円
空に雲が一つも浮いていない夜が、深まったばかりのことである。
数十分前に互いに肌を重ねた後に心身ともに落ち着かせた二人は、燭台の火が弱くなり、薄暗くなってしまった夏侯惇の寝室に居る。
どうやら于禁は今は、肌寒いのか軽く結っていた髪を解いている。そして夏侯惇の寝室へと訪ねた直後に、丁寧に壁に掛けていた着物を寝台から離れてから取って羽織っていた。
一方の夏侯惇は髪を乱れさせたままで、衣服も何も着ないまま于禁に背を向けている。そして体の主に太腿や腰に鮮やかな赤い色の痕を散りばめさせ、寝台の上で背を少しだけ丸くして胡坐をかいていた。
「もうじき御体が冷えて参りますので、そろそろ着物をお召しになられてはいかがですか?」
夏侯惇は寝室の窓から見える、ただただ黒い空を見ている。その背中に向かって于禁はそう言うが、夏侯惇からの返事はとても曖昧なものであった。
「あぁ」
于禁はそれに対して小さな溜息をつくと、夏侯惇の背中へと大股で向かう。普段は眉間にいつもある深い皺など、ほとんど作っていない様子で。
「仕方のない御方ですな……」
その際に着物の前を簡単に締めようとしていたが、その手を離してから寝台に乗り上げて夏侯惇の背中へと近付く。その後は律儀に背筋を伸ばしてから正座をしていて。
夏侯惇の背中には先日の戦でついてしまった、まだ濃い傷跡も広い範囲にある。だがそれは、どこか退廃的な美しさがあった。痛々しい刀傷が幾つもあるものの、いびつな軌跡を描いている星空のように、或いは水紋を不規則に生成されたもののように見えていて。
しかし于禁はそれにやや痛まし気な視線を送ると、背筋を伸ばしていた背を少し丸めてからそれに顔を近付けた。理由はやはり、その美しさを感じてしまったからだ。すぐ背後に来た于禁の気配に気付いた夏侯惇は若干背を強張らせて伸ばしたが、すぐに再び丸くさせる。
「どうし……おい、擽ったいな」
相変わらず窓を見ながらでも何か話そうとしていた夏侯惇だが、それは途中で于禁により中断されてしまっていた。夏侯惇の背中を、寝台に乗り上げていた于禁の唇が触れる程に這わせ始めたせいで。
背をまたもや強張らせながらも、抵抗などする気が無い。代わりにとても嬉しそうに笑う。
「別に、良いでしょう」
于禁は背中から少し離れ、そう言うと触れる程に這わせる行為を再開させた。主に傷跡のあたりを這わせる。しかし夏侯惇は傷跡が疼くことや痛いという感覚はなく、言葉の通りに擽ったいということのみを于禁に訴えていて。
一通り傷跡に唇を這わせ終えた後に于禁は、夏侯惇の腰に両手を回してから自身の胸板と背中を密着させる。夏侯惇の背中はひんやりしていた。そこで于禁はようやく眉間に深い皺を作る。
「やはり、御体がここまで冷えていらっしゃる……」
「んっ、ん、ぅ……別に、寒いということは……ない……」
そして于禁は夏侯惇の両肩や項にも唇をゆっくりと這わせると、夏侯惇の体がびくりと跳ねた。背よりも、こそばゆいらしく。
しばらくしてから両肩や項にも這わせ終えると、于禁は這わせていた唇も、密着させていた胸板も離した。夏侯惇は物理的にも精神的にも、そして心地良い人肌の体温が唐突に無くなったので、思わず体ごと振り返らせる。驚いたような顔をしながら。
すると目の前には、先程まで羽織っていた着物をいつの間にか脱いでいる于禁が居た。夏侯惇が何か言うのを妨げるように、それを両肩からすぐに被せる。
「もう、休まれた方がよろしいかと。先程の私との閨事で、体力をかなり消耗されているので」
夏侯惇の体に再び于禁の心地良い温かさがじんわりと伝わった。その瞬間に睡魔が襲ってきたようだ。失明していない眼の丸かった瞳が、少しずつ円としての形を失っていく。
それを見た于禁は眉間の皺を薄くしてから頬を緩ませると、夏侯惇の体を支えながら寝かせた。とても貴重な品を扱うかのように、ゆっくりと丁寧に。
その際に少しの揺れが起き、夏侯惇への睡魔の侵攻に拍車をかけたらしい。夏侯惇を寝台の上に仰向けに寝かせたときには、既に眠りの底へとついていた。
それを于禁が確認すると、明かりが静かに潰えかけている燭台に向かってから、完全に室内に暗闇を生み出す。そして寝台へと物音立てずに乗ると横になり、夏侯惇に掛け布団をふわりと掛けた。続けて横になった自身にも掛け布団と、それに瞼を閉じて更に暗闇も被せた。
夏侯惇の後を追うように、眠りの底へとつくために。