消えないものをもう一つ携えて
ある日の夕方、夏侯惇が城内で怪我をしたとの情報を夏侯淵から聞いた于禁は、急いで侍医の治療を受けている医務室へと駆け付けた。
その情報を聞く前は、于禁は目的の竹簡があったのでとある書庫へと入ったところだった。たまたま居合わせた夏侯淵から心配そうにそう伝えてくると、于禁は目的の竹簡などどうでもよくなっていた。竹簡を持たずに急いで書庫を出て医務室へと向かう。
その時の于禁の表情は、夏侯淵から見てもかなり恐ろしい顔をしていたらしいが。
「お怪我は!?」
医務室へと入った于禁の第一声がそれだった。しかも大きな声であったがやはり、于禁の表情を見て震える侍医はかなり遠慮気味に注意した。医務室であるここでは静かにして欲しいと。それに対し于禁は申し訳無さそうに謝るが、表情は微塵も変わらなかった。
すると治療を終えて腕を布などで固定している状態の夏侯惇が、椅子に座っているのが見えたので于禁はずいずいと向かって行く。だが夏侯惇も于禁の表情が恐ろしいと思ったらしく、顔を一瞬だけ青くさせると思わず目を逸らした。于禁は構わず膝を落として視線の高さを合わせる。
「夏侯惇殿……」
「心配をかけてすまんな。大したことはない。右腕の骨に少しヒビが……」
「腕を!? ご無事ですか!?」
夏侯惇は自身の怪我について、特に困ったような様子なく説明しようとする。しかし于禁は『骨にヒビ』という言葉しか残らなかったらしく、慌てて説明を遮ってしまっていた。勿論、心配してくれるのは有り難いと思っているが。
「最後まで聞け」
途端に夏侯惇は呆れ気味になりながら、于禁にきちんと説明をする為に怪我を負った範囲を指で差して示すが、その範囲はそれなりのものだった。おおよそ、夏侯惇の手の平くらいといったところだろう。しかし侍医による、触診での患部の範囲の特定が限界であったので、あくまでも大まかな範囲と言ったところだが。
そして怪我をした状況なども説明した。軽い疲労状態の中で庭を歩いていたところ、石に躓いて転倒してしまったからだ。そのときに反射的に右腕が出て庇って硬い地面に打ち付けてしまったせいで、ひびが入ったという。
その結果、侍医による診察や治療を終えても動かすと痛いので、しばらくは剣を握ることを控えるよう忠告されたが。
「歩けますか? 立てますか?」
「足ではなく、腕を怪我したと言っているだろう」
于禁の表情はずっと変わらないが、その言葉に苛ついてきた夏侯惇は鋭く睨み始める。その二人の様子を見た侍医は、かなり恐ろしく感じたらしく「用事がある」と震えながら言うと医務室を出た。なので医務室で二人きりになる。
するともういい、と言わんばかりに夏侯惇は椅子から立ち上がるが、于禁はそれを制止した。
「お待ち下され! ここから出てしまえば、あなたとしては脅威となる……」
「お前は何を言っている」
溜息をついてきっぱりとそう言った夏侯惇は、于禁を放って医務室を出た。一旦、用があって私室へ戻るためだろう。だが于禁に目的地を伝えずに「着いてくるな」とだけ付け加えて。
しかし于禁はそう言われてもなお、夏侯惇へと大股で歩きながら、どこへ向かうとも知らずに着いて来る。それも先程よりも凄まじい形相で。夏侯惇はそれを見ると、于禁から逃げるように早歩きになった。だがその際に右腕を庇いながらであるので、早歩きをするのは少し難しいらしい。
「着いて来るなと言っただろ」
夏侯惇は怒り気味に于禁にそう言うが、于禁は相変わらずの凄まじい形相である。傍から見たら、二人が険悪な関係であると思える程に。実際は二人はそのような関係ではないのだが。
「放っておく訳にはいきませぬ」
だが早歩きでもなお夏侯惇は、于禁から離れようとするが容易く追い付かれるのは明白であった。なのですぐにそれを諦めたのか歩く速度を急激に緩めると、于禁の歩く速度も緩んでいった。同時に于禁の表情も少しは緩んでいく。
すると二人は通常の歩行速度になっていき、しばらくすると並んで歩いて短い会話を交わし始める。そのときには、夏侯惇の私室に近付いてきていた。
「……俺は部屋で着替えて来るが、入って来るな」
夏侯惇は仕方なく目的地と用事を伝えると、于禁はコクリと頷いた。無論、入って来るなという言葉に対してではなく。
「お手伝い致します」
「手伝いなどいらん」
夏侯惇は即答する。だが于禁は食い下がるように再び「手伝う」と言ってくるので、夏侯惇はそれを断った。そのやりとりを数回繰り返していくうちに、夏侯惇の私室の前へと辿り着く。夏侯惇は于禁へ再度「入って来るな」と言うが、それに従う気は無いようだ。于禁はずいずいと部屋に入って行ってしまう。そこで夏侯惇はもう止めるのを諦めてしまった。
私室へと入ると、于禁は冷静に夏侯惇を壁に詰め寄せてきた。先程の凄まじい形相はほぼ消えているが相変わらず、厳格な性格そのものを現す顔つきは変わらない。
「……って、おい! 近いな!」
夏侯惇は于禁と向かい合っているが、背後には壁があり物理的には完全に挟まれている状態である。それに二人の距離は近く、夏侯惇が両手の前腕を何とか前に出せるくらいで。
「あなたが心配で。それより、着物を脱いで下され」
「おい、言い方」
「では私が脱がせますゆえ」
「どうしてそうなる」
夏侯惇はまだ自分で着物を脱いだ方が幾分か良いと思い、于禁にそう伝えると頷きが返ってくる。
「腕は動かせますか?」
「今更だな」
その時には夏侯惇は自身の着物に手をかけていたが、于禁はその様子をまじまじと見る。着物を脱いで素肌すら見せていないのに、夏侯惇は次第に恥ずかしくなったらしく顔を少し赤らめた。
「……あまり見るな。何だか、恥ずかしいだろう」
「今更ですな」
夏侯惇は于禁の返事を聞き、額に青筋を浮かべた。確かに、衣服を脱いでいる姿など于禁に何度も見られてはいるが。
すると于禁は何か解決策を思い付いたらしい。夏侯惇にとある提案をした。
「では、貴方が目を瞑れば良いのでは?」
「それはこっちの台詞だ」
ごく当たり前な返しをした夏侯惇は、于禁のみぞおちでも突こうと考える。だが左手しかまともに使えないし、相手は于禁であるので的中するかも分からないので止めた。
「……分かりました。では私があなたを脱がせます。ご安心を。嫌なことは極力、致しませぬ」
「何だその言い方」
こうして于禁は夏侯惇の着物を脱がせた後に手を止めると、中腰になって腰のあたりへと顔を近付けた。どうしたのかと夏侯惇は言おうとしたが、それは微かな痛みによって阻まれた。于禁の口で、夏侯惇の腰のあたりに赤い痕を一箇所、濃いマーキングをするようにつけたからだ。
「……ッ! お前、最初からそのつもりだったのか……!」
夏侯惇は顔を真っ赤にしながらそう訴えたが、于禁はそれを無視してから新しい着物へと慣れた手付きで着せていった。于禁の表情は、全く変わらないままで。
「当たり前でしょう。では、お召し物を脱がれる時があればいつでも、私を呼んで下され」
「いつでも」という部分を少し強めに言った于禁は、夏侯惇の私室からすぐに退出する。一人残された夏侯惇は、顔の赤みが引かないまま「独占欲の強い奴め……」と呟いたが、その言葉はすぐに消えていったのであった。