に乗るために駅に向かう時刻も確認していく。改めて確認を終えると、二人はベッドに入る。照明を今はサイドランプのみ点けていた。後は就寝して明日を待つのみであるので、于禁はサイドランプの照明を消す。
部屋が真っ暗になると夏侯惇の体を探し、軽く唇を合わせた。
「……今気付いたのだが、明日からの旅行はお前とのハネムーンということになるな」
そう夏侯惇が呟くと于禁は途端に就寝する気にはなれなくなり、消していたサイドランプを点ける。夏侯惇はどうしたのかと、于禁に弱い文句を言うが。
「か、夏侯惇殿……!」
「どうした?」
少しずつ睡魔に負けてきているのか、夏侯惇は目をとろりとさせている。于禁はその夏侯惇に対し、力強く発言をした。それも、とても真剣な顔つきで。
「明日は、あなたも、指輪をつけて下され! 絶対に!」
「あぁ、そのつもりだ」
睡魔に相変わらず負けているが、夏侯惇は確実にそう返事をすると静かに眠ってしまう。于禁は興奮を鎮める為に天井に向けて軽く息を吐くと、サイドランプの明りを消したのであった。

本日は大晦日であり、二人で旅行をする日を迎えた。
席を予約していた新幹線の発車時刻は九時過ぎである。乗車する駅は二人の家から徒歩で約二〇分なので、八時には家を出たいらしい。時間に余裕を持って行動したいからか。
それを逆算して、六時過ぎに二人は起床した。身支度を済ませて朝食を取り、最後にもう一度荷物を確認すると時刻はまだ七時半である。昨日、全ての部屋を綺麗にしたので細かい汚れがまだ見えないリビングを見るなり、于禁はソファに座った。その瞬間、重要な物を忘れていたのですぐに立ち上がる。
「指輪……!」
指輪の箱が収納してある棚は寝室にある。だが夏侯惇は于禁が気付くまでの間、指輪を忘れていることをわざと言わないでいた。もしも忘れていた場合は、こっそりと持ち出してから新幹線の席でつけさせようとしていたのだが。
どちらにせよ、静かな舌打ちをした夏侯惇は于禁が取りに来るのを待つ。だがほんの数秒間であったので、夏侯惇はその間に壁に掛けてある時計を見た。現在の時刻を確認した後に、部屋を見渡す。やはり何か思うことがあるのか悩まし気な表情を作った。
「いかがなさいましたか?」
その表情を見た于禁は、そう問い掛ける。焦った表情を残した夏侯惇は何でもない、と言った後に指輪の入った箱を見た。すぐに指輪をはめて欲しいと言うと、于禁は頬を朱色に染めながら箱を明ける。二つのやや違うサイズの指輪が横に並んで入っており、于禁は少し小さめの指輪を慎重に取った。指輪は、綺麗な輝く銀色をしている。それを見て夏侯惇が左手を差し出したので、于禁はその指輪を薬指にゆっくりと優しく通していく。まるで夏侯惇の薬指が、繊細な美術品であるかのように。
薬指に指輪という徴が付与されると、于禁は夏侯惇の左手を持ち上げて薬指に軽くキスをした。その動作を見た夏侯惇は、照れ気味に礼を言う。
「ありがとう……。俺も、お前に指輪をつけてもいいか?」
「はい、勿論」
于禁はもう一つの指輪が納まっている箱を夏侯惇に渡した。受け取った夏侯惇は指輪を丁寧に取ると、于禁の左手の薬指に通していく。
だが于禁のように、指輪に口付けはしなかった。夏侯惇は指輪ではなく、于禁の唇に口付けをする。不意打ちに驚いた于禁は、思わず腰を抜かす。夏侯惇は笑いながら于禁に手を差し伸べると于禁も同じく笑い、その手を確かに取って立ち上がった。
「申し訳ありません、突然でしたので……」
何故だか夏侯惇の顔を直視できなくなった于禁は、視線を逸らしながら謝罪をする。しかし夏侯惇はそれを見て、少し機嫌を悪くしていて。
「まったく……そろそろ出るぞ」
腰に手を当ててから再び部屋の壁に掛けてある時計を見ると、八時になろうとしていた。なので夏侯惇はコートを着てマフラーを巻いていく。今日も寒いのでしっかりと。于禁はそれを見て申し訳なさそうに、同じようにコートを着てマフラーを巻いた。
スーツケースと移動用の鞄、そして于禁が一眼レフカメラの入っているケースを持つと、家を出てしっかりと施錠してから駅へと徒歩で向かったのであった。

駅に到着したのは八時半前である。二人にしては遅い歩調で向かったので、二〇分以上かかっていた。
もう少し時間が経ったら改札を通ろうと思い、この時間帯でも人が多い構内の隅にあるベンチに並んで座る。通路は広く通行人の邪魔にはならないが、二人はそれぞれスーツケースを膝で挟んで固定した。
暖房はついていないので寒いのか、二人は白い吐息を吐く。常に動き回っている人混みをしばらくぼんやりと見た後、夏侯惇はその白い吐息と共に短い言葉を吐いた。
「楽しい旅行にしよう」
「勿論です」
于禁も白い吐息を吐きながら、そう答える。とても、柔らかい口調と表情で。
するとさり気なく夏侯惇が指先で于禁の手の甲をつつく。だが寒さのせいで冷たかったのか、于禁は「冷たい」と言いながらその指先を捕まえた。じんわりと、夏侯惇の指先に于禁の熱が侵食していく。
その感覚を夏侯惇はいつまでも独占していたかったし、更に広い範囲を侵食して欲しいと思っていた。しかし今は人目につく場所であるので、その思考を何とか押し殺す。まだ早いが、改札を通ろうと于禁に提案しながら。
二人は立ち上がると、スーツケースを引いて新幹線用の改札にゆっくりと歩いて向かう。改札には他にも利用客がいたが、切符がないなどのトラブルを目の前で起こしていないので、すんなりと通っていく。時間に余裕があるので、何かトラブルを起こしていても特には気にならないのだが。
二人は改札をスマートフォンをかざして通る。そしてホームに向かうが、人影はまばらだ。現在の時刻は八時半を過ぎたところで、新幹線が来るまでは約二〇分。ホームにもベンチがあるので、そこに二人は並んで座る。ここは屋外で、構内よりずっと気温が低い。二人は寒さで体を震わせる。
「そういえば、今日のレンタカーの運転は俺がしていいか?」
「あなただけに運転させるのは……」
「お前に疲れを作らせる訳にはいかないからな……では、明日は運転を頼む」
「はい、喜んで」
新幹線から降りてホテルにチェックインして荷物を置いた後、行く場所は二人で決めている。それは水仙の群生地だ。そこは最初に行こうと、二人で話し合っていたのである。
場所はホテルから出発した場合で、片道一時間の山奥。確実に、運転する方は疲れるであろう。事前に場所をスマートフォンの地図アプリで調べてあるが、新幹線を待つ間に改めて確認した。
「ここは年中無休らしいが、さすがに今日はあまり見物客が居ないだろうな」
夏侯惇は軽く笑うと、検索エンジンからその水仙の群生地の画像を見る。幾つもあるので、流し見しながらどんどんスワイプしていった。
すると新幹線がもうじき来る時間が迫っていた。なので二人はベンチから立ち上がり、スーツケースを引いて移動する。
そして二人で他の行き先についての会話をしていると、新幹線が来た。ここは始発駅ではないので
降りていく乗客が居なくなってから、スーツケースを引いて乗車して指定していた席に座る。于禁は窓際を夏侯惇に譲った。なので夏侯惇は帰りは窓際を于禁に譲ると言いながら、席に着く。
数分後、新幹線が動き出した。すぐさま車窓からの景色が変わっていく。二人はそれを見ながら様々な会話をする。
例えば『今度はあの場所に一緒に行きたい』や『あの景色が綺麗だ』など。二人は会話が尽きなかったらしく、目的地までは片道三時間という長い時間があっという間に過ぎていった。途中で、車内販売で買ったランチを食べながらも。
目的地の駅のホームに降りると、スーツケースを引いて人の流れが無い場所へと移動する。
「今からこれを写しても宜しいでしょうか?」
于禁は駅名標を指さしてそう言うと、夏侯惇は首を縦に振った。于禁はケースからカメラを出すと、早速写してからモニターで写り具合を確認する。
写真に写っているのは、駅名標のみ。ブレも焦点が合っていないなどの状態にはなっていない。はっきりと駅名標の形も、文字も認識できる。なので于禁は一安心しながら、カメラの電源を切った。そしてケースにしまおうとしたが、夏侯惇にそれを止められる。
「……俺は?」
「……はい?」
「俺も一緒に写してくれなかったのか?」
眉を八の字に下げた夏侯惇だが、それを見た于禁は慌ててカメラの電源を点けながら「勿論です!」と言った。夏侯惇はその顔をやめる直前に溜息をつくと、カメラを構えようとしていた于禁の肩を叩く。
「一緒に写るぞ」
「えっ」
「カメラはお前が持って写せ」
「……は、はい」
二人は駅名標を背にほぼ密着して並ぶが、于禁は離れようとしている。なので夏侯惇はその肩をぐいと寄せた。驚いた顔をした于禁だが、夏侯惇は平然としていて更に驚く。
そして于禁は夏侯惇の言う通りに、カメラのレンズを二人とは少し離れた場所で向ける。いわゆる、スマートフォンで自撮りをする要領で。そしてシャッターボタンの位置を指先で確認するが、カメラを持っている片腕が震え始めた。于禁の険しい顔が一層険しくなり始めるが、一方で夏侯惇の表情は穏やかだ。
しかし于禁の表情を見ると、その表情は崩れたのか笑っていた。そして于禁の表情を何とかしようと、于禁の頬を片手で軽くつまむ。
「ほら、笑え」
「笑っています」
「笑ってないだろう」
そのようなやり取りをしていると、于禁はついシャッターボタンを押してしまったらしい。于禁はまだカメラを持ったまま、夏侯惇の様子を伺う。
「……とりあえず確認してみるか」
于禁の腕が限界に達する寸前であったので、夏侯惇は于禁に上げていた腕を降ろさせる。ようやく腕が楽になったのか、于禁は上げていた腕をだらりとさせていたが。
今はその片腕を使わせるのは酷だろうと思った夏侯惇は、自身がカメラのモニターで撮った写真を確認した。すると小さな声を漏らしながら笑う。
「これはいいな」
どうしたのかと言いたげな表情を于禁がしていた。夏侯惇はカメラのモニターで先程撮った写真を見せると、于禁は夏侯惇より小さな声を漏らし、そして微かに笑う。
先程撮った写真には夏侯惇が笑いながら、普段よりも眉間の皺を薄くさせている于禁が写っていた。それも、互いの顔を見ている。
二人は先程撮った写真に納得をすると、スーツケースを引きながら駅から出たのであった。先程撮った写真と、これから撮りたい写真のことを話し合いながら。そして、カメラはケースに収納しないまま。
駅から出ると、部屋を取っているホテルにチェックインするために向かう。駅からは近い場所にあるが、スマートフォンの地図アプリでホテルの場所を確認する。
この街は二人が住んでいる街とは、当たり前だが大きく違う。二人の住んでいる街は言うなれば、幾何学的で高さのある建築物が地を覆い、見える空を埋めていて自然があまり見えない街並みである。逆にこの街は幾何学的な建物はあるものの、その中に非幾何学的な建物が点在していた。高さのある建築物といえば駅や一部の施設や会社の建物くらいか。それにこの街は海に面していてかつ、中心部に大きな河川や公園がある。自然と人工的な物のバランスがよく取れていた。
二人は事前に街のことを知っていて、以前からメディアを通じてよく見ていた場所だ。しかしメディアも何も通さず、実際にこの街を見たのは初めてらしい。なので二人は、街のその様子を無言で見ていた。
しばらくして、出た駅を背景で写真を撮ろうと夏侯惇が口を開いてそう提案した。次は、自身がカメラを持つという言葉を加えて。
そして二人が今居る駅だがかなり有名な建築家がデザインしたものらしく、どこを切り取ってもとても画になる。それが評判なのか、周囲には二人のように駅の建物を背景に写真を撮っている者が何人も居た。
駅の名前が分かる場所を探し、通行人が少ない傾向にある地点に立つ。夏侯惇がカメラを持つと、駅名標をバックに撮ったときと同様に、二人で横に並ぶ。その際に二人は体を密着させていたのだが、今回は于禁は離れようともしなかった。だがそれでも夏侯惇は于禁の肩を寄せるように持つと、于禁は夏侯惇の腰に手を添える。
カメラのレンズを見ながら夏侯惇が小声で「なんだ、突然大胆になったな」と言うと、于禁は頬を僅かに赤く染めた。
「暑いのか?」
からかうように于禁にそう言うと、シャッターボタンを押した。その瞬間に于禁の頬が更に赤く染まってしまう。それはカメラのモニターで確認できたが、于禁はその写真を削除して欲しいと恥ずかしげに夏侯惇に頼んだ。しかし夏侯惇はそれを頑なに拒否をしていて。
「早くチェックインするぞ。スーツケースを早く部屋に置きたい」
カメラは夏侯惇が持っていたので、そのままストラップを首に提げるとスーツケースを引いて歩き始めた。とても、機嫌の良さそうな様子で。于禁はもう何も言えなくなったのか、頬の赤さとスーツケースを引き摺りながら、夏侯惇の後を追い掛けたのであった。
ホテルへは時折道を引き返しながらも、何とか到着する。来たことの無い地であるからというのもあるが、駅から降りるまではランドマーク代わりになる建築物があるのでそれを目印にしようとしていた。しかしそれはほんの数日前に取り壊されたらしく、二人は愕然としながらスマートフォンの地図アプリと周囲を頻繁に見返していたが。
二人が予約したホテルはこの街で一番ではないが、かなりの階層まであった。海に近いので客室からは海がよく見えるうえに、街もよく見える。二人は一番上の階の端の部屋を取っていた。
フロントに入りチェックインして鍵を受け取ると、ホテルマンからスーツケースを運ぶと言われたが二人はそれをやんわりと断った。取っていた部屋の階にエレベーターで上ると、すぐに部屋に入って施錠をしてスーツケースを入口に放置するように置く。
「夏侯惇殿……」
于禁はホテルの部屋を見るよりも先にすぐに夏侯惇に詰め寄ると、そのまま唇を奪った。夏侯惇が首に提げている一眼レフカメラのストラップをゆっくりと外していきながら。
一眼レフカメラのストラップを外してスーツケースの上に置いてから、夏侯惇の口腔内に舌を捻じ込む。二人の肌は外の冷えに曝された為に冷たいが、粘膜はとても温かい。
夏侯惇は無理矢理入って来る于禁の舌を受け入れ、自身の舌で絡めていく。そうしていると、于禁が夏侯惇の腰に手を回してきた。だが夏侯惇は于禁の首の後ろに手を回すと、溶けると思うくらいに脳が痺れてくる。同時に、夏侯惇の表情からは快楽を求めるようなものへと変わっていった。
「……もう少ししてから、外に出よう」
「はい」
二人は粘膜よりも熱を持ち始めたばかりの下半身を、互いに当てながらとても短い会話を交わす。そして部屋にある浴室に移動してから、その熱を一時的に発散させたのであった。

二人がホテルから出て、予約していたレンタカーに乗ったのは午後三時半過ぎである。夏侯惇が疲れている様子であったが、水仙の群生地へは行くと言った。自ら、一眼レフカメラを首に提げて。
しかしどう考えても運転できる状態ではないので、于禁が運転することになった。それを夏侯惇は申し訳ないと謝る。
「……いえ、無理をさせた私が悪いことですので」
そこで于禁は夏侯惇の顔を直視できなかったらしい。無理をさせているような気分に、陥ってしまったのか。だがそれを誤魔化す為にハンドルを握ると、目的地へと運転を始めた。今の時点では睡魔が来ない夏侯惇は、スマートフォンで地図アプリを時折確認していて。
約一時間、道に迷いながらも水仙の群生地へと到着した。空が少しずつ青色から橙色へと変わってきている頃に。
山に囲まれているので、駐車場からは群生地は全く見えない。それにここは街中よりも寒かった。街とは違って、寂れている景観のせいでもあるが。
何一〇台か停められる駐車場があり、やはりこの時間帯なのか車も二人以外の人気もない。隅に車を停めると、二人は車から降りる。
「誰も居ないな」
夏侯惇は冷たい空気により顔をしかめる。
「このような時間だからでしょうか……」
スマートフォンで時間を確認した于禁も、冷たい空気に包まれて顔をしかめた。だが、すぐに夏侯惇は嬉しそうな様子へと変えていく。
「だが、お前とここでは二人きりだ」
「……はい」
夏侯惇は于禁の左手を持つ。同時に冷たい空気の中でも心地よい暖かさも持つと、群生地へと向かって行った。
背後と左右が木々に囲まれている中に、大量の水仙が咲いていた。緩やかに起伏のある丘の上に、水仙が絨毯のように広がっている。普段から丁寧に手入れをされているのか、一面が黄色や白色により視界を占領された。それに奥には海が見えていて。
ここは広さはかなりある。それでもこの場所には、二人と咲いている大量の水仙しかない。それに陽が少しずつ沈んでいく空もあり、あまり見ないような美しい光景であった。
「……綺麗だな」
夏侯惇が一面の黄色や白色を見ながらそう呟くと、于禁はただ頷くのみ。
所々には芝生になっている場所があり、通路のようになっている。ちょうど、人が二人並んで歩ける程に。なので二人は一旦手を離してから、その通路を通って丘を登って行った。あまり高さが無いので、すぐに頂上へと着く。
簡素なベンチがあるので、そこに二人は座る。ここから見える景色は、先程と同じであった。
「とても、懐かしい気分が甦ってきます」
隣に座っている夏侯惇の手を于禁が握ると、夏侯惇は握り返す。
于禁が握った夏侯惇の手が左手だが、指輪にある冷たさなどどうでもよかったらしい。それよりも隣の存在があることも相まって、目の前の景色があまりにも目を奪われるからか。
夏侯惇は于禁が遠い目をしている横顔を見た後に、同じように景色の方に目を向ける。しかし手元には一眼レフカメラがあるので、それの電源を点けると于禁の横顔を撮った。
シャッター音で気付いた于禁の表情は、一変する。
「な……! 突然撮るのは止めて頂きたい!」
「別に良いだろう」
まるで悪戯が上手くいったような顔をしながら、夏侯惇は先程撮った写真を保存した。于禁は削除するように頼むが、夏侯惇はそれに従うつもりは皆無。
于禁の言葉を無視しながら、夏侯惇は次は周りの景色を撮り始める。それを見て、于禁は肩をがっくりと落としたが。
「お前も撮りたいものを撮ったらどうだ?」
レンズを向けて撮りたいものを一通り撮り終えたらしい。夏侯惇は于禁に一眼レフカメラを手渡す。
すると受け取った于禁は、途端に緊張しながら口を開く。
「では、その……あなたを……」
「いいぞ」
夏侯惇から即答の返事が来ると、于禁は若干呆然としながらレンズを向ける。なので夏侯惇もレンズの方へと顔を向けた。
「撮っても、宜しいでしょうか?」
「いいぞ」
同じ返事をしてしまった夏侯惇は笑みを浮かべる。于禁はその瞬間にシャッターボタンを押す。于禁は先程の夏侯惇の表情が、脳内に焼き付ける程に愛しく思ってしまったからか。
モニターで撮れた写真を確認すると、脳内で焼き付けたものと同じものが写っていた。今の時代ではそのようなことがほぼ当たり前だというのに、ひどく感動してしまったらしい。写真をきちんと保存した後に「一生大切にします」などと言って、夏侯惇を困惑させた。
「大袈裟過ぎるだろう、また明日は他の場所に行くから……」
「いえ、私は何があってもこれが一番です」
とても真剣な顔で于禁はそう言うと、夏侯惇は「分かった」と返す。
「では俺も、お前が写っている写真を、一生大切にするぞ」
「そ、それは困ります!」
もうじき陽が沈みかけていた。その陽が于禁へと乗り移ってしまったかのように、顔を真っ赤に染める。夏侯惇は次第に暗くなっていく周囲を見やりながら、于禁とそっと唇を合わせたのであった。

二人がホテルに戻ったのは午後七時過ぎ。街中は既にニューイヤーに向けてのカウントダウンイベントを控えているからか、聞こえる音も光景も、とても賑やかである。
だが二人はまずは夕食を取りたいので、ホテルの一階にあるレストランで夕食を取った。そして部屋に戻る。
取った部屋を二人はまともに見ていなかったので、二人は部屋を改めて見る。
スイートルームになっており、部屋に入って少し歩くとリビングルームがある。色はクリーム色を基調としており、部屋全体が柔らかい雰囲気に包まれていた。
その奥にはベッドルームがあり、大きなベッドが二つ並んでいた。だがチェックインしてからは何も触っていなかったので、カーテンは開いている。そこから見える景色は、海とそれに街。だが今はカウントダウンイベントの為に街は綺羅びやかで、海面にそれが反射していてとても綺麗であった。二人は部屋の窓からそれを覗いた後に、カーテンを閉める。
それぞれのベッドの上で横になって休憩し始めた。コートをリビングルームのソファに置いてから。
二人とも、かなり疲れたからか再び外に出る気分にはならなかったらしい。乗っているベッドの上がとても心地が良いのもあってか。
「俺はまだ、昼の分までは満足していない」
ベッドの上でしばらく休憩した後、起き上がった夏侯惇は于禁のベッドに乗る。于禁の腰の上に跨った。
「……宜しいのですか?」
于禁はそう聞きながら、夏侯惇の腰を抱く。言葉と行動が真逆になっているので、夏侯惇は微かに笑いながら于禁に覆い被さった。夏侯惇が顔を近付けると、二人の鼻先同士が触れる。
外でのカウントダウンイベントが更に盛り上がっていた。無数の人々の歓声や、明るい音楽がひっきりなしに聞こえてくる。現在の時刻が夜の一〇時で、年が明けるまであと二時間に迫っているからか。
「……シャワーを浴びてからにしましょう」
そう言いながら、于禁は夏侯惇の服を半分脱がせていく。「早く」という意思表示だと思った夏侯惇は、于禁から離れた。すると于禁はすぐにベッドから起き上がると、夏侯惇の手を引いてシャワールームへと向かう。
身に着けている服など床に投げて散らかし、二人でシャワーを浴びた。時折、湯を浴びながら唇を合わせては離す。それを数回繰り返すと、シャワールームから出た。
体についた水気はタオルで適当に拭くが、どうせ脱ぐからと二人は何も着ていない。夏侯惇はリビングルームに置いているスーツケースを開け、未開封のコンドームのパッケージとローションボトルを取り出す。昼間に使うという頭が無かったので、今使おうとしているのか。
「全部使うつもりで、俺を抱け」
それを持ってベッドルームに先に居た于禁に渡すと、于禁が使っていたベッドに横になった。于禁はコンドームのパッケージを静かに開封したが、ローションボトルは開封する気がないらしい。夏侯惇が使っていたベッドに置く。夏侯惇はその様子を見たが、気にしていない。
「そういえば……数が少ないのは、わざとでしょうか?」
于禁はその数を見て睨むが、夏侯惇は一瞬だけ視線を逸らしてから首を振る。
「さぁな」
眉間の皺が深くなった于禁は、すぐに夏侯惇に覆い被さった。昼にも先程も散々に味わった、夏侯惇の唇を舌で舐める。
「おそらく、間違えたのだろうな」
悪びれていない様子の夏侯惇は、舌を出してから于禁の舌と絡めていく。その目は、于禁を挑発しているようにしか見えなかった。射抜くように、于禁をしっかりと見ているからだ。
すると何もかもの形勢が逆転したのか、于禁は夏侯惇の腕をベッドの上に縫い留めるように固定した。その際に絡まっていた舌を引かせるが、夏侯惇の体からは離れていない。唇から首へと移動すると、唇や舌を使って大きなリップ音を立てていく。
「ん、はぁ……ぁ……」
夏侯惇にはくすぐったさと気持ち良さの両方が押し寄せていた。艶めいた息を漏らしながら、夏侯惇は于禁の後頭部を見る。それを見てつい撫でたくなったが、今は両手を拘束されているので何もできない。だが両脚は自由であるので、于禁の腰へと巻き付いた。
「随分と……可愛らしいことを、されますな」
ちらりと夏侯惇の方を見た于禁は、口で夏侯惇の首に赤い痕をつける。まるで、マーキングでもするかのように強く濃く。
「ッや!? あぁ!」
それにより夏侯惇は射精をした。于禁により、見える形で徴をつけられたせいで。自身や于禁の腹に薄い精液を撒き散らすと、于禁からは笑みが零れる。
「……元譲」
明らかに于禁の声のトーンが変わる。それを聴覚で拾った夏侯惇の肌は熱く、そして今にも溶けそうな程に顔が蕩けていた。それに下半身からは、薄い精液がトロトロと流れて来ていて。
自身がつけたその痕を于禁が舌でゆっくりと這わせた後に、次は鎖骨を舌で触れる。そこもリップ音を立てながら、痕をつけた。すると一瞬だけ、夏侯惇は于禁の腰に巻き付けている両脚の力を強める。しかしすぐに力が弱まったと思うと、腰に巻き付かせることができなくなったのか、ベッドの上に両脚が落ちてしまった。
于禁はそれに構わず、やはりどこもかしこも熱くなっている夏侯惇の肌を、舌で触れていく。熱い肌がとても心地良いのか。
「しばらくは、人前で首を出せないでしょう」
「ぶんそく、もっと……」
夏侯惇は再び于禁の腰に両脚を巻き付かせようとするが、やはり脚を再び上げられないらしい。それを見た于禁は、ようやく夏侯惇の両手への拘束を解く。
「脚、開けますか?」
「ん……」
于禁がそう聞くと夏侯惇は恥じらいもなく、言われた通りに脚を開いた。膝を何とか胸のあたりまで着け、下半身を全て于禁に見せつけるように。
思わず舌なめずりをした于禁は、コンドームの個包装のパッケージを開けた。自身の怒張にぴっちりと装着させ、夏侯惇の下半身に触れて薄い精液を纏わせた。そして夏侯惇の股にあたる部分にぴとりとくっつける。既に解れているのであまり慣らす必要はない。だが于禁は夏侯惇をわざと焦らす。
「今日だけで全て消費するのは良いですが、明日以降はどうされるおつもりでしょうか?」
「無くなったら、生でシていいから、早く、それを全て、使い切ってくれ……」
息を切らしながら夏侯惇は懇願する。曝している下半身を更に見せつけるように、力の入らない脚を上げようとした。しかしこれ以上に脚が上がらないので、悩まし気な表情へと変えていく。
それを見た于禁は興奮に限界が来たらしく、何も言わずに怒張を一気に股へと挿入した。夏侯惇の体に、伸し掛かるように。
夏侯惇の薄い精液を纏わせているおかげで、良い潤滑油の代わりになっていて。
「ッひぁあ!? あぁ、ゃあ!」
衝撃により夏侯惇は目を見開き、口からは唾液を吐くように溢れさせた。そして突然襲いかかってきた快楽により何も考えられなくなったのか、于禁が浅い場所でピストンを始めるがただ嬌声を漏らすのみ。対して于禁はその夏侯惇の姿を見て、より虐めたくなったらしい。
まだ根元まで挿入していない怒張を更に押し込んだ。手の痕がつく程に、華奢ではない夏侯惇の腰を強く掴みながら。
「ぅあ、あ! ぉあ、ぁっ!」
奥へ奥へと押し込み、夏侯惇の腹の奥へと到達した。だがその瞬間に二人は同時に果ててしまう。舌打ちをしてしまった于禁は、コンドームを外して新しいものへと付け替える。
「あと、四つ……!」
于禁はコンドームの残りの数を目で見て数え、それを鋭く睨む。数など、使えば減っていくばかりだというのに。
腰を持ち上げてから腹の中へと再び収めると、奥まで侵入してゆっくりとピストンを始めた。
「あ、んっ、ぁ! きもちいい、あ、ゃ、あっ……」
「私も、気持ちが良過ぎて……!」
今はコンドームを纏わせているので我慢をするのは無駄だと思った于禁は、ピストンの速度を上げる。自身や夏侯惇の髪が揺れる程の、とても激しいピストンを。
「あぁ、あ! らめ、イくから、ぁ、あ! あア! ぁ、んゃ、あ!」
頑丈なベッドからは大きく軋む音が聞こえ始める。それも相まってか、二人の興奮は限度を知らないかのように増していく。于禁が何度も何度も腰を打ち付けると夏侯惇が先に果て、少し遅れてから于禁も果てる。
于禁は、獣の唸り声のような声を漏らした。
二つ目のコンドームを消費したので腹の奥から怒張を引き抜く。使用済みのコンドームを外し、三つ目のコンドームを開封して怒張に纏わせる。
すると未開封のコンドームが残り一個となってしまった。
「なくなったら、なまでいい……」
震える手を伸ばし、于禁にそう言った。だが伸ばした手は于禁には届かず、ベッドの上にぼとりと落ちる。理性の枷など外れてしまった于禁は、それに対して「そのつもりです」と息を荒くしながら返した。
ぬち、という音を立てながら股の縁をめくるように、薄いゴムを身に着けている怒張を突きつける。夏侯惇の下半身からは精液を吐き尽くしたのか、ふにゃりと力が抜けていた。于禁はそれを指先で弄る。重力に負け続けているのか、天井を向く気配は皆無だ。
「ぁ……あ、ん……そこ、じゃない……もっと、うしろでイきたい……」
夏侯惇は自身の性別が男かどうかの認識が、曖昧になってきているらしい。下半身が萎えていようとも、于禁を求め続けた。腰を淫らに振って善がり、蒸気した頬と掠れ始めた声で媚びながら。
それを見た于禁は纏わせていたコンドームを外し、何も隔たりが無い怒張を夏侯惇の股に再び宛てがった。種付けを確実にしようとする本能が思考の全てを支配してしまったのか。
まるで遠慮のない視線を夏侯惇に浴びせると、夏侯惇の太い腰を強く掴んで覆い被さった。自身の熱く硬度のある大きな塊を、腹の中へと押し込んでいく。
「ひぁ……ぁ! ん、ぉ、ゃあ、あつい、おっきい……ァ! あ、ぁ」
腹の中へぐいぐいと入れていくと于禁の怒張の根元、あるいは夏侯惇の腹の奥まで二人の粘膜同士が擦れ合う。肌よりもとても熱い、その粘膜同士を。
薄い隔たりを纏っている時よりも腹の奥の締まりが良い。なので于禁はすぐに腹の奥で射精をしてしまった。しかし今日だけで何度も射精をしているので、恐らく夏侯惇の腹には薄い精液で満たされただけだろう。それでも、于禁は種付けをするという意思は消えていない。
怒張で腹の奥の薄い精液を掻き混ぜるように、ピストンをする。互いの肌が、ぶつかり合う程に。何度も何度も、腹の奥を突く度に夏侯惇は掠れた嬌声や唾液を漏らした。徐々に二人の顔が近付いていくので、于禁はそれに蓋をするように唇を合わせて舌を捩じ込む。
舌を絡ませると、更に強く締まる腹の奥に于禁は呻き声を出した。しかしそれは夏侯惇の口腔内へと流れていき、外に出ることはない。
「ん! ッんん……!」
ベッドの軋む音、二人の舌が絡み合う音と唾液が混じり合う男、それに結合部から鳴る粘膜や肌がぶつかり合う音。この部屋には、理性的な音など一切聞こえない。その中で二人は、ベッドの上でただ本能のままに求め合った。
「んんぅ!? ん、ぅんん……!」
そして次に夏侯惇が絶頂を迎えるが、萎えた下半身からは何も液体を吐き出さない。代わりに腰を痙攣させた。
ようやく、于禁の怒張からは硬度も熱も失う。なので腹の奥からそれを引き摺り出した。覆い被さっていた、体を離していきながら。
「ん、ぁ……ぶん……そく……」
意識が朦朧としているのか、夏侯惇はもがくように手足を小さく動かす。そして焦点が定まらないが、必死に于禁の方に合わせようとしていた。呼吸は、かなり荒い。
その様子を見ると、同じく呼吸が整っていない于禁は、夏侯惇の胸同士が付くように覆い被さった。そして目と目が合うように、顔を近付けながら。
于禁の熱を感じると、夏侯惇の呼吸は次第に落ち着いてくる。
「私は、ここに居ます」
「ん……」
するとその瞬間に、窓の外からは何やら歓声が上がり始めた。よく聞き取れたが、どうやら年が明けたらしい。明るい音楽や人々の声が、聴覚を大きく刺激し始める。
それを聞いた夏侯惇は「ぶんそく……」と頬を緩めて呟くと、そのまま意識を失った。于禁の熱や声を感じるまでは、その瞬間までは、意識を限界まで保っていたらしく。
于禁は愛しげに夏侯惇を見る。左手を持ち上げると薬指にある、輝く指輪にそっと口付けをした。
「……一生、愛しています」
今は瞼を閉じてしまっている、夏侯惇へとそう囁きながら。

夏侯惇が目を覚ますと、既に時刻は昼過ぎ。ベッドの上に仰向けになり、一人で眠っていたらしい。今は降りている前髪が鬱陶しいと思いながら、自身の今の格好を見る。
自身の体は丁寧に清められ、服を着せられていた。ベッドのシーツは綺麗なものになっている。
だがそれは于禁がチェックインした当初に使っていたベッドなのだろう。その証拠として、隣のベッドには何事も無かったように于禁が眠っている。それも、熟睡をしているようだ。
ベッドのシーツは皺だらけで、恐らく部屋の脱衣所にある洗濯機で洗濯したのだろう。
于禁をよく見ると、夏侯惇が目を覚ます前に一度起きていたのが分かった。于禁の髪が、丁寧に整えられているからだ。ベッドの上で寝ているので、今は完璧に整えられている状態とは言えないが。
「于禁……」
自覚できる程に掠れた声で愛しい恋人の名を呼ぶ。すると熟睡している筈の于禁から、寝言なのは確かだが「夏侯惇殿……」と呟いた。恐らく夏侯惇が名を呼んだ声に、睡眠中でも反応したのだろう。なので夏侯惇はそれを聞いて小さく笑うと、上体を起こす。
だが体の具合はあまり良いとは言えないので、顔を微かに歪ませた。主に腰が痛いらしく。
何とか立ち上がると、夏侯惇は覚束ない足取りでリビングルームへと向かう。テーブルの上には、冷めていてもさほど遜色ない食事が置いてあった。于禁がルームサービスで頼み、いつでも食べられるように置いていたのだろう。
顔を洗ってからなるべく髪を整えてから二人掛けのソファの真ん中に座るが、それのクッションがとても柔らかい。なので腰に大きな負荷がかかり、思わず大きな声を出してしまった。それのせいで、于禁が起きたが。
「夏侯惇殿、お体の具合は……?」
リビングルームへと急いで駆けつけた于禁は、恐る恐るそう聞く。夏侯惇へと、じわじわと近付いて行きながら。
夏侯惇は首を横に振ると、于禁は顔を青ざめさせる。
「申し訳……」
「それよりも俺に言うことがあるだろう? 于禁、ハッピーニューイヤー」
「ハッぷ……」
忘れてたと動揺しながらこの日だけの挨拶を返そうとするも、于禁は噛んでしまった。夏侯惇はそれに微笑を浮かべると、于禁は顔を赤くしながら挨拶を改めて返す。
しかし遂には夏侯惇の肩が震え始めたので、于禁は機嫌を斜め気味にしてしまったらしい。夏侯惇はそれを平行にさせる為に、座っているソファに一人分のスペースを空けた。その空いたスペースを手でポンポンと軽く叩き、隣に座って欲しいと促す。
于禁は「仕方がないですな……」と眉間に皺を深く刻むと、ソファの空いたスペースに座った。隣に于禁が座ってくれたので夏侯惇は于禁の後頭部を、まるで飼っている愛犬とじゃれるように両手で撫で回す。
「な、何を……!」
見事に整えられていた髪を乱された于禁は、更に機嫌を斜めにさせた。だが夏侯惇は、その様子を真近で見た後に于禁の首へと腕を回してから、もたれるように密着する。
「……今年も、来年も、ずっとお前と居たい」
于禁の胸に顔を埋めると、夏侯惇はそう言う。しかしその時の夏侯惇の耳は急激に赤く染まってしまっていた。于禁はそれを見て、夏侯惇の背中に手をゆっくりと回す。
「勿論です」
部屋の窓の外は昨夜程ではないが、人々の賑やかな声が未だによく聞こえる。それに掻き消されないように于禁は顔を近付け、夏侯惇の額に唇で優しく口付けをした。夏侯惇のその様子が、とても珍しいと思いながらも。
耳の赤色が更に強まると、于禁は口角を緩やかに上げる。夏侯惇への愛しい思いが、大量に溢れてくるのか。
夏侯惇の腕を解くと、柔らかいソファの上に寝かせようとする。だが夏侯惇は今の顔を頑なに見られたくないのか、イヤイヤと首を横に振って拒んだ。于禁の胸部に顔を擦り付けるように。
夏侯惇にわがままな態度を取られるのは于禁からしたら、ただの可愛らしい行動にしか捉えられない。だが今はきちんと互いに顔を向き合いたい于禁は、申し訳ないと思いながら体から夏侯惇の顔を引き剥がす。
見るとやはり顔が赤いが、先程顔を擦り付けたせいでもあるのか、鼻先も赤い。于禁の予想よりも大分赤かった。それに、眉は八の字に下がっていて。
于禁の口角が更に上がると、夏侯惇は目を逸らす。なので于禁は夏侯惇と視線を合わせるように手を取ってから、指を絡めた。互いの指を離れることがないように、とても強固に。
「私は、あなたと居られることが幸せです。死ぬまであなたと共に居ます」
誓いのような言葉を夏侯惇に向ける。その間、夏侯惇は于禁の方を見ていたが、言い終わると再び視線を于禁の方ではない方向へと移す。直後に「俺も……」と、とても小さな声で返していたが。
未だに顔の赤が引かない夏侯惇の頬に、于禁はそこも唇で優しく口付けをした。夏侯惇は擽ったそうにしていたが、みるみるうちに嬉しそうな表情へと静かに変えていく。そして夏侯惇も于禁の頬に、恐る恐るではあるが唇を触れる程度に付けたのであった。とても照れながらも。
だが夏侯惇の腹からは盛大な空腹を知らせる音が鳴ったので、二人は穏やかに笑った。于禁が早く食事を取った方が良いと、夏侯惇に促す。なので夏侯惇は姿勢を正して食事を取る。それからは二人は夕方まで、昨日撮った写真をベッドの上で寛ぎながら見返した。夏侯惇の体の具合もあるので、今日は外に出るのは止めた方が良いと判断したからか。
于禁が座り、それに縋るように夏侯惇が座っている状態である。夏侯惇の体を支えるように、肋骨のあたりに腕をそっと回していた。あるいは、夏侯惇を暖めるように。二人が今居る部屋は、暖房が充分に効いているというのに。
「明日は、昨日よりも写真が沢山撮れると良いな」
夏侯惇はそう言ってから、横を向いて于禁の方へと視線を注ぐ。すると于禁は夏侯惇と唇が触れる直前まで、顔を近付けた。互いの吐息が掛かる中で、于禁は和やかに短い言葉を返した。
「はい」
今日では初めての口付けを、于禁が行う。もはや日常の動作のように慣れた動作だというのに、二人はまるで初めて行ったかのようにとてもゆっくりと唇を合わせ、すぐに離れていった。
この時間帯は既に街の喧騒が通常のものに戻ってきているようだ。証拠として昨夜や日中に聞こえていた、この街にしては非日常であろう音や人々の声が減ってきている。二人は聴覚的に寂しいなどと思った。しかし耳を傾けていた夏侯惇が、于禁にとある話をし始める。
「……また、次もまた、ここに来よう。他に行きたい場所があればそこでも良いが、だがお前とであれば、どこでもいい。お前と同じ時間を、もっと過ごしたい」
「勿論です。次は、今回よりも長い日程で旅行しましょう。スーツケースの大きさからして、今回よりも長い日程であっても、入る荷物の量に余裕もありますし」
于禁は左手を夏侯惇の左手の甲の上に乗せる。互いの指とそれに、輝く指輪が緊密にさせる。
「楽しみだ……って、あぁ、もうこんな時間か。そろそろ、下のレストランで夕食を取ろう」
つい先程まで夕方といえる時間帯であったのに、いつの間にか過ぎ去っていた。なので二人は立ち上がろうとする。そこで于禁は夏侯惇の介抱をしようとした。しかし日中の間は安静にしていたおかげで、普通に歩くことができるくらいに回復したらしい。それでも于禁は夏侯惇の手を取り、共にベッドから立ち上がった。
とても名残惜し気に手を離すと、人前に出ることができるように身だしなみを整える。そして部屋を出て、エレベーターで幾つもの階数を降りてからレストランで夕食を取ったのであった。
部屋に戻ると二人は浴室で入浴をする。髪や体を洗ってから、夏侯惇は湯を張ってある浴槽を見た。二人が入ってもかなり余裕のある広さなので、于禁とその浴槽に入る。またもや于禁に背を向けて縋る体勢になり、于禁の両脚に挟まれていて。
「湯加減はいかがですか?」
于禁は背後から夏侯惇を抱き締めながらそう聞くが、夏侯惇はただ頷くのみ。なので于禁は夏侯惇の顔を覗くと、今にも瞼が完全に閉じそうになっていた。睡魔が襲って来ているのだろう。そう判断した于禁は夏侯惇の眠気が晴れることが無いように、抱きあげようとする。
だが夏侯惇の眠気が晴れてしまったらしく、于禁は申し訳なさそうに謝罪の言葉を吐いた。しかし夏侯惇は首を振る。
「別に構わん。心地が良かっただけだ。それより後で話があるが、もう少し湯に浸かりたい」
「えぇ、では……後で話!? そ、それはどのような内容でしょうか! よろしければ、今お聞かせ頂けますか!」
「今? いや、別に良いが、大した話ではないぞ」
必死の形相と声で、于禁が「大丈夫です!」と言う。なので加えて夏侯惇は同じ保険の言葉を述べると、話を始めた。
「旅行に行く前に家の掃除してから何となく思っていたことだが、更に今こうしていて、俺の願望でしかないし、お前の都合もあるから話半分程度に聞いてくれ。お前が良ければなのだが、このように広い浴槽のある部屋に引っ越さないか? それに、お前も書斎部屋などもあった方がいいから、今より広く多い部屋に……」
「広い浴槽!?」
「反応するところはそこだけか? ……まぁ、主な動機はそれなのだがな」
浴槽に張った湯が于禁の感情とシンクロでもしているかのように、大きく揺れる。それに今にも、浴槽から湯が溢れそうだ。
「今は無理に同意はしなくていい。まずはそのような考えがあるか、そのような気があるかだけ聞かせてくれ」
「私は構いません」
于禁は速答すると、夏侯惇はその速さに短く笑った。
「ありがとう。帰ってから、お前の意見を改めて聞かせてくれ」
「はい」
夏侯惇は話を終えると、少しのぼせてしまったらしい。ぐったりとしている。
于禁は急いで夏侯惇を抱き上げると、浴室から出てバスタオルを持ってベッドルームに向かう。持っているバスタオルを主に上半身が乗るように敷くと、その上に夏侯惇を寝かせた。
「……すまんな。やはり、入浴を終えてから話すべきだった」
「いえ、私が悪いのです。無理に話を促す形にさせてしまいまして……すぐに冷たい水をお持ちしますので」
急ぐ口調で于禁は言い終えると、リビングルームにある小さな冷蔵庫を開ける。ホテル側が最初から補充してくれていた、未開封のペットボトル容器の水が何本かあるので、二本取り出すとベッドルームに戻って行った。
「今、開封しますので」
キャップを開け、夏侯惇に飲ませる為に上半身を起こそうとする。だが夏侯惇はそれを拒んだ後にとある提案を出した。それに于禁は、込み上げる照れの感情に何も言えなくなっていて。
「口移しでいい」
「ですが……分かりました」
夏侯惇はへにゃりと笑う。于禁がペットボトルの冷えた水を口に含ませると、そのまま夏侯惇に水を口移しで飲ませた。ごくりという音とともに、夏侯惇の大きな喉仏が上下に動く。喉に口移しで飲ませた水がきちんと通ったようだ。しかし水が完全に通った訳ではないので、二人の唇の端から水が垂れてしまっているが。
于禁から唇や体を離していくと、この部屋の隅に置いているスーツケースから衣服を取り出した。まずは夏侯惇のものを優先で。
喉に水が通り体の熱が無くなっていったのか、夏侯惇は上体を起こすことができた。そして自分で着替えられると于禁に言うと、衣服を受け取ってからそれを身に着け始めた。
于禁はそれを心配そうに見たが、夏侯惇はきちんと一人で衣服を着れていた。なので一安心したので、于禁も衣服を着ていく。
「一緒に寝よう、于禁」
自身が横になっているベッドに一人分のスペースを開け、夏侯惇がそこを手の平でポンポンと叩く。于禁は言葉でも表情でも返事をしないまま、縁に座るのみ。夏侯惇がそれに首を傾げていると、于禁がそっと夏侯惇の濡れている髪を撫でた。
「今夜も冷えますので、是非とも。ですが髪をまだ乾かしていないので……」
「それなら、乾かしてくれないか」
「はい」
こくりと頷いてから、于禁はすぐに洗面所からドライヤーとそれに櫛を持ってくる。このホテルの部屋に備え付けてあるドライヤーは、壁と繋がっている物ではなく、ごく普通のドライヤーのようにどこからでも電源を取れる物であった。ベッドの近くにコンセントがあるので、そこにドライヤーのプラグを挿し込む。
夏侯惇をベッドの縁に座らせてから、背後に回ってドライヤーで髪を乾かし始める。丁寧に櫛で髪を通しながら乾かし終えると、次は于禁が自身で乾かそうとしていた。だが夏侯惇がそれを止める。
「次は俺が乾かしてやるから、座れ」
「ですが……」
「いいから」
手を差し出した夏侯惇は、于禁に風の出ていないドライヤーを渡すように促す。その手の平を見た于禁は、渋々と言ったような顔で持っているドライヤーを手渡した。
ベッドの縁に座ると、夏侯惇が次は背後に回った。
ドライヤーから温かい風が出るのを待つ。しかし一向に温かい風が頭部に来ないので、首を傾げた。もしかして、ドライヤーの電源がどこなのか分からないのかと思い始める。しかしごく普通に流通しているドライヤーなので、そのようなことは無い筈だろう。
なので背後に居る夏侯惇に話し掛けようとすると、突然に背後から抱き締められた。しかも夏侯惇のその手には、ドライヤーを持っていない。
「……明日も、良い一日にしよう」
夏侯惇は耳元でそう静かに話し掛けた。
「はい」
驚いた直後に夏侯惇の言葉を聞くと、回された手を見てからその上に手を添える。左手の薬指にある指輪が、部屋の照明により綺麗に輝いていた。
于禁は横に向けてからすぐそこにある、夏侯惇と軽く唇を合わせる。顔が近いので当然、同じシャンプーの匂いがした。鼻孔にそれを通した後に、名残り惜しげに顔を遠ざける。
夏侯惇がようやく于禁の髪を乾かした。大の男二人では狭いが、同じベッドで並んで横になると眠りに就いたのであった。
互いに、指を深く絡めながら。

翌朝、先に目を覚ましたのは于禁だった。隣を見ると、夏侯惇はまだ眠っている。寝息とともに微かな雨音も聞こえた。
眠る前に絡めていた指が、離れている。于禁は起こさないように夏侯惇の左手を取ると、薬指にそっと口付けをする。起きてから時間を確認すると、まだ朝の九時ではあるがやけに室内が暗い。暖房を切っていたので、よく冷えていた。ベッドルームのカーテンを捲って外を覗くと、やはり本日は朝から雨が降っている。聞こえる雨音の通りに、大雨という程ではないが。
確か、ホテルが傘を貸し出してくれるサービスがあることを思い出すと、于禁は捲っていたカーテンから手を離す。
「おはよう」
すると于禁の背中に軽く抱き着き、夏侯惇の朝の挨拶が聞こえた。外の様子を覗いている間に、夏侯惇が起きたらしく。
「おはようございます。外は雨が降っていますが、今日はどうしますか?」
「降っていてもいい。街中の観光がしたい」
「分かりました。それでは、暖かい格好で行きましょう」
早速、とまずはレストランで朝食を取るために于禁は着替えようとした。だが夏侯惇はまだ于禁から離れる様子はない。
「もう少し、こうしてていいか?」
「勿論です」
近くにまだ人肌の暖かさが残っているベッドがあるというのに、夏侯惇は室内の冷えから逃れる為に、于禁に更に体を密着させた。
「暖かい……」
夏侯惇のその呟きに于禁は小さく笑うと、「そうでしょう」と返す。そして暫くの間に夏侯惇に体の熱を分け与えるように、于禁は抱き着かれていたのであった。

二人は身支度を整えてから一〇時過ぎに、レストランで朝食を取ると部屋に戻ってカメラを取りに行く。そしてサービスとしてホテルが傘の貸出をしているので、フロントで二本借りた。
デザインは黒いもので、濃い茶色の持ち手に小さくホテルの名前が刻まれている。よく見ないと、どこからの借り物だとは分からない。
借りた傘を持ち、広いロビーにあるソファに座ってガイドブックを取り出す。二人の体格でいうと膝のあたりの高さまでのテーブルが備え付けてあるので、その上にカメラを慎重に置く。
「そういえば、どこに行くか決めていなかったな。どこか行きたい場所はあるか? 気になっているところでもいい。行きの新幹線までに、行く場所をほとんど全く決めていなかったからな……」
「……あの、ではここはどうですか?」
目次を凝視している夏侯惇だが、于禁は目次を一通り見た後に目的のページを見つけたらしい。パラパラと素早くページを捲り、少しの枚数の紙を戻した後に夏侯惇にそのページを見せた。
書いてあるのは美術館と庭園と、水族館であった。どこもこのホテルからたとえ徒歩でも三〇分以内で到着する場所にあり、それらが近隣に密集するようにある。それに二人の住んでいる街には無い特色の施設であったので、夏侯惇は喜んでその提案に賛成した。
「いいな。では今から行こう。駐車場があればレンタカーで行きたいのだが、あるか?」
夏侯惇がそう質問すると、于禁はスマートフォンを取り出してそれぞれの施設のホームページを閲覧し始めた。ガイドブックには、簡素に紹介してあるのみ。この街の観光スポットが大量にあるからだろう。
すぐに二人が知りたいことが見つかったのだが、于禁は首を横に振った。
「今の時期は駐車場を利用する者が多いらしく、できれば公共交通機関などで来場して欲しいと記載してありますが、いかがなさいますか?」
「別に俺は構わんぞ。徒歩でいい」
すぐに夏侯惇が頷くと、于禁は徒歩で行くという返事に対して若干の躊躇を覚えた後に「それでは行きましょうか」と返した。
「今は体力は回復しているから大丈夫だ。それに、何かあったらお前が助けてくれると思っているからな」
「ッ!? ……はい、お任せを」
于禁は夏侯惇にかなり頼りにされていることが嬉しくて堪らなかったらしい。照れた表情で夏侯惇の方を見て、確実な言葉を返した。
「ほら、こうしている時間が勿体無い。行くぞ」
すると早速テーブルの上に置いていたカメラを首に提げた夏侯惇は、于禁を急かしたのであった。

ホテルから出るとやはり外は雨。二人はホテルから借りた傘を差すと、目的地へと白い息を吐きながら歩き出す。現在の時刻の気温は二度しかないが、コートなどを着込んでいる二人は微かな寒さに震える。
しかし夏侯惇は首にカメラを提げているので、雨に濡れてしまわないように庇っていた。于禁はそれを見て自身がカメラを持ち歩くと申し出たのだが、夏侯惇はそれを頑なに断る。何度もそのやり取りを繰り返し、ようやく于禁が引き下がった次第ではあるが。
この街に旅行として来てから三日目。ようやくこの街を本格的に観光できるというのは不思議な話ではあるが、二人はそのようなことは気にしていない。唯一気にしていることといえば、旅行の日程が短いのかということくらいか。
この街の空気は寒く雨が降っていようとも、すっきりとした空気である。二人が住んでいる街のように、空がビルで覆い尽くされる程にはなく、そして緑が多いからだろう。
周囲は人が多いのは確かだが、歩道も車道も広く綺麗に整備されている。なので人が多い不快感はなく、二人は移動手段を徒歩にして正解だと思っていた。
上から降りしきる雨音を感じながら、二人は並んで歩いて行く。
「……やはり、体の具合は?」
「大丈夫だと言っただろう」
屋内では体調が良くても、実際に屋外に出てみれば良くないと気付く可能性もあったのだろう。なので于禁は夏侯惇の顔色を見るが、天候からして悪いのか良いのか判断できていなかった。夏侯惇はそれを見て「心配し過ぎだ」と笑っていたが。
「最初に行く場所は?」
于禁はこの街のガイドブックを片手に持っているので、それを開いて歩く傍らに目的地が載っているページを見た。だがそうしているとシャッター音が聞こえたのだが、犯人は夏侯惇くらいしか居ないだろう。なので于禁は夏侯惇の方を見る。
「不意打ちで撮るのは止めて頂きたい……」
弱ったような顔で于禁がそう言うが、夏侯惇はとても機嫌が良さそうだった。
「良いではないか。自然なお前のその顔が、俺は好きだからな」
「も、もう勝手にして下され……」
夏侯惇の言葉に心臓を深く貫かれた于禁は、頬を朱色に染めた後にそっぽを向く。
「ほら、決めてくれ」
「はい……では、最初は美術館に行きましょう。ここから一番近いので」
「分かった」
二人は差している傘でひたすら雨を受けながら、それの音を聞いていく。そしてこの止まない雨のように、目的地に着くまで会話をしていたのであった。どちらも沈黙してもいいが、やはり二人での会話が心地良いのか。そして会話の傍ら、街並みを撮影もしていきながら。

しばらくすると美術館に着いた。かかった時間は約二〇分である。
事前に持っているガイドブックで正面の出入口から見た外観のみは見ていたが、実際に見ると建物のデザインがとても良く、そして雨が降っていてもよく映えていた。
ほとんどが明るい白色で敷地面積がかなり大きい代わりに、一階建てである。それもあってか、建物のデザインにより視覚での圧迫感があまりない。四角ではなく、建物全体が曲線により構成されているからだ。
二人は街中にあるというのが、少し不思議に思ってしまっていた。建物が白色のみであっても、あまりにも無機質な雰囲気を感じないからだ。
「今は期間限定の展覧会が催されているようです」
出入口の屋根の下には、現在展示してある作品の案内やポスターが掲示されていた。于禁はそれを指差して夏侯惇に言う。だが夏侯惇は今、傘を差している状態で美術館の建物をカメラで撮っている。こっそり于禁も撮りながら、簡単な相槌を打った。それを見て于禁は傘を持つと申し出るが、夏侯惇はそれを断る。「ついでに写すか」と言うと、于禁は申し訳なそうな顔でそれ以上は何も言わなくなった。実は、自身を撮影されているのを知らずに。
その期間限定で展示されている作品というのは、数枚の絵画である。それも芸術の分野に疎い二人でもその絵画を見たり、あるいは作者の名前を聞けば分かる程に有名なものだった。
出入口は一面ガラス張りで、ロビーがよく見える。
しかし、知名度の規模からして午前中という時間帯とこの天候でも、来館者は居る。既に建物内の広いロビーにある受付には、おおよそ一〇数人が並んでいた。
「これから混むかもしれないから、早く並ぶぞ」
ようやくファインダーから目を離すと、夏侯惇は于禁にそう促す。
「はい」
二人は傘の水気をある程度払ってから閉じ、出入口の傘立てにそれぞれ立てると館内に入った。暖房がよく効いており、体の冷えが溶けていくように無くなっていく。
二人は吐く息を透明色へと変えながら入場受付をする。入場料金と引き換えに、この美術館全体の案内が記載されている、縦長に折り畳まれたパンフレットを手渡された。二人は作品が展示されているエリアに移動しながら、パンフレットを開く。
フロアの案内と、展示する作品が載っている。だが展示する作品が変わる毎にパンフレットをわざわざ作り直しているのか、展示する期間と共に作品を簡単に紹介する文章が添えられていた。それに、館内の作品展示室では撮影禁止という文章も。
二人はそれを見ながら、まずは何となくは知っている作者の絵画を見に行く。そこはロビーで受付を済ませると、一番最初に見える展示室であるということと、広さの規模が一番大きいからだ。
美術館の構造は出入口から見て、ロビーの右側から少し歩いた所に長く広い廊下があった。幅おおよそ、六メートルくらいはあるだろう。廊下は全面ガラス張りになっており、左右に小さな庭園とそして背景として街並みが見える。そして左右交互に展示室へと繋がる短く広い廊下。扉はないのでそのまま展示室に入るという具合だ。
展示室は全部で六部屋。壁は白で、廊下は茶色の落ち着いたフローリングだ。照明により壁の白さが際立ち、床のフローリングをとても鈍く光らせている。
まずは期間限定で作品を展示する一番広い部屋がロビーから見て一番手前にある。その次に、美術館が所蔵している作品を展示している部屋が三つ。最後に二つ小さな展示室があり、そこで行き止まりだ。しかしその二つの小さな展示室のは、今は何も展示していないらしい。
二人はまずは廊下の綺麗な色合いや景観に、二人は頬を緩ませながら一番手前の展示室に入る。
「良いところだな」
「えぇ」
部屋の入口からは周囲には作品をじっくり鑑賞している人々が見えたので、二人は小声で会話を始める。建物の屋根に落ちる、幾つもの小さな雨音を聞きながら。
この部屋に展示されている作品は、全て絵画である。部屋も壁が白いが、額縁の色は様々である。絵画に合わせてあるのか金色でレリーフが施してあるもの、黒や茶色で木製のもの、中にはアクリルでできた透明のものまであった。最後のものは二人にとっては額縁としてあまり馴染みが無いのか、絵画と同様に凝視をしていた。それも、かなり珍し気に。
この展示室の絵画全てを鑑賞し終えた。媒体に関係なく、メディア越しではたまに見るものである。しかしこうしてメディアを通さず、実際に見ると芸術には疎い傾向にある二人でも、改めて良い作品だと思えた。
そして他の展示室にも入った後にこの美術館には、展示室へ行く道中から見える小さな庭園の他に、大きな庭園もあるのでそこに行くことにした。場所は展示室とは反対方向にあるので一旦ロビーの方向へと戻ると、庭園のある方へと向かって行く。
しかし途中で物販コーナーがあるので、二人は短い寄り道をした。販売されているのは主に所蔵されている作品がプリントされたキーホルダーやマグカップ、それに画集などだ。
すると于禁はとある物を見つけたのか、それを凝視している。なので夏侯惇はそっと話し掛けた。
「どうした? ……それは、絵画の額縁を写真立てにしたものだな。それが気に入ったのか?」
于禁が見ていたのは木製の写真立てである。期間限定で展示されている絵画が収まっていた、レリーフが施されている額縁とデザインは同じものらしい。
販売価格の隣にある、商品の説明に『実際に展示している額縁と同じレリーフ柄』と書いてあった。しかし金色は無いらしく、黒か焦げ茶色の二種類である。
「……これを購入して、宜しければ最初に撮った写真を入れませんか? とはいえ、色は二種類あるので、どちらの色が良いのかも分かりませんが……」
「二種類買うぞ。もう一つの写真立ても、他の写真を入れればいい話だろう」
于禁が「良いのか」という質問を出そうとしたところで、夏侯惇が黒色と焦げ茶色の二種類を手に持つ。
「良い提案をするな、お前は」
そう言うと、夏侯惇は嬉しげな表情をしながらすぐさま会計していったのだった。
会計を終えると、于禁は夏侯惇に申し訳なさそうな顔を向ける。
「……ありがとうございます。館内にカフェがあるので、そこでコーヒーを奢ります」
「そうか、では遠慮なく」
美術館の名前がプリントされている、黒い袋に先程購入した写真立てが入れられていた。それを于禁が手を差し出して代わりに持つと、この場からでも見えるカフェへと庭園よりも先に向かっていく。近付いていくうちに、コーヒーのとても良い香りが漂ってきていた。
このカフェはごく普通のカフェであるが、席は全て窓際に配置されていて、全席に仕切りがある。それでも外の周囲の街並みがよく見えた。様々なコーヒー豆を扱っており、やはりコーヒー豆についても二人はあまりこだわりがない。そのせいで選ぶのに悩んでいた。すると店員がおすすめの豆を言うと、二人はそれに決める。
席は半分ほど埋まっている。利用客のうるさいという程でもない話し声と、物音が聞こえた。
空いている席に向かい合って座り、しばらくしてから注文していたコーヒーが提供された。黒いコーヒーの入っているカップも皿も、白くシンプルなものである。二人はすぐにコーヒーを飲んで一息ついた。
「普段はインスタントばかりなので、このようなものは味がとても良いですな」
コーヒーを口に入れるまではいつもの険しい顔をしていたが、コーヒーの味を感じるとその顔が次第に緩んでいく。そして夏侯惇も同じ感想なので、まだ熱いコーヒーを啜りながら軽く頷いた。
まだ熱いコーヒーをゆっくりと喉に通し終えた後に、夏侯惇はコーヒーカップを皿に戻す。
「これから写真立てが、もっと増えると良いな。アルバムはまだ買っていなかったが、それもだ」
「アルバム……! 買うのを忘れていました」
「まだアルバムを買う程写真を撮れていないから、そう焦るな」
険しい顔を崩したまま、于禁は納得する返事をする。その瞬間に夏侯惇はいつの間にかカメラの電源を入れていたらしい。于禁のその表情を撮ると、シャッター音を聞いた途端に于禁の頬が膨れる。
「夏侯惇殿……!」
「隙を見せるからだ」
夏侯惇はそう言うと先程撮影した写真を保存し、何事も無かったかのように再びコーヒーを啜る。
「私がカメラを持ちますので」
「気を使わなくてもいい。カメラを持つのは大変だから、今日も明日も、俺が持っておいてやる」
「私が写っている写真ばかり増えるのは困りますが」
「別に良いではないか。俺が好きで撮っているからな」
于禁はコーヒーの熱でなはなく、夏侯惇の言葉に頬を赤く染めた。「勝手にして下さい」と機嫌悪そうに言いながら。
夏侯惇は于禁のその素直な様子を楽しみながら、コーヒーカップの底を白色へと戻した。
「では私は明後日、カメラを持ちます。絶対に」
「いいぞ」
于禁もコーヒーを飲み終えると、二人は席を立ち上がる。そして会計を済ませてから、ようやく庭園を見に行く。
この美術館の庭園は基本的には室内から見るものであった。ソファが点在している部屋があるがそこの一面だけがガラス張りになっている。外側には屋根があるが、本日は雨が降っているので雨粒が少量垂れていた。
庭園はなだらかな芝生の丘の上に、木々や花が植えられている。木々の中には既に葉が枯れているものもあるが、花壇の中で今が見頃の花が雨粒を受けながら綺麗に咲いているおかげで、寧ろ良い補助的な役割を果たしていた。
ここも撮影可能なので、夏侯惇は早速カメラを構える。周囲には見物客が居ないのもあってか。
「綺麗ですね」
二人掛けのソファの座面の真ん中に座った于禁がそう言うと、立ってカメラで数枚写真を撮った夏侯惇が「そうだな」と小さく返事をした後に黙る。しかし何か言い忘れたことがあったらしく、于禁にスペースを空けるよう手でジェスチャーをした。なので于禁はスペースを空けると、夏侯惇はそこに静かに座った。
「やはりお前と、同じ景色をこうして共に見れるというのは良いな」
「そうですね。このような非日常的な場所では、更にそう感じます」
カメラの電源を落とし、夏侯惇は庭園をただ見る。于禁はその横顔を見て僅かに笑うと、二人はしばらくの間庭園を見ていたのであった。

美術館から出た頃には昼前だが、昼食を取るにはまだ早い時間である。雨が上がっているのか、雲の隙間から太陽の光が差し込んでいた。
近くの飲食店で昼食を取る店を探す為に二人はそれぞれガイドブックを開きながら、ただ目的地も決めることなく歩く。アスファルトを濡らしている水溜まりに、少しの眩しさを覚えながらも。
「今はどれくらい腹が減っている?」
「今日は少ししか歩いていないので、かなり空腹という程ではありませんが、減っています。夏侯惇殿は?」
「俺はまだ空腹感は無いな」
「では、ゆっくり昼食を取る店を探しましょうか」
そう会話した後に、二人の視界に小さなパスタ屋が目に入った。パスタという洋食に相応しく、レンガ造りで西洋の地方の民家のような外観だ。店の名前や建物の外観からして、ガイドブックが発刊された後にできた店だろう。二人は顔を合わせた後に、同時に「ここではどうか」という発言をした。
互いに驚いた顔をした後に小さく笑うと、二人は何も言わずに店に入って行く。
店内はまだ新しいのか店の中にある物の何もかもが、新品同様であった。店内は明るい茶色で統一されており、雰囲気は落ち着いている。小さなパスタ屋なので、店員の人数は少ないが、てきぱきと働いていた。
客の入りは満席になる直前であったが、二人は席に着けることに安堵する。そして店員に席を案内されてから、向かい合って椅子に座った。
メニューを渡された後に店員が去ると、二人はメニューを見ながら何を食べるか話す。結果、二人とも同じサラダとパスタになった。たまたま近くを通りかかっていた店員を呼んでその注文をする。
注文を終えると、店員からの料理の提供を二人で雑談しながら待つ。するとその間に注文したサラダとパスタを提供されたので、二人は雑談を止めてから、まずはサラダを食べ始めた。この地域の名産らしい葉物野菜をふんだんに使い、その上には特製のドレッシングと大きめのクルトンが乗っている。
于禁はサラダを口にした途端に、そのドレッシングがとても美味だったらしい。次々と口に運んでいく。
すると何で作られているのか、一人でブツブツと呟いた後に夏侯惇に訊ねる。夏侯惇は何で作られているのか当然分からないので、ひたすら「分からない」を相槌代わりに返事をしていた。だが店にこのドレッシングの作り方を聞く訳にはいかないので、于禁は次第にドレッシングについて考えるのを諦めたが。
サラダを完食すると、次はメインであるパスタを食べ始めた。二人が食べているのはミートソースのパスタだが、とても味が良かったらしい。それに容器も盛り付けも、とても綺麗だ。なので二人で味が良いと言いながらすぐに平らげた。特に夏侯惇はあまり空腹ではなかったが、無意識のうちに胃に入れていて。
パスタまで完食すると、食後の休憩がてらに次の行き先である水族館について少し話した。何が有名なのか、見所は何かとガイドブックや、スマートフォンで公式ホームページを見ながら。
どうやらここは、大きな鮫が有名な水族館らしい。一番大きな種類の鮫が、世界で一番大きな水槽で泳いでいるらしい。
公式ホームページでは、その様子を撮影した短い動画が掲載されている。それを視聴しながら、二人は楽しみだと言い合った。
そして二人は会計を済ませると、建物を出る。外は再び雨が降っていたので、二人はそれぞれ傘を差してから次の目的地である水族館へと向かう。ここからだと、徒歩でも一〇分以内には着いてしまう。なのでとてものんびりと歩きながら。

水族館に着いた。今の時間は午後一時を既に過ぎている。
まずは水族館の外観を撮ろうとするが、于禁が撮りたいと言うので夏侯惇は喜んでカメラを渡した。
カメラを手に持つと、于禁は建物だけを撮っていく。それに溜息をついた夏侯惇は、レンズの前にわざと立った。
「ほら、二人で撮るぞ。水族館を背景にしてな」
「ですが……」
「カメラを貸せ」
夏侯惇がそう言うと、于禁は渋々と言ったような顔で渡す。受け取った夏侯惇は代わりに于禁に持っている傘を渡し、于禁に開いた傘を二本持たせた。そして夏侯惇やカメラが濡れないように、渡された傘で雨を遮る。雨が降っているため、三脚は使えない。なのでまた、自撮りをする要領で撮影していく。
だが傘で体格の良い二人を雨から逃れることのできる範囲はかなり狭い。なので夏侯惇は、旅行初日のように于禁と肩を密着させた。于禁は初日よりも幾らかは諦めが早かったようだ。「仕方ない」というような顔をしながら、于禁は密着してきた肩から離れることはない。
夏侯惇はそれを横目で見る。レンズを于禁や自身に濡れないように向けると、撮影するという合図を言葉で示す。夏侯惇からは見えないが、于禁の目線がレンズに向いていると思ったのでシャッターを押した。その瞬間に、夏侯惇もレンズに視線を移動させる。
シャッター音が聞こえたので、これで終わりかと思った于禁は肩を離そうとする。しかし夏侯惇は寧ろ于禁の肩を抱き、何枚ものツーショット写真を撮り始めた。于禁は次第に照れという感情が湧いていく。夏侯惇の方へと鋭い視線を送るが、その顔はほんのり赤い。夏侯惇は于禁の方を見るなり、楽しそうに笑った。
それを見た于禁は、照れという感情が全て吹き飛んでしまったらしい。「満足するまで、付き合います」と言うと、夏侯惇は何枚もツーショット写真を撮っていったのであった。
写真を何枚も撮ってから、ようやく水族館で入場の受付をしようとする。だが入場受付の為の行列が作られているので、数一〇分待たされた。その間に二人は先程撮ったツーショット写真を見ては微笑んでいたので、退屈することは無かったが。
ようやく入場受付をしてから、水族館の中を歩き回る。かなり広いが、そこでも二人はゆっくりと足を進めた。列に並んでいたときと同様に、水槽の前は人が多いからだ。
それにカメラで撮影するのはそれなりの範囲の場所を取るので、二人は周囲の人々と同じようにスマートフォンのカメラのレンズを水槽に向ける。
見たことのない種類の魚や、鮮やかな色合いの魚を次々と写していく。水槽の数が多いが、それでも丁寧にカメラで写した。その最中に二人は水槽の近くの、簡単な説明が記載されている看板を見ては楽しげに話していく。
一通り水槽を見たところで、ようやく世界で一番大きな種類の鮫の水槽に辿り着く。周囲の人々は皆、水槽を見上げている。あまりの大きさに、口を半開きにしている者もちらほら見かけた。その中でも、スマートフォンのカメラのレンズを水槽に向けていたが。
水槽までも大きいので、二人は水中を泳いでいる鮫を、周囲と同じように口を半開きにしながら見上げる。ここまでかなり巨大な生物を実際に見ているからということと、それが目の前の水槽の中で生きているということに対して。
「実際には初めて見ました」
「俺もだ。ここまで大きいとは……」
水槽の中でまったりと泳いでいる鮫は、穏やかな性格なのか見物客など気にせずにただ水槽の中を泳ぎ回っている。二人はその様子をスマートフォンで数枚写真を撮っていく。
「そういえば、これで写したものもアルバムに?」
「そうするか」
スマートフォンで撮り終えた二人は、水槽から離れていきながらそう会話した。スマートフォンで写した写真は大量にある。なのでデータの整理が大変だ、と長く単純な作業を想像して二人は溜息をついていた。今の状況からして、仕方のないことだが。
次に二人が向かったのは、土産コーナーだ。夏侯惇は夏侯淵に土産を買うらしいが、何を買うべきか迷っていた。
「……菓子でいいか。淵なら何でも食うだろ」
二人で土産コーナーを一周すると、夏侯惇はそう呟いて菓子が陳列してある棚へと戻っていく。于禁は何も意見が思い浮かばないので、無言で着いて行っていた。
「どれがいいと思う?」
目的の棚の前に立つと、夏侯惇は于禁にそう質問する。驚いた于禁は棚を見るが、そこで『人気ナンバーワン』というポップが棚に貼り付けてられている菓子を指差した。
「これが、いいかと……」
自信無さげに言うと、夏侯惇はそれをすぐに手に取った。
「よろしいのですか?」
「俺もそれでいいと思っていた」
安堵の表情を浮かばせた于禁は、夏侯惇がレジに並んでいるのを見送る。

水族館にいる間も、時間を気にしていなかった。なのでそろそろ出ようかと二人で話しながら時間を確認すると、午後の五時を過ぎている。外はもうじき暗くなっていくだろう。しかしこの街の日中以外の様子を、まだ一枚も撮っていない。
ようやく夜景も楽しめるので、二人は宵闇が橙色を食っていく空を写す為に水族館を出た。雨が止んでいるということも空の色も、水族館の土産コーナーの隅にある小さな窓から確認できたからか。
外は既に街中の建物の照明や街灯が点いていた。だがまだ夕日が出ている今は、そこまで頼りにはならない。
雨が上がっているので、やはり重たい雲は視界の全てを占める程にはない。夕日が、よく光っていた。
二人が写したい空が上にあったが、夏侯惇は于禁にカメラを渡す。受け取った于禁だが、電源を入れるとその空をバックに夏侯惇をすぐに写した。
予想外の于禁の行動に、夏侯惇は小さく驚く。
「……あまりにも、綺麗でしたので」
于禁は頬を空の色のように薄い赤色へと変えていき、そっぽを向いている。日中よりも冷えているのか、白い息をとめどなく吐きながら。
「そうだな」
ふわりと頬を緩めた夏侯惇は、于禁のその横顔を見る。眉間の皺が普段よりかは薄くなっているので、それを見つめた。
「綺麗なら、もっと写しておけば良いのではないか? 夕日など、すぐに沈むぞ」
「わ、私はこれで充分です!」
于禁は慌てた表情で夏侯惇に返す。カメラを持った夏侯惇は、于禁にこっちを見るように命令した。カメラのレンズを向けながら。
一瞬だけ夏侯惇の方を見るなり、顔を再び逸らす。しかし夏侯惇はずっとレンズを向けているので、肩を震わせながら于禁の方を見る。
空はもうじき、完全に夕日が見えなくなってきていた。夏侯惇はシャッターを切っていき、撮った写真を見る。顔を真っ赤にしている于禁が、こちらを見ている様子が写っていた。
夏侯惇がカメラのモニターを見ている間、于禁は何か言いたげな顔をしたが諦めてから空を見る。空は暗く、いつの間にか建物の照明や街灯が眩しいと思えてきていた。
やはりいつもと違う街並みが、どの時間でも綺麗だったと思えた。日中や夕刻、それに夜になった今の様子を見て。高さのある建物が少ないので、空がよく見えるおかげなのか。
二人は目的地も決めず、ただ視界に入る大きな歩道を歩いていく。ゆっくりと変わっていく景色を、何も言わずに眺めていった。
そうしているうちにホテルの近くまで来てしまったので、笑いながら次の予定を話し合った。
「少し早いですが、夕食にしましょう。ホテルのレストランではなく、どこかの店ででも」
「そうするか。そういえば、ガイドブックに載っていた店で、気になる店があるからそこでいいか? この近くにある、ダイニングバーだが」
「勿論」
すぐに決まると、二人はガイドブックを見ながら夏侯惇の言うダイニングバーへと向かった。
五分もしないうちに到着した。外壁は何枚もの細長い木の板で構成されており、扉は大きな一枚の木の板だ。その上には、店の看板があり、それを確認するとすぐに店に入る。店内は広く、照明が控えめなので落ち着いた雰囲気だ。
カウンター席かテーブル席のどちらかを選べるが、生憎にもテーブルに空きが無かった。なのである程度空いているカウンターに案内されると、二人は席に並んで着いて食べる料理を決めていく。
メニューを見ると、様々な料理や酒類が載っていた。どれにするか、悩んでしまう程に。しかし店の看板メニューが、この地域の伝統料理らしい。二人はすぐにそれにした。
二人はその伝統料理と、それに酒を注文した。
しばらくしてから注文したものを提供されると、二人は料理と酒を静かに楽しむ。周囲の客は最低限の物音を立てているので、それに耳を傾けながら。
そして料理を完食し、酒の入ったグラスを空にすると二人は小さな声で会話を始めた。
「……今日はとても楽しかったです」
「俺もだ」
「明日もあなたと共に過ごせることが、とても幸せです」
夏侯惇は「照れるな」と頭を軽く掻きながら于禁を見た。于禁は真剣な顔をしていたが、夏侯惇と視線が合う。
于禁は夏侯惇の左側に座っているので、左手を握ってから指輪を触れる程度になぞった。夏侯惇は視線のみを于禁の手に向けると、まるで事後の後のような視線を向ける。
だが夏侯惇は何も言わずに手を握り返すと、于禁は手を離していく。
「酔ってきたから、寒いが少し夜風に当たろう」
夏侯惇がそう言うと、于禁は頷いてから会計を済ませて外を出た。そしてホテルの近くには海があるので、二人でそこに行こうと話し合いながら。
海に着くと、ホテルの近くで何やら小さなイベントのようなものが催されていた。見れば二人が宿泊しているホテルの利用者限定の、浜辺で焚き火ができるというものである。ホテルの建物のバルコニーの長い屋根の下には、何台ものコーヒーマシンがあった。
「このようなものがあるとは」
「月に数回程度しか催されていないようなので、行ってみませんか?」
「いいぞ」
しかしそこにはホテルに一回戻らなければならないらしく、二人は一旦ホテルに戻っていく。そしてフロントの横を通り、バルコニーへと出るとホテルのスタッフに焚き火の近くへと案内された。
幾つもの焚き火が広い砂浜の上で光っており、その前には人が座っている。だが、前に人が座っていない場所には火が点いていない。
その前にはキャンプ用の折り畳み椅子が、三脚ずつ並べてあり小さな机が設置してある。それらは海の方を向いていた。
二人がそこに隣合うように座ると、同時にホテルのスタッフから、机の上にマグカップの入ったコーヒーを提供された。そして、他のホテルのスタッフが薪に火が点けると去っていく
二人の前で燃え始めた焚き火は、多少の暗がりの中でただ儚く燃えている。空の雲も去っていたので、遠くにある人工的な強めの光と間近にある自然のまだ弱い光が混じる中、二人はただ燃えている火を見た。その瞳や指輪が煌煌と輝いている。
「……そういえば、前はお前とこのようなことをしたことがなかったな」
「確かにそうですね。良い暇もタイミングも、無かったですし」
二人は互いの顔を見ず、パチパチという音を立てながら燃える火を見る。確かに外は寒い。しかし火のおかげで、冷たい風が吹いていても暖かさに相殺されていく。
安全な場所の上で燃えている火を見るのは、やはり落ち着くらしい。暖かさに加え、燃える音が二人の聴覚を癒やしていく。それに時折聞こえる波の音もあり、とても心地が良かった。
「この催しは、次は今月の最後らしいです。今日はとても幸運でしたね」
まだ夜は浅いというのに、少し眠たくなってきたらしい。夏侯惇は無言で頷くのを見て、于禁はそろそろ部屋に戻るかと聞く。だがもう数一〇分だけ居たいというので、夏侯惇が満足するまで于禁は付き合った。
二人は部屋に戻ると、夏侯惇はリビングルームの柔らかいソファに座るなり眠ってしまった。体の具合は良さそうではあったが、体の底ではまだ疲労が残っていたのだろう。
于禁は眠ってしまった夏侯惇の肩に毛布を掛ける。于禁も自身の毛布を持って来ると、夏侯惇の隣にそっと座った。そしてその毛布を掛けると、于禁にも睡魔が襲って来たらしい。なので于禁も夏侯惇に少しだけ寄り添うと、部屋を暗くして眠りに就く。
だが途中で目を覚ました于禁は、隣に人の体温が無いのに気付いた。ベッドルームを覗くと、いつの間にか夏侯惇がベッドの上に横になって眠っている。柔らかいソファと言えど、やはり一時的な睡眠ではないので適さない。于禁はそれを分かっていたが、つい隣で寝てしまっていたが。
そういえばシャワーを浴びていないことを思い出した于禁は、シャワーを浴びることにした。服を脱ぎ浴室に入り、湯を浴びる。しばらくすると、浴室のドアが開いた。同じく服を脱いでいるが、夏侯惇の瞼は重たそうである。
「まだ寝ていた方が……」
湯を浴びている最中であったが、コックを閉めてから夏侯惇の方を見る。足取りが覚束ないので、于禁はそれを支える為に近付いた。手を差し伸べると、夏侯惇はすぐにその手を取っていく。
「うきんの、ちかくにいたい」
そう言いながら、于禁と密着した。そして額を于禁の肩に乗せたかと思うと、ぐりぐりと軽いと力で押し付ける。その様がまるで甘えたがりの幼子のようで、于禁は思わず夏侯惇の頭を撫でた。
「それでは、シャワーを浴びましょうか」
「ん……」
夏侯惇はとても短い返事を出すと、于禁は夏侯惇に優しく湯を掛け、そして髪などを洗っていく。自身はまだ湯を被っただけだというのに。
さすがに夏侯惇は体を自分で洗っていたが、于禁はなぜだかヒヤヒヤしていた。途中で寝てしまったらと。だがその心配は無駄に終わって于禁は安堵をする。于禁も体を洗い終えるが、夏侯惇は大まかに水気を拭き取るとそのままベッドルームへと向かい、ベッドの上の縁にすぐに座った。体の水気を丁寧に拭き取った。ドライヤーを持った于禁は夏侯惇を追うと、髪を乾かして貰うのを律儀に待っている夏侯惇を見て、やはり幼子にしか見えなくなっていく。
于禁は「すぐに乾かす」と言うと、夏侯惇の髪を優しく乾かした。だがその最中に夏侯惇は座ったまま眠ってしまい、ドライヤー程の大きな音でさえ起きる気配はない。乾かし終えると、于禁は夏侯惇をベッドに寝かせてから自身の髪も乾かしていく。夏侯惇の隣に横になると、于禁はそっと唇を合わせてからベッドルームの照明を落とす。ついでに、カメラの充電もしておく。バッテリー残量が半分以下になっているからだ。
「良い夢を」
そして夏侯惇にも、そして自身に対してもそう呟き、そして再び眠ったのであった。

翌朝、先に目を覚ましたのは于禁であった。夏侯惇はまだすやすやと眠っているが、何度も何度も見てきた寝顔を見て微笑む。そして、互いの心地よい肌の暖かさに。
少しだけ、今は柔らかい髪を撫でた後に于禁は起床しようとする。しかしまだ眠っている筈の夏侯惇に手を掴まれた。于禁は驚きながら夏侯惇を見るが、まだ眠り深い。
恐らく夏侯惇の意識の底が、于禁が離れることを嫌がっているのだろう。そう思った于禁は眠っている夏侯惇のように、瞼を閉じる。すると再び睡魔が押し寄せてきたのか、于禁は再び眠った。

于禁は二度目の目覚めにより瞼を上げる。するとベッドの縁に夏侯惇が座っていた。既に服を着ていて、ガイドブックとスマートフォンに視線をそれぞれ往復させている。
「隣に、居て下さらないのですか?」
于禁はそれらの些細な物に対して嫉妬してしまったので、挨拶よりも先に手首を掴む。夏侯惇は思わず持っていた物を床に落とした後に、驚いた顔をしていた。
「すまん。明日の午前には帰るから、まだ行きたい所があるか見ていてな」
機嫌が悪いのか、于禁は表情を険しくさせる。二度目の目覚めの先でも、夏侯惇が当然のように隣に居ると思っていたからだ。昨夜と、そして一度目の目覚めのように。
「……そういえば、先程は良い夢を見たぞ。ただ、お前に手を差し出されて、手を繋いだだけのものだがな。夢の中ではなくても、いつもしていることであるというのに、嬉しかったぞ」
夏侯惇の和やかなその目を見た途端、于禁の機嫌の悪さは吹き飛んでしまった。どこかへと、跡形もなく。
控えめな咳払いをした于禁は気を取り直す為に、「朝食を取りましょうか」と言った後に時計を見る。しかし今の時間は朝食を取るというには遅い時間であった。なので于禁は言い直そうとしたが、夏侯惇は床に落ちた物を拾ってから頷く。
「食いに行くから、支度をするぞ」
「はい」
支度をしてから、レストランで二人にとっては朝食を取っていく。そして部屋に戻ってから、二人は今日はどう過ごすか話し合った。リビングルームのソファに密着して座り、夏侯惇はガイドブックを見ながら。
「降りた駅があるだろう? そこに土産屋から様々な店があるから、そこで孟徳に土産を買いに行きたい」
「お供いたします」
「ありがとう」
夏侯惇は開いていたガイドブックを閉じ、于禁は昨夜から充電したままのカメラをようやく取る。電源を付け、フル充電されていることを確認した後に。
だが部屋から出る直前、于禁はとあることに気付いたので夏侯惇に話しかける。
「私も殿に何か土産を買いたいのですが、殿が喜ぶものと言ったらやはり酒でしょうか?」
「あぁ、そうだな。あいつは酒をやると喜ぶ。特に珍しい酒はな。俺も酒を土産にしようかと考えているが」
夏侯惇からの回答に于禁は少し考えた後に、スマートフォンを取り出した。何やら画面をスワイプさせたり、文字を入力したかと思うとすぐに夏侯惇にスマートフォンの画面を見せる。そこには、この地域で土産に丁度良い酒が紹介されているウェブサイトが表示されていた。
それを二人で見ると、どうやらワインが特に有名で評判がとても良いとのこと。なので二人はワインを土産にすることにしたが、于禁はまたしてもとあることに気付く。
「あなたと同じ物を贈っては寧ろ、殿は困るのでは……」
「本当だな……」
二人は部屋から出るのを止めて再びソファに座ると、ガイドブックやスマートファンで曹操が喜びそうな土産を探す。ワイン以外で。
まずは酒以外のカテゴリで何を喜ぶのか夏侯惇は考え、于禁にそれを言う。そのカテゴリから二人はそれぞれ調べると、一〇数分で見つけられた。二人が見つけたのは、様々な種類が詰められいる海産物の加工食品のセットである。ガイドブックにも、スマートフォンで検索した結果にも載っていた。
紹介する文を読むと最近話題になっているものでしかも、常温でも保存できてワインに合うようなものらしい。ガイドブックやスマートフォンで検索した結果でも評判が良いという理由で、于禁はそれを買うことにした。
「買いに行くぞ。それに、まだ写真立てしか買っていない俺たちの分もな」
「はい」
ようやく二人がホテルから出られたのは、昼に差し掛かる直前である。空には雨雲はなく、太陽がよく見えていた。それを夏侯惇は眩し気に見た後に、于禁と共に駅に入り商業エリアに向かう。
駅周辺でも人が多かったが、全部で四階層ある商業エリアは更に人が多い。今日がラッシュということを二人はつい忘れていたようだ。だが于禁はそれを逆手に取る。
「お手を」
于禁は手を夏侯惇に差し伸べたのだ。夢が正夢になったのか、夏侯惇はすぐにその手を取った。暖かい、と思いながら。
広い通路でさえ溢れそうな人混みの中で二人は手を繋ぐ。于禁が夏侯惇を導くように。
土産が置いてある店を探す。それに、一つのフロア毎の敷地面積はかなり広い。広大な商業エリアの、まずは一階層目を歩いていく。
二人はしばらく周囲を見渡すと、ようやくワインを扱っている店へと辿り着いた。そこはワイン専門に取り扱っている店らしい。
だが店には短い行列ができていた。通路に少しはみ出ているが、二人はその最後尾に立つと繋いでいた手を離す。思ったよりも行列は早く進んでいた。ここはワインのみを扱っているからというのと、恐らく前に並んでいる客は二人のように買うものが既に決まっているのだろう。実際、ようやくレジの前に立った客が目的の物を店員にスムーズに伝えていたからだ。
列が進んでいき、ようやく二人がレジの前に立つ。夏侯惇は既に会計を済ませ、人混みに紛れてしまった他の客のように求めている物を店員に伝える。そして会計の際に郵送はできるかと聞くと、店員はできると答えた。なので夏侯惇は送り状の発送先の項目に、曹操の自宅の住所を書く。ワイン代とそれに相応の配送料を支払うと、二人はこの店にこれ以上滞在する理由はない。すぐに広い通路の人混みの中へと入っていく。
「次は、お前が孟徳に渡す土産だな」
「はい」
どうやらこのフロアは酒類を中心に扱っている店が多いということを、今更になって把握できていた。なのでまずは別の、食料を中心に扱っている店が多いフロアを探すことにした。エレベーターで、商業エリアの二階層目へと向かう。
そこも一階層目と同じく広い通路が、人で溢れ返っていた。于禁は何も言わずに再び夏侯惇の手を取ると、離れていかないように繋ぐ。
「どうやら、ここが食料品が主なフロアのようです」
周囲を見渡しながらそう言うと、夏侯惇は返事をする。しかしすぐそこにある喧騒で、内容がよく聞き取れなかった。だが返事の内容というのは、了承の言葉としか思っていない。夏侯惇はそのまま足を進めているからだ。
立ち止まる訳にはいかないので、于禁は周囲をひたすら進んでいくと海産物の加工食品を取り扱っている店をいくつか見つけた。複数あるので、まずは最初に目についた店に入り、販売されている商品を見る為に繋いだ手を離す。
商品棚を確認しては通り過ぎていくうちに、于禁は目当ての物を見つけた。見当をつけていたものと同じ商品である。それをレジで会計すると丁寧にラッピングされたうえに、店の紙袋に詰められた。于禁はそれを口角を緩めながら見ている。曹操が喜ぶと思っているからなのか。
「……買ったら早く行くぞ」
夏侯惇は于禁のその様子を見て少し面白くないと思ったのか、他の店も回ろうと促す。それに気付いていない于禁は首にカメラを提げ、手に土産が入っている紙袋を手に提げながらも、楽しそうに返事をしていたが。
二人で様々な店に寄り、自分たちへの土産などを買っていく。途中で、店の前で于禁が立ち止まることが一度あったが、夏侯惇のことを気にすると歩みを再開させた。
しかし買い過ぎたのか二人の両手では持ち切れなくなっていた。なので構内にある配送業者の宅配便カウンターにて、買った全ての物を自宅宛てに配送手続きを済ませると、二人の両手にあった手荷物は全て無くなった。于禁はすっきりとした表情をしていたが、その時点でも夏侯惇は口角を下げている。
「さすがに、お疲れのようですから休憩しましょう」
時計を確認すると、時刻は午後の四時。二人は数時間ずっと歩き回っていたことになる。そう言いだした于禁も疲れていたが、夏侯惇の口数が何だか少ない気がしたので、同じく疲れたと思っていたのだろう。そこで、駅構内にある喫茶店で軽食でも取ろうかと提案すると、夏侯惇は相変わらずな態度で頷いた。
飲食店のあるフロアに移動すると、適当な喫茶店に入っていく。店内はこの時間だからか、全体的に空いていた。店員に四人掛けのテーブル席に案内されると、二人は向かい合って座る。小腹が空いていたのでサンドイッチとコーヒーを注文した。
「そういえば、今日は何も写真を撮っていないのですが」
于禁は注文したものが提供されるのを待っている間に、未だに充電の減っていないカメラのストラップを外して席のテーブルに置く。
「今日は撮らなくても良いだろう」
夏侯惇はテーブルに肘を着け、于禁の方を見ていない。さすがにそこでおかしいと気付いた于禁は、慎重な言葉を脳内で選択し始める。自分が、何かしてしまったのだろうかと思いながら。
「……いえ、どうしても行きたい場所が、どうしても撮りたいものがありまして、日没前からでもに駅を出ましょう」
「あぁ」
何かを思いついた于禁は夏侯惇にそう言う。充電の減っていないカメラと夏侯惇を交互に見る。
すると注文していたものが提供されたので、二人は無言ではあるが良い味だと思いながら喉に通していったのであった。
二人が駅を出た頃にはもうすぐ日没時間を迎えるところである。外は一層寒いが、夏侯惇は白い息を吐きながら于禁に着いて行く。行き先などは聞いていないが、于禁の背中をひたすらに見続けていて。
少し歩くと、于禁が目的としている場所はすぐに分かった。駅前やその周辺の歩道や道路にも灯されているイルミネーションである。それも範囲は広大で、二人の視界に入れても収まりきらない程。
「笑って下され」
カメラの電源をつけた于禁は夏侯惇に和やかにそう言った。だが夏侯惇はすぐ近くにあるまばゆく綺麗なイルミネーションにより、機嫌の悪さなどもう無い。それに、この煌びやかな景色を于禁と二人で見ているからか。
レンズの方に顔を向けると、口角を上げた。そこでカメラのシャッターを切り、モニターで確認すると、そこには于禁の好きな夏侯惇そのものが写っている。しかし、写真よりも目の前にいる夏侯惇の方がずっと好きではあるが。
「俺にも撮らせろ」
まるで学生がはしゃぐように、夏侯惇が于禁にカメラを渡すように言う。于禁は快諾しながらカメラを渡した。
「お前も笑えよ」
レンズを于禁に向けると「仕方無いですな」という言葉が返ってきていて、于禁は自然な笑みを浮かべている。夏侯惇はそれを確認するとすぐにシャッターを切った。モニターには、先程の于禁がしっかりと撮れている。
「すまん、俺が悪かった。お前が孟徳に土産を買って喜んでいるのを見て、嫉妬をしてしまっていた。于禁が孟徳のことで、頭が一杯である様子で。だが、お前は孟徳を人間として前からずっと尊敬しているのを先程、思い出した……つまらんことで長い間、空気を悪くしてすまんな」
夏侯惇はイルミネーションを見た後に、于禁の方を見て今日のことを謝る。その瞳はイルミネーションの光がよく反射しているが、その光よりも綺麗だと于禁は思えた。どのようにも再現できず、作り出せない程に。
「いえ、こちらこそ、私こそ申し訳ありません。パートナーであるあなたのことを、よく考えられていなかったようで」
二人は互いに見つめ合い笑い合うと、イルミネーションの道を共に歩いて行ったのであった。
その後二人は空腹だからと近くのレストランで夕食を取り、ホテルへと歩いて戻る。しかし途中で雪が降り始めたので、二人は道や物に落ちては溶けていく、その雪を見て珍し気に見た。二人の住んでいる地域では、冬でも降ることはほとんど無いからだ。
「この地域は、冬は雪が降るところだったな」
「はい」
すると夏侯惇はイルミネーションを見ていたときから持っていたカメラの電源をつけ、雪の降る夜景を撮っていく。珍しさ半分、景観の美しさ半分で。于禁も夏侯惇に触発されてカメラを渡された後に好きなように写真を撮っていった。時折、夏侯惇も写しながら。
そうしていくうちに二人はこの時間の景色の写真撮影することに満足したらしい。二人は上機嫌でホテルに戻り、部屋に入って行った。
しかしシャワーを浴びてベッドに入ると、二人の雰囲気は一転したようだ。旅行初日のように激しくはないが、互いの肌の熱さを隅々まで感じ合う。手や唇で。じっくりと行っていたので、シャワーを浴び終えた頃には日付は既に変わっている。
二人は特に急ぐ様子もなく眠る支度をすると部屋の照明を落とし、ベッドに入った。
「楽しかったな」
「えぇ」
二人は旅行の感想を短く簡潔に言い合うと、夏侯惇は于禁の感想に対して、柔らかく静かな笑みを返す。
しかしまだ語り合うには更なる時間も言葉も必要ではあるが、今はそれだけで充分らしい。二人はホテルの部屋に戻ってから何度目か分からない口付けをしたところで、互いの肌を重ねた後に眠りに就いたのであった。

翌朝、二人はゆっくりと目を覚ますとまずは現在の時刻を確認した。今は八時ではあるが、帰りの新幹線に乗る時間は一〇二時前なので、二人はベッドから出る。互いにつけた痕を隠すように服を着てから洗面台で身支度をすると、二人は荷物をスーツケースに纏めてから確認をしていく。忘れ物が無いか、無くした物は無いかと。そして昨夜の痕跡を処理の確認も。
しかしそれらの作業などすぐに終わっていた。時間はまだ九時過ぎではあるが、二人は部屋にまだ荷物を置いたまま一階のレストランで朝食を取る。今日は昨日よりもホテルの利用客は大幅に少ない。そのおかげかスムーズに席に座ることができ、朝食を取ることができた。
朝食をのんびりと済ませたが、その時には一〇時を少し過ぎていた。二人はそろそろチェックアウトして駅に居た方が良いかと思い、部屋に戻ってから荷物を取るとフロントに降りてチェックアウトをする。
ホテルから出ると、空はよく晴れていた。
「最後に、撮っておこう」
夏侯惇はカメラの電源をつけ、ホテルのエントランスや建物を撮影対象にして数枚撮る。太陽がよく出ているので、とても綺麗に撮れていた。
「見返すのが、楽しみですな」
「あぁ」
カメラの電源を落とすと、二人はホテルを背に向けて歩いて行った。
駅の構内に入るが、そこは昨日と比べて若干利用客が少ない程度である。相変わらずの人混みを掻き分けながら二人はスーツケースを引き、空いているベンチを見つけると一旦そこに座った。
帰りの新幹線の電子チケットが表示されるか、スマートフォンで確認する。
「……あの」
確認することは全て無くなったのか、于禁は夏侯惇に恐る恐るといった様子で話し掛ける。それに夏侯惇は、どうしたと笑いながら話を聞く態度を示した。
「一つ、買い忘れた物があるので、土産が売っているフロアに行きませんか? すぐに終わりますので」
「構わんぞ。行くか」
夏侯惇はすぐに立ち上がると、于禁はそれに対して礼を言いながら土産屋が密集しているフロアへと向かっていく。于禁は食料品を中心に扱っているフロアに行くと言うと、夏侯惇はそれに着いて行った。
「ここです」
于禁が買い忘れた物が売っている店というのは、コーヒー豆専門店であった。夏侯惇はそこで于禁の昨日の行動を思い出す。ふと、この店で立ち止まったことを。
「美術館で飲んだコーヒーが、忘れられなくて……」
店の通路に面した場所には二人が行った美術館のカフェの名前と、そこで淹れられていると紹介されているコーヒー豆が陳列してある。それを見ながら、于禁は飲んだコーヒーのことを思い出して感想を改めて出す。
「そういえば家にコーヒーミルが無かったな。豆を買うなら、帰って落ち着いてからですまんが、二人で買いに行こう」
「はい」
于禁は外の晴れ模様のように明るい表情で答えると、コーヒー豆を購入した。それでも時刻は、新幹線のホームに行くにはまだ少し余裕のある時間になっている。だが二人は余裕があったとしても、新幹線の改札を抜けてホームで帰りの新幹線が来るのを待ったのであった。昨夜の就寝前にしていた会話の続きを少しでもしながら。

新幹線が来た。二人は指定していた席に座るが、車内でも肌寒いのか着ていたコートを膝に掛ける。直後に于禁はコートの下で夏侯惇と手を繋いだ。于禁は帰りは窓際で通路側には夏侯惇が座っているので、ちょうど夏侯惇の左手を握る。つけている指輪を、軽くなぞりながら。
擽ったいと夏侯惇が静かに笑った。
新幹線が動き始めると、揺れや手のぬくもりにより二人は強烈な睡眠欲が湧いてきていた。旅行の疲れもあるが。なので降りる駅が終電なのをいいことに、二人はほぼ同時に眠る。
目的の駅に着く寸前で于禁が目を覚ますと、まだ眠っている夏侯惇を優しく起こした。何度か肩を弱く揺すり、ようやく夏侯惇が目を覚ます。
その時の車窓には、二人が住んでいる街の景色が見え始めていく。すると于禁はそれを見ながら、自然にとある言葉を呟いた。
「あなたとのハネムーン、楽しかったで……あ、いえ、その……」
「俺も、お前とのハネムーンが楽しかったぞ」
外の青い空とは対照的に、于禁は顔を真っ赤に染め上げる。夏侯惇はそれを見て、今も繋いでいる手を更にしっかりと握ったのであった。ずっと、離れないと思いながら。