甘い果実は花弁となりて - 1/2

甘い果実は螺旋となりて

于禁が目を覚ますとまずは清潔な白色が見え、次に消毒液の匂いが微かに感じられた。時間は昼間なのか太陽が高く、青い空が眩しいと思える。季節は秋に入っているので、暑さはなく、寧ろ肌寒いくらいだ。于禁は冷えにより体を震わせる。
今の于禁は白いベッドに寝かされており、廊下にそれなりの人気がある個室の中に居た。水色の患者医を着ているが、右脚には包帯が巻かれて脚を固定されている。推測するに、骨が折れたのかひびが入ったのだろう。
寝ているベッドはそれなりに大きく、于禁程の体格でも余裕で脚を伸ばすことができた。隅には何かが置いてある小さなテーブルと椅子、それに洗面台があるがどれも使われた形跡はない。恐らく、誰もあまり使っていないのだろうと。壁にはアナログ時計が掛かっており、時刻は昼過ぎだということが判明した。
溜息を一つ小さく漏らすと、于禁は負傷している右脚に負担を掛けないように上体を起こす。軽く動かしてみた感覚からして、右脚の骨にひびが軽く入っただけだろう。個室とは大袈裟だと思ったが、自身の階級からしておかしくはない待遇だ。
于禁は右脚を手で少し擦った後に、部屋にある窓を見る。ここは于禁の所属する軍の医療施設だ。何度か来ているので分かるが、軍の敷地内にあり、街と隣接している。
見える景色は街の喧騒と、軍の敷地内特有の静けさが混じり合っていた。ここは戦火に見舞われなかったらしい。見る限りでは平和だ。于禁はそのような空間にあまり慣れておらず、どちらかというと後者の静かな空気に慣れている。なので戸惑いの表情を作りつつ、于禁はただ何もせずに過ごした。それは人生で、初めてである。
しばらく経過すると、患者のものよりも少し薄い水色の看護服を着ている看護師が経過観察に来た。そこで意識を取り戻した于禁に気付いたので、健康状態について冷静に質問した後に医師を携帯端末で手短に呼ぶ。急いで白衣を着た中年の男性医師がすぐに来た。かなり疲れた顔をしていた。夜勤明けだったのか白衣がよれよれになっており、髪がぼさぼさだ。于禁は、少し申し訳ないと思いながら医師を見る。
そしてもう一度、改めて医師からも健康状態を質問されてからその場で簡単な診察が行われた。まずは聴診器などで、一般的な方法で。その後に于禁の今の怪我の状態を説明していく。医師曰く、于禁の予測通りに右脚の骨にひびが入っているだけらしい。それにここに来る前から過度な疲労や緊張それにストレスにより、ずっと眠っていたことも聴かされる。因みに、終戦してしばらくしてからここに搬送されて三日が経過しており、全治は余裕を持って一か月とのこと。そして軍から、完治するまでは復帰をするなという命令が下っていた。
于禁は数か月前の他国家との大規模な戦争に参加していたが、そこで負傷していた。季節を幾つ越したのかは分からない。かなりの激戦区に居たが、奇跡的にこのような軽いものである。見渡しても見渡しても、味方も敵も血や負傷者で溢れていたからだ。
そして次に、起き上がれるのであれば診察室で念の為にもう一度診察をすると医師が言う。しかしそこで于禁はかなり気になることがあるのか、医師に「今のこの国の情勢はどうなのか」と質問をした。
対して医師は「つい最近戦争が終わり、この国が辛うじて勝ち、戦争に参加していた他の国は全て敗戦国だ。犠牲者が多い。ここはもうすぐ満杯だ」と相変わらず疲れ気味に返す。于禁は負傷する前は勝敗の様子がよく分からなくなっていたのでただ頷き、ぼんやりとそうなのかと納得していた。
ここから見える外には、その様子が一切見えないからだ。だが新聞やニュースを確認すれば、いずれかは分かるだろう。この街から出たら外は、何もかもが荒れていると思いながら。
のそりと起き上がると、看護師が傍らで于禁を支えようとする。だが于禁は自分で起き上がれると断ると看護師はすんなりとその手を引き、まずは左脚を床に着地させようとした。そこで看護師が入院患者用のスリッパと松葉杖を差し出す。于禁はそれに礼を言いながら左脚にスリッパを履き、右脚にもスリッパを履いていく。松葉杖で体を慎重に支えながら立った。
そして医師から歩行はできるか尋ねられると、于禁は右脚を庇いながらまずは左脚を動かす。右脚を引き摺るように動かすと、辛うじて歩くことができる状態であった。松葉杖を動かした于禁は、何だか悔しそうにそれを使っていく。看護師が後ろを歩き、隣に医師が付き添いながら少し距離のある診察室へと歩いて行った。
ごく一般的な作りの診察室に着くと于禁は椅子に案内されて座り、医師は机に向かった。看護師は于禁の松葉杖を受け取ってから持つ。ここに搬送された直後に撮っていたレントゲン写真を、于禁は見せられる。右脚の脛の部分にひびがおおよそ五センチに渡っていた。
動かせないことはないが、医師からははっきりとあまり歩かない方がいいと伝えられる。于禁は一瞬だけ落ち込みの表情を見せたものの、医師の言葉には従わなければならない。于禁は医療に関しては素人同然だからた。
それにもう一つ、医師から言葉を受ける。終戦後に戦場から搬送される前は他人から見たら右脚を引き摺っており、酷い精神状態だったらしい。砂埃が舞う中、まだ戦争が終わっていないと思い込んでいた。医師に必死に「敵は」と問い掛けていたからだ。医師からの何度目かの返事によりようやく現実に戻った後に、失神したのだが。
なので于禁は素直に頷いてから医師に礼を告げると、病室で安静しているようにと看護師に言われながら松葉杖を渡される。于禁はそれに対しても頷き礼を言うと松葉杖を使い、看護師に付き添われながら病室へ向かって行った。病室に戻ると看護師が改めて「安静にして欲しい」と言い、静かに立ち去っていく。
ベッドに戻った于禁だが、そこで于禁は大事なことを思い出したのですぐに出ようとした。しかし医師と看護師から安静にすべきだと何度も言われているので、于禁は歯を食いしばりながらベッドの白いシーツを握り締める。
思い出したこととは、戦争が始まった頃からずっと顔すら合わせていない夏侯惇のことである。于禁は、戦争前に上官である夏侯惇と約束をしていたのだ。とにもかくにも、生き残ることを。
そこで于禁は今更になって、大事な存在を失う恐ろしさや悲しさを知った。これまでは一軍人として、ほぼ機械的に生きてきたからだ。思考が螺旋状に巡った後に遅い気付きだと後悔していて。だがこの罪は、一生掛けても償えないだろう。それでも于禁は、この思いを大事にしようと考えていた。
しかし于禁が派遣された場所は互いに遠く離れていたので、安否など分からない。そうとしたら、知る手段は無いだろう。于禁は窓の遠い空を睨み、どうにもできない状況に項垂れる。
もしも、もしも夏侯惇が戦死していたならば。もしも夏侯惇がこの世に居ないのであればと思うと、于禁は大きく発狂をしかけた。同時に、夏侯惇のことを忘れていたことさえも。
動いて夏侯惇の安否の確認をしなければ、とやはり于禁は強く思ったのか右脚を勢いよく動かしてしまう。激しい痛みによりベッドからどさりと落ちると、たまたま廊下を歩いていたらしい先程とは違う看護師が扉を素早く開けて病室に入り、床で痛みに苦しんでいる于禁に急いで駆け寄って来た。
看護師は心配や怪我をした部位は大丈夫かと声を必死に問い掛ける。だが于禁はそれを無視して、軍の者に連絡を取れるか質問をした。看護師が答えに困っていると、先程の医師が于禁の状態に気付いたのか病室に入ってくる。どうやら看護師の声により、他の病院の者が気付いて医師に連絡をしたのだろう。
于禁は今の季節に合わない汗を垂らしながら、改めて医師に軍の者に連絡を取ることは可能なのか聞いた。医師は少し考えた後に「いつでも取れるが、用件は何ですか?」と答える。なので于禁は「上官である夏侯惇殿の安否が知りたい」とすぐさま伝えた。その後に于禁は突然に冷静になったのか、医師と看護師に謝罪をしてからベッドに戻る。しかし右脚が痛いのか、顔を歪めてしまったので看護師に体を支えられながら。
医師曰く、軍からの返事にはそこまで掛からないらしい。早くとも夕方前で、遅い場合は翌朝になる。今は負傷者などが多く、順番に把握するのに時間が掛かるからだという。医師がそう説明した後に于禁の言葉を、持っていたメモ用紙に素早くメモしていった。そして次は厳しめに「今は安静にしていて下さい」と医師が言うと、于禁は「申し訳ない」と返してこの場はすぐに収まった。看護師は何かあればいつでも呼んで欲しいと言い、医師と共に退室していく。
再び一人きりになった部屋で、于禁はベッドに慎重に乗り上げた。傷の治療と夏侯惇の安否については、待つしか方法はない。なので于禁は一度大きく深呼吸をしてから、仰向けになり天井を見る。
廊下の遠い場所から時折聞こえる、急患で忙しくなる医師や看護師の声を聞きながら于禁は瞼を降ろした。今は昼間であり、充分に睡眠時間を確保できている。なので眠れる訳がなく、すぐに瞼を上げた。時間を潰す為に何か無いのか周囲を見る。すると少し離れた場所にある小さなテーブルに、新聞らしきものが置いてあることに気付いた。それも数部はあるが、どう見ても于禁がここに搬送されてからの分だろう。
于禁はゆっくりと起き上がって立ち上がる動作を行うと、松葉杖は使わずに小さなテーブルに向かってよろよろと歩いて行く。その際に壁をつたっていたので、歩行や患部に問題はなかった。
テーブルの上の新聞の束に辿り着くと、それを手に持ってからベッドに戻る。新聞は三部あり、やはり于禁がここに来てからのものであった。まずはこの中で一番古いものを見ると、見出しの記事は主に「敗戦国をどう扱うか、賠償はどうするか」が主である。それに、曹操が軍の総帥に抜擢されたとある。就任した際のスピーチの内容や様子が載っていた。
国も情勢も敗戦国が悪いと思っているが、この国が以前のように回るには敗戦国の存在も必要であった。代表的なものは輸入・輸出に関することである。これは、どう考えても切り離せる問題ではない。それに軍は人手が足りないという。
于禁は見出し文にじっくりと目を通してから、他の記事も読んでいく。写真はモノクロだが、惨状はそれだけでも充分にひしひしと伝わってくる。人々の悲鳴、悲しみ、泣き声、血の匂い。
于禁はこのとき、初めて軍人ではなく一般人として今のこの国の情勢を見ている錯覚に陥っていた。ここにある空間、空気、音も全てが前とは違うのだから。
一番古いものを読み終えると、次に昨日の分を広げ始めた。しかし先程のものとあまり違いがなく、于禁は少し呆れながら全て読み終えた。もしかしたらと思い、今日の分を読むとやはり結果は同じである。あまり内容が変わらないのだ。見つけることができた小さな違いと言えば、載せられている写真が違うくらいか。
恐らくだが、今は世界中が混乱しているのだろう。勝利したこの国であえ、この有様なのだから。
于禁はつまらない時間を過ごしたと思い、新聞を閉じてから元の場所に戻す為に立ち上がる。そこで気付かなかったのだが、時刻は夕方になる前であった。病室の壁のアナログ時計が、それを示しているからだ。
それを確認した後に、于禁は窓から見える景色を見ながら考えた。怪我が治ったら、軍に復帰しなければならないことを。また軍人として、生きる気はある。しかし新聞の記事の内容を大まかに思い出していると、どうにも引っ掛かってしまうのだ。理由は于禁自身でさえも、はっきりと分からないのだが。
自身の心に対して首を傾げていると、病室のドアから控えめなノック音と医師の声が聞こえた。そして入室してくると、于禁が第一に求めていた答えを出す。軍側からの回答は「夏侯惇は軽傷で済んでいたが実戦に出られる状態ではなく、今は書類をこなしている」と。于禁は大きく安堵をすると、医師は「貴方の尊敬をしている上官なのですか。その上官の元に、早く復帰できるといいですね」と微笑みながらすぐに退室していった。于禁は窓から街の景色を見る。夏侯惇に早く会いたいと思い、表情がとても柔らかくなっていた。
そして今乗っているベッドが、優しく包んでくれるとも思っていたのであった。

次の日の昼食を終えてからしばらく経過した頃に、病室にいつもとは違うノック音が聞こえた。間隔が短く荒い気がしたので、于禁はゆっくりと起き上がってから自然と身構える。この病院の者は誰も、ゆっくりと控えめなノックをしてくれるからだ。
そして于禁が敵を見るかのように睨んでから返事をする前に、病室のドアが開く。
「于禁!」
ノック音の主とは、軍服姿の夏侯惇であった。額のあたりに包帯が軽く巻かれていたが、軽傷と聞いているのでそれから視線を外す。口を半開きにした于禁は思わず身を乗り出すが、ベッドから落ちそうになり止まった。どうにか、自身の右脚の状態を思い出せたからだ。
「か、夏侯惇殿! お久しぶりです! この度は……」
しかし于禁が挨拶を言い終える前に、夏侯惇が素早くドアを閉める。于禁にずいずいと歩み寄ってから、きつく縛るように抱き着いてきた。
于禁は自然と、連なる涙を落とし始める。
「無事で良かった……!」
二言目の夏侯惇の声は震えていた。密着してくる体が服越しでも熱く、心音が早い。于禁は小さく「申し訳ありませぬ」と言ってから、抱き返す。ずっと、一生このままでいたいと思いながら。だが夏侯惇の体が離れていったので、于禁はすかさず手を伸ばした。夏侯惇は緩めた表情でその手をただ取る。
「ずっとあのままでは、お前の怪我がどうにもならんだろう」
「はい……」
涙が引いていく。しかし代わりに自覚ができるくらいに、于禁は寂しそうな様子をしていた。夏侯惇はそれを見て「仕方がないな」と言うと、ベッドの縁に座る。于禁はその隣に移動すると、夏侯惇にぴったりとくっついた。近くでよくよく見ると、夏侯惇は疲労が溜まっているのだと気が付く。片方しか見えていない目がかなり重たそうだったからだ。
「三日前にここに運ばれたらしいな。いくら右足の骨のひびとは言え、きちんと大人しくしているか?」
于禁はすぐに頷くと、夏侯惇の怪我の様子について質問を返す。夏侯惇曰く、戦争が終結した直後にここに帰っていた。于禁よりも戦況が落ち着いた場所に居たらしい。怪我は額に数針縫う程度で、小さな金属片などが刺さっているという。それらは全て皮膚の表面にのみ刺さっていた程度で、頭蓋骨に数ミリ到達しただけだ。
夏侯惇の怪我について、本人の口から直接聞くことができた于禁はぐったりと更に縋る。夏侯惇は「重い」と笑うと、于禁の後頭部を優しく撫でた。于禁はくすぐったいが、このまま夏侯惇の腰に手を回してから抱き着く。
「貴方も無事でよかった」
「ありがとう」
撫でていた手を止めた夏侯惇は、于禁の頬へ手を移動させていく。髭は整えられていないが、それすらも愛しいと思ったのか撫でる。だが于禁はそこは恥ずかしいと思ったのか顔を引かせようとすると、夏侯惇が両手で于禁の顔を固定した。そして顔を近付けると、とてもゆっくりと唇を合わせていく。
一瞬であったものの、于禁は久方ぶりの動作に顔を真っ赤に染め上げた。同じく、何故だか夏侯惇も顔を同じ色になっていったので二人で静かに笑う。
「どうして貴方まで?」
「俺が知るか」
夏侯惇が肩を組み、もう一度口付けをしてから立ち上がる。頬はまだ赤いが、そろそろ軍務の続きをしなければならないのだろう。そう思った于禁は、何かを言おうとして咄嗟に口を開く。
「……これからは、貴方と人生を歩みたい」
于禁の口から出てきた言葉が、これだった。それも、かなりはっきりとしている。
しかし于禁は不本意という訳ではない。寧ろそれが望みではあるのだが、タイミングが不明であった。いずれかは伝えたかったが無意識に出てしまい、于禁は直後に首を大きく横に振りながら否定をしようとする。だが、それは夏侯惇にがっしりと止められた。
「なるほどな。そう言うのなら、最後まで責任を取れよ?」
夏侯惇の顔色はいつも通りのものに戻っており、于禁の方を真っ直ぐに見ている。眼は一つしかないというのに、夏侯惇の心がいとも容易く読み取れた。先程の于禁の言葉がとても嬉しいことを。
すると于禁はやはり今伝えておいてよかったと、安堵をした後に夏侯惇に返事をした。勿論、肯定のものだ。
「はい。ですがせめて、私が退院するまではお待ち下され」
夏侯惇はただこくりと頷くと「ではな。次は何か見舞いの品を持って来る」と呟き、于禁の背中をバシバシと叩いた。驚いた于禁は体をびくりと跳ねさせた後に笑う。「そこまで気を遣われなくても」と言いながら。
そして夏侯惇が立ち上がり背中を向けると、唐突に暗いトーンで話し始めた。
「俺は……お前が生きていなかったら、死体を探し回っていた。だがもしも死体を見つけてしまったら……俺は、どうなっていたのだろうな……」
そう言った後に、夏侯惇はドアに向かってトボトボと歩いて行く。いつもより背中が小さく見え、于禁は眉を下げた。口を開くと思ったよりも夏侯惇よりも暗い声が出たので、于禁はそれに驚きつつも自身の重い気持ちを述べていく。
「……私は、貴方がここに居なければ『同じ場所』へと向かおうとしていたと思います」
夏侯惇の両手に、ぐっと力が入ったのが分かった。手袋を今はしていないので、長くはない爪が手の平に食い込んでいくように見える。于禁はそれを微かに見た後に「また、お時間があれば見舞いに来て下され」と言うと、夏侯惇は曖昧な返事をしてからドアを開けて退室して行った。于禁はそれを見送ると、病室の白い天井を見上げながら考える。
先程の夏侯惇の言う「責任」とは、具体的に何なのか。于禁は自身の発言を思い出していく。そう夏侯惇に言わせたのは、于禁本人であるが。
誰かと共に歩んでいく人生とは、つまり互いに朽ち果てるまでなのだろうか。そう考えると、于禁は頭を抱えて激しく唸った。
そうするにはどうすれば良いのかと頭の中で素早く駆け巡ると、結局は一晩中その思考に囚われていたのだった。今までは軍人として一筋で生きてきた故に。

次の日の夕方に、軍服姿の夏侯惇が見舞いに来た。昨日言った通りに見舞いの品を持って来ており、旬の果物が幾つか入った小さな籠である。菓子や花にはあまり興味がないと、夏侯惇に思われたのだろう。しかし夏侯惇が見舞いに来てくれるだけで嬉しいので、于禁は「そこまでされなくても……」と言ってしまう。
それを聞いた夏侯惇は溜息をつくと綺麗な状態の洗面台に向かって手を洗い、ベッドの近くに椅子を持って来て座った。軍服の上着の懐から折り畳み式のナイフを取り出す。それに、もう読まない様子の新聞も広げる。
「前から、これをしてみたくてな」
籠から赤い果物を一つ取り出すと、ナイフでその皮を剥いていく。螺旋状に綺麗に剥けていくのを見て、于禁は何も言わずにそれをずっと見ていた。あっという間に皮が全て剥けると、手の平の上で小さく切り分けてから空いた指先で摘まんで于禁の口に向ける。ほのかに果物のみずみずしい香りがしたので、于禁は思わず口角を上げる。病院食でも果物はあったが、入院患者全員の食事バランスを考慮してなのか少量だ。于禁は夏侯惇の手を食う勢いで、切り分けられた果物を食べる。味はとても美味と言いながら。
「とても美味しいです。ありがとうございます」
「それはよかった」
二人で柔らかく笑いながら一つの果物を食べ切ると、残りはまた後日と夏侯惇が言う。于禁はそれに勿論頷くと、夏侯惇が洗面台で手を洗ってから椅子に座り直す。
「あぁ、そういえば……」
何かを思い出したように、夏侯惇はまずはからかうように言う。
「今から言うことは、決して誰にも話すなよ。まぁ……お前は口が鋼よりも堅いから、そのようなことはあり得ないか」
于禁は夏侯惇の言葉を曖昧に肯定する。そして今から話すことは何か気になるので、話の続きを早く知りたいと急かす。夏侯惇はそれに微笑むと、声の調子を落として話し始めた。
「状況が落ち着いたらこの軍から身を引いて、先日の戦争に参加していない中立国で暮らさないか? 昨日は、責任を取ると言ったよな?」
その言葉に于禁はしばらくの間、硬直してしまう。夏侯惇の言葉による大きな疑問により、頭がどうにも回らなくなったからだ。変なことでも言ったのかと思い焦った夏侯惇は于禁の肩を掴み、軽く揺さぶりながら「大丈夫か?」と聞く。そこで疑問の深い海から出られると、于禁は「は、はい!」と大きな声を出して返事をした。
「……その、何と仰っていましたか?」
于禁は耳が床と平行になるくらいに、疑問により首が大きく傾げた。それを見て夏侯惇はあまりの面白さに体を震わせ、于禁の顔を見てから大笑いする。何がおかしいのか于禁が焦ると、病室のドアが開いて看護師が「院内では静かにして下さい」と注意してくる。廊下をたまたま歩いており、笑い声が聞こえていたのだろう。二人はその言葉に反省をすると、病室のドアを「失礼しました」と言いながら看護師が閉める。
それを確認した夏侯惇は、もう一度于禁に説明をした。まずは軍から身を引くことだ。今すぐには無理だが、この状況が落ち着けば必ずと。于禁は軍人生活が長く、夏侯惇も同様である。しかし夏侯惇が「もう軍人として充分働いたからな」と付け加えると、于禁の中で大きく腑に落ちていった。確かに、と頷くと次に移住先の中立国について尋ねる。
「では、貴方の仰る、その中立国とは? 幾つか私の中で候補がありますが、貴方としても決まっているのでしょうか」
「決まっていない」
夏侯惇が即答をすると、于禁は「えっ」と声を出す。だが夏侯惇はそれを気にしておらず、自身の詳しい意見を述べていった。
「これからしばらく、俺が思う中立国を様子見してからだ。これから、戦後にどのような態度を取るかによって、候補を絞っていきたいからな」
「はい」
于禁が納得して頷いた。続けて夏侯惇も頷くと「約束だ」と言ってから、立ち上がる。そろそろ、戻らなければならない頃合いらしく。
「今日はありがとうございました」
礼を告げると、夏侯惇は于禁にそっと近付いてから額にキスをした。するとまだ果物の香りが残っていることに気が付いたので、于禁は夏侯惇の唇がとても甘いものになっていると考える。夏侯惇の顎を掴むと、味を確かめるように口付けを一瞬だけした。
「夏侯惇殿、味わいたいので、また明日も」
于禁が自らスキンシップを取ってくれることが珍しいのか、夏侯惇はひるんでしまう。そのまま腰が抜けかけ、呆然としていた。
「夏侯惇殿……?」
「いや、何でもない! 明日も……来るからな!」
一方で夏侯惇の顔が夕日よりも熱くなっているような気がした。于禁はそこで夏侯惇が珍しく照れていることに気付くと、何だか嬉しくなってくる。
「お待ちしています」
そう告げると、病室のドアが閉まるまで夏侯惇を見送っていた。まだ、帰って欲しくはなかったのだが。
この日の夜に、于禁はベッドの上に横になり考えていた。時刻は日にちが変わる前で、廊下は静まり返っている。部屋のカーテンは閉め切られているが、街の煌びやかな灯りにより真っ暗という訳ではない。だが外は時に救急車のサイレンが、うるさいと思えるくらいに鳴り響くときもあった。ここは病院であり、搬送先になることは当たり前だ。長い軍人生活のおかげで特にストレスは無いものの、他の入院患者にとってはあまり良くないことだろうと思っていた。
そして于禁はまた考え直す。夏侯惇が共に軍を辞めると言っても、簡単にはできない。特に夏侯惇は、曹操の右腕となる人物である。曹操がそれを許さないだろう。だが夏侯惇は于禁にはっきりと軍人生活を近い内に終わらせると言った。可能なのだろうかと、最近はあまり働かせていない脳で考える。
現在は負傷者が多数の為に、そして混乱の収束の為に精一杯だ。本来ならば于禁もそれに駆り出される予定であったが、激戦地で戦闘をしており軽いとは言え怪我をしている。それに、睡眠不足と緊張から来るストレスの痕跡も見つかっていた。なので病院側がストップを掛け、今のような状態だ。
しかし夏侯惇の選択が、それなのは何故なのかと思った。ここから中立国へと出て、二人で暮らことを。ここから出なければ、安全はまだ保障されている。それなのにどうして中立国なのか。
于禁は悶々としながら、明日も来ると言っていた夏侯惇の話を待つことにした。

次に夏侯惇が見舞いに来たのは、夜のことである。書類の片付けなどに追われていたのか、かなり疲れた顔をしていた。ベッドから起き上がった于禁は「あまり無理をなさらず」と労わるように言うが、夏侯惇は頭を軽く横に揺らす。
「いや、今は休むことはできない……」
椅子に座るなり、夏侯惇は溜息をつく。曰く、他国との新しい条約、それに既に締結している条約の見直しなどで多忙を極めているらしく。ここで于禁は自身が休んでいることが、とても腹が立った。しかし病院から動くことを止められており、軍からも完治するまでは復帰をするなという命令が下されている。現に、今の体調の于禁が復帰しても足手まといになるのは明白だ。
眉間に深く長い皺を寄せると俯き、白いシーツや水色の病人の象徴である患者衣を眺めた。それらの色を見て今の自身は、どう足掻いても何もできないと思いながら。
「俺のことは心配するな。それより、お前は怪我と安静のことに集中していろ。復帰したらこっちはこき使いたいからな」
于禁の苦渋を吹き飛ばすように、夏侯惇が言う。なので于禁の眉間が少しはすっきりしたものに変わっていった。
「それより、次はお前が剥け」
そう言いながら夏侯惇が立ち上がると、于禁に手を差し伸べる。
「安静にしなければなりませぬが」
「これくらいはしてもいいだろう。リハビリだ」
「……仕方がありませんな」
二人の雰囲気が軽くなっていくと、于禁の体さえも軽くなっていくように思えた。なので差し伸べられた夏侯惇の手を取り、そっとベッドから降りて立ち上がる。松葉杖はまだ必要だが、于禁はそれを使わずに夏侯惇の体に体重を預けた。
「重いな……」
そう言いながらも、夏侯惇は于禁の体を支える為に腰に手を回す。すると自然と顔が近付いていったので、于禁は昨日ぶりの口付けをそっとした。
「この先は毎日、幾らでもできるだろう……?」
「はい……ですが貴方はやはり……この国の軍にとって必要なのでは?」
昨夜考えていたことを、ぽつりと口にした。それに対し夏侯惇は、機嫌を悪くすることなくいつもの調子で答える。
「だからこそだ。さっさと次の世代に託してしまいたい」
「ですが……」
「孟徳には昨日話した。勝手だが、お前のこともだ。お前は俺と、必ず同じ場所で生きて貰う。そして于禁が軍に復帰して、情勢が落ち着いたらもう身を引けと言っていたが、嘘ではない。だが引いた後のことは、もう構ってはくれないがな」
腰に回された手の力が、心なしか強く込められた気がした。于禁は向けられる夏侯惇の眼差し、それに空気により次第に納得していく。
「貴方がそう仰るのであれば」
深く頷くと、夏侯惇の手が緩んだ。そこで于禁がバランスを取れなくなると、床に転倒しかけた。夏侯惇は慌てて于禁の体を支え直すと、笑いながら于禁を洗面台まで歩く。
「……私は久しぶりに果物の皮を剥くので、上手くできるか分かりませぬが、これから練習していく故」
辿り着いてから手を洗い始めると、夏侯惇は「教官は俺に任せろ」と言って近くにある手拭き用のタオルを差し出す。受け取った于禁は礼を言いながら洗った手を拭き、ベッドに戻っていく。
ベッドの縁に座ったところで夏侯惇が果物が入っている籠と、それに持ち手の方が向いている折り畳み式のナイフを渡した。于禁の膝の上に新聞を敷いてから夏侯惇は椅子に座る。
于禁がナイフを持つと、赤い果物を一つ取り皮に刃の部分で触れた。ナイフが相当に切れ味が良いのか、しゃりと音が鳴り、実の部分が露出する。果物の甘い香りが広がり、于禁は更にナイフを動かしていった。果物の皮が、一本の細い紐のようになっていく。それを近くで見ている夏侯惇は「上手いぞ」と褒めてくれている。だが途中でどうしても果物の水分で手が滑っていくので、夏侯惇に助けを求めた。やはり、ナイフで果物の皮を取り除くという作業があまりにも久しぶりなのか。
「分かった。あとは俺がやる。ここまで剥いてくれて助かった」
そう言い椅子から立ち上がると、洗面台で手を洗ってから剥きかけの果物を受け取った。その後にナイフも。
器用に螺旋状に剥いていくと、あっという間に実だけになる。于禁はそれを見てから夏侯惇の顔を見ると、早く食べたいと勘違いされたらしい。急いで手の平で切り分けた後に、夏侯惇が一切れを摘まんで于禁の口に持っていく。果物は熟しているので、とても甘い。
「とても美味しいです……」
満足そうに咀嚼をした後に、急に恥ずかしくなったのかそれを止める。しかし夏侯惇は「可愛らしい」と嬉しそうに言った後に、于禁に続けて一切れを食べた。感想は于禁と同じなので、咀嚼はすぐに終わってごくりと飲み込んでいく。
残りも二人ですぐに食べてしまうと洗面台で手やナイフを洗い、ナイフはすぐに拭き取ってから懐にしまう。そして手も拭いてから、于禁がまたもや口付けをした。
「甘い……」
唇をすぐに離すとそう呟き、夏侯惇の頬に手を添える。今思えば久しぶりに触れたのだが、前とは触り心地が異なった。髭がぼさぼさとしているが、ただ単に夏侯惇は自身とは違うが髭の手入れをする暇がないだけだ。于禁は顎を指でなぞった後に、手を降ろしていく。
「こうして貴方と会う度に、まだ居て欲しいと思うのは、わがままでしょうか……」
「俺も同じだ……だがそれは、今は我慢しろ」
降りた手を夏侯惇が掬うと、それを両手で包み込んだ。つい先程手を洗った筈なのに、手がかなり暖かい。その温もりが于禁の手に広がると、こくりと頷いた。
そして夏侯惇は数分後に、軍の方へと戻って行ったのであった。明日は来れないかもしれない、と申し訳なさそうに言いながら。夏侯惇の言う通りに、次の日は来なかった。于禁は寂しげに小さなテーブルの上に置いてある、一つだけ残っている果物の籠を見つめる。

そして次の日になると夏侯惇が見舞いに来た。本日も晴れで、空は真っ青だ。時間帯は昼過ぎだが、夏侯惇はいつもの軍服姿ではない。私服姿であり、昼食を取っていないと言う。今日は午後から非番で、すぐに于禁の元に来てくれたのが一目で分かって内心で嬉しく思っていた。
于禁は既に昼食を十二時を少し過ぎた頃に済ませているので、于禁は病院内のレストランに行こうと誘う。そこは院内にあるのでドレスコードは普通のレストランのように無いうえに、患者衣を着ている患者も多数出入りしているのが当たり前である。なので于禁がそれを提案した。患者衣から着替えることができないが、そこなら夏侯惇を巻き込んでも浮くことはないからだ。
夏侯惇は勿論と頷くと、于禁の近くに松葉杖を持ってくる。于禁が礼を述べながら立ち上がり、松葉杖をついて夏侯惇と共に病室を出た。並んで歩く。
そこで近くを通りかかった看護師に「院内のレストランに行く」と一言伝えてから、レストランに向かう。だが于禁はまだ松葉杖で移動することには慣れていない。夏侯惇はその様子を確認すると、いつもより歩幅を小さくしていった。
于禁の病室は最上階に近い階層にあるが、院内のレストランはその上の最上階にあった。しかし隣に軍の施設があるので、医療施設の最上階にレストランがあるのは危険なのではないかと思えた。それは周辺国に守りが固いということのアピールで、最初は市井の大半はそれに反対していた。しかし軍が言う通りに守りが固いことを実際に証明されると、反対の声はぴたりと止んだのだが。
最上階のフロア全体がレストランである。エレベーターで昇っていくが、二人はここに用事を作ったことがない。初めてこの階層に来た。ほぼ全面が窓ガラス張りで周りに街のビルの屋上や最上階が見えるが、軍の施設側はキッチンのフロアでわざと見えなくしてあった。いくら院内のものとはいえ、一応はレストランだからなのだろう。入ってすぐ横に受付があり、そこから少し進むとホールだ。白い布に被せられたテーブル、それにシンプルなデザインの椅子がセットになって等間隔に並んでいる。
受付から離れてホールに居るスタッフが二人の存在に気付き、空いている席に案内していく。窓際ではないが、二人にはこだわりはないらしい。今の時間帯や空模様からして、ほぼ満席である。ここはあまりにも街の見晴らしが良過ぎる。なので于禁は他の場所の現在の惨状など、夢のように思えてしまっていた。
周囲の利用客は、二人のような組み合わせが多い。中には、一人も患者衣を着ていないグループやペアも居る。
他のホールスタッフが着席した二人にそれぞれ同じメニューを渡すと、ワイングラスに入った水を丁寧に置く。そして柔らかい対応の後、すぐに立ち去った。
「……そういえば、久しぶりにお前と食うことになるな」
「そうですな」
メニューと前を交互に、二人は見ていく。
このレストランはかなり評判が良いのは知っていた。夏侯惇はどれが良いか全てのメニューから選んでいく一方、于禁はあまり空腹ではないので軽食のページのみを眺めている。そこで夏侯惇が先に決めると、于禁は少し遅れてから選んだ。本来ならば二人揃ってフルコース料理が妥当だが、ここは院内のレストランである。そのようなことなど、気にしなくても良い。于禁はそれをありがたく思いながら、ホールスタッフを呼んで注文していく。
そして料理が提供されるまで、二人は静かに会話を始めていった。
「今日は午後から非番だから、昼食が終わったら、病院の敷地内で散歩に行こう。今日は天気がいい……って何だか、年寄りみたいだな」
自身でそう言ったのにも関わらず、夏侯惇はおかしそうに笑う。于禁は「貴方も私も、まだその年には遠いですが」と頬を膨らませた。それでも夏侯惇は笑いが収まらないのか腹を抱え、周囲の音に搔き消されながら笑い声を出していく。
「すまんすまん。笑い過ぎたな」
すると于禁までもつられてだが笑みを零すと、夏侯惇がそれを見て考えた後に口を開いた。
「お前には、今の表情が似合っている」
指摘された瞬間に、于禁の顔はいつもの険しいものにすぐさま戻っていく。夏侯惇はそれを名残惜し気に視線を寄越してから、ふと気が付いたことを呟く。
「俺たちが一般人であれば、このような会話を今までも、何回もしていたかもしれんな……」
そこで夏侯惇の視線が、于禁から逸れていった。軍人として過ごしていた日々のことを、思い出していたのだろう。過酷な訓練や、そして軍事作戦の最中のことまで。
于禁も同じような記憶を脳内で手繰り寄せると、ふと言葉を漏らす。
「ですが、私たちが一般人でなければ……今頃は貴方とは出会うことは無かったと思いますが」
夏侯惇の視線が、于禁の方に一気に戻っていく。そして少し考えてから于禁の言葉に納得すると、夏侯惇は大きく頷いた。于禁の言葉に賛成している様子がよく分かる。
「……そうだな、すまん。奇妙なことを言ってしまったな」
「いえ、奇妙だとは思いませぬ。貴方という、とても素晴らしい運命に恵まれ、私は幸せです」
「ありがとう」
綺麗な青空に相応しいような、于禁としては眩しい笑みを夏侯惇は浮かべる。その光は鋭い輝きはないが、蝋燭の火のように仄かに暖かい。
そうしていると、オーダーした通りの料理がそれぞれ運ばれてくる。特に夏侯惇は空腹だったので、あっという間に平らげていったのであった。この空間を楽しむことの優先順位が低いのか。
一方で于禁は小さなサンドイッチとホットのブラックコーヒーを頼んでいたが、食べ終えるのは同時である。
「美味かったな。お前が退院するまで、時間があればまた行こう」
「えぇ。ですが次は、外の景色を楽しみながらでも」
「言うようになったな」
二人はそう賑やかな会話をした後、レストランを出た。混雑はまだ続いているので、フロア全体が人だらけである。二人はそれを見ながらエレベーターに乗り、まずは于禁の病室がある階層を目指した。到着すると二人は一旦、エレベーターから出る。于禁は近くにいた看護師に病室番号と敷地内であるが外に出ることを伝えてから、夏侯惇と共にエレベーターに再び乗り込んで一階へと降りていった。
玄関を出ると外はひんやりとした空気の中に、暖かい日差しが混ざっており寒いということは無い。夏侯惇は患者衣姿の于禁が寒そうにしていないことを確認してから、一つ安堵した。
「……さてと歩くか。俺は、食後の運動にな」
夏侯惇が言葉の最後を強調していると、于禁は松葉杖をつくのに慣れてきたらしい。わざと狭くしていた夏侯惇の歩く速度に、容易く追いついてしまう。それを見た夏侯惇は、歩幅を徐々に広くしていった。
この病院の敷地は本当に広いので、二人は目に付く場所を手当たり次第に歩いて行く。憩いの場として手入れがよくされている庭、小さな並木道、それに街の景色のみが見えるベンチへと。二人にとってはそれらの景色が珍しいと思えたのか、辿り着いては空を見上げて口を僅かに開く。
「脚が痛くはないか?」
夏侯惇にきちんと着いて来ている于禁に、ふとそう訊ねた。于禁が「大丈夫です」と返すと、夏侯惇は「それなら良かった」と言って最後の目的地であるベンチに並んで腰掛けた。前方には白く小さな噴水があり、それを二人は眺める。
「……明日は、いつ来て頂けますか?」
「明日は来れるかは分からん。だが来れるとすれば、夕方か夜だろう」
夏侯惇は返事と共に、于禁の膝に手をそっと置いた。前のように触れ心地の変わらない感覚に、つい深く撫でそうになる。それに気付いた于禁は、夏侯惇のその甲の上に手を乗せる。
すると于禁が今にも子どものように泣きそうな目になっていく。自分でも分からないが「寂しい」という感情が、あまりにも大きくなってしまったのだろう。それを見て穏やかに口角を上げた夏侯惇は、その于禁の瞳を見ながら宥めるように声を紡いだ。目の前の子どもを、あやすように。
「大丈夫だ。時間があればお前のところへ見舞いにくる。俺が嘘をついたことがあったか?」
于禁が無言で首を横に振る。なので夏侯惇は空いた手で于禁の頭を撫でながら「約束しよう」と告げてから、手を降ろした。そして先程よりも暗くなった空を数秒見てから、于禁に病室に戻ることを促した。太陽が雲に隠れてしまい、冷えると思ったからだ。
そして気付けば冷えている、同時にそう思った于禁は次は無言で首を縦に振る。夏侯惇はその反応を見てから立ち上がり、次に立ち上がった于禁に松葉杖を渡す。
「あと一つ、果物が残っているだろう? 食後のデザートを俺はまだ食っていない」
夏侯惇がそう言うと歩き出した。並んで歩いている于禁に問題は全く見えない。途中で夏侯惇は歩幅を幾ばくか緩めることを意識しながら、于禁の病室に戻って行った。
そして病室に着くと夏侯惇は早速、籠から最後の果物を取り出してからナイフで皮を螺旋状にしながら剥く。果実がむきだしになると小さく切り分け、于禁と二人で食べていったのであった。その時の于禁の目は、外のようにとても晴れやかでいて。

約一か月後に、于禁は無事に退院できた。
もうすぐ空けなければならない病室にて、于禁は患者衣ではなく軍服の袖や裾に久しぶりに体を通す。しかしそれが数年ぶりだと錯覚してしまっていた。最後にぎこちなくボタンを全て留めると、自身の中で違和感を覚えながら少ない荷物が入った鞄を持つ。
今日の天気は曇りで、日差しはない。秋が深まっている季節に入っているので空気が冷たく、于禁は軍服だけでは凌ぐことのできない寒さに震えた。入院するまでは、このようなことなど平気であったのに。だが今日は夏侯惇は忙しいらしく、軍の施設少しでも私用で会おうと数日前に話していた。なので、余計に日差しなどの暖かさが恋しいと思えた于禁である。
松葉杖が無くとも歩行に問題がないので、そのまま病院から出た。軍の施設まではすぐそこである。于禁は日中でも暗い空を、見上げながら向かっていく。軍服にある、幾つもの勲章などを揺らしながら。
ものの数分で到着すると、強固な入口に居る巡回中の兵が敬礼をした。于禁の退院日とそれにここを通ることを知らされていたからか。なので于禁は短い返事とともに、兵たちに見送られながら巨大な建物に入っていく。
軍へと『帰る』なり、すぐに曹操がわざわざ出迎えてくれた。場所は一階部分である。
そこで気が付いたのだが、曹操の軍服の肩章や勲章が一番最後に見たときよりも派手になっている。傍らには護衛の兵が居るが、夏侯惇の姿はない。于禁はそれを気にしながらも、素早く敬礼をしたつもりであった。しかし一か月の間で体が鈍ってしまったのか、数秒だけ思ったよりも遅くなってしまう。于禁はそれについて謝罪をするが、曹操は「構わん」と言って謝罪の内容を不問にした。退院直後だということを配慮してくれたらしい。
于禁は敬礼を解くと背筋をより一層伸ばしてから「ただ今、復帰致しました」と言うと、曹操は「無事で何よりだ。復帰を待っていたぞ」と返してから立ち去る。曹操本人が言葉を付け足したが、この後は大事な会談があるので急いでいると言う。
曹操は護衛の兵たちと共に建物内の、一階部分の会議室が並ぶ方向へと歩いて行く。そこで最後にと、于禁に曹操は護衛の兵たちをその場に一時的に待機をさせてから耳打ちをする。
「……あとは、二階に居る『奴』に聞け」
終えるとすぐさま曹操は姿を消した。そして曹操の言う『奴』とは誰のことを示しているか分かった。于禁はかなり遅れて返事をしようとしたが、当たり前のように曹操は居ない。だが曹操が向かった方向へと、短い敬礼をすると于禁は階段を駆け上がった。久しぶりの激しい運動と呼べるので、すぐに息切れをする。
「何をしている。俺に着いて来い」
夏侯惇が仁王立ちをして、更に腕を組んで待っていた。于禁は息切れをしながらもすぐに敬礼をするが、夏侯惇はただ「ああ」と呟いてから于禁に着いて来るように促す。于禁は、夏侯惇の後ろに何も言わずに着いて行った。
「まずはお前が入院している間に溜めていた書類だ。この先の資料室に全て保管してある」
長い廊下を歩きながら、夏侯惇が前を見ながらそう言う。于禁はその背中に向けて了解と返事をして、しばらく無言で歩いた。
于禁も知っている資料室に辿り着くと、二人はそこに入る。部屋はかなり大きく、まるで図書館のようだった。二人の他に他に軍の者が数人居て、数々の敬礼を見ながらとある扉つきの棚へと淡々と歩いて行く。扉には鍵がかかっているので、夏侯惇がポケットから鍵を取り出して解錠した。
「これが全てお前の分で、締切があるものは来月までにだ。何か質問はあるか?」
「いえ、ありませぬ」
夏侯惇が開いた扉には、数束の書類があった。中には、茶封筒に入っているものもある。確認した于禁はそれを纏めて手に持ってから抱え、夏侯惇がそれを見た後に二人は資料室に出た。
そこから二人は別れ、それぞれすべき事を行っていく。
溜まっているほとんどの書類は他国間の新しい条約についてや、これから締結される予定の条約についての書類が主だった。内容に目を通しておくものらしい。この紙の束をみると、于禁は本当に戦争が終わったのだと実感する。次は一般人の目線ではなく、軍人としての目線で。
軍にある自室にも久しぶりに戻り、于禁は椅子に座って机の上でそれを広げて見ていた。軍人としての訓練は明日からなので、于禁は今日は一日特にすることがない。現在の時刻は昼過ぎ。なので一通り書類を確認した後に、夕方から武器庫で銃の手入れでもしようと思っていた。そこで部屋の扉から軽いノックが聞こえたので、于禁は口を開こうとする。扉の向こうから夏侯惇の声が聞こえたので、急いで立ち上がってから扉へと小走りで向かった。
「夏侯惇殿!」
あまりの勢いに、于禁は夏侯惇の胸に飛び込む。驚いた夏侯惇は、背中から倒れるところだった。
「……おい! 危ないだろう!」
弱い溜息をつきながらも、夏侯惇は嬉しそうである。于禁はそこでハッとしたのか「失礼致しました」と言ってから、夏侯惇を部屋に入れてから扉を閉めた。その直後に、夏侯惇から仕返しにといきなり飛びつかれる。于禁は気を抜いていたので、背中から床に倒れてしまった。
「おかえり」
ゆるりと笑みを浮かべた夏侯惇は于禁と唇を合わせる。瞬間に于禁が舌を出すと、夏侯惇はそれを大いに迎えた。唇を開き、于禁の舌の侵入を許したのだ。ぬるりと入れた先の、夏侯惇の口腔内の感覚がとても懐かしいと思えた。于禁は夢中で夏侯惇の歯列などを、場所を思い返すようになぞる。夏侯惇がくぐもった声を出したところで、于禁の両肩をバシバシと叩いた。
何かと反射的に舌での拘束を解いた于禁は、夏侯惇の顔を見る。夏侯惇の顔が少し前に見た時のように真っ赤に染まっていくのが見えた。そこで見舞いに持って来てくれた果物の赤色を思い出した于禁は、夏侯惇の頬に口付けをしてからふと呟く。
「貴方は甘い」
「ッん……何がだ……」
夏侯惇はよく理解ができなかったうえに、呼吸が乱れているので整えることに意識を向けていた。なので疑問を浮かべながら質問をするが、于禁は答えるつもりがない。首を横に振りながら「いえ、何でも」と言うと夏侯惇の後頭部が見えてくる。
「……後でいい」
不貞腐れた声を、夏侯惇は出す。于禁がどうして「甘い」と呟いたのか、分からないからだ。それでも于禁は答えないでいると、夏侯惇が少しは赤色が引いている顔を上げた。どうやら、今から立ち上がるつもりらしい。
于禁は夏侯惇が立ち上がることができるように補助をした。単純に、夏侯惇と手を繋いで指を深く絡めただけなのだが。
「すまん、今日は俺は孟徳の護衛等をしなければならないから、明日以降のところでまた会おう」
夏侯惇が立ち上がると、于禁も起き上がってから立ち上がる。二人の顔の距離は、かなり近い。
「……はい」
名残惜し気に、二人は絡めていた指を離す。だがその瞬間に夏侯惇が最後にと、于禁と触れるだけのキスをした。
「ではな」
そしてあっさりと踵を返した夏侯惇は、そのまま于禁の部屋から出たのであった。

于禁が軍に復帰すると、軍人としての訓練を再開する。しかし久しぶりになるので、相当に厳しいと于禁は思った。それに耐えながらも、細かな軍務をこなしていく。すると曹操から時折にだが、直々に書類が回ってくることもあった。于禁はその理由を何となく悟っており、身を引くつもりであれば相応の仕事をしろと。そう考えた于禁はまずは再び慣れなければならない訓練と、様々な軍務をこなしていった。
そうしている間に気が付いたのだが、戦争後の各国の対応がよく分かった。于禁としては、軍から身を引いた後に暮らすのに適している中立国を見つけたからだ。あくまでも候補となるが、この国から少し離れてはいる。しかし気候はほぼ同じで、治安は良いとは言えないが安定していた。
于禁はその国の名前や地名などを紙片に素早く書いていくと、夏侯惇に会える時間は未定だが楽しみにしていた。だが結局は、夏侯惇と会うことができたタイミングは五日後の夜である。
この日も夏侯惇は曹操の護衛などをしていて、なかなか時間を作ることができなかったらしい。唐突に夏侯惇から部屋に呼び出されていた于禁は、不満の声を一つも出さなかった。今の時勢からして、仕方がないと思ったからだ。
于禁は前にメモをしていた紙片を軍服のポケットに入れ、それに書いた内容を部屋に入るとすぐに夏侯惇に話し始める。室内は微かな灯りが点いており、夏侯惇の姿はぼんやりとしていた。于禁はそれを探るように手を伸ばし、夏侯惇の腕に触れる。于禁の心の底から、安堵が浮上してきた。
「あの、夏侯惇殿、私から見て良いと思った移住先を見つけたのですが……」
「俺もだ」
夏侯惇がそう返してから国の名前と地名をすぐに出すが、于禁が思っていた場所と完全に同じであった。聞いた後に驚き、そして笑うと自身も同じ意見だと述べる。
「同じ場所を撰んでいたのか。では、そこにしよう。退役できる時期は、まだ未定だがな」
于禁の腰に手を回すと、愛し気に背中へと上がっていく。そしてそのまま、于禁の後頭部に辿り着くと髪を柔らかく撫でていった。普段のような軍人らしいはっきりとした返事が于禁から出て来ず、このときはとても優しい声が出る。夏侯惇は自身よりも少し上から聞こえるその返事を聞き、頭を上げた。
その瞬間に于禁の唇が頬に触れ、次第に夏侯惇の鼻に移動する。最後にと口に移動をすると、軽いキスをした。今の状態では深いものはできないので、不満を埋めるように軽いものを何度も何度も。
「そろそろ、行かなければならない……」
すると夏侯惇から顔を離し、悔しげにそう言うと于禁はあっさりと引いた。だが代わりにと片手だけを取って繋ぐと、指を絡める。夏侯惇の手がびくりと大きく動いた後に、力が一気に抜けていった。
「次は、いつ会えますか……」
「分からん。だが、退役するまでの道は、もうすぐ見えるだろう」
ゆっくりと夏侯惇が指を小さく動かし、于禁に離すように促す。于禁は仕方がないと言うように離していった。俯いた于禁は自身の手を見ると、夏侯惇はそれを見てくすりと笑う。
「ほら、早く働け。そうしなければ、いつまでも軍から身を引くことはできないぞ?」
「……はい」
更に暗くなった室内から、二人が出るとそれぞれ違う方向に歩いて行った。
そこで于禁は、いつか進む道が螺旋のように必ず同じになると信じながら。