一枚のドアを開けたら - 3/5

浴室のドアを開けたら

「どうした?」
現在は入浴中である夏侯惇は、唐突に開いた浴室のドアに戸惑う。体につけていた泡を、流している途中である。そこで服をまだ脱いでいない于禁が「私もよろしいでしょうか」と、少し恥ずかしがりながら聞いた。このときの于禁は眼鏡を外しているので、目を細めている。
泡を少し残したところで一旦シャワーの湯を止め、夏侯惇は頷く。そして于禁の手を引いて浴室のドアを閉めると、服を着ているのにも関わらず湯を掛けた。于禁は「服が!」と異論を唱えるが、夏侯惇は笑いながらびしょ濡れにさせていく。ついでに、自身の体の泡を流しながら。
「ほら、脱げ」
「貴方は……」
于禁の濡れた服を摘んだ夏侯惇は、脱ぐように促した。恨めしそうな目を小さく寄越した後に、于禁は溜息をつきながら取り払っていく。しかし服がぴったりと肌に張り付いているので、なかなか服が体から離れてくれない。
苛つきを見せていきながら、于禁は服を引っ張る。それを見かねた夏侯惇は、脱衣を手伝った。
服はティーシャツとスラックスと下着のみだが、スラックスが一番の難関であったようだ。しまいには、于禁を座らせてからスラックスから脚を抜いていく始末。それが于禁にとってはどうにも、幼子の脱衣のように思えたらしい。かなりの屈辱に思ったが、そもそも夏侯惇が悪い。一瞬だけ夏侯惇を睨んだが、湯の暖かさや衣服の格闘により体が火照っていた。なので夏侯惇から見た于禁は、顔を赤らめている愛しい人が煽っているようにしか見えないでいる。
どうにか衣服を取り払うと、濡れた服を隅に追いやった。于禁を一時的に起こしてから、鎖骨のあたりまで伸びている髪に触れて耳に掛ける。ほんのりと朱色になっている肌が更に露わになった。その光景が綺麗だと思った夏侯惇は、于禁と一瞬だけ唇を合わせる。
触れるだけのキスをしたところで唇が離れていくが、于禁が眉間に深い皺を寄せながら夏侯惇の背中に手を回した。もっと、という合図なのだろう。
夏侯惇は于禁の腰に手を回すと、もう一度口付けをする。ただし先程のようにほんの軽いものではなく、深いものを。
「ん、んんっ……!? ふぅ、ん……!」
舌を引き抜かれるのではないかと思うくらいに、夏侯惇は于禁の舌を吸っていく。于禁は快楽と驚きを混じえた瞳にしていくが、どうやら次第に快楽が勝ってきているのだろう。眉間の皴がどんどん薄くなり、夏侯惇の何もかもに従順の目を向けた。
その間にも夏侯惇は于禁の口腔内を舌で隅々まで蹂躙していく。上顎や歯列、それに舌の裏まで。
ここは浴室なので、水音や吐息がよく聞こえた。それにより于禁は恥ずかしくなったのか、歯を閉じようとする。しかし夏侯惇は阻止すべく、舌で上顎をしっかりとなぞった。于禁は頭に、とてつもない痺れを感じて口をぽかんと開ける。その隙に、夏侯惇は先程の舌の動きを再開した。
二人の唇の端から唾液がゆっくりと流れていくうちに、于禁の表情や声がどろどろになっていた。それを確認した夏侯惇は舌を抜き、唇を離す。
「ここでやるか? それとも、ベッドがいいか?」
于禁の下半身には限界が来ている。その証拠として、于禁は腰をカクカクと揺らしているからだ。夏侯惇は視界の隅でそれを捉えるも、気付かないふりをする。
意地の悪い質問に、于禁はどちらともいえない反応を示した。荒い息を、幾つも吐いては吸いながら。
小さな冷静さを作った夏侯惇は溜息をつくと「ベッドに行くぞ」と促す。今は寒い時期なので、全裸でここに長居するのは良くないと判断できたからだ。于禁がうろたえながらこくりと頷くと、二人は冷え始めた浴室から出る。
于禁にバスタオルを掛けたが、早くと言いたいのだろう。熱っぽい視線を夏侯惇に向けてきたと思うと、そのまま抱き着いてくる。そのようなスキンシップは夏侯惇にとってはかなり嬉しい。しかし于禁の肌の水気を完全には拭き取れていないので、笑みを浮かべては急いでタオルで拭き取った。髪は雑にわしわしと拭くと、夏侯惇自身の体も同様に拭いていく。
「かこうとん、どの……」
「分かった分かった。ほら、行くぞ」
額に唇で触れてから于禁と共に夏侯惇の寝室に向かった。真冬に差し掛かっているので、ひんやりとした空気が二人肌を刺す。それでも部屋に入るなりベッドに倒れ、すぐに二人は体や唇を密着させる。于禁は我慢の限界であったのか、口付けの途中で濃い白濁液を出してしまっていた。
だが于禁に理性などないので、悪いことをしたなどの反応を見せない。寧ろ唇が離れると「貴方のせいです……」と言って笑い、一旦起き上がった。そして四つん這いになると、桃色の恥部の全てを夏侯惇に見せる。触れてもいないのに、入口が誘うように蠢いていた。
「すまんな」
夏侯惇はそれだけを言うと、于禁の腰を手で擦った。于禁の体が小刻みに震えているが、触れられるだけでも耐えられないのだろう。甘い吐息を出しては、腰を自ら揺らした。
その淫らな光景に、夏侯惇は自身の怒張の竿部分を于禁の入口に近づけた。そして竿部分を入口の周辺で扱くと、夏侯惇は落ち着かない息を吐く。一方で于禁は時折、下半身の良い場所を掠めるのか短い喘ぎ声を出していた。
我慢汁が垂れているのでよく滑る。にゅるにゅるという音の中で、夏侯惇は一心不乱に腰を振る。まだ挿入していないのに、しているような錯覚を覚えていたらしい。切羽詰まったような声で無意識に「出すぞ」と呟くと、宣言通りに濃い白濁液が出てきた。于禁は掛けられた精液のあまりの熱さに、尻を揺らす。シーツの上に落ちてもなお、皮膚がその熱さを記憶している。
「中に、ほしい……」
腕で体を支えきれなくなったのか、上半身がベッドのシーツに沈んでいく。尻を強調するような体勢になるが、于禁は気にも留めずに夏侯惇を誘った。発言の言葉自体は淡白ではあるが、喉から出る声には発情の色がきちんと見えている。
「もう少し待ってくれ」
興奮しながらも、夏侯惇はベッドサイドからローションボトルとコンドームのパッケージを取り出した。どちらも開封済みではあるが、コンドームは五個くらい手に取っている。今持っているものを使い切るつもりらしい。
そのようなことを、体勢からして于禁は把握できない。なので再度誘いの言葉を出しながら尻を振った。夏侯惇は「何といやらしい体をしているのか」と思いながら、ローションを手のひらに落とす。ひんやりと冷たいので両手のひらで温めると、それを于禁の尻に持っていく。その時の于禁の尻の粘膜は、期待により余計に収縮を繰り返していた。
「……っあ! ん、ぁ……は、あ、ぁ……」
人差し指がつぷりと入ると、苦しいというのに于禁は善がった。体自身が、夏侯惇を歓迎しているのだろう。虜になっているのだろう。狭い入口は解さなければならないのは、毎回のことなのだが。
少しずつ慣らしていき、そして于禁の反応を楽しみながら指を増やしていく。肉の筒が夏侯惇の指にむしゃぶりついて、ずっと離してくれない。
「ぅあ、あ、は……ん、ッ! ぁ、あぁ!」
指でわざと前立腺に触れてみると、于禁は半ば狂いながら白濁液をシーツに向けて噴出した。肩や背中が大きく震え、薄い茜色が侵食していく。夏侯惇はそれを見て、茜色をより強いものにしたいと思えてきた。少しずつ背中にのしかかっていくと、于禁の肩に弱い力で噛み付いた。高く短い悲鳴が、于禁から聞こえる。
自身の歯型がほんのりとついているのを見て、夏侯惇は同じ箇所にもう一度噛み付いた。次は先程よりも強く。
「ひ、ゃあ! ぁ!」
またしても于禁が悲鳴を出した瞬間、夏侯惇は指で前立腺を押した。すると于禁の体が面白いように跳ね、白濁液が噴き出す。
今度は皮膚に歯型がくっきりと残った。それを見て満足をした夏侯惇は、指をぬるりと引き抜く。数本の指に、ローションが纏わりついている。
今気付いたのだか、于禁は振り向く余裕などない。それだと善がっている表情が見れないのでつまらない、そう考えた夏侯惇は于禁の腰や背中を掴む。夏侯惇の動作に期待した于禁だが、体勢をぐるりと仰向けに変えただけである。期待して損をした、という顔をすると夏侯惇はそれを察したらしい。口角をぐいと上げる。
「こうすれば、もっと俺にねだることができるぞ?」
ほら、と言いながら于禁の膝を持ち上げた。尻が浮いたと思うと、膝が胸のあたりにまで到達する寸前にまで上げていく。すると先程の浴室での脱衣を思い出し、于禁の顔や体がより赤く燃え上がった。しかし直後に于禁が「げんじょう……」と呟き、夏侯惇の方をしっかりと見る。瞳は相変わらず、情欲の熱で溶けていた。
「ここを、あなたの摩羅で、めちゃくちゃにして下され……」
于禁に恥じらいなど全くない。夏侯惇はそれもつまらないと思ったが、とても煽情的な姿にもう待つことができなかった。なので素早くコンドームの封を口で開けてから、自身の怒張にぴったりと纏わせていく。
待ち構えるように、于禁は自ら肉の入口の縁を指でしっかりと開いた。今までに何度も何度も味わったそこは、飽きる気配がない。同じように、夏侯惇も于禁の虜になっているのだ。
粘液に塗れるひくついた入口に怒張の先端をゆっくりと近付ける。于禁の鼻息が荒く、夏侯惇を今すぐにでも欲していた。なのでそれに応えるように、夏侯惇は于禁の体に貫いていく。怒張の姿が見えなくなる毎に、于禁は呻きに似たような悦びの声を出した。口を半開きにして、瞳を薄く覗かせながら。
「あッ、ぁ……! んぅ、は、ア、ぁ……」
ゴムという薄い隔たりがあっても、于禁の中はしっかりと熱かった。それにきつく締まっているので、寧ろ夏侯惇が苦しげな言葉を漏らす。
怒張の先端の辺りにある一番膨らんでいる場所が、肉の縁に引っ掛かる。于禁が「ひゃ……!?」と小さく高い声を上げるが、夏侯惇はそれを無視して腰を進めていく。
大きさや形というものを体や脳が覚えてはいるのだが、于禁は相変わらず戸惑っていた。その『初めて』のような反応に、夏侯惇に火を点けてしまったらしい。低く笑いながら、于禁に慰めではない言葉を掛ける。少しずつ進めていた腰を、わざとのろのろと引かせながら。
「なんだ? 先程のは、虚勢なのか?」
「ゃ、ちが……!」
必死に于禁が首を振り、夏侯惇に手を伸ばす。否定をする為に、求める為に夏侯惇の頬に触れようとしたが指先が掠めた。于禁の腕の長さからして、届かないということはまずはない。実はその時に、夏侯惇が腰を一気に打ち付けていたからだ。
于禁の悲鳴と腕が、シーツの上にぼとりと落ちる。
「ぃ、やぁ、ぁ!? らめ、いきなりは、ぅ、はぁ、あ、ッひ、ァ、ん!」
線がはっきりとした結合部が形成されると、夏侯惇はすぐに腰を振る。しかしあまりの股の狭さに、コンドームはすぐに用済みになってしまった。舌打ちと共に一旦怒張を引き抜くと、縛って処理をしてからもう一個のコンドームを開封する。
于禁は興奮しながら夏侯惇のそれらの動作を見ると、腹の奥が既に疼いていた。雄々しいそれを、瞳で射抜きながら。
纏わせた怒張を再び入口に挿し込むと、于禁の体が震える。夏侯惇はその様子を見るが、それよりも内側で暴れている欲を放ちたいのだろう。于禁の腰をがしりと掴むと、律動を再開させた。
肉を真っ直ぐに穿つ音が、大きく響く。
「ぁ、あ、イく、い……っは、イく! ぁあ、あ!」
「ッぐ、いいな……!」
小刻みに二人の体が揺れるが、ベッドは大きく軋んでいた。それ程に、夏侯惇の腰が激しく動いている。下で于禁が乱れている様を見て、夏侯惇は唇の端を大きく上げた。片方しかない瞳を明るいものとは別の意味で、鋭く輝かせながら。
短くとも荒々しい呼吸をしている夏侯惇は、苦しげな息を漏らす。するとゴムの中に精液を吐き出せたのか、酸素を大きく求めるように口の中に空気を吸い込む。夏侯惇が掴んでいた腰を離すと、何度目かの射精をいつの間にかしていた于禁は虚ろな目をしていた。それにぐったりとしているので、もうすぐ気を失ってしまうのだろう。浮いていた膝の裏が、シーツに着いてしまったからだ。
最初はコンドームを五つ使おうとしていたが、夏侯惇はその考えをすぐに取り払った。焦点の合わない于禁の瞳孔を見てから、そっと唇を合わせる。顔が離れていくと、于禁は合わない視点を必死に取り繕う様子が伺えた。
体と同様に、吐く言葉が大きく震えている。
「ま、って……げんじょう……」
「無理をするな」
于禁の目が次第に閉じていく。本人はそれに抗おうとしているが、どんどん細くなっていくばかり。夏侯惇はそれを見届けながら、静かに呟いた。于禁の長くなってきている髪をすくって、触れる。
そして人生で何回目なのかもう分からなくなってしまっている、于禁を想う気持ちを伝えていたのであった。

夜が明けて于禁が目を覚ますが、隣には夏侯惇の姿が無い。本来はあるはずの、体温でさえも。
少し嫌な予感をさせながら、枕元にいつの間にか置いてある眼鏡を掛けてスマートフォンを確認する。夏侯惇から『急に仕事が入った。すまん』とメッセージが届いており、于禁は難しいものを見るような顔をした。
仕事とはいえ仕方ないと思ったが、珍しく機嫌を損ねる。なので『それならば、今日の夜にどこかへ連れて行って下さい』と返した。わがままを言ってみたくなり、その理由は特にはない。何となくだ。
返信を送りスマートフォンで現在の時刻を見ると、午前一〇時過ぎ。なのでスマートフォンをシーツの上に投げると、見慣れつつある天井を眺める。
ここに越して、数ヶ月が経過した。夏侯惇との生活に不満はなく、そして同棲して相性が悪いということはない。物事の価値観に多少のズレがあるものの、互いに妥協しあっているので亀裂が入ることもない。杞憂であった経済的な価値観は、家賃収入により少しずつ差を埋めていっていた。
だが于禁は、何か労働をしなければ気が済まないでいる。どうにも、気持ちが悪いのだ。
しばらくはこのマンションのことで、小説家としての活動をしていない。だがその間に幾つか、思い付いた事柄をある程度はメモをしていた。そこで于禁は、そろそろ小説家としての営みを再開してもいいかと思い始める。編集会議を通してからでなければ、本を出せないような立場ではあるが。
なので于禁は腰に負担を掛けながらベッドから出ると、何も着ていないということも気にせず自室に行く。自身のベッドの上で作業をしようとしたが、夏侯惇の寝室へと戻る為にメモだけを持つ。夏侯惇が居らず、寂しいからなのか。
前に購入した二台目のノートパソコンは夏侯惇の部屋の机の上にある。それを持ちベッドの上に再び乗ると、背中を壁につけてからあぐらをかいた。寒いので毛布を服のように全身に巻き付けながら。少し久しぶりにノートパソコンを開いて片膝の上に乗せると、メモを見ながらプロットを作ろうとする。
何個もの単語などを頭の中で組み立てていくと、ノートパソコンの文章作成ソフトで次々と文字を打ち始めた。これも少し久しぶりではあるが、楽しいと思える。弁護士であったときと比べてまだ年数は短いが、それでも言葉の数々を組み立てて、思うように空想の人々の言動を綴るということが大きな理由だ。
于禁は夢中で何個ものプロットを大まかに入力していくと、本日の食事を一切忘れるくらいに没頭していたのであった。ようやく胃に何も入れていないことに気付いたのは、午後の四時だ。腹の虫が騒ぐように鳴り、于禁はとてつもない空腹状態になっていることを理解する。ハッとした于禁は手を止めると、突然に空腹で頭がクラクラしてきていた。
相変わらず毛布を着たまま部屋に出て、キッチンに向かうとまずはコップに水を注いで飲んだ。喉が乾いていたのも分からなかったらしい。このようなことは初めてだが、二度とこのような状態になるまで没頭しないことに決めた。最悪の場合、倒れてしまうからだ。
すっぱりと頭を切り替えた于禁は、夏侯惇の部屋に戻ってノートパソコンやメモを片付ける。自室に戻ってから服にやっとのことで着替えると、夏侯惇の部屋にまた入ってベッドのシーツを剥がした。それを脱衣所の洗濯機に入れてからキッチンに向かい、軽い食事を取る。
そうしていると午後の五時を回っていた。軽い食事を取った際に冷蔵庫の中身を確認していたので、明日の夕飯のメニューを考える。明日は平日なので夏侯惇は仕事だ。
しばらく眺めてから、明日の夕飯は冷蔵庫にあるもので作れると判断したらしい。于禁はそれについてスマートフォンにメモを取りたいのだが、自室に置いて来てしまっていた。そういえば夏侯惇から何か連絡が入っていないか、ということも確認しなければならない。急いで自室に戻り、スマートフォンを取り出した。
幾つもの通知に目を通しては、用がないとスワイプして削除していく。何度も何度もそうしているうちに、夏侯惇からのメッセージを見つけた。それをすぐに開くと、昼過ぎに返信が来ている。于禁は焦りながらメッセージを開いた。
夏侯惇からのメッセージは「いいぞ。仕事が終わりそうになったら連絡する。待ち合わせは最寄り駅の改札前で」と。それの次はまだ何もなく、于禁は安堵をした。だが基本的には誰かからのメッセージが来たのならば、短くても返事を必ずするのが于禁だ。
スマートフォンの画面の下部分に大きく表示されているキーボードで、素早くメッセージを入力していく。内容は『確認が遅れてしまって申し訳ありません。待ち合わせの場所については承知致しました。ありがとうございます』と送信した。
がっしりとしたビジネスメールになってしまうことは、于禁の性格と前職の影響によるがそもそも直す気が無い。最初は夏侯惇は「堅い」と言っていたが、今はそのようなことを直接言ってこない。直る気配がなく諦めたのだろうか。
メモをした後は、自室で日中に行っていた作業を再開させることにした。ただし、スマートフォンは必ず手元に置いてから。夏侯惇からの連絡に、いち早く気付くためだ。
とはいえ、作業と言っても作ったプロットを見直すのみ。誤字脱字が無いか、後々に読み返しても理解できるかどうかである。于禁はそれを念頭に置いてチェックをしているが、ほとんどミスが無かった。それでもノートパソコンの画面を凝視していたが。
思ったよりも早く作業が終わった于禁には、次の思考が巡っていた。そういえば、夏侯惇へのクリスマスプレゼントのお返しをできていないのだ。当時はあまり余裕が無かったので、夏侯惇はそれを理解してくれていると信じて。
夏侯惇はネクタイを贈ってくれた。なのでそれと同等の、大事でよく使う物を選びたいと思っている。そうとなると、腕時計や名刺入れになるだろう。しかし夏侯惇はそれなりに高い役職に就いているので、そのような物など持っているに違いない。それに、使い慣れた物の方が良いだろうと于禁は頭を抱え始める。
悩んだ于禁はスマートフォンで、恋人へのクリスマスプレゼントは何を贈るべきか調べていく。だが検索結果として出てきたのは、異性から異性に贈る物であった。于禁は「違う」とスマートフォンの画面に向けて呟くと、検索結果を見るのを止めてから目を閉じる。
約一ヶ月後にはクリスマスであり、そろそろ買わなければならない時期だ。それなのに今まで決めていなかった、いや忘れていたことに于禁は自分に腹が立ち始める。時間など、絶対に戻ってはくれないので余計に。溜息を吐いてから深く項垂れ、スマートフォンを机の上に置いた。
考えるのを止めよう、于禁がそう思った瞬間に何かを閃いた。お返しのプレゼントを何にすべきか、候補であるが決まったのだ。
急いでスマートフォンで検索をし始めるが、于禁が思い付いたのはアクセサリーである。そのような物には疏いのだが、スマートフォンで調べたらどうにかなるような気がしながら。
すると于禁はとあるページに辿り着き、これしかないと確信しながら更に調べていった。于禁が真剣な表情で調べているのはレザー製のペアのブレスレットである。夏侯惇がこれを身に着けていないし、持っていないことを知っていた。なので様々な商品ページを見ながら、于禁は幾つもの画像を見ては悩んでいく。
そうしていくうちに、とある商品の画像を見つけた。他の物と比べて僅かしか違いは無いが、于禁としては妙に惹きつけられた。それはおおよそ一センチの幅で、焦げ茶色をしているレザー製のブレスレットだ。一部分にプラチナの小さな長方形の板が付いており、それに好きな文字の刻印までしてくれるらしい。かなり普遍的な物であり、類似品などたくさんある。
于禁は次にと他の商品を見ていったが、先程の物よりも劣っているように思えた。いわゆる、一目惚れというものだろうか。そう考えると、その商品のページに戻ってから再度商品の画像を見た。するとこれがやはり良いと思えたらしい。値段はそれなりにするが、近くのアクセサリー専門店で取り扱っているものという記載がある。すると他の物では考えられないと、于禁はそれに決めたのであった。
プレゼントが決まって数分後に、夏侯惇からメッセージが送られてくる。もう少しで退勤できると。于禁はメモアプリにペアブレスレットについての事柄を素早く打ち込むと、外出の為の軽い支度をした後に既に暗くなっている外へと出た。夏侯惇の指定した最寄り駅までは、電車で約二〇分の場所にある。出版社や家からも離れている。于禁は家から一番近い駅で電車に乗ると、約束している駅の改札前に到着した。それまでの道のりまでの于禁の足取りが、かなり軽い。
しかし外はかなり寒いので、厚着をしてきたつもりである。容赦なく突き刺さってくるような冷気に、于禁はうんざりとしていた。心なしか、掛けている眼鏡のフレームが冷たい。
ふと行き交う人々を見ると、自身と同じようなことを思っているように見えた。それでも、寒さが和らぐことはない。寧ろ時間が僅かにでも進んでいくにつれ、気温が低くなっているように感じる。溜息混じりの白い息を吐くと、それが狭い空に吸い込まれて消えてしまった。于禁はそれを見ながら、スマートフォンを握って愛しい待ち人を待つ。
数分待つと夏侯惇から着信があったので、すぐに出た。
『今どこだ?』
スピーカーからは夏侯惇の声と、それに人々の歩く音や声が聞こえる。だがこれは、于禁が聞こえているものとかなり近い。スピーカーの音と、于禁の耳で拾う音がかなり一致しているからだ。
「恐らく近くです」
そう断言した後に、于禁は首を大きく動かしてから夏侯惇の姿を探す。知らない人々が絶え間なく動いているなかを、必死に。
通話をまだ切っていないので、于禁は駅の建物の壁際に居ると伝える。するとようやく夏侯惇の姿を見つけ、スマートフォンを手に持ったまま駆け付けた。夏侯惇もそれに気付いたらしく、こちら側へと走って来る。
「夏侯惇殿!」
まるで何年かぶりに再会でもしたかのように、于禁は喧騒をかいくぐって夏侯惇の名を呼んだ。それを聞いた夏侯惇は、笑いながら「寒い中待たせてすまんな」と言う。
そこで于禁は通話をまだ切っていないことに気付いたのか、すぐに通話を終えると首を横に振った。夏侯惇の言葉を強く否定するが、吐く息は寒さにより白い。
「場所は電車に乗りながら決めておいた」
「はい」
夏侯惇の声が次第に浮いてきていた。それを聞いた于禁の短い返事も、同じようなものになっていく。笑みまでも浮かべた夏侯惇が、行き先も告げずに「早く行くぞ」と于禁に手を差し出す。手に触れると暖かいと思った于禁は、しっかりと握った。熱が更に伝わってくる。
すると于禁は外気の寒さなど、すっかりとどこかへ去ってしまったような感覚に陥ったらしい。何重もの布の下にある鳥肌が、急激に引いていく。しかし相変わらず外に出される呼吸は白い。
「行きましょう」
その促す言葉の後に夏侯惇に労うことをすっかりと忘れており、瞬間的に吐く息が白色では無くなった。「あっ……! 今日もお疲れ様でした」と急いで付け足す。夏侯惇は構わないと返すと、于禁の手をしっかりと握ってから引く。驚いた于禁だが口角をかなり上げて目を細めると、夏侯惇と共に賑やかな街や人混みの中へと入って行ったのであった。

それから数週間が経ち、クリスマスを迎える。
この日の于禁はイブから落ち着きなく過ごしており、遂には持っている物を頻繁に落としてしまう次第。なので出勤前の夏侯惇から大きな心配の声がかかると「大丈夫」と言ってその場をどうにか乗り越えていく。夏侯惇に、クリスマスプレゼントの存在については秘密にしているからだ。しかし夕食の後に食べるケーキについては、夏侯惇に伝えている。それは于禁自らが一緒に食べたいと言い、率先して選んでいたのだが。
平日なので、夏侯惇は当然のように仕事である。家を出るなり、于禁はすぐに夕食の支度を昼までに済ませた。その後に自室にて、夏侯惇に渡すラッピングされているプレゼントをクローゼットの奥から取り出した。ラッピングを崩すことなく奥にしまっていたので、綺麗な状態である。とはいえ化粧箱自体が小さいので、ラッピングが崩れてしまう可能性など低いだろう。
これを、いつ渡そうか于禁は考えていた。おおよその見当がついているが、ケーキを食べる前か後か。
于禁は深く深く考えているうちに、いつもよりかなり早い時間に夏侯惇が帰宅した。曰く、部署のほとんどの者がクリスマスに用事があるからだとか。急いでだが、丁寧に元の場所にプレゼントをしまった于禁は夏侯惇を出迎える。
「今日はお早いですね。かなり珍しい。ですが、お疲れ様でした」
「あぁ。だが、このようなことはとても幸運だ。後で大きな皺寄せが来ようが、今はどうでもいい」
夏侯惇は于禁に抱き着くと「メリークリスマス」と穏やかに伝えた。
その後に夏侯惇は腹を空かせていたらしく、食事にしたいと言う。なので于禁は余裕を持って準備をしていた食事を暖め直したり、食器に盛り付けていく。夏侯惇もそれを手伝おうとしたが、それよりも于禁にちょっかいを出したいらしい。先程の発言とは真逆の行動に取ってくるので、于禁は笑いながら「貴方という方は」と言う。
和やかな空気で食事の支度を終えると、二人はすぐに食べ始めた。暖かく幸せな空気が部屋に充満していき、次はケーキを冷蔵庫から出して切り分ける。そして皿に丁寧に乗せたところで、于禁はプレゼントの存在を忘れていたことに気付いたが、今は置いておくことにした。
二人が食べたケーキはとてもシンプルなショートケーキである。しかし二人でしか食べないので、サイズはかなり小さい。夏侯惇はスイーツを喜んで食べているが、一方で于禁は食べられないことはないので口を小さくして食べていた。それを見た夏侯惇が「もっと食え」と言うが、于禁は小さく拒否をする。
「いえ、その……夕食の後なので、あまり食べられないのですが……」
切り分けられたケーキはまだ半分以上残っている。しかし夏侯惇の皿には、ほとんどケーキが残っていない。素早く食べており、味をしっかりと感じでいたらしい。「かなり美味いぞ」と言うと、最後の一口をフォークで刺してから口に入れる。そのときの夏侯惇の表情は、とても穏やかだ。
于禁は少し考えた後に「食べている途中のものですが……」と、控えめに皿を夏侯惇の方に寄せる。夏侯惇は「いいのか?」と聞いた後に、于禁の分のケーキにまでフォークを刺していく。だがあまりの嬉しさに、かなり大きな塊がフォークに刺さっていた。于禁の顔と刺しているケーキを交互に見た夏侯惇の顔が、申し訳無さそうなものに変わっていく。そして謝るが、于禁は大丈夫だと返した。
「助かりました。このまま残すのは、どうかと思っていたので。ありがとうございます」
「そうか」
納得した夏侯惇はフォークに刺さっているケーキをすぐに食べる。大きな塊だが、それは大きな口の中へと、あっという間に消えていく。そして美味しいと言わんばかりに咀嚼していった。于禁はそれを微笑ましげに見てから、プレゼントのことを思い出す。視線を夏侯惇の方ではなく、天井の方を意識する。
瞳の動きが、夏侯惇から見たらすぐに分かったのだろう。ケーキを胃へと落としていきながら、顔をしかめる。機嫌が悪くなる。何故、自身から他の場所へと目線を変えたのかと。
「明日も仕事ですから、そろそろお休みになられては?」
夏侯惇の表情に気付いた于禁は、明日の予定を理由に誤魔化す。しかし食い下がった夏侯惇は、于禁に質問をした。
「何かを隠しているな? 吐け」
「いえ、私は……」
「吐け」
決して引き下がるつもりはなく、夏侯惇が遂には睨み始めた。そこで観念した于禁は、無言で椅子から立ち上がると自室へと歩いて行く。夏侯惇の視線が背後から見送ってくれたが、于禁の中で緊張が走った。このような状況でプレゼントを渡すのか。そして、喜んでくれる想像ができなくなっていた。
自室に入るとクローゼットを開け、奥からプレゼントを取り出す。深呼吸をゆっくりと行ってから、プレゼントのラッピングを見た。大丈夫、と自身に言い聞かせながら。
そしてリビングへと戻るがその際、プレゼントは腰のあたりで隠しながら夏侯惇の方へと近寄った。視線がかなり痛いが、于禁は意を決して手を前に出す。
「……かなり遅れてしまいましたが、受け取って下さい。お揃いのもので、貴方とそれに私の分も入っています」
綺麗なラッピングの姿を見て、夏侯惇はきょとんとしている。本人としては、予想外の展開だったのだろう。
夏侯惇が曖昧な返事と共にゆっくりとラッピングを解いていき、化粧箱が姿を現す。于禁はその様子を緊張した面持ちで見ており、今は真冬だというのに汗がダラダラと流れていた。体が震えてきているが、自由になった拳を強く握って震えを無理矢理に止める。
箱が開いてプレゼントが見えると、夏侯惇の顔が明るくなる。しかし于禁はかなり緊張しているため、夏侯惇を目でギロリと睨んでいた。
「于禁、お前が隠していたことはプレゼントだったのか。先程はすまんな。だが、ありがとう。ずっと大切にする」
早速ブレスレットを着けようとするが、ペアになっているので二つ入っていた。どちらもサイズが同じであり、調節ができる。外見も全く同じで、それに小さなプレートに刻まれている文字も。
なのでどちらを手に取るか夏侯惇が迷っていると、于禁が片方を手に取ってから手首に着け始めた。もう片方のブレスレットを夏侯惇も着けると、もう一度于禁に礼を述べる。
「いえ、昨年もプレゼントを返すことができなかったので。本当に申し訳ありません」
「クリスマスに恋人へプレゼントを贈るのは、俺がそうしたいからだ。返すことに責任と義務を追わなくていい。それに、今と違って少し前は不安定だったことを知っている。謝るな。気にしていない」
于禁はか細い声で「はい……」と返事をした後に、夏侯惇の手首を見やる。似合っていると思っていると、夏侯惇が「似合っているぞ」と言った。互いに同じことを考えていたらしい。くすくすと笑った于禁は、嬉しそうに頷く。
「貴方も、とてもお似合いで」
ブレスレットを身に着けている方の手で、夏侯惇の手を取る。同じ外見とそれに文字が刻まれているこの存在が、とても愛しく思った。しかし言葉で伝えるということは、未だに上手くできない。なので夏侯惇の顔にそっと近付けると、今まで以上に『好き』という感情を込めながら、唇を合わせたのであった。