一枚のドアを開けたら - 4/5

寝室のドアを開けたら

「夏侯惇殿……」
夜が深くなりつつあった。于禁は綺麗に掃除をしている自室に夏侯惇を招くと、鎖骨まで伸びた髪をかき上げる。そしてベッドの上で入浴を済ませてから着ていた服を脱ぎ、夏侯惇を熱っぽく誘った。眼鏡を掛けていないのであまり視界が良くないが、于禁の現在の気持ちによりそのようなことはどうでもよくなる。
目の前に立っていた夏侯惇は、中腰になってから于禁の髪をさらりと掬いながら笑う。その誘いに、すぐに乗ったのだ。
「やはり長い髪も、似合っているな」
褒め言葉の直後に、唇を合わせた。夏侯惇は一瞬だけの口付けのつもりであったが、于禁の考えは違っているようだ。舌で夏侯惇の口を割ると、勢いよくまさぐっていく。
驚くとともに、夏侯惇の体勢が崩れてしまった。そのまま于禁を押し倒すように体が崩れる。于禁は白いベッドの上に倒れてしまったが、怪我などはしていない。安堵した夏侯惇だが、深い口付けによる動揺が続いていた。
しかしどうすべきかと思うことはない。誘われて乗ったのだから、夏侯惇は于禁の体を目一杯楽しんでいったのであった。
それから後処理まで終えた二人は、ベッドの上に同時に横になる。今日の性行為は軽いものであったので、于禁も後処理の手伝いをできていた。夏侯惇としてはそのままベッドに横になっていて欲しかったと思っていたのだが。
「……そろそろ、明日からでも、小説家としての活動を再開しようと思っています」
二人は服を何も着ていないので、向かい合って肌を密着させて毛布を被っていた。
その中で夏侯惇は、于禁の髪や体の皮膚を撫でている。于禁はあまりの安堵に目を伏せていたが、唐突に夏侯惇に告げた。だがその理由はとても簡単なものであるらしく、于禁は短く説明する。
「荷解きは全て終わりましたし、今はここの書類に追われていません。なので、このまま何もしないというのは、私としてはかなり不快ですので……」
「お前がそうしたいなら、そうすればいい。だが俺は編集会議では、お前を甘やかさないからな」
返事は用意していたかのように、夏侯惇の口からすぐに出てきた。しかし実際には反射的なものらしいが、夏侯惇は訂正する気はない。それが、本心なのだから。
「ありがとうございます。是非とも、そうして頂きたい」
乱れた髪をしている夏侯惇を見て、小さな笑みを浮かべた于禁は体勢を変えないまま礼を述べる。だが瞳だけは真っ直ぐに夏侯惇を見据えていた。
すると夏侯惇は先程よりも髪や皮膚を触れる手付きを、ゆっくりとしていく。案の定、于禁はゾワゾワとした感覚を覚えたらしい。目を見開いて夏侯惇を見るが、視線を無視される。そして交わった際の熱が戻ってしまったのか、僅かに声を漏らした。
「足りなかったのか?」
「い、いえ……」
答えたのは全くの嘘であるが、夏侯惇には見透かされていた。于禁の手首を捕まえてから、素早く覆い被さる。
そこで夏侯惇の下半身が于禁の腰に当たるが、膨らみを取り戻していた。驚いた于禁は顔や耳を真っ赤にさせ、下半身が真似をするように同じような状態になっていく。
「素直ではないな」
冗談混じりに呟いた夏侯惇は、于禁の首の周辺に唇を触れた。びくりと体を跳ねさせた于禁は、否定の意思表示として顔を横に振る。しかし夏侯惇にはそれが嘘だと分かりきっているのか、喉仏に軽く噛み付いた。于禁は地声の、短い悲鳴を上げる。
「本当に……違います……」
于禁の顔が赤らんでおり、瞳が酷く潤んできていた。やれやれと思いながらも、夏侯惇は微かに笑う。
「言い訳は後でゆっくり聞いてやる」
そう囁いた夏侯惇は、于禁の体に再び沈んでいったのであった。

翌朝、于禁は僅かな物音で目を覚ます。ゆっくりと瞼を上げると、夏侯惇がベッドから出てきたばかりであったようだ。目が合うと、夏侯惇はベッドにすぐに戻っていく。
「起こしてしまってすまん。今日も仕事だからな……」
于禁の長いぼさぼさの髪を、夏侯惇が柔らかく撫でる。思わずうっとりとした于禁だが、すぐに手が離れていくと眉を下げた。
「いえ、お構いなく」
「于禁、昨夜から言っていることと、表情が真逆だぞ」
夏侯惇が微笑みながらそう指摘すると、于禁はようやく自身のことに気付いたらしい。確かに、言われてみればそうだと。なので「申し訳ありません……」と小さな声で謝った後に、シーツで全身を隠す。夏侯惇よりも大きな体を、なるべく小さく丸めながら。
すると何かを思った夏侯惇は、大きなシーツの塊を見ながらベッドの縁に座った。
「気にするな……そうだ、それと、編集会議は少し先だ。少しずつでいいから、頭を慣らしていけ」
少しだけ于禁が体を動かす。「はい」と短い返事をすると、夏侯惇が于禁の体を撫でた。だが頭を再び撫でたつもりが、肩を撫でていたらしい。于禁から「そこは肩です……」という不服混じりの声が聞こえた。
「シーツでお前が見えなくてな」
間違えていようとも、夏侯惇は堂々と答える。そして同時にシーツを剥がせと言いたいのだろう。ぼんやりと理解した于禁は、数秒の沈黙の後にシーツをゆっくりと剥がしていった。
姿を表すが、今は服を着ていないので肩のあたりまでで止めている。反対に夏侯惇は全裸のままで、相変わらずベッドの縁に座っているのだが。
「そういえば遅れてしまった。おはよう」
「……おはようございます」
于禁は主に部屋の壁を視界に入れ、その端に夏侯惇を入れる。しかし夏侯惇としては、于禁の目の動きなどでそれが分かったらしい。目線の先に顔を動かすと、夏侯惇は悪戯をしているかのように笑う。
しかし于禁はただ、姿を見せたので笑ったのだと思ったらしい。
「私も支度をてつ……」
「いや、いい。それよりもお前の体のことを考えていろ」
きっぱりと断った夏侯惇は、ベッドの下に寝ていた自身の眼帯を拾い上げる。それと周りに散らばっている、二人分の衣服もだ。
そのようなことをしている夏侯惇を見ていると、于禁は落ち着かなくなってしまっていた。なので私室の中を無意味にキョロキョロしてから、夏侯惇に話しかける。そのときにシーツを剥がしたので、夏侯惇から弱い睨みを受けた。
「それだけは、身支度のお手伝いを……」
「ベッドで休んでいろ」
頑なに提案した于禁だが、夏侯惇はシーツを掛け直す。ムッとしてから何か言おうとした于禁だが、途端に腰に鈍い痛みが走ると短い息を吐いた。そこで夏侯惇の言う通りにしようと思い、返事をする。
「なるべく早く帰る」
そう言った夏侯惇はベッドから離れていく。なので于禁が「行ってらっしゃいませ」と言うが、夏侯惇の身支度はまだ始まってもいない。それでも夏侯惇が「あぁ」と振り向いて言うと、寝室を出る。
直後に于禁は眠たくなったのか、ベッドの上で再び眠ってしまった。

于禁が目が覚ましたのは、昼前である。時間が分かったのはスマートフォンを確認したおかげであるが、夏侯惇からは特にメッセージが来ていない。しょんぼりとしたが、腰の痛みはかなり和らいでいた。于禁はほっとする。
ゆっくりとベッドから起き上がると、于禁は身支度を始めてから軽い食事をした後に書斎に入った。すると夏侯惇に昨夜言っていたように、小説家としての活動を再開するために準備をしていく。
少し前からプロットを大まかに書いていたので、それを自身で精査し始めた。日にちを置いて見返してみて、話として成り立っているのか。あるいは矛盾点が無いのかを。
じっくりと文章を目で追っていくと、やはりそのようなミスがあった。前まではそのようなことは無かったので、確実に力が鈍っていると判断したが仕方ない。ここしばらくは、小説や文章の類を書いていなかったのだから。
構成のずれや綻びをつい夢中になって直していくと、いつの間にか夕方に差し掛かっていた。于禁は時刻を確認するなり、急いで書斎から出ると夕食を作る前に買い物をする。まだプロットの確認を終えていないので、頭の端に後悔を作りながら。
だが何も決めていないまま外を出た為、目的地までの道中で考えていった。歩きながらであり、道ですれ違う人々の中には買い物帰りの者も居る。エコバックからはみ出ている食材、それかビニール袋から透けている食材を視界の隅で捉えながら考えた。
結果、どうにかメニューを決められたらしい。なのでスーパーに着くと、スムーズに買い物を終える。
家に着き夕食を作ると言う通りに、夏侯惇がなるべく早く帰宅してくれていた。于禁はそれに喜びながら共に食事をして寝る支度をする。そして二人でリビングのソファで寛ぐと、于禁が昼間のことを話し始めた。だがこのときは、いつものように険しい顔をしていない。
「前に書いていたプロットを、今日は久しぶりに見直してみました。感想はこれしか浮かばないのですが……とても楽しかったです」
「それなら、良かったではないか」
于禁の頭をわしわしと撫でた嬉しそうに夏侯惇は、そのまま腕を肩に下る。そして顔を近づけるが、于禁の表情が次第に曇ってきていた。
なので肩に回していた手を、再度頭の方に上げる。指で于禁の長い髪を梳くように、ゆっくりと撫でていく。そこで于禁は目を伏せると、口を開いた。
「ですが、弁護士を辞めてから数年は経過しているので、人間関係についての描写が、何だか乏しい気がして……」
ほう、と納得した夏侯惇は撫でる手を止める。そうするよりも今返すべき言葉の方が、于禁にとっては必要だと判断したからだ。なるべく普段の声音を意識しながら、アドバイスを始めた。
「全く同じではないが、そのような話はよく聞く。その時は、そうだな……外で人間観察するのはどうだ?」
于禁は「えっ」という短い驚きを漏らす。やはりどちらかといえば夏侯惇の言う人間観察が苦手なので、少しずつ顔がひきつった。前にも考えてはいたが苦手であるが故に、挙動不審になってしまうことなど明らかである。
だがその『逃げ道』も夏侯惇は知っているらしく、手の動きを再開させる。
「最初からしっかりと人間観察をしろとは言っていない。まずはどこかの、喫茶店でもどこでもいい。そこに行って三〇分足らずでもいいから滞在して、周囲の客には悪いが会話を少しでもいいから聞いてメモをしてみろ。そこから始めろ」
「はい……」
「だが、なるべく空いている店のテーブル席がいい。会話を聞いていると知られるのは、さすがに良くないからな」
とてもしっかりとしたアドバイスを受けた于禁は、こくりと頷いた。そして自身がアドバイス通りの行動をしている様子を、頭の中で想像してみる。だがどうにも想像できず、無意識に困った顔を夏侯惇に見せてしまったらしい。肩をすくめた夏侯惇は、その後に軽く微笑んだ。
「担当編集との打ち合わせでどこかの喫茶店に行くのはどうだ? 今は少し暇だから、蔡文姫と外で話しても支障は無い。小説を再び書くのならば、蔡文姫と何かしらの話をしなければならないからな。その前か後に、休憩がてら滞在しているのなら自然だろう。どうだ?」
少し考えた夏侯惇は、他人から見たら辻褄の合う行動を提示する。曰く、他の作家もそうすることがあると何度か聞いたらしく。
于禁はそれならできそうだと思った。なので「仰ったことを試してみます」と返事をした後に礼を述べる。夏侯惇は大したことはしていないと言うと、于禁にとっては重要な予定を告げた。
「昨夜は編集会議は少し先と言っていたが、急遽日程が確定した。来週の金曜日だ。来週の木曜日の遅くとも午後までに、蔡文姫にプロットを提出してくれ」
「はい! それでは、提出できましたら、よろしくお願い致します!」
そう言った于禁は張り切るようにソファから立ち上がる。そして明日からの本格的なプロット修正に備えるべく、自室に入ってからすぐに眠ったのであった。

翌朝、太陽がしっかりと空に出ていた。
夏侯惇の起床時間の少し前に起きた于禁はキッチンで朝食の準備を始める。しかし夏侯惇はあまり朝は食べられないと、同棲してからそのことが判明したので毎回短い時間で済んでいた。今朝も軽い朝食を作っているところで夏侯惇が出勤の支度を終え、配膳などを手伝っている。
それが二人にとっての平日のルーティンなので、動きに無駄が無い。なのですぐにダイニングで朝食を取ることができ、于禁はありがたいと思えた。
「行ってくる」
テーブルの上に置いているスマートフォンの時刻を見るなり、夏侯惇は深い溜息をつく。出勤をするのが、少し憂鬱のようだ。その様子はたまに出てくるので、于禁は慣れている。
向かい合わせに座っている于禁が立ち上がり、夏侯惇の元に歩いて行った。そして頬に柔らかくキスをする。
「遅れますよ」
「ほう? 遅刻の原因がお前になってしまいそうだな……」
そう言って于禁の腕を引くと、夏侯惇が唇を合わせようと顔を近付けてきた。ふわりと同じジャンプーの香りを感じたところで、于禁はハッとする。なので夏侯惇の顔を避けてから、手を解いた。
不機嫌そうな表情に変わった夏侯惇を、于禁は見る。
「な、なりません……! 今ここでそうされたら、私が止まりません……!」
夏侯惇の方を見ていた于禁は顔を赤らめ、視線を大きく逸らした。一方で夏侯惇はというと、于禁と同じ顔色に変えている。だが視線は少しだけ下に傾いている程度。
一気に二人の言葉が消えると、部屋に静けさが現れた。
そして数秒が経過すると、我慢ができなくなった夏侯惇が勢いよく立ち上がる。驚いた于禁は視線を戻すが、夏侯惇はそれを無視した。
「遅刻するから、行って来る……!」
険しい顔をしているが、顔の赤色は相変わらずである。その様子を引き摺りながら急いで玄関に向かうと、そそくさと出勤して行った。
残された于禁はというと、朱色が肌を更に侵食している。そして自身の胸で鳴る大きな鼓動に負ける声で、夏侯惇が居ないというのに呟いたのであった。「行ってらっしゃいませ」と。