揺籃の夜
穏やかな空気が流れる夜のことである。于禁は夏侯惇の寝室に訊ねていた。久しぶりに二人きりの時間ができていたが、まぐわいの為ではなくただ純粋に共に睡眠を取る為に。
今の時期の夜は冷えるので、薄い着物姿の二人は寝台に乗るとすぐに布団に並んで潜った。しかし何かを思い出した于禁は、夏侯惇に話し掛ける。
「軟膏を、まだ塗っておられないのでしょう?」
于禁の言う軟膏とは、夏侯惇の失明した眼周辺に塗る軟膏のことである。片眼を失明してから数か月、皮膚の炎症に悩まされていたので侍医に軟膏を処方されていた。処方されてからは悩まされることはすっかり無くなったが、一生処方されるものになってしまっている。
室内の燭台にはまだ小さな火が灯っている。今なら間に合うと于禁は促すが、今は眼帯を外している夏侯惇はとても眠たそうにしていた。夜の冷えが、于禁の暖かさにより相殺されたせいで。
「今日は、いい」
夏侯惇の片方だけ動く瞼は、今にも完全に降りてしまいそうだった。そして声は今にも消え入りそうである。本人は睡魔に勝てる見込みがないのか、于禁を薄目で見るのみ。
「良くはありませぬ。左瞼に皮膚の病が出たらどうされるのですか。あなたは、毎晩きちんと塗っていらっしゃる筈でしょう。早く、塗った方が……」
「では、お前が塗ってくれ……軟膏は机の上にある」
顎で机を朧げに示すと、于禁は溜息をつきながら寝台から立ち上がった。そして机の上から軟膏の入った陶器製の容器と匙を慎重に取ると、寝台へと戻る。
「動かないで下され」
夏侯惇は仰向けで寝ているまま、于禁はその近くに正座して座る。容器の蓋を開けると、動くつもりのない夏侯惇が「指先くらいでいい」と言う。軟膏を塗布する量のことらしい。
言う通りに、于禁は指先くらいの量の軟膏を小さな匙で掬ってから容器の蓋を閉める。そこでそれを自身の指先で塗るか、于禁が迷った。だがそれを察した夏侯惇が「指でいい」と言うと、于禁は恐る恐る指で掬ったのだが。
触れる程度に軟膏を夏侯惇の左瞼に塗った。ちなみに薄く塗れば良いとのことなので、その通りに塗っている。
「すまんな、ありがとう于禁」
睡魔にねじ伏せられる寸前の夏侯惇が両手を伸ばす。薄目で于禁の顔を探し当てると、頬や顎を弱々しく撫で始めた。擽ったそうに于禁は笑う。
「……また、機会があれば私が薬を塗っても、宜しいでしょうか」
すると夏侯惇の手の上に、于禁は手を重ねる。伸ばされた手が、ずり落ちてしまわないように。
「あぁ」
手から力が抜け、夏侯惇は意識を手放した。同時に室内の燭台の火が完全に消えそうである。于禁はゆっくりと夏侯惇の手を離すと消える火を見送っていく。そして夏侯惇の隣に横になると、静かに瞼を閉じたのであった。隣にある、規則的な寝息を聞きながら。