十七歳と三十歳
ほとんどの学校は夏休みに入っている、暑い日のことである。
大きな街中のとある私立の進学校である高校で、三年生とその保護者を対象に担任教員と共に三者面談が行われていた。しかしある生徒だけは除いて、三者での面談が成立している。
場所は教室でよく空調が効いているのか、少し肌寒いと感じるくらいだ。生徒と保護者と向かい合って、担任教員が座っている。学習机が幾つか並べてあり、担任教員が紙に何か記載されている資料を見ながら今後の進路について話し合っているところであった。
「……保護者とは、納得いくまで話し合ったのか?」
今年から初めて三年生の担任を勤める夏侯惇は、生徒の一人である于禁にそう聞いた。しかし于禁の隣には保護者が居らず、二人での面談が行われている。
なんでも、于禁の保護者は仕事の都合で離れて暮らしているらしい。本来は今日は来る予定であったが、急遽入った重要な仕事により来れなくなったと于禁は話している。
しかしこのようなことは今回ばかりだけではない。他の面談の際にも、ほとんど欠席していた状態である。せいぜい出席した回数など、一回くらいだろう。
「はい」
学生服姿の于禁はそう短く返事をすると、相変わらず真面目な表情で夏侯惇を見る。于禁は背筋をぴんと伸ばして椅子に座っており、制服の乱れなど一切ない。校則を守り、顎には髭を蓄えていない。元々は一年生の時から風紀委員に所属していたが、三年生になる前に風紀委員長へとなっていた。まさに見本を示している生徒である。
空調のせいで肌寒いのか、↑は半袖のシャツを着ている夏侯惇は一瞬震える。そして手元の資料を見ながら、溜息をついた。
「しかしな……」
「私はその大学の法学部への進学を希望しています。将来は裁判官になる為に。勿論、充分に保護者と話し合いました」
夏侯惇の言葉を遮り、于禁はそう淡々と述べた。于禁の希望している大学自体が偏差値も競争率もかなり高い。しかし今の于禁の成績ならば、不合格になることは無いだろう。
机上の手元の資料とは、于禁の成績表である。夏侯惇はそれをちらりと確認した後に、もう一度溜息をつく。やはり、保護者も同席させた方が良いのではないかと思いながら。
「私の進路について、何かご不満でも?」
「いや、お前の意思はできるだけ尊重したいが……」
夏侯惇は頭を掻いた後に、三度目の溜息をついた。そして頷く。
「……分かった。ではお前の進路はそれに決定するが、後で保護者に電話で一応確認をしておく」
「はい」
大事な仕事が増えたと夏侯惇は思いながらも、話題を切り替える。次は勉学以外のことを質問した。
「残り少なくなったが、学生生活はどうだ?」
「問題ありませぬ」
于禁は冷静に回答するが、夏侯惇は知っていた。于禁がクラスで孤立していることを。しかし本人は全く気にしていないし、周囲と問題を起こしている訳ではない。それに、成績が優秀である。なのでどう返すか考えるが何も出てこない。
だが担任として、何か言わなければと返事を捻り出した。
「……一生に一度の高校生活だから、悔いが無いようにな」
夏侯惇がそう言うと、于禁はただ「はい」と返して面談が終了したのであった。
于禁が退室した後、夏侯惇は一人で盛大な溜息をつく。しかしその時から、于禁のことを担任として気にかけようと思った。退室する際の于禁の背中が、少し寂しげだと勝手に思ったからであって。
※
季節は過ぎ、冷えが増す頃に入った。
もうすぐ冬休みが始まるある日の放課後のことである。日が暮れるのが早いのか、一〇七時を回っているというのに外は真っ暗。校舎の一階にある会議室で職員会議を終えた夏侯惇は、部屋から出て廊下の窓を見ると溜息をつく。そこで、偶然にも于禁に出会した。
「少し質問があるのですが、お時間は大丈夫でしょうか?」
「いいぞ。準備室で聞こう」
夏侯惇はこの後は特に用事はない。担当教科は社会科でなので、社会科準備室に向かおうとする。それに夏侯惇の荷物などの大半は、そこにあるからだ。
しかし校舎の四階の隅に社会科準備室があるので、多少だが移動が面倒だ。それでも、二人は長い階段を並んで上っていく。途中で、夏侯惇が于禁の方に顔を向けて話し掛けた。一方の于禁はちらりと見てから、目の前の階段を見る。
「受験勉強の調子はどうだ?」
振る話題としてはかなり普遍的なものである。担任として当たり前の内容であるが、于禁は押し黙った。それに首を傾げた夏侯惇はどうしたのか聞こうとする。
「時事問題の……傾向、でしょうか……」
なるほど、と夏侯惇は納得したが大学受験まではまだそれなりに日数がある。とりわけ目立つものでも把握したいのだろう、そう思った夏侯惇は小さく頷いた。于禁はそれを瞬間的に見た後に、再び階段を見る。そこで四階に辿り着く。
長い廊下には電灯は点いているが、人気がない。時間帯と時期からして、仕方ないだろうと二人は思いながら社会科準備室に入っていった。
「そうだな……」
早速、夏侯惇は準備室の棚からファイルを取り出していく。それにはとある一つの新聞社の切り抜きが幾つも貼り付けてあり、年と月日で細かく分類してある。月ごと細かく分けてあるので、夏侯惇は今の年のファイルを数冊取り出すとパラパラと捲っていった。
そして今年特に目立っていた、時事内容の記事のページを開いて何個も示す。
「このあたりが有名だろう。しかし他にも把握しておいた方がいいだろうな。時間があれば、だが……」
「いえ、今はそれで充分です。お忙しい中、ありがとうございました」
于禁は鞄からノートを取り出すと、記事の内容を軽くメモした。そしてファイルを閉じて纏めてから夏侯惇に渡す。
受け取った夏侯惇は「分かった。また何かあれば言ってくれ」と言うと、ファイルを棚にしまった。鞄にノートを丁寧にしまった于禁は、準備室を出て下校しようとする。そこで夏侯惇は何かを思いついたのか、呼び止めた。
「于禁、他の新聞社の切り抜きが俺の家にあるから、それ……」
「失礼でなければ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「えっ」
ついでにと言っておいたのだが、于禁は他の新聞社の切り抜きに食い付いたようだ。夏侯惇が驚いていると、于禁から理由を語る。
「少し前に法改正がされたニュースを見たのですが、どれなのか思い出せないのです。なので、調べさせて頂けないでしょうか。インターネットで調べようにも、調べられなくて……」
「……お前らしいな」
法学部に進学するということと、于禁の性格からして静かに笑った夏侯惇は了承する。なので夏侯惇は于禁と共に準備室を出た。そして近くの駅に入ると電車に乗り、夏侯惇の自宅のマンションへと向かって行く。
所要時間はおおよそ三〇分であった。二〇分間電車に揺られ、駅から出て徒歩で一〇分程度で到着する。それまでは夏侯惇がどの駅で降りるか、駅から出たらどちらの方向の道を歩いて行くかを指示していくのみ。于禁はそれに対して短い返事をしていた。
二人の視界に何十階建てのマンションが入ると、夏侯惇は「ここだ」と言って指差す。于禁は頷くとエントランスに入り、目的の階までエレベーターで上っていった。夏侯惇は無言のまま先導して歩いて行く。
幾つかの扉とすれ違うと、夏侯惇は立ち止まった。どうやらここが夏侯惇の部屋のようだ。通勤鞄から鍵を取り出すと、解錠してから扉を開ける。
「着いたぞ、遠慮なく入れ」
「はい、お邪魔致します」
夏侯惇から入ると続けて于禁が会釈しながら入った。それを確認した夏侯惇は扉を閉めて施錠する。室内は真っ暗だ。しかし玄関のみを小さな常夜灯が照らしているので、足元が暗いということは無かった。なので靴を脱いだ夏侯惇はすぐに壁のスイッチに手を伸ばすと、周囲が明るくなる。
短く続く廊下を、夏侯惇はどんどん歩き始めていった。于禁はそれを見て慌てながら靴を揃えて脱いでから、夏侯惇に着いて行く。
間取りは玄関から見て短い廊下の途中の左右に手洗いや浴室の扉、それと寝室らしき部屋の扉があった。そして正面にも扉がある。夏侯惇はその正面の扉を開けると、入ってすぐ横にあるスイッチに手を伸ばして照明を点けた。
「あの棚に、切り抜きのファイルがある」
どうやらここは、リビング兼ダイニングキッチンのようだ。廊下の途中にある扉は、やはり寝室なのだろう。
夏侯惇が指差した先に、大きな棚がある。高さは二人の身長程はあり、幅は三メートルくらいはあるだろう。ファイルは左上から古いもので、右下が最新のものになっている。
「……大量にあるから、調べるのが大変そうだが大丈夫か? 俺も手伝うが」
「大丈夫ですが……少しだけ、手伝って頂きたい……」
于禁は棚を見て口を半開きにする。夏侯惇はそれを見てくすりと笑いながら、于禁におおよそどの時期か質問した後に該当する範囲のファイルの束を取り出す。
棚の前に恐らく基本的には食事を取る机と椅子があるのだが、ちょうど椅子は二脚向かい合わせにある。二人はそれぞれ椅子に座ると、取り出したファイルを開いて調べ始めたのであった。
数十分が経過し、于禁の求めていた記事を見つけたらしい。僅かに嬉しそうな表情を見せる。眉間の皺が薄くなっている様子を。それを初めて見た夏侯惇は、微笑ましげに見た。だがすぐにいつもの厳格な表情に戻った後に、夏侯惇の視線に気付いたらしい。夏侯惇の方を見て眉間の皺を更に刻む。
「……私に、何かついていますか?」
「いや、ついてはいない。しかし……お前の柔らかい顔を初めて見てな。からかいの意味ではないのだが」
「は、はぁ……」
そこで二人の会話は途切れ、于禁は記事の文章を静かに真剣に読んでいく。遂にはノートを取り出し、メモをする始末だ。なので夏侯惇はその間に目的ではないファイルを棚にしまいながら、メモの邪魔をしているのでその断りを入れてから話し掛ける。
「熱心に書いているところすまんが、コピーして渡した方が良いのではないのか?」
「い……いえ! 大丈夫です!」
「本当か?」
于禁のメモする手はそこで完全に止まっていた。夏侯惇は「コピーくらい簡単なことだろう」と言いながらファイルを手に取ると、新聞の切り抜きを取り出して部屋の隅にあるプリンターの元に向かう。それをすぐにコピーしてから于禁に渡すと、丁寧な礼が返って来た。夏侯惇はそれに頷く。
「また何かあればコピーくらいはしてやるから、いつでも言え」
「はい、ありがとうございます」
ふと二人が現在の時刻を確認すると、夜の二〇時を回るところであった。于禁は時刻の数字を見て慌てるが、夏侯惇は特にそういった様子を見せていない。寧ろ落ち着いていた。未成年の深夜徘徊には全く当たらないからか。
それでも于禁は改めて夏侯惇に礼を述べてから帰宅する準備を始めていった。夏侯惇がそれを止めると、于禁は「何故?」というような怪訝そうな顔を向ける。
「……あまり生徒の個人的な深い事情について頭を突っ込みたくはないが、保護者が家に居る頻度はどのくらいだ? お前の保護者は仕事の都合だから、仕方のないことなのだが」
「月に一度、居る方ですな」
「それだけか……寂しくはないのか?」
「いえ、全く」
于禁は夏侯惇の質問に淡々と回答していく。そのときの表情は年齢相応のものには全く見えなかった。家族が近くにいつも居なくとも、平気らしく。
「そうか……引き止めてすまん。気を付けて帰れよ」
「はい」
本人がそうであれば、と夏侯惇はすぐに手を引かせた。そして于禁は姿勢良く夏侯惇に挨拶をする。
「今日はありがとうございました。また何かあればよろしくお願いします。遅くにお邪魔致しました」
間際にそれでもやはり未成年の学生としてはどうかと思ったが、内心で首を横に振ると于禁を玄関まで見送ったのであった。何となく感じる後悔の視線を于禁に送りながら。
翌日のことである。
昼休みになると夏侯惇は社会科準備室で昼食を取りながら、授業の準備をしている。前からだが最近は三年の女子生徒の数人が頻繁に入り浸っているらしい。理由は夏侯惇と会話する為で、女子生徒に人気なのだろう。
于禁は夏侯惇に用事があるものの、女子生徒数人が居るということを知っていたので放課後に回すことにしていた。なので于禁は用事をなるべく早く済ませることができず、普段よりもかなり機嫌が悪かっただとか。その影響で周囲のクラスメイトは于禁に近寄ることもできなかった。孤立しているのはいつものことではあるが。
放課後になり于禁は夏侯惇が居るであろう、社会科準備室に向かった。さすがに放課後になると、女子生徒たちは受験勉強などで居ないことも知っていたからだ。夏侯惇はそこに居て、明日の授業の準備をしている。しかし外は既に暗いので、天井からはLEDの白い照明が輝いていた。
「突然に申し訳ありません」
「別に構わんが、どうした?」
夏侯惇は棚から厚い本を数冊取り出して机の上に置き、そしてページをパラパラと捲りながらそう言う。その隣には、びっしりと文字が書かれているノートがある。于禁はその様子を見ながら、質問を始めた。
「ご自宅にある新聞の切り抜きは、いつ頃から始められたのでしょうか?」
「確か……二年くらい前からだな。だから、つい最近からだが、それがどうかしたのか?」
探していた本のページを見つけた夏侯惇は文章を指で追ってから、隣のノートのページを見た。ジャケットの胸ポケットにはボールペンを差しているので、それでノートに何やら書き込んでいく。
「いえ、その……継続されていることが凄いなと……」
「社会科の教師だから、これくらいはしておかないとな」
ノートを閉じた夏侯惇は、当たり前の行動のように言った。于禁は一瞬だけ呆気に取られてから、生徒として深く感心する。自身も進みたい道からして、目の前の教師のようにあるべきだと思いながら。
それがどうかしたのかと夏侯惇が聞くが、于禁は何でもないと答える。そして受験勉強をすると言って、于禁は社会科準備室を去ろうとした。
「今日はどうかしたのか? やけに怒っているようだが、何か不安なことでもあるのか?」
「……いえ、何も」
「そうか。何かあれば気軽に相談してくれ。放課後は様々な場所に居るから、探すことが大変だとは思うが……まぁ、お前の担任なのだから、ホームルーム前後に言ってくれれば良いだろう」
于禁の肩をポンポンと叩いた夏侯惇は笑みを浮かべる。ふと、于禁はそれが眩しいと思ったのか目を細めた。天井にある、白いLEDライトのせいだと思うのだが。
「はい。失礼致します」
そして于禁はこの明るい場所から、あまり明るいとは言えない廊下へと出たのであった。
※
冬休みに入るまで、あと数日と迫っていた。結局、于禁は夏侯惇に新聞の切り抜きについて、問い合わせることは無かった。
しかし于禁の席は教壇の目の前の為に、ホームルーム前後に夏侯惇から話し掛けられることが増えていく。内容は受験のことばかりだ。例えば「何か分からないことはあるか」や「体調を崩さないように」等である。于禁はそれに淡々とした言葉を返し、会話はそこで終わってしまっていたが。
放課後になるとほぼ毎日遅くまで、受験勉強の為に約半数以下の人数の生徒が校舎に残って必死に勉強している。所謂、勉強会が開かれていた。場所は教室や図書館など様々である。しかしそれ以外の生徒は塾に通っているのだろう。
なので校舎で勉強している生徒を対象に、各教科の教師が日替わりで指導していた。時には生徒らの希望の教科の指導もあったが。
場所は教室であるが、夏侯惇が指導する際に思わず于禁の姿を探す。だが一度も勉強会に出席していないので、塾に通っているのだろうと思っていて。
冬休み前日のことである。今日の放課後は、夏侯惇が指導する日であった。しかし冬休み前日とあって下校している生徒が多く、勉強会に参加している生徒がかなり少ない。だが夏侯惇にとっては意外な生徒が参加していて、教室の扉を開くなり内心でかなり驚いてしまっていた。地理と公民と歴史の教科書類を床に落としかける。
「……于禁」
勉強会に、于禁が参加していたのだ。それも、自身の席に座っている。
「歴史で不安である箇所がありまして」
同じく教室に居る他の生徒は各自で勉強しているのだが、夏侯惇は教壇の上に地理と公民の教科書類を置いた。そして歴史の教科書類のみを手に持つと、夏侯惇はその不安な箇所はどこなのか聞く。
于禁はそれに答えると、夏侯惇は歴史の教科書の該当する部分のページを開く。次に黒板の前に立って解説し始めた。チョークで図面などを書きながら。于禁はその解説を真面目に聞いていて、時にはノートにメモを取っていた。
「……なのだが、分かったか?」
「はい、おかげで歴史は大丈夫かと。ありがとうございます」
真っ直ぐ夏侯惇の方を見ると、于禁は丁寧に礼を述べた。夏侯惇は「構わん」と返すと、他に分からない場所などが無いのか聞く。
「今の時点では、ありませぬな。過去の試験問題や模試を何度も問いてはいますが……」
「そうか。それで、問いた結果はどうだ? よく間違える傾向などは把握しているか?」
夏侯惇は歴史の教科書を閉じ、教壇の上に置く。于禁はそれをチラリと見てから、首を横に振った。
「過去の試験問題や模試での間違いは、一箇所あるか無いかと言う程度です。傾向は……そうですな……」
于禁は鞄から小さなノートを取り出すと、パラパラと開く。それに、間違えた問題を書き込んでいるらしい。
「国語ですな」
「……悪いな、俺は国語の教師でなくてな」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませぬ。後で国語の教師に質問して参ります」
ノートを閉じた于禁は謝罪を返すと、夏侯惇が黒板に書いていた解説の跡を見る。
「夏侯惇殿、もう一つ、質問なのですが」
そこで何かを思った于禁は、夏侯惇に質問をした。
「何故、夏侯惇殿は教師に?」
「……えっ?」
他の科目についての質問が来ると思っていた夏侯惇は、呆けたような声が出る。しかし于禁はただ純粋に質問したのだろう。そこまでの反応をするとは思わなかったのか、于禁は珍しく焦った様子で謝罪をした。
「も、申し訳ありませぬ! 失礼な意味では無いのであって、その……夏侯惇殿は、御自身で教師に向いていると思われて、教師になられたのでしょうか? 私から見たら、夏侯惇殿は教師という職業は天職だと思いまして」
最初の質問に、悪意が無いことは分かっていた。なので夏侯惇は改めて于禁の言い分を聞き、納得をすると笑う。
「あぁ、そういうことか。そうだな……最初は向いていないだろうと思いながらも、何となく興味があった職業だったからなったな。最初はやはり転職でもしてしまおうと思ったが、次第にそういう気持ちは無くなった」
各自で勉強していた生徒の数が減っていた。冬休み前日なので、少しでも休もうと思っているのだろう。二人のことなど気にせず、周囲の生徒は次々と下校の準備をする。
「……このようなことは、まだ考えるには早いだろう。それより今は、希望する進路のことだけを考えていろ」
溜息をついた夏侯惇は、教室の窓から既に真っ暗になっている空を見た。教室からは校門やグラウンドが見えるのだが、部活に勤しんでいる下級生や下校している生徒がまだ見える。
そして腕時計を見るが、放課後が始まってからそこまで時間が経過していない。しかし生徒が次々と下校していっていた。
「他に、何かあるか?」
「無いので、私はそろそろ帰宅致します。本日はありがとうございました」
于禁はそう言うと、椅子から立ち上がって軽く会釈をする。そこまでする生徒は居ないので、夏侯惇は大袈裟だと思って「そこまでしなくていい」と返す。
その頃には、教室には夏侯惇と于禁の二人きりになっていた。僅かに残っていた生徒も、下校してしまったのだ。夏侯惇がそれを指摘すると、于禁は振り向いてから視線を元に戻す。
「俺は……」
夏侯惇が何かを言いかけたところで、思い付いたことがあるらしい。教壇の上に置いていた教科書類を手に持つも、于禁にとある提案をする。
「この後、時間はあるか? あれば、どこかで飯でも食いに行くぞ。俺が奢るから」
「いえ、そのような……」
「一人暮らしの独身だから寂しいんだ、付き合ってくれ」
笑いながら言う夏侯惇だが、本来の目的は違う。于禁が殆どの日は家で一人で夕食などを取っているので、たまには誰かと食事を取っていて欲しいと思ったのだ。担任としてのエゴであり、于禁は心の奥底では寂しいと思ったからであって。
夏侯惇なりの勝手な親切心を、于禁に押し付ける形になってしまうことを承知で。その時の夏侯惇は、少しだけ暗い顔をしていた。
すると一瞬だけ難しい顔をした于禁だが、夏侯惇の言葉を反芻する。冬休み前であるし、担任である夏侯惇には世話になっているからと思い渋々と承諾した。
「……分かりました。それでは、ご馳走になります」
「すまんな、ありがとう。すぐに帰る準備をするから、校門の前で待っていてくれ!」
暗い顔が晴れた夏侯惇は、何かの重しが取り払われたようにとても明るい声でそう言う。
于禁はその声を聞き、夏侯惇から少し視線を逸らすと小さな声で「はい……」と呟いた。しかし夏侯惇にはそれが聞こえなかったのか、再び腕時計を見てから帰る支度が終わるおおよその時間を伝える。于禁は黒板の近くの壁に掛かっている時計を見て頷いた。
そして二人は教室の照明と暖房を切り、寒い廊下に出る。
「また、校門でな」
「はい」
短い言葉を交わすと夏侯惇は職員室へ、于禁は下駄箱へとそれぞれ向かって行ったのであった。
約束の通りに二人は校門で再び会った。空は真っ暗だが街灯や周辺の囲むようにある、建物などの照明のお陰で気にならない。それに、目の前の大きな道路には大量の車が行き交っている。光を避けることなど無理なことだ。
この時期はかなり冷え込むので二人ともそれぞれコートを着込んでおり、マフラーを巻いている。夏侯惇が「かなり寒いな」と言うと、于禁は静かに頷いた。
「学生は……そうだな……」
提案したのは夏侯惇だというのに、行き先を決めていなかったらしい。それでもゆっくりと歩道を歩きながら、行き先を考える。于禁はそれを察し、溜息をつきながら着いて行く。少し歩いたところは、繁華街だからだ。
繁華街に入り、しばらく人混みをかき分ける。すると夏侯惇は唐突に立ち止まり、于禁も立ち止まった。その二人の前には大規模チェーン店である、ファミリーレストランがある。夏侯惇はその看板を指差した。
「あの店にしよう」
「はい」
于禁は看板を見て目を細めるが、夏侯惇は店に入っていく。店内は暖房が効いているので、とても暖かい。寧ろ、マフラーを巻いていると暑いくらいだ。夏侯惇は店内に入るなり、マフラーを取り外す。続けて于禁も入店したが、夏侯惇と同じくマフラーを取り払っていた。
見渡す限りではほぼ全てのボックス席が埋まっているらしい。しかしそれでも幾つかは空きがあったのか、ホールに居た店員にすぐに空いている席に案内されていく。そこは四人掛けの席である。
二人は向かい合わせに着席するなり、夏侯惇は于禁にメニューを渡した。そのすぐ後に先程と同じ店員が来ると、水を並々と注がれた透明なグラスをそれぞれの前に静かに置く。基本的な接客態度で注文が決まれば呼んで欲しいと言うと、去って行った。
「于禁、好きなものを食え」
メニューは席に二つあるので、夏侯惇は一つのメニューを手に取った。于禁も取ってからパラパラと捲り、夏侯惇はゆっくりと見ていく。
そして僅か数分が経過し、夏侯惇はメニューが決まったらしい。顔を上げて于禁の方を見る。しかし于禁は難しい顔をしながら、メニューを眺めていた。なので夏侯惇はどうしたのかと話し掛ける。
「どうした? そこまで悩んでいるのか? まぁ、ゆっくり考え……」
「このような店にあまり入ったことがないので、何を頼めば良いのか分からないのです」
「えっ?」
聞き間違いかと思った夏侯惇は聞き直す。しかし于禁は先程と同じ言葉を繰り返したので、夏侯惇は口を半開きにする。
「幼い頃は両親によく連れて行って貰いましたが、今は全く行っていないので、どれが良いのか分からないのです。普段は、家で夕食を取っているので……」
夏侯惇は于禁の両親は仕事で、家に殆ど居なかったということを思い出した。それについて詫びを入れ、忘れていたことにショックを受ける。しかし首を横に振り、気持ちをすぐに切り替えた。
「では、嫌いなものが無ければ、俺と同じものでいいか?」
「はい、夏侯惇殿と同じもので良いです。しかし何を頼まれるつもりなのでしょうか?」
「これだ」
メニューを指差したのは、期間限定メニューであるシチューパイのセットであった。内容はシチューパイの他にパンやサラダなどもついていて、バランスの良いものになっている。于禁はなるほど、と頷く。
「私も、それでお願い致します」
「分かった」
夏侯惇は店員を呼び、メニューを指さして注文するものを伝えると店員は厨房へと向かって行った。だが注文を待っている間、暇を持て余しているからと夏侯惇が適当な話題を于禁に振る。
「明日からは冬休みだな」
「そうですな」
返事は、于禁から話を途切れさせるようなものである。それでも夏侯惇は、無理矢理に話を繋げて続けた。
「たまには、息抜きくらいはしろよ」
「私には、そのようなものは必要ありませぬ」
「……ずっと張り詰めていては、いつかは切れてしまう。だから、たまでいいから弛ませろ」
相変わらず生真面目を通り越して、堅物である生徒に夏侯惇は深い溜息をついた。そのような性格を分かっていてもだ。
しかしそれを根から矯正させるという、愚かなことは全く思い付かない。なので夏侯惇は「小さなことでもいいから」と、言葉をまたしても続ける。于禁の深い眉間の皺を見つめながら。
「ある生徒がな、受験勉強に張り詰め過ぎて、受験直前に全て切れてしまったことがある。結果は、不合格で浪人生になった。そいつはその後、一浪してから合格して、今は本人の一番の笑い話にしているがな」
途中から真剣に聞き始めていた于禁は、夏侯惇の方ではなくまだ口をつけていないグラスの中の水を見つめ始めた。自身の顔は店内の眩しいくらいの照明により、見えないでいる。それでも于禁は、全く減っていない水を見つめていて。
その様子を見ながら言い終えた夏侯惇は、自身の方にあるグラスを手に取って喉に水を少々流し込む。今の季節的に氷も入っていないので、特に冷たいということはないらしい。
「怠けろとは言っていない。勉強の合間でいいから、少しでも気を抜く時間を作って休めよ」
「……はい」
素直に返事した于禁だが、表情は沈んでいた。優しい笑みを浮かべた夏侯惇は「期間限定メニュー楽しみだな」と言う。それも于禁は同じ調子、同じ言葉を返した。いつもの于禁に戻ってくれないので、夏侯惇は焦りながらフォローの言葉を考える。
すると注文したものが来たらしい。店員が注文していたメニュー二つを運んで来ると、夏侯惇は思わず安堵の息を漏らしかけた。しかしそれは直前で、グラスの水のように飲み込む。
「美味そうだな」
メインである熱々のシチューパイや、湯気が立ち上るパンに目を向けた夏侯惇は顔が綻ぶ。そして于禁の方へと視線を動かすと、眉間の皺が少し取れているように思えた。
人間の三大欲求である一つには、于禁でさえも到底勝てないのだろう。初めて見る様子に夏侯惇は思わず嬉しくなると、楽しく食事を取ったのであった。対して于禁も、内心では夏侯惇と楽しいと思える食事の時間を過ごしていて。
食事が終わり、少し休憩してから店を出た。店内は暖房が効いていたので、唐突に刺さるように冷える空気に二人は寒さに体をガクガクと震わせた。店内の温度に慣れてしまったのか、店を出る前にマフラーを巻いていない。なので二人は白い息を吐きながら、慌ててマフラーを首に巻いていった。
「寒いな」
「……えぇ」
それぞれの声さえも震えているが、周囲の喧騒によりほぼ聞き取れないでいる。しかし夏侯惇はその様子がおかしいのか、笑い始めた。一方の于禁はその様子の夏侯惇を見て、ムッとしている。
「今日は、久しぶりに楽しい夕飯が食えた。付き合ってくれてありがとう」
宥めるように夏侯惇がそう言うと、于禁は何だか照れくさくなったらしい。すぐに夏侯惇から視線を逸らすも、すぐに戻していく。
「また付き合ってくれ。だが、他の生徒には秘密だぞ。色々とうるさいからな」
「……はい」
巻いているマフラーをぐいと上げ、于禁は鼻まで埋めた。寒いという振りをしているが、照れの感情がまだ残っているらしい。だがそのようなことなど分からない夏侯惇は「寒いな」と、かなり眩しい人工的な光と空の暗闇に溶けるような白い息を吐きながら呟く。
続けて夏侯惇は「約束だぞ」と言うと、二人はその場で別れたのであった。二人の家の方向が、反対だからか。
※
冬休みが明け、新学期に入った。三年生の雰囲気は、受験が近いからかかなりピリついている。教師側もそうであり、三年生の教室の階層や職員室などは緊張した空気が漂っている。なのでか、一年生は初めて感じる空気に怯えていた。
夏侯惇はそれを毎年感じているが、やはり苦手らしい。しかし今年は初めての三年の担任であるので、できるだけ逃げることはできない。例年であれば、用事があると誤魔化して社会科準備室に避難していたというのに。
それは共通試験の日である一月の中旬である数日の間まで続くので、夏侯惇は毎日小さな溜息をつきながら教師としての仕事をこなしていた。一月の中旬にある共通試験を乗り越えても、次は二月の下旬にある二次試験が待ち受けている。しばらくの間はこの空気が続くので、夏侯惇の溜息は増えていっていた。
しかし放課後になると毎日、何故だか于禁が社会科準備室に来るようになった。于禁曰く、勉強するから部屋を借りたいだとか。今までそのような申し出は無かったので、夏侯惇は驚きつつも誰も来ない社会科準備室を貸した。放課後になると夏侯惇は、社会科準備室には居られないので丁度良いからだ。
そして夏侯惇が帰宅する前に社会科準備室に寄ると、勉強している最中の于禁に「そろそろ閉める」と伝える。すぐに頷いて素早く帰る支度をして夏侯惇と共に、社会科準備室を出るという繰り返しをしていた。
すると次第に夏侯惇と于禁の会話の数が増えていく。于禁から返って来る言葉が、会話を繋げられるようなものになっていっているからだ。そのような変化に嬉しくなった夏侯惇は、放課後が楽しみになっていったのであった。
そして一月中旬の共通試験を迎えたのだが、会場にこの高校も含まれている。だが于禁は全く緊張などしていなかったらしい。現にいつもの態度で教室の指定された席に着くと、参考書を一人で静かにゆっくりと見ている程度だからだ。他の受験者たちは、かなり必死に参考書などを読んでいたが。
他の教室で試験監督の補助をする夏侯惇は、試験開始時間前に廊下からそれがチラリと見えた。教室の出入口の扉が開いているから、見えたのだ。夏侯惇はその落ち着いている于禁を見た後に、目的の教室に向かっていったのであった。于禁の様子が、予想通りだと思って安心しながら。
共通試験が終わると、受験者たちは疲れた顔をしながらそれぞれ帰宅していく。試験監督の補助である夏侯惇も疲れたのだが、この後も重要な仕事が残っている。しかしあまり人気のない場所で少し休みたいからと、社会科準備室に向かって行った。廊下の時点で人が居らず、寒い廊下歩く。
すると人影が扉の前に一つ、次第に見える。かなり見覚えがあると思っていると、その人影の正体は于禁であった。
「試験お疲れ、于禁。どうした? ここに忘れ物か?」
夏侯惇は首を傾げながらそう質問する。言葉の通りで、社会科準備室に忘れ物があると思ったのだ。しかし夏侯惇の予想は大きく外れ、于禁はすぐに頭を横に振る。その時の于禁には、動揺の色が垣間見えていた。
「いえ、そうではありませぬ」
「では、何か用か?」
「……いえ、失礼致します」
于禁にしては謎である行動に、夏侯惇は頭の中で疑問が生まれた。しかし于禁はすぐに社会科準備室の扉から離れると、廊下を歩いて階段を降りていく。夏侯惇はそれを見送った後、一人で「于禁……?」と呟いた。そしてジャケットのポケットに入れていた鍵で解錠すると、社会科準備室に入る。
暖房が効いていないが、僅かな時間だけ滞在するのみ。なので夏侯惇は社会科準備室にある椅子に座ると、背もたれに深く体を預けて少しだけ頭を休ませようとした。しかし于禁のことが気になってしまい、あまり休めないでいて。
共通試験が終わり、合否が発表された。大半の生徒らはその試験に合格すると、次の二月下旬の二次試験に向けて勉強を始めていく。
しかし試験勉強は大詰めとなるので、夏侯惇は于禁と話す時間が減ってしまっている。それが何だか寂しいと思いながら、放課後に他の生徒らに担当教科の勉強を教えていく。
そのような状態で、二次試験の当日を迎えた。だが夏侯惇は一年生や二年生の授業があるので、いつものように出勤している。授業中は左手首に巻いている腕時計を、いつもより確認する回数が多かった。それ程に、気になるのだろう。于禁の様子が。
試験は一日を掛けて行われるので、夏侯惇は時間が経過するにつれてそわそわとし始めた。生徒や他の教師からは「三年生の試験のことが気になるのだろう」と思われているようだ。生徒からは何も言っては来なかったが、他の教師からは「生徒を信じましょう」と言われていた。夏侯惇はそれにただ頷くと、次第に上の空になってしまっていく。なので授業に集中できないまま、放課後を迎えてしまっていて。
すると今日の自身の様子を、夏侯惇は反省した。せっかくの貴重な授業の時間を、いつものようにこなすことができないことに。
なのでよく冷え切っている社会科準備室で、一人で夏侯惇は椅子に座って項垂れた。外からは運動部の元気な掛け声がよく聞こえるが、それがかえって夏侯惇の気分を悪くさせたらしい。運動部は全く悪くないのだが、夏侯惇は耳障りな音を少しでも防ぐように耳を塞ぐ。
「気持ちを切り替えねば、教師として良くはない」
自身でも分かるくらいに、眉間の皺が寄っていた。恐らく、かなり深い皺が刻まれているのだろう。すると于禁の顔をふと思い出し、夏侯惇はハッとする。どうして今、于禁の顔が頭に過るのかと。
「どうしてだ? 于禁……」
「私が、どうかしましたか?」
顔を上げると、于禁が目の前に居た。驚いた夏侯惇は、ひたすら口をぽかんと開ける。
「顔色が悪いですな。体調が悪けれ……」
「いや、今日は冷えるせいだろう。大丈夫だ」
于禁から指摘があったが、夏侯惇はそれを途中で遮って誤魔化す。それも椅子の背もたれから体を離してから、焦った様子で。
「……そうですか。ですが、無理はなさらず」
夏侯惇の誤魔化しに小さく気付いた于禁だが、これ以上は踏み込まなかった。いや、踏み込めなかったのだろう。気の利いた言葉を出せないことが、分かっているからか。
「そういえば、試験はどうだったか?」
「自己採点をしたところ、完璧でした」
「そうか、お前らしいな」
試験についての返事を聞くと、夏侯惇は僅かに笑った。それを見た于禁も、同じように笑う。
「……あの、夏侯惇殿」
すると一呼吸入れた于禁が、夏侯惇に話し掛ける。どうしたのかと聞いた夏侯惇は、背もたれに体をどしりと倒した。先程の雰囲気は、夏侯惇にはもう無いらしい。
「……お時間が空いていればの話ですが、どこかで夕食を食べに行きませぬか? 支払いは、私と折半で宜しいので」
「いや、いい。俺が奢ろう。試験を終えたお前を労る為にな。いいか?」
椅子から立ち上がった夏侯惇は、両腕を上げて体をよく伸ばす。まるで何かから解放されたように、背中までもしっかりと伸びた。
「ですが……はい、分かりました。それでは、今回もご馳走になります」
夏侯惇が「今から行こう」と言うと于禁は前のような、眉間の皺が薄まった表情に変わる。この冷えた空間のことなど忘れるように、夏侯惇は一瞬だけ寒さを忘れた。
するとこの感情は、何だろうと夏侯惇は思った。しかしただ緊張や不安から解放されただけだろうと思うと、于禁と共に社会科準備室を出る。そこで別れ、校門前で再び集合した。外は更に寒いのか、二人はコートを着込んでマフラーを厳重に巻きながら。
場所は前と同じ繁華街だが、次は違う店であった。今回も夏侯惇が店を決めている。学生に人気である飲食チェーン店に入っていき、二人はそこで食事を取った。
だが今回は二人それぞれ違うメニューであった。なので注文して提供されてから、二人でしばらく提供された料理について明るく話し合った後に食事を取り始める
食事が終わり、二人が落ち着いた頃である。于禁は珍しくあまり自信無さげに、夏侯惇にとある頼み事をした。しかし頼み事と言っても、夏侯惇からしたらほんの小さなことらしい。それを聞いて思わず夏侯惇は笑う。
「連絡先を交換して欲しい? 俺で良ければ構わんが……ほら、メッセージアプリのQRコードを見せるから登録しろ」
夏侯惇はスマートフォンを出して指先で数回操作すると、画面を見せた。そこには大半のスマートフォンユーザーならば、インストールしているメッセージアプリの画面が表示してある。だが于禁は何も分からないような顔をしながら、スマートフォンを取り出す。そして夏侯惇のような画面ではなく、電話帳が表示されている画面を見せた。
「……電話番号ではないのですか?」
「待て、お前……このアプリを入れていないのか」
「入れていませぬ。私には必要が無いので」
珍しげに見た夏侯惇だが、人がスマートフォンにどんなアプリを入れようが勝手である。なので何も言わないまま、スマートフォンに表示する画面を切り変えた。于禁と同様に、電話番号が表示されている画面を。
まずは于禁から、夏侯惇のスマートフォンの画面に表示されている電話番号を紙に丁寧に書いていく。次にそれをスマートフォンの電話帳に登録すると、夏侯惇に礼を述べた。対して夏侯惇は、于禁のスマートフォンの画面を見ながら電話帳に電話番号を登録していく。
互いに無事に電話番号を交換し終えると、夏侯惇は昔の時代に戻ったような気がしたらしい。于禁の電話番号が表示されているスマートフォンの画面を見て、口角が上がっていく。
一方で于禁はすぐにスマートフォンを仕舞うと、夏侯惇に礼を述べた。倣うように夏侯惇も同じく礼を述べたが、スマートフォンは席のテーブルの上に置く。
「今日は、夏侯惇殿と会え……お話ができてよかったです。お忙しい中、ありがとうございました」
「あぁ、また飯を食おうな。連絡先を交換したからな」
その時の于禁は、かなり嬉しそうな顔になっていた。表情を維持したまま「御馳走様でした」と言い、夏侯惇は無意識に湧いてくる照れに頭を軽く掻いて軽い返事をする。だが高校生の于禁にしては遅い時間なので、ここで別れることにした。またしても二人の家はそれぞれ反対方向である。なので店の前で別れたのであった。
その帰り道のことである。夏侯惇は于禁の先程の顔が、瞼の裏にまで強烈に焼き付いたらしい。瞼を閉じても、鮮明に思い出せる程に。なので夏侯惇は勘違いだと思っていた最初の感情の正体に、今さっき気付いたのであった。
これは、恋なのだと。
二人で夕食を取ってからしばらく経った。三年生はほぼ全員が自由登校の期間に入っている。人の気が前よりも少し減ってしまった校舎に入り、夏侯惇は一年生と二年生への授業をこなしていく。
すると何かが物足りないと思いながら、金曜日の放課後を迎えた。夏侯惇は社会科準備室で、授業の資料を整理している。まだ寒いと言える気温なので、暖房を効かせていた。
しかしもうじき資料の整理は終わるのだが、その後は社会科準備室を出なければならない。残りは職員室で様々な作業をすることになっているからだ。部屋の暖房のスイッチをそろそろ切ろうと思い始めた、その頃に夏侯惇のスマートフォンに着信が入った。
バイブレーションで分かったのだが、ジャケットのポケットに入れている。誰かと思いながら画面に表示されている、通話相手の電話番号と名前を見た。そこには于禁の電話番号と名前が表示されていたので、どうして掛けてきたのかと思うこともなくすぐに通話を始める。
『お仕事中に、申し訳ありませぬ。今、お時間はありますでしょうか』
「いや、もうすぐ終わるところでな。時間はあるが……どうした?」
夏侯惇の声は普段のものではあったが、端々に緊張のようなものがあることを自身でも自覚していた。しかし電話での会話なので、そこまでは聞き取れないのだろう。
于禁は夏侯惇の返事の後に、何かを言おうとしている。だがどうにも言うことができず、言葉をひたすら詰まらせていた。
『い、いえ、あの、その……』
「どうした?」
すると夏侯惇が自覚していた緊張など、どこかに消えてしまっていた。于禁が出す詰まった返事により、笑ってしまっていたのだ。于禁は『笑わないで頂きたい!』と焦り始める。その後に咳払いを挟み、ようやく夏侯惇への用件を伝えることができていたが。
『その……夏侯惇殿が良ければ、新聞の切り抜き作業を私に手伝わせて頂くことはできませぬか? 念の為に一年間学んだ内容の復習をしておりますが、そればかりでは息が詰まってしまうので……。それに、新聞の記事にとても興味がありまして』
「いいぞ。では明日俺の家に来い。昨日と今日と明日の分があるからな。頼りにしているぞ」
夏侯惇は即答した。于禁の用件とは、夏侯惇にとっては表面上はありがたいことだからだ。本当は相手は生徒であるのに好きになってからという、大人特有の下心が水面下に潜んでしまっているが。
スマートフォンのスピーカーからは、于禁の嬉しそうな声が聞こえてくる。
『はい!』
感染でもしたかのように、夏侯惇の声も嬉しそうなものになっていく。そして于禁は夏侯惇に家に来る時間を伝えた後に、通話を終えたのであった。通話を終えた画面を、夏侯惇は寂し気に見る。しかし明日は于禁が家に来るので、すぐに通話画面をスワイプして削除した。夏侯惇の頬が、有り得ない程に柔らかくなっていく。しかしその頬はすぐに本来のものに戻っていて。
社会科準備室に今日は用事が無いので、着信が来る前に切ろうとしていた暖房を切った。そして社会科準備室から出て、職員室での作業を終える。ふと、壁掛けのアナログ時計を見た。短い針が九を示そうとしていて、はかなり遅い時間である。
仕事で確かに疲れたのだが、疲労などすぐに忘れてしまっていた。明日の于禁との約束のおかげなのか。なのでこの日の帰宅の足取りは、いつもよりもとても軽やかであった。明日が、待ち切れないのか。
翌日、九時頃に于禁から電話があり、もうすぐ到着するという連絡を受ける。夏侯惇は一時間前に起きていたので、着信にすぐに出られていた。リビングのソファでスマートフォンを持って、軽装姿でぼんやりとしていたが。
スマートフォンをテーブルの上に置くと、次に切り抜きをする為の新聞紙の束も置いていく。そしてキッチンに行くと、中を清潔にしてある電気ケトルに水を入れた。インスタントコーヒーの粉の瓶やマドラーを棚から取り出すと、リビングに持って行く。
そこでインターフォンが鳴った。夏侯惇はすぐに玄関に向かうと、于禁を出迎える。
「おはようございます」
「おはよう」
于禁は制服姿ではなく、私服姿であった。しかしとてもシンプルな服装なので、夏侯惇は于禁らしいと僅かに笑う。
「あの、これを宜しければ」
于禁をリビングに入れた後、持っていたらしい紙袋を夏侯惇に渡した。大きさは肘から手首くらいのものではあるが、思ったよりも軽い。夏侯惇は礼を述べながら、中を見ても良いかと聞いた。于禁はすぐに頷くと、夏侯惇はテーブルの上に紙袋を静かに置いてから中身を取り出す。
出てきたのは、既製品の菓子の詰め合わせであった。それも誰もが知っているような、ロゴマークまでついているものである。高過ぎず、安過ぎずちょうど良い価格のものとしても有名なものだ。
「菓子か。コーヒーを準備しているからちょうど良いな。ありがとう」
照れた様子で、于禁は「私はお邪魔している立場なので……」と言った。
しかし切り抜きをする新聞の量からして、あまり無駄話はできない。なので二人はリビングのテーブルに並んで向うと、早速作業を始めた。
内容はごく単純である。夏侯惇が切り抜きをする記事に小さな印を付け、それを真っ直ぐに切り取る。次に保管する為のファイルと同じサイズの紙に貼っていくだけだ。
しかしこれが、かなり大変らしい。夏侯惇は二社分の新聞の切り抜きを、毎日とは言えないがしているからだ。主に社会系や政治系、それにかなり目立つスポーツ系の切り抜きのみだが、選別に時間が掛かる場合がある。新聞を切り抜くというだけの動作は、容易いのだが。
夏侯惇からの簡単な説明を聞くと、于禁は感心した。
とてもシンプルな作業なので、一回のみ説明した夏侯惇はすぐに記事の選別を始めた。時折、于禁に意見を聞きながら。
しかしずっと休まず作業しているわけではない。一時間に一度はコーヒーを飲むか、于禁が持参した菓子を食べて休憩していた。作業中は会話があったのだが、時間が経過していくと口数は減っていく。それほど、二人は集中していたのだろう。
なので作業が終わるといつの間にか、午後の二時を回っていたところであった。
「すまんな、飯を取らせずに、こんな時間まで」
「いえ、お構いなく」
夏侯惇は「だが助かった」と言うと、満足げに新聞の切り抜きが入っているファイルを大きな棚に入れていく。並べる順番からして、最新である場所に収納した。するとずらりと並んでいるファイルの背を見ながら、夏侯惇はとある提案をする。
「大したものはできないが、昼飯を俺が作ってもいいか?」
夏侯惇は教師という職業柄、健康にはとても気を使っていた。なので忙しくても毎日外食はせず、ほとんど自炊である。おかげで人並には料理ができるので、そう言った次第。
意外というリアクションを示した于禁は首を横に振りかけたものの、縦に振った。
「そこまでは……いえ、ご馳走になりますが、私もお手伝い致します。普段から自炊しているもので」
「そうか、では手伝いを頼む」
二人はキッチンに向かってから手を洗うと、夏侯惇が冷蔵庫の中身を確認してから作る物を決めた。それを于禁に伝えると、一つ頷いてから夏侯惇の手伝いを始めていく。
作っている最中の于禁の手捌きは、かなり良いものであった。なので夏侯惇はそれを褒める。
「手際が良いな」
「そこまででは……」
謙遜の言葉を出す于禁だが、夏侯惇はそれを否定してから「一緒に料理していて、ストレスが全く無い」と返す。すると途端に于禁の顔が真っ赤に染まり、夏侯惇はどうしたのかと笑う。
しかしまたしても于禁の見たことのない表情に、次第に夏侯惇までも顔が真っ赤に染まっていた。今は火を使っているのだが、二人の顔は火のように赤く熱い。
「その……俺としての、素直な褒め言葉だからな」
何故だか気まずいと思えてきた夏侯惇だが、頭が混乱してきていた。なのでスムーズであった料理の際の手の動きが、かなりぎこちない。
それを危ないと思った于禁は、一旦火を止める。
「……有り難く、受け取っておきます。それと、お疲れのようですので、おこがましいとは思いますが、私が代わります」
「あぁ、では頼む」
素直に頷いた夏侯惇は、于禁が火を使って料理している間に洗い物をしていった。幾つか終えると、昼食が完成したらしい。食器棚から二つの食器を取り出した夏侯惇は、于禁にそれを渡して盛り付けを頼んだ。その間に夏侯惇は配膳をしていく。
しかし于禁はその二つの食器を見て、一瞬だけ鋭く睨んだ。夏侯惇はそれに、全く気付いていないが。
「同じ食器を、二つも持っていらっしゃるのですね」
ついそれが出てしまった于禁だが、夏侯惇は特に何も問題が無いような口振りで話していく。
「恋人と同棲していてな。随分と前に別れたが、食器だけは残して出ていった」
「……何が原因で、別れてしまったのでしょうか?」
「何だ? お前も人の恋愛模様に興味があるのだな。原因は……俺の仕事の忙しさだ。それですれ違って、別れた」
「成程……」
話している間に盛り付けが終わったらしい。于禁はそれをテーブルに持っていくと、綺麗き並べていく。
そして二人は何事も無かったかのように、昼食を取ると于禁は礼を述べて帰る準備を始めた。だがその途中で夏侯惇に、何かを思い出したように質問をする。
「来週も切り抜きの手伝いをしたいのですが、大丈夫でしょうか?」
「来週? 来週は午後から空いてるが、お前はいいのか?」
「私も、新聞の記事の様々な内容については興味があるので」
ふと于禁の進路先を思い出した夏侯惇は、すぐに頷くと快く承諾した。
「分かった。では来週も頼む」
「はい喜んで」
前日にまた連絡すると付け加えた于禁は、夏侯惇の家を出たのであった。玄関の鍵を閉めた夏侯惇は、リビングのソファに疲れたように座ると、頭を上げて天井を見る。
「やはり、いつの間にか、好きになってしまったのだな。俺も、于禁も……」
白い天井に呟きと溜息の両方を向けた後、夏侯惇は何かに悩むように項垂れていったのであった。
次の週の土曜日の午後を迎えた。そろそろ二次試験が迫っているのだが、于禁は約束通りに夏侯惇の自宅に来ている。時刻は、昼を少し過ぎた頃であった。
この日の午前中は、夏侯惇は一年生と二年生の期末テストの問題作りをしていた。二次試験とほぼ同じ時期にあるからだ。しかし今日の午前中までに大方終わらせた夏侯惇は、午後までに帰宅して昼食を取って于禁を待っていて。
前回とほぼ同じような服装の于禁は、またしても既製品の菓子が入った紙袋を手に提げている。いつもの様子で「お邪魔致します」と言った。
律儀に来てくれるのは嬉しいのだが、前回の時点で浮かんで来なかった疑問が唐突に湧いてくる。
「……試験勉強は、いいのか? そろそろ、近いのだがな」
「頭に叩き込んであるので大丈夫です。それに息抜きをしろと仰ったのは夏侯惇殿、貴方なのでは?」
自身の発言を思い出した夏侯惇は言い返す言葉が則座に見つからなかった。なので必死に探していると、于禁は紙袋を夏侯惇に渡す。その瞬間にようやく言葉が見つかると、受け取る動作をすぐに止めた。
「俺と新聞の切り抜きをしても、息抜きにはならんだろう」
「なります。単純な作業が、脳を休められるのです。それに前に私が言った筈ですが。私は新聞記事の内容に、興味があると」
「……そうか、分かった。では、切り抜きをするぞ」
これ以上言っても無駄であり、そして于禁の言い分はとても合理的なものであった。反論する余地が無い。
諦めた夏侯惇は、紙袋を受け取って礼を述べる。中身は前回とは違うものであったので、夏侯惇は嬉しげな表情を思わず浮かべた。それにつられたように、于禁までも同じ表情を僅かに見せる。すぐに、元の顔に戻ったのだが。
菓子を出した後に新聞紙とそれにコーヒーのセットを、既に置いているテーブルに向かうように夏侯惇は指示する。それにすぐに従った于禁は、椅子に座り背筋を伸ばす。続けて夏侯惇もテーブルに向うと、新聞の切り抜き作業を始めたのであった。
夏侯惇は今週は遅くまで学校に居たので、前回よりも新聞紙の量は多い。しかし今は于禁が居るので、作業時間は従来よりも大幅に短縮できていた。それでも、終わった頃には夕方前になっていたが。
「すまんな、こんな時間まで」
「いえ、とても充実した時間を過ごせました。ありがとうございました」
夏侯惇は疲れたのか背もたれにぐっと体を預けているが、于禁は変わらず背筋を伸ばしている。あまり疲れていないのだろうか。
「あの……とても差し出がましいのですが、早目ではありますが、夕食を私に作らせて頂くことはできないでしょうか?」
「えっ……?」
動揺した夏侯惇は、于禁の先程の発言を何度も脳内で反芻させる。そして口をぽかんと開けているが、于禁は発言を撤回したくなったのだろう。焦った様子で、首や右手首を横に激しく振った。
一方で夏侯惇は刹那的に瞼を閉じて開けると、何かを決めたらしく開けていた口を閉じる。
「い、いえ……やはり、何でもな……」
「作ってくれ」
「はい」
于禁の首と右手首の動きが止まると、椅子から立ち上がった。だが夏侯惇の顔を見るなり、顔を真っ赤に染める。常に維持している鋭い目付きが、今は面影もない程に垂れた。
しかし視線を逸らしてから短い深呼吸を入れた于禁は、鋭いものへと戻した瞳を元の方向を戻していく。夏侯惇は未だに椅子に深く座っていて。
「……その前に、お伝えしたいことが」
「どうした?」
緊張している様子が、夏侯惇からでも分かった。そして今から放たれる言葉の数々を微かに予測していた夏侯惇は、改まるように椅子に深く座ることを止めたらしい。背もたれと背中に、僅かな隙間を作る。
于禁からは、告白されるのだろう。夏侯惇自身も于禁への気持ちに気付いているのだが、教師と生徒という間柄である。今はそのような関係では問題でしかない。両想いだと、例え分かっていても。
「夏侯惇殿……貴方のことを、好いております。ですが、今の私は貴方の教え子という立場であるので、高校卒業後に、付き合って頂けませぬか」
頬には赤色があるものの、于禁はずばりと言う。そして于禁からの告白を冷静に聞いていた夏侯惇だが、両想いだということがこれで確実になった。返事は勿論「良い」なのだが、その前に一つ言葉を挟んだ。
「俺はお前よりも一回り年上だぞ? 俺は三〇歳だぞ? それに、お前はまだ若いから気が変わる可能性が……」
「そのようはことはありませぬ。約束致します。ですので、私が卒業するまで待って頂けないでしょうか︺
于禁の顔も声も、とても真剣なものであった。それほど、夏侯惇に本気なのだろう。充分にそれが伝わった夏侯惇は、お手上げになってしまったかのように口角を上げていく。
「……実は俺も、お前が好きだ。だから、付き合ってやる。卒業を待っているからな」
「……ッ!? ありがとうございます!」
あまりの嬉しさに、于禁は夏侯惇の方に歩み寄る。于禁は今にも泣きそうな顔をしていた。必死に涙を堪えている。しかしそれ以上は近寄らずに「約束致します」と再度言った。
「……分かったから、夕飯を作るのではなかったのか?」
あまりの可愛らしい様子に笑った夏侯惇は、于禁が行おうとしていたことを指摘する。告白を受け入れられたことに感動し、忘れていたのだろう。ハッとした于禁は「キッチンをお借りします」と言って、急いでキッチンへと向かって行った。
そして早目の夕食を二人で取ったが、于禁は途端に緊張した様子で食事を口に運んでいた。時折唇の端や頬に食べ物が付着していたが、今まではそのようなことなど一切見たことがない。なので夏侯惇は相当自身のことが好きなのであると思うと、まだ付き合ってもいないのに付き合っているような感覚が込み上げてきた。
しかし于禁が卒業するまでは、それを抑えようと心に決めたのであった。于禁が高校を卒業するのは、もうすぐなのだから。