夏の海
朝から気温の高いある日のことである。
二人は休日なので、リビングも寝室にも冷房をよく効かせていた。本日は何も予定が無いからか、夏侯惇は寝間着姿でリビングのソファに座り何もせずただ呆けており、于禁はまだ寝室のベッドの上で眠っている。
リビングの壁にかかっているアナログ時計がひたすらに、カチカチと秒針を刻む音のみが聞こえる。その音を、夏侯惇はただ聞いていた。
だが僅か一〇分経過すると、夏侯惇は何も予定が無いことに耐えられなくなったらしい。まだ寝ている于禁の様子でも見に行こうと思い、涼しいリビングから暑い廊下に出ると、顔をしかめながら寝室の扉の前に立つ。するとちょうど寝室の扉が開いた。
「おはようございます、夏侯惇殿、申し訳ありません。寝坊してしまいました……」
昨夜、というより残業により本日の午前二時に帰宅して早朝の四時にようやく眠った于禁はついさっき目が覚めたらしい。ベッドに敷いてあったシーツを床に垂らしながら片手で持っている。
かなり酷い寝癖がついている状態であり、顔色が少し悪い。その中でも寝間着姿の于禁は夏侯惇へ珍しく覇気のない朝の挨拶をした。
「おはよう。寝坊は別に構わんが、大丈夫か?」
夏侯惇は于禁に労わる言葉をかけるが、于禁は「大丈夫」だと返事をした。見るからに、大丈夫ではないのだが。すると于禁は何かを思い立ったらしく、寝室の扉を閉めた後に夏侯惇にとある提案をした。
「……暑いので、海にでも一緒に行きませんか?」
「海……? 俺は別にいいが、お前は行けるような体調ではないだろう」
暑い廊下を歩きながら夏侯惇はそう返事すると、二人は洗面所へと辿り着いた。于禁は持っていたシーツを洗濯機に入れると、朝の支度をしながらそれに対して短い言葉を返す。
「行けます」
「だがな……」
鏡越しから見ても分かる于禁の顔色の悪さに、夏侯惇は溜息をついて首を横に振ろうとした。于禁はその様子を鏡越しで見ていないのか言葉を加える。
「せっかくのあなたとの休日ですので」
朝の支度を簡単に終わらせた于禁は、先程よりかは顔色が良くなっていた。それを見た夏侯惇は仕方無しに「……分かった」と承諾するが、とある疑問を口に出す。
「そういえば、水着は持っているのか?」
「持っていません」
「そうなのか。では、一緒に買いに行こう。俺が選んでやる」
かなり機嫌が良くなった夏侯惇は、于禁の手を取って引こうとした。だが于禁はその場で動かず歩もうとはしないので、夏侯惇は首を傾げる。
「いえ、それは遠慮します。日に焼けたら肌が痛くなりますので。私は日陰で荷物番しています」
「良い流れを平然と断ち切るな……」
夏侯惇は手を離してから頭を抱えた。于禁はそれを見て申し訳なくなった途端に、何か思い付いたらしい。
「では、砂遊びでもしますか」
「砂……遊び……」
まさか于禁の口から「砂遊び」という言葉が出てくるとは思わなかった夏侯惇は、それを脳内で何回も反芻させた。唖然とした表情で。
しかしどう返事すれば良いのか分からなくなっていると、于禁は勝手に話を進める。
「そうと決まれば、もう少ししたら行きましょう。今から車で行っても駐車場が無いと思いますので、交通手段は電車ですな」
はっきりとした返事を夏侯惇がしていないのに、于禁はまるで独り言のようにそう言うと、寝間着から着替える為にウォークインクローゼットへと向かったのであった。夏侯惇は慌てて于禁を追いかけたが。
支度を終えた二人は家を出る。海に行くので軽装なのだが更に日光避けに帽子を被り、長袖の薄いパーカーを羽織っていて。
強い日差しに当てられながら駅へと向かい、乗車率の高い電車に乗る。やはり本日は日曜日なのか、この時間帯でも乗客が多かった。それを不快に思いながら数〇分間耐え、ようやく目的の駅に降りる。ここから約一〇分歩けばすぐ海なのか、既に吹いている冷たい潮風が二人を迎えた。
普段はそこまで人の乗り降りが多いとは言えない駅だが、今日は人だらけであった。目的はやはり近くの海なのだろう。
大量の人を掻き分けながら歩くと、浜辺へと辿り着いた。その頃には出ていた太陽が、雲によって覆われたので暑さが少しは和らぐ。
ここはそれなりに大きい海なのか、多くの海水浴客で賑わっていた。二人はそれを見て少しの驚きの表情を出す。
「……ここまで海水浴客が多いとは思いませんでした」
「俺もだ」
二人は砂浜の上の空いている場所を探し出すと、そこに並ぶように腰を下ろした。押し寄せては引き返す波が来ないので、砂の上は少し熱いが大したことはないのか。
「で、砂で何を作るのだ?」
雲により太陽が出ていないので、夏侯惇は空をほんの数秒見上げた後に于禁の方をはっきりと見る。顔色は、あれから良くも悪くもなっていない。
于禁は考える素振りを見せた瞬間、すぐに思いついたらしい。いつもの厳格な顔は崩れないままで。
「最高裁判所を作りましょう」
夏侯惇のみの時が一瞬だけ止まった。于禁からの答えなど「思いつかない」や「適当にトンネル」などと予想していたのに。
時の流れが夏侯惇の感覚からして戻ると、すぐに于禁に意見を述べた。
「……何で最高裁判所!?」
「やはり砂で建築物作るのが良いかと思い、建築物と言って最初に連想したからです。それに、身近な建築物ですし」
「一般的には身近な訳が無いだろう」
深い溜息をついた夏侯惇は、他のものにしようと提案しようとしていた。それを察した于禁は口を開く。
「では、地方裁判所にしましょう」
「どうしてそうなる」
夏侯惇は頭を抱える。
だが自分で何を作るか考えるが、于禁からの答えを想像していた通りに、トンネルくらいしか思いつかないでいる。それと比べたら于禁の提案など幾分かまともなものだと思ってしまっていた。僅かながらの悔しさを混じえながら。
「早速、地方裁判所を作りましょうか」
いつの間にか于禁の表情は喜々としている。それを見た夏侯惇は様々なことがどうでも良くなったのか、于禁の言葉に渋々従ったのであった。
二人はまずは膝よりも低い立方体を作るが、なかなか上手くいかなかった。海水を含んだ砂で基礎を作り、乾いた砂を混ぜながら高さを上げていく。この時点から砂が崩れないように、慎重に。
ようやく作り上げられた立方体を見て、二人はまずは安堵の表情を浮かべた。後は慎重に削りながら目的の建築物の形を作っていくのみ。このとき夏侯惇は少しずつ楽しいと感じてきていた。
于禁はあらかじめ防水ケースに入れたスマートフォンを取り出し、外観を調べるとまずは建築物の壁部分から取り掛かることにした。
「……外観がとても細かいですな……」
少しの後悔の溜息を吐き出した于禁だが、それでも手は止めずにいる。
だが目測からして縦横二〇センチメートル程度の範囲の外観を、大まかに作ったところで事件が起きた。どこかから飛んできたビーチバレーボールが作っている最中のものに直撃し、跡形もなく崩れてしまったのだ。いつの間にか近くにいた若者グループが、ビーチバレーで遊んでいたのか。
ボールを取りに来た数人の若者が謝罪に来た後、残された二人は空を見上げる。雲が、徐々に太陽から離れていっていた。
「……暑いから帰るぞ」
「……そうしましょうか」
二人は服に付着した丁寧に砂を払う。そして暑さ知らずという言葉が似合う程の、無の表情を二人が同じように貼り付けながら帰路についたのであった。