星は速い
架川はある日が沈みかけている夕方に、刑事課のフロアの自席に向かって深く悩んでいた。
その原因は、隣の席の蓮見のことである。今は梅林と短い時間だが捜査に行っているので不在。しかし同じ場所に居ても架川はどうにも口に出せないのか、椅子にだらしなく座り、遂には腕を組みながら白い天井を見上げ始める。
「どうしたんですか?」
架川と蓮見の隣の席に座っている、水木がそう尋ねる。今は特にやることが無いらしく、デスクの上のノートパソコンでニュースサイトを閲覧していた。架川はそれをちらりと見た後に「何でもねぇ」と呟くと、刑事課のフロアの近くにある自販機で缶コーヒーを買う為に立ち上がる。相当に、手持ち無沙汰なのだろう。
だがそこでちょうど、蓮見が署に帰って来た。自分の席に座り、机の上で閉じられていたノートパソコンを開く。架川はあまりのタイミングの悪さに驚いた顔をしながら、席に座り直してしまう。水木はそれを不思議そうに見た後に、隣の席に戻った蓮見を挟んで架川に話し掛けた。
「あれ? 架川さん、さっきから本当にどうしたんですか?」
「いや、何でも……」
架川は先程と同じ言葉を吐こうとした。
だがノートパソコンのホーム画面が表示されていることを確認した蓮見は、水木と同様の表情を見せる。それも、出した言葉も同じであった。なので言葉を打ち切ってから、今は不在の矢上の席を方へと架川が視線を逸らす。蓮見は首を傾げながら、水木に架川の様子を聞いた。しかし水木も分からないので、分からないと答える。
「架川さん、体調が悪いんですか?」
次第に心配になってきたのか、蓮見は覗き込むように伺う。水木は顔だけを蓮見と同じ場所へ向けると、架川は大きな溜息をついた。
観念をしたのかのように、視線を二人の方へ注ぐ。
「何かこうな……最近は何も事件が起きねぇから、暇なんだよ……蓮見、桜町中央署はいつもこうなのか?」
架川としても言いづらいことだったのか、控えめに発言をした。それに対して蓮見はこくりと一つ頷く一方、水木は「良いじゃないですか」と満面の笑みを浮かべる。不満は無さそうだ。警務課ではなく刑事課に配属されたので、やはりやる気が無いのだろう。
ぐったりと脱力した架川だが、蓮見は「ここは警視庁本部ではないので」ときっぱり言う。確かにそうだがと、架川は次に小さな溜息をついた。すると何かを思い出したのか、架川は得意げな表情を浮かべながら口を開く。
「俺が若い頃はなぁ……」
しかし水木がそれを遮ると、自分の話を始めた。
「あっ、架川さん! 若者の前で若い時の話をするのは良くないですよ。よくそれが鬱陶しいって言われるんですよ。こないだ私の友達がそれで……」
「……水木さん、水木さん! 架川さんが凄いダメージを受けてるから、もう止めてあげて」
蓮見が水木の話を急いで止めてから、架川の方をがばりと見る。だが架川の精神に多大なダメージを受けたのか、目が死んでいた。それを見てようやく水木は事態に気付いたのか、椅子から立ち上がって架川の近くに立つ。そして頭を下げながら謝罪をすると、架川は目が死んだままで「いいから……」と水木の頭を上げさせていた。
「あの、架川さん……大丈夫ですか?」
再び顔を覗いて架川を案じる。しかし架川はすぐには立ち直れないらしく、遂には顔を突っ伏していた。蓮見はその架川の様子を見るが、掛ける言葉が見つからないので項垂れる。
それを申し訳無さそうに見た水木だが、何かを思い出したのか一旦自席に戻る。鞄を探って何かを取り出すと、それを持って架川の元に戻っていった。水木はおずおずと、持っていた物を差し出す。
「あの架川さん……そういえばこれ、好きそうだなって思って今朝、持って来ていました。よければ受け取って下さい」
水木が架川に渡した物とは、黄色い縁がある星型のサングラスだった。いわゆる『よくパリピがつけている物』である。顔を上げた架川はそれを見るなり、とても嬉しそうに受け取った。先程の暗い顔など、嘘のようだ。
蓮見はそれを見て、すぐに心配して損をしたという顔をする。
「えっ!? いいのか!?」
「は、はい……」
予想斜め上の架川の反応に、水木は引き気味になった。多少は喜んでくれると思ったのだろう。しかし架川は喜んでくれているので、これ以上は何も言わないようにする。
すると受け取った星型のサングラスを、架川はここで掛ける訳にはいかないと大事そうにスーツのポケットに仕舞う。
「……どこで、仕入れた?」
そこで架川は真剣そうに、先程のサングラスの入手場所を水木に聞く。だが水木はその真剣な様子を感じ取らなかったのか、かなり呆気なく答える。
「近くのゲーセンです」
出てきた場所は、架川にとってはあまり馴染みがなかった。
なので疑問を浮かべて「ゲーセン?」と復唱しながら、懐に仕舞っていた星型のサングラスを取り出す。目を細めてまじまじと見るが、架川にとってはどこかで買った物としか思えない。なので水木の言う入手場所のことは、一旦置いておく。
「勤務時間中は、特にそのサングラスはやめて下さいよ」
蓮見は架川が未だに手に持っている星型のサングラスを指差してそう言うが、架川がすかさず注意をした。
「指を差すな。それに、俺はこんな物ではしゃぐ訳がねぇだろ。それくらい分かってる」
自身に向けられたものだと勘違いしながら、発言を矛盾させていく。怒りが多少は含んでいたが、説得力があまりにも無かった。
「僕はそのサングラスに……もういいです……」
呆れ気味に蓮見が言葉を吐いた後に、矢上が刑事課のフロアに帰って来た。そこで今日はもう上がっていいと告げたので、三人は喜々として帰宅する準備をしていく。
そして三人が足早に署の敷地から出たところで、小さな夕陽が鋭く輝いているところであった。架川が懐から手際良く星型のサングラスを掛ける。蓮見と水木はその素早さに、動揺をしながら二度見をしてしまっていた。「えっ?」と呟きながら。
「『えっ』って言うな。それより、似合ってるか?」
かなりの笑顔でそう言うが、今の架川の服装ではあまり似合っていない。だが本人の表情からしてそのようなことを言えないので、蓮見と水木はぎこちなく「はい」と返した。架川は満足そうに「そうかそうか」と言うと二人を置いて、スキップでもするかのように帰路につき始める。
二人はやはりその星型のサングラスを外させようとしたが、何も思い付かない。
「こんなこと言うのは何だけど、水木さんが渡したから、水木さんに何とかして欲しいかな……」
「えっ?」
「『えっ』って言わない! ほら、早く!」
遠くなっていく架川の背中を顎で示すと、水木は不貞腐れたように返事した。サングラスを外す為の方法も考えないまま、水木が走って架川に追い付く。だが振り向いた架川を見た瞬間に、言葉が浮かぶ。それを脳内で推敲しないうちに発した。
「架川さん! その……もう暗くなるので、その……サングラスは、止めた方が……危ないので……」
「あ? ああ、そうだな。サンキューな」
素直に星型のサングラスを外すと、追い付いた蓮見がぽかんとしている。架川のことなので手こずると思ったらしい。そこで水木から「蓮見さん!」と呼ばれると我に返った。
すると架川が案外簡単に頷いてくれて、水木は気が抜けた。ぐったりと体の力が抜けたが、それに気付いて背筋をしゃきっと伸ばす。日は一層に沈んできており、空には星が見え始めている。
「……それでは、お疲れ様でした!」
元気よく水木が挨拶をすると、踵を返そうとする。家は架川が向かおうととしている道とは反対方向らしい。そこで「おう」と架川が言うが、もはや手癖となっているのか星型のサングラスを掛け直してしまう。
「サングラス! サングラス! 架川さん!」
水木がそう叫ぶが、架川はそれに驚いたらしい。「えっ!?」と言うと水木は「『えっ』って言わないで下さい!」と指摘をして、架川に再びサングラスを外すように言う。そして結局、同じ帰り道である蓮見が別れるまで預かっておくことにしていた。
だが次の日にその星型のサングラスを、架川は持って来ていたのであった。本人曰く「鏡を見たらかなり良い」と、昨日よりも気に入り具合が更に高まっていて。