喫茶店のドアを開けたら
昼になると于禁は来週に迫った編集会議にて、プロットを提出したいと蔡文姫に連絡した。連絡をするのは引っ越し以来なのでかなり久しぶりであるが、蔡文姫の態度に全く変化が無い。寧ろ今から電話で、打ち合わせをする日時を決めたいと返事が来る。
なので于禁から蔡文姫に電話を掛けると、夏侯惇の言う通りで今は少し暇らしい。スマートフォンのスピーカーから聞こえる音は、慌ただしい足音や声がいつもよりかなり少なかった。
会う日時はすぐに決まったが、翌週の月曜日だ。それなりに急な予定である。すると蔡文姫が前のように場所は出版社の小さな会議室で、と言っている最中に于禁が遮った。たまには外で打ち合わせをしないかと。その後に簡単な話し合いだから、すぐに終わると付け加えた。
蔡文姫はそれに対して驚くこともなく楽しそうに快く返事をすると、蔡文姫との打ち合わせの予定を入れた。待ち合わせ場所は出版社近くの喫茶店である。それに家からも近い。時間帯は昼過ぎなので、休日よりかは恐らく客が少ないだろうと予想していた。
蔡文姫との予定の当日になり、于禁は待ち合わせ時間の五分前に到着する。伸びた長い髪を軽く纏め、服装はまだ慣れないカジュアルスーツ。そして手首には夏侯惇とペアの、革製のブレスレットがある。
結局于禁は話し合いの後に、しばらくここに居るつもりらしい。この喫茶店はチェーン店であり、清潔感があり接客態度も良い。ここにしばらく滞在するには問題が無いだろう。暖かな明るさの照明と暖色系の壁の色により、雰囲気も良く感じた。客足は昼過ぎの時間帯なのでかなり少ない。
先に着いていた于禁が四人掛けのテーブル席に案内されると、プロットを纏めたノートとペンとノートパソコンを机上にきっちりと置く。そして腕時計を見つつ、席に案内されるなり店員が持って来た一つのグラスを見た。冷水が入っているので汗をかいており、テーブルに垂れていく水を見ながらメニューをぼんやりと見る。
「お久しぶりです!」
聞き覚えのある女性の声が聞こえたので顔を上げると、目の前には蔡文姫が立っていた。于禁は挨拶を返してからすぐに向かい合った席に座って欲しいと促す。
「髪を伸ばされているのですね。編集長からそれを聞いていましたが、とてもお似合いです」
「え、え……?」
夏侯惇が事前に、于禁をスムーズに見つける為の特徴を教えていたらしい。蔡文姫がそう言う。最初は驚いていた于禁は眼鏡のブリッジを、下がってもいないのに上げている。しかしそれを聞くなり落ち着きを取り戻した于禁は、メニューを見て何を頼むか決めた。そして「私の奢りでいい。茶を飲みながら話そう」と言うと、メニューを渡す。そして蔡文姫は素直に礼をしてから頷いて注文するもの決めていく。
近くを通りかかった店員に注文するものを伝えると、于禁はすぐさま本題に入った。
先週の金曜日に電話を掛けた後に数本のプロットのデータを送っていたので、蔡文姫は担当編集としてのアドバイスをしていく。そのデータが閲覧できるスマートフォンを、テーブルの上に置いてから。
主な内容は登場人物の特徴が物足りないことと、話の起伏が第三者から見たら少し小さいことだ。蔡文姫曰く前まではそうでは無かったと言っているので、やはりしばらく小説を書いていなかったからだろう。于禁は蔡文姫からのアドバイスを真剣に聞くと手元のノートにメモをしていった。
途中で注文したものが運ばれてくると、二人は会話を止める。于禁が注文したものは、白いマグカップに注がれた黒色のホットコーヒー。蔡文姫が注文したものは白色をベースに、青色の上品な模様の入ったカップに注がれた紅茶だ。于禁は熱いので少しずつ飲んでいくが、蔡文姫は一緒に提供された角砂糖とミルクを入れて掻き混ぜている。
「于禁殿とこうしてお茶をするのも楽しいですね」
紅茶がミルクにより綺麗な茶色になった。蔡文姫はニコニコしながらカップの持ち手を取り、美味しそうに飲んでいく。
「あぁ、そうだな」
「そういえば、編集長とは最近どうですか? 少し前に、お引越しをされたと編集長から聞きましたが」
于禁は口に含んでいたコーヒーを吹き出しかけると、静かにむせながらマグカップをテーブルの上に置く。それでもなお治まらないのでグラスの水を飲んでいたが、顔は真っ赤だ。
「特に何もなく、平穏に暮らしている……」
どうにか言葉を絞り出すと様子が落ち着いたが、顔の色は全く変わらない。
「それは何よりです」
一口が小さいので、蔡文姫は何度も何度も紅茶を口に運んでからそう返す。すると于禁はそれからは何も言葉が出てこなくなり、視線を店内の様々な方向へと泳がせた。
「……えっ!? 申し訳ありません。急に用事が入ってしまったのでこれで失礼します。ご馳走様でした。また何かあれば連絡して下さい」
すると蔡文姫のスマートフォンに何か通知が入ったが、それを見るなり顔色を変えていた。于禁は画面を見ていないし、見るつもりは無いが相当に大事な用件が入ったのだろう。蔡文姫の表情が焦っているのが、何よりの証拠である。
蔡文姫のスマートフォンに入った用事を聞くつもりがない于禁は「今日は忙しい中、感謝する。私はもう少しここに滞在する」と短く告げた。しかし蔡文姫は于禁に知られても問題ないのか、紅茶を急いで飲み干してから用事の内容を明かす。
「先程の連絡は、他の担当編集が作家さんとの打ち合わせをする予定でした。ですが体調不良で早退してしまったので急遽、今から私が代わりに打ち合わせをすることになりまして……」
「それは、蔡文姫殿が穴埋めをしても問題ないものなのか?」
于禁が後に「失礼だと思うが」を加えると、蔡文姫は首を縦に振った。
「大丈夫です。突然とは言え、打ち合わせの内容はとても簡単なものなので。ご心配ありがとうございます」
「そうなのか、それはよかった」
胸を撫で下ろした于禁は「ではまた今度」と言うと、蔡文姫がいそいそと立ち上がる。幸いにも出版社の近くなので、打ち合わせの準備などがすぐにできるだろう。場所のチョイスがよかったと、于禁は内心で更に安堵した。
改めて礼を述べた蔡文姫は、急ぎ足で喫茶店から出る。于禁は蔡文姫の小さな背中を見送った。
その後に店員に于禁はコーヒーのおかわりを注文してから、辺りを見回した。現在は周囲の雑音がより聞こえるようになったのか、客足が増えているように思える。恐らく時間からして、食後のコーヒーを求める客が来たのだろう。
そう思っているとおかわりのコーヒーを店員が持って来た。軽く会釈をしてから、テーブルの上に丁寧に置かれたマグカップを見る。黒々とした液体、それに湯気を視界一杯に収める。だがまだ熱々で、掛けている眼鏡のレンズが一気に曇る。なので心の内で僅かに笑った後に、もう少し冷めるのを待つことにした。
周囲を改めて見ると、客層は様々であることが分かった。平日のこの時間でも老若男女、それぞれの層が必ず一人は居ると言ってもいい。于禁はこの時間帯に足を運んだことが一度も無かったので、小さく驚いていた。
だが肝心の他の客の会話は、近隣のテーブルしか聞こえない。于禁の隣のテーブルには二人の女性客が向かい合って座っているが、先程注文したメニューを提供されたばかりであった。賑やかに話しながら食べると思いきや、食事に集中していたからだ。この客は、食後のコーヒーではなく昼食を求めていた。于禁は多少は冷めたコーヒーを啜りながら、先程の蔡文姫との会話のメモを纏めていく。
そうしていると、隣のテーブルの女性二人は完食してからメニューの感想を簡単に言い合った。だがすぐに立ち上がると、会計の為に立ち上がってしまう。于禁は頭の中で残念だと思ったが、それを一応ノートにこっそりと書く。
ぬるくなり始めたコーヒーを啜り、于禁は隣のテーブルに座る客を待った。二杯目のコーヒーを少しずつ飲んでいく。しかし入店してくる客がぱったりと途絶えたので、于禁は仕方なくコーヒーを飲み切ってから帰宅する為に荷物を纏める。満席ではなくとも、これ以上の時間で滞在するのは店側としては良くないと思い始めたのか。
席から立ち上がりレジに向かう。すると店員は暇そうにしていたのか、于禁の存在にすぐに気付き会計をした。
そして喫茶店のドアを開けると、雨がざあざあと降っていた。天気予報をチェックしていなかった于禁は、軒下で肩を落としながら空を見る。まずは傘を確保しなければならないが、一番近いコンビニまでは走っても五分は掛かる。確実にずぶ濡れになるだろう。このまま濡れるか、それとも雨が止むのを待つか。
どちらを取っても于禁を悩ませるものである。雨が止む気配のない空を睨みながら、どうやって帰宅するか考えた。すると雨音により足音が掻き消されていたのか、横に人の気配があったと思うと于禁は反射的に視線を変える。
「雨が止まないな」
隣には何故か夏侯惇が居た。それも同じ軒下で于禁に開いた黒い傘を差し出している。
しかし于禁は首を傾げた。
「夏侯惇殿……?」
「先程まで用事で少し外に出ていたら、お前をたまたま見つけたのだ」
つまりは様々な偶然が重なり、夏侯惇とここで会えたということになるらしい。納得をするのに時間がかかったが、理解をすると于禁は目を輝かせた。そして未だに開いた傘を差し出されているのを見て、于禁は僅かに笑う。
「……家まで近いのでよろしければ、私を送って頂けますか?」
「あぁ、いいぞ。送ってやる」
夏侯惇も笑うと、于禁と共に軒下から出た。その際に二人で傘に入るが、大の男二人ではかなり狭い。傘からはみ出ている二人の肩を濡らしながら、家へと向かって行く。
するとその最中に于禁は良い人間関係についてのネタが思い浮かんだのか、気分が良さそうに夏侯惇と共に歩いたのであった。
帰宅すると、玄関で夏侯惇と僅かに口付けをする。だが一度してしまうと止まらないので、もっとしたいと求めた。だが夏侯惇が「会社に戻らなければならない」と言って、于禁はお預けを食らう。なので于禁は会社に戻る夏侯惇を、愛しげに見送った。
リビングに入って少し休憩した于禁は、書斎でプロットを数時間も掛けて人間関係についての先程の事柄を書き足したのだ。すると人間関係の肉付けが上手くいき、ピースが上手くはまる。プロットの段階だが書き終えた于禁は、満足げに体を伸ばした。体に重く降り掛かる、疲労感などどうでも良いと思いながら。
すると于禁はすぐにそれを蔡文姫に三本提出した。結果、数日後の金曜日に行われた編集会議ではそのうちの一本が通る。
蔡文姫からその連絡を受けると、于禁は礼を述べながら打ち合わせについての日程を決めていく。土日が挟むので翌週の月曜日になるが、于禁はそれが待ち遠しくて仕方がなかった。
そして迎えた月曜日に蔡文姫と出版社で打ち合わせをこなし、帰宅をするなり于禁は小説を楽しそうに書き始めたのであった。