十二歳差 - 2/4

十八歳と三十歳

二次試験まで、于禁は毎週のように夏侯惇の家に通っていた。しかしまだあくまでも、教師と生徒の関係で。
新聞の切り抜きの手伝いをして、それが終わると于禁はあまり長居しない。夏侯惇は少し寂しいとは思ったが、試験勉強があるので引き止められなかった。
それを数回繰り返していくうちに、二次試験の日を迎えた。本日は土曜日であるが二人は事前に、今日は会う連絡を何もしていない。
于禁は朝から試験会場へと早目に向かい、席に着いて待機する。一方の夏侯惇は学校で、一年生と二年生の期末試験の採点などをしていた。だが于禁のことが気になって集中できないのか、採点ミスの一歩手前までのことをしてしまうことが続く。
溜息をついた夏侯惇だが、次の週の月曜日には期末テストの答案用紙を生徒に返さなければならない。なので小さな休憩を細かく入れながら、大量の答案用紙の採点をしていったのであった。家に帰ったら、一人で新聞の切り抜きをしなければならないと思いながら。
夕方になると、夏侯惇はようやく採点を終えたらしい。採点したテストの答案用紙の束を厳重に保管した後に、顔に疲労をべとりと貼り付けて帰宅する。

家に着くと、まずはソファにどかりと座った。疲れているので、帰宅してすぐに作業に取り掛かれないのだろう。疲労が少しは抜けるまで、夏侯惇はソファの上でくつろぐ。
するとジャケットのポケットに入れていたスマートフォンが、着信を知らせた。夏侯惇は深い溜息をつきながらスマートフォンの画面を見ると、そこには于禁の名前。夏侯惇はすぐに通話を始めた。
「試験はどうだった!?」
「落ち着いて下だされ、夏侯惇殿」
「すまん……」
スピーカーからは、于禁の声と人々の声が小さく聞こえる。まだ試験会場の近くに居るのだろうか。
「……それより最初に言う言葉があったな。試験、ご苦労だったな」
「ありがとうございます」
于禁の嬉しげな声がスピーカーから出てくる。夏侯惇は疲労が先程よりも軽くなっていった。
「今から、会えないか? お前に、会いたい」
夏侯惇は会いたい気持ちが溢れてきた。しかし今の二人には、ただ会話をすることしかできない。それでも、と夏侯惇は今の気持ちを伝える。
「まだ終わっていなければ、新聞の切り抜きをお手伝いしたいのですがら宜しいでしょうか。私も、貴方にお会いしたいので……」
まだ新聞の切り抜きをしていないことを伝えると、于禁は一つ返事した後に「すぐに向かいます」と言ってすぐに通話を終えた。夏侯惇の耳に通話の終了を知らせる音が入ってから、スマートフォンを耳から離す。
約三〇分後に、于禁が夏侯惇の家に来た。しかし急いで来たのか、息切れをしている。
「お待たせ、致しました……」
「大丈夫か? 試験が終わった後だから、少し休め」
「ですが……」
夏侯惇の提案を断ろうとした于禁だが、疲れをある程度は自覚していた。次に夏侯惇と何を話すか、なかなか思いつかないからだ。二次試験を終えたので、夏侯惇と早く会話をしたいのは山々ではあるが。
ソファに座るように夏侯惇が促すと、于禁はそれに従った。静かに座ると、疲労が更に湧き出てきたらしい。とてもぐったりとしている。証拠としていつもは背筋を伸ばしている、于禁の背中は目立つ程に丸い。
「試験、御苦労だったな」
于禁の隣に座った夏侯惇は、肩を抱き寄せる。しかし唐突に触れられたので于禁は肩を強張らせ、首から上の至るところまで真っ赤に染まっていった。
クスクスと笑った夏侯惇だが、抱き寄せる手を離す気は無い。そして于禁は、その手を拒む気は無い。
夏侯惇はつい、于禁と唇を近付けようとした。だがまだ早い、と瞬時に思って于禁の赤い顔から視線を逸らす。その夏侯惇の顔には、とてつもない悔しさが滲み出ていた。
「……それは私が卒業するまで、待って頂かないと」
「分かっている」
すると気分も逸らす為に、あと少ししたら新聞の切り抜きをしようと夏侯惇は言った。于禁はそれに頷くとしばらくの間、夏侯惇とソファに座って会話をしていたのであった。
内容は主に試験のことについてで、自己採点ではどうだったか等。勿論、于禁は自己採点では完璧であったと答えていて。
二人で新聞の切り抜きの作業を始め、終えた頃には時刻は夜であった。于禁はもうじき帰宅しなければならないので、名残惜しそうに支度を始める。
「合格発表はすぐだな。来週だったか」
「はい」
「お前が、合格すると信じている」
「ありがとうございます」
とても静かな目で、夏侯惇は話す。一方で于禁は帰りたくないようだが、夏侯惇は「まだ高校生だから早く家に帰った方がいい」と言った。于禁は小さく頷くと「お邪魔致しました」と告げ、家に帰って行ったのであった。
于禁が高校生ではなくなるまでは、もう少し。夏侯惇はそれまで、必死に耐えていたのであった。

それから翌週のことである。遂に于禁が受験した大学の合格発表日の当日。
于禁は緊張した面持ちで受験した大学へと向かった。校門付近には合格した受験者の受験番号がずらりと書かれている大きな掲示板が、もうすぐ貼り出される頃である。しかし既に于禁の他にも合格発表を、今か今かと待っている受験者たちが大勢居た。それらの者たちは、掲示板が貼り出される場所の付近に密集している。
人の小さな波々を掻き分け、于禁はどうにか見える場所を確保すると安堵の息を漏らす。かなりの長身である于禁でさえ、見えない可能性があるからだ。
待機場所を見つけると心臓を高鳴らせながら、合格者の受験番号の数々が貼り出されるのを于禁は待つ。先週の夏侯惇の『合格を信じている』という言葉を思い出しながら。
時間が経過し発表時間の丁度に、合格者の受験番号が連なる掲示板が貼り出された。すると一斉に人々の波が大きく蠢く。于禁はそれに驚きながら、自身の受験番号を探す。于禁の受験番号は、すぐに見つけた。合格していたのだ。
もう一度確認した後に、于禁は静かに喜びながら人々の塊から一旦離れた。スマートフォンを取り出すと、夏侯惇に電話を掛ける。だがやはり夏侯惇は授業をしているのか、電話には出ない。肩を落とした于禁だが、合格したことを夏侯惇に一番に伝えたいと思っていた。そして会いたいと思っていた。家に帰れば、大学からの合格通知が待っているのだが。
なので高校に向かうと、まだ寒さがある社会科準備室前の廊下で待つことにしたのであった。現在の時刻は昼休み前であり、この時間帯ならば夏侯惇と必ず会えるだろう。
冷えにより于禁が次第に震えていくと、四限目の授業が終わるチャイムが鳴った。すると昼休みなので、下級生らの賑やかな声が遠くから聞こえる。しかしここは下級生の教室からは離れ手いるので、近付いてくることはない。
時間を確認する為に、于禁はスマートフォンを取り出した。そこで気付く。夏侯惇と繁華街で夕食を御馳走になった際、連絡先を聞いていた。だが于禁は聞けば殆どの、誰もがインストールしているメッセージアプリのことを思い出す。電話番号しか知らないのだが、このような時にメッセージアプリの存在は必要であることが分かった。
そう思った于禁はスマートフォンを操作し、目当てのメッセージアプリのインストール画面を開く。すぐにインストールボタンをタップすると、インストールが開始された。それは一分も経過しないうちに終わったのだが、次は利用規約などを読む手順を踏まなければならない。
于禁は面倒そうな顔をしながら利用規約などの、長い長い文章を大まかに読んでいく。それに同意するとメッセージアプリの画面に表示される様々な説明を読みながら、スマートフォンを操作していた。
「……于禁?」
メッセージアプリの設定を確認していると、ふと自身の名を呼ぶ声が聞こえた。なので于禁が顔を上げると、目の前には昼食の入った袋を提げている夏侯惇が居た。
「夏侯惇殿! 合格致しました!」
于禁は夏侯惇の存在を確認すると、反射的に合格したことを伝えた。夏侯惇は自分のことのように喜ぶ。しかし寒い廊下で立って話すのではなく、部屋に入って話そうと言うと社会科準備室の鍵を開けた。
社会科準備室の暖房を点けると、部屋にある生徒用の椅子に于禁を座らせる。次にもう一脚の生徒用の椅子を運ぶと、于禁の隣に置いてから座った。
「合格、おめでとう」
「ありがとうございます。ですが、突然に申し訳ありせぬ……」
「別に構わん。それにお前は生徒だから、来てはいけないということはないだろう?」
すると相当に空腹であったのか、夏侯惇は昼食であるパンを開封して食べていく。それを横目で見ながら、于禁は流石にこの時間帯に来るのは不味かっただろう、そう考えた。しかし夏侯惇にただ会いたい、という想いには逆らえなかったのだ。于禁は画面が暗くなったスマートフォンを握り締める。
「どうした?」
「いえ、何でも……私はここで失礼致します」
椅子から立ち上がった于禁だが、ちょうどパンを半分食べ終えた夏侯惇はそれを止める。
「待て、お前はこれから卒業まで忙しいとは思うが……今は五限が始めるまで一緒に居てくれ……」
于禁の腕に手を伸ばし、優しく握った。今の夏侯惇なりの、せめての甘えを聞き入れた于禁は椅子に再び座る。于禁も、夏侯惇と気持ちはほぼ同じなのだ。
五限が始まるまであと四〇分。夏侯惇と話す時間は沢山ある。だがまずは于禁はスマートフォンを操作してから、先程インストールしたアプリのことを話す。そのメッセージアプリでも、夏侯惇と連絡を取りたいと。
「……あの、夏侯惇。このアプリでも、連絡先を交換して下さらぬか?」
「インストールしたのか? いいぞ!」
かなり嬉しげにしながら、夏侯惇はジャケットからスマートフォンを取り出してアプリを開いた。そしてすぐにQRコード画面を表示すると、これを読み取って欲しいと言う。于禁はすぐにそれをスマートフォンのカメラで読み取ると、夏侯惇のアカウントが画面に出る。それをタップすると、電話以外でも連絡が取れるようになった。
「よろしくな」
「こちらこそ」
夏侯惇はあまりの嬉しさに、メッセージアプリで『好きだ』というメッセージを送る。于禁は受信したそのメッセージを見て顔を盛大に赤くすると、何やら文章を打ち込み始めた。だが短い文章なので、夏侯惇のスマートフォンに于禁からのメッセージをすぐさま受信する。内容は『私も好きです』であった。
二人は同じ画面に表示される、互いの気持ちの文章を見て幸せそうに笑う。
「毎日メッセージを寄越して来てもいいぞ。何なら、俺が毎日何らかのメッセージを送ってやる」
「私も送ります!」
夏侯惇に対抗するように于禁は本気で宣言をする。夏侯惇は嬉しげに「待っている」と返すと、于禁の手をそっと握った。それは刹那的なものであったのだが、優しい暖かさを感じていて。

合格発表から卒業式までは、約数一〇日の期間があった。それまでに于禁は入学手続きの準備を次々とこなしていく。その間に夏侯惇は入学手続きを済ませたか、毎朝メッセージアプリで聞いていた。一方の于禁は朝の挨拶と共に進捗を報告する。
しかし夏侯惇は担任としての仕事などで忙しいので、最近は会う暇が無かった。それでも于禁はメッセージアプリで毎日少しでもやりとりをしていたので、寂しさはあまり無い。
なのでその繋がりを強くしていくうちに、とうとう卒業式の日を迎える。于禁からしたら三年生の間だけでも、もっと高校生活を充実しておけばよかったと少しの後悔が今更起きてしまう。主に、夏侯惇のことでだ。そして一方で夏侯惇はそれとは逆に、悔いの無い一年だと思っていて。
于禁の保護者が卒業式には参加していたが、会話をあまりしていないようだ。夏侯惇はそれを気にかけたが、担任と言えど生徒の家庭に深く介入するのはよくないと思ったらしい。その光景を、ただ視界に入れるだけであった。
体育館で卒後式が行われた後に、三年生は各教室で最後のホームルームを行った。大半の生徒は泣いていたが、静かに席に着く于禁だけは教壇に立つ夏侯惇をただ見ている。その視線に夏侯惇は気付いていたが、合わせることは無かった。今于禁と目を合わせてしまったらこのクラスの担任教師として、この教室に居る生徒を平等に扱えないからだ。本当は、于禁に触れたい思いが強いのだが。
どの瞬間の我慢を重ね、ようやく最後のホームルームが終わった。内容はとてもシンプルで、この先でも頑張って欲しいというもの。すると泣きながら夏侯惇に別れや礼を告げる生徒や、敢えて明るい調子で振る舞う生徒が居る。夏侯惇はどんどん教室から出て行く生徒たちの影を見ていくと、大きな感情が込み上げた。直前まではこの先でも頑張って欲しいと言っていたが、今は時間が巻き戻って欲しいなどと思い始める。しかし時はもう遅い。
幾ら手を伸ばしても教室を去っていく生徒らを見て、瞳に涙を浮かべるが耐えた。そうしていくうちに、教室には于禁一人が残った。保護者は先に帰り、忙しげに仕事へと向かったらしい。
ようやく立ち上がった于禁は、教壇に居る夏侯惇の元へ歩み寄る。
「今まで、ありがとうございました」
「于禁……」
于禁が手を差し伸べると、夏侯惇はそれを手に取る。少し前に一瞬だけ手を触れただけの手ではあるが、やはり手は暖かかった。まるで、夏侯惇を慰めているようだ。
「夏侯惇殿、卒業後は元教え子ではなく、貴方の恋人としてよろしくお願い致します。恋愛関係を持つことは貴方が初めてであり、至らぬ所しかありませぬが」
「あぁ、俺こそ……」
そこで夏侯惇の瞳から涙が一粒流れた。慌てた于禁は咄嗟にハンカチを取り出すと、それを柔らかく拭う。繊細なものを、綺麗に磨いて手入れするかのように。
その時の于禁の顔は、とても優しい顔へと変わっていた。なので夏侯惇の瞳からは、更に涙が零れ落ちる。于禁の名を呼びながら。
だが于禁は何も言わずに、ハンカチで夏侯惇の涙をひたすら掬っていたのであった。二人きりの教室で。

この日の夜、于禁は夏侯惇の家へと来ていた。夏侯惇が卒後祝いにと誘ったのだ。リビングのテーブルの上には、デリバリーで注文していた様々な料理がずらりと並んでいる。それらはできたてなのか、湯気が揺らめいていた。
「改めて、卒後おめでとう。だが教室でお前と二人きりの時、情けないところを見せてすまんな」
夏侯惇の目は赤い。教室でひとしきり泣いて別れた後に、社会科準備室で一人きりでまた泣いていたらしい。声はいつもより少し枯れている。
その夏侯惇を見て、于禁は思わずそっと抱き締めようとした。しかしまだ『高校生』という枷があるので、そのようなことはできずに悔しがる。
「いえ、とんでもありませぬ。寧ろ、私は嬉しいのです。貴方がそれほど生徒思いの、素晴らしい教師であると再認識できたので」
「于禁……」
穏やかな表情で夏侯惇は于禁に抱き着いた。驚いた于禁は体をじたばたとさせるが、夏侯惇が「少しだけ、許してくれ」と言うのでそれに素直に従う。
夏侯惇の体が、太陽のように于禁の体をふわりと包み込む。体温、匂い、心臓の音の何もかもが。
「本当に、少しだけにして頂きたい。私だって、貴方と……」
後頭部やかき上げられた髪しか見えなかったが、それでさえ于禁は愛しく思えた。これが、想い人がいる心境なのだろうと今更実感したらしい。今までそのようなこととは無縁であったし、あるとしたらもっと先だと思っていた。
込み上げる感情をまだと我慢しながら、于禁は声をわなわなと震わせた。そうしていると、夏侯惇がようやく于禁から離れる。
「……せっかくの飯が冷めるから、早く食おう」
「はい、そうしましょうか」
雰囲気を曇らせながらも夏侯惇がそう言うと、于禁は料理を一通り見てから礼を述べる。そこで夏侯惇の顔が晴れていった。
今の夏侯惇が、やはり一番好きだ。于禁はそう思いながら、夏侯惇と共にまだ暖かい食事を取っていく。二人で、味の良さに会話を明るく弾ませながら。

入学手続きを全て済ませた于禁は、大学の入学式を迎えるまで待つだけであった。だがその前に『高校生』という立場では無くなった于禁は、夏侯惇の家に尋ねるとすぐさま抱き締める。
ようやく、恋人として触れられると。ようやく、互いに独占しあえると。
「好きだ、于禁……」
「好きです、夏侯惇殿……」
夏侯惇は于禁の体に手を回して、互いの体のラインを押し付け合うようにより密着した。ここまで幸せなことがあるのだろうか、二人はそれぞれ思いながら静かに抱擁を止める。
「キスをしてもいいか?」
「キ、キス……ッ!? い、いえ……その……」
流石に口付けまでは、于禁の心の準備ができていないらしい。首から上を朱に染めながら、首を横に振る。その初々しい反応に笑った夏侯惇は、にやりとしながら舌舐めずりをした。後ずさった于禁は、まるで捕獲の対象になっているような気分に陥っていく。
すると夏侯惇の肩がブルブルと震え、声を出して笑った。
「な、何故……!?」
「いや、お前が可愛いと思ってな︺
「可愛い!? そ、そのうちに私が言う方に回りますので、覚悟しておいて下され!」
于禁の皮膚は灼熱のように熱く思える程に真っ赤。夏侯惇は年下の恋人の初そのものの反応に対して「楽しみだな」と、からかうように呟いた。
それが聞こえていた于禁は、皮膚の色が元に戻らないのではないかと思うくらいの顔をしかめる。
「……貴方には、勝てませぬ」
「俺もだ」
于禁の髪を、夏侯惇は優しく撫でた。好いている思いなど、一生絶えないだろうと思いながら。