玄関のドアを開けたら
「ただいま」
「お帰りなさいませ。今日もお疲れ様でした」
現在の時刻は夜の八時前。季節は秋が終わり、本格的な冬がもうすぐ来る頃だ。
平日であるので、夏侯惇は勿論仕事帰りであった。朝はしゃきっとしていたスーツは、今ではすっかりとくたびれている。夏侯惇の顔の具合も、同様であるが。
冷え切る玄関で迎え入れた于禁は、夏侯惇が持っている使い込まれた通勤鞄を持とうとした。しかし夏侯惇はそれを拒むと、代わりに于禁の手を掴んだ。疲れが見えるものの、それでもにやりとした表情でそれを上書きをしてしまった。
「ほら」
夏侯惇は何かを求めていることが分かる。しかし何を求めているのかは分からず、于禁は首を傾げた。答えを導き出そうとしたが、それよりも夏侯惇を早めに休ませるべきだ。そう考えた于禁は、口角を無理矢理に上げた。
「……夕食が既にできておりますので、冷めないうちに召し上がってはいかがですか?」
「そうだな。だが、まずは……」
履き慣れた革靴をようやく脱いだ夏侯惇は于禁の手を引くと、そっと唇を合わせる。急激に体温が上がった于禁は、ひたすら顔を火照らせた。
その様子を見て愛しそうに笑った夏侯惇は、于禁の腰をそっと撫でる。
「飯を食うぞ」
今日は何か、と楽しみにしながら于禁の手を引いてリビングへと向かって行く。動揺により覚束ない歩みをしてしまっている于禁は、夏侯惇の背中に向かって夕飯の内容を何とか答えた。それを聞くと顔だけを振り向かせてから、夏侯惇は「今日もありがとうな」と礼を述べてから于禁を急かす。
于禁は顔の赤みが引かないまま、夏侯惇と共に柔らかい色の照明が点いている部屋に入っていった。
隅には未開封の大きな段ボールが数個だけ佇んでいる。新居に越してからまだ間もないので、荷解きは完全には終えていない。于禁の荷物は段ボールから一通り出しており、整理をしている最中だ。しかしこれは夏侯惇の荷物なので、于禁は手をつける訳にはいかないと置いたままである。例え、同棲している深い関係だとしても。
配膳なども終えていて、あとは椅子に座って食事をするだけだ。夏侯惇はスーツのジャケットを脱いでから椅子の背もたれに掛ける。于禁は軽装であるので、そのような動作は取らなくてもいい。なのでそのまま向かい合って設置してある椅子に掛けると、夏侯惇の顔をしっかりと視界に入れる。
そして夏侯惇も于禁の顔を見た後に、二人で和やかな夕食を取っていく。途切れ途切れに会話をするのだが、内容は主に夏侯惇の仕事の愚痴である。于禁は話を聞いては頷くと、夏侯惇を宥めた。しかし于禁はそれが煩わしくは思っていない。寧ろどんな会話でもいいので、もっと夏侯惇と言葉を交わしていたいと思っていた。
だがその途中で夏侯惇はハッとしたらしい。「愚痴ばかりで申し訳ない」と詫びを挟むが、于禁は首を横に振る。偽りなど決して混ざっていない笑みを浮かべながら。それを見抜いている夏侯惇は「すまんな」と言うと、于禁との食事を嬉しそうに終える。
夕食を終えて片付けをすると、二人は入浴をした。于禁は夏侯惇を先に済ませるように伝えたが、夏侯惇は于禁の手を引く。共に入浴をするようにと。
「……分かりました」
于禁は数秒の沈黙の後に溜息をついて返事をしたが、不満の意味ではない。今夜も自身の言動で、夏侯惇の仕事の疲れが取れてくれるのか不安なのだ。夏侯惇にとっては、そこまで気遣いされるのは不快かもしれないが。
自然と目を泳がせていると、夏侯惇が「どうした」と笑う。于禁は何でもないと首を振ると、自信無さげに脱衣所へ行くように促した。
脱衣所に着くと夏侯惇はすぐに着ている衣服を脱いでいく。于禁も同じように脱いでいくが、着ている衣服はすぐに取り払えてしまう。先に下着姿になるが、ゴムの部分に指を掛けたところで動きを止める。
同じく下着のみの姿になった夏侯惇だが、于禁のことなど気にせずに降ろしていった。何度も何度も裸を見ているが、于禁の喉仏が大きく上下する。まだ夏侯惇が行為をするとは言ってもいないのに、緊張しているのだ。
それでも指を何とか動かすが、その際に眉間の皺がかなり深くなっていたらしい。夏侯惇が「腰が痛いのか?」と尋ねるが、于禁は否定をしながら下着を取り払った。
二人で冷たい浴室に入ると、同時に顔が強張る。なので熱を求める為に互いの肌を触れ合った。するとやはり暖かいのか頬を柔らかくしていきながら、夏侯惇はシャワーのコックを捻る。
出てくる水を手で触れながら、温水が出るのを待つ。冷たい水に当たる度に、夏侯惇の全身に渡って鳥肌が立っていた。
「冷たいので、私が確認を……」
「いや、大丈夫だ。もう温かい水が出た」
そう言って于禁の顔に向けて温水を掛けた。それも悪戯をするかのように思いっきり掛けると、于禁は驚いた後に不機嫌そうに夏侯惇を睨む。夏侯惇は顔に掛けたつもりだったが、全身に掛かってしまっていたのだ。
だが于禁が本当に怒っていないことを夏侯惇は知っている。なので笑いながら、于禁に話しかける。掛けた水が冷たくないだろうと。
睨みを強くした于禁は、夏侯惇からシャワーヘッドを取り上げると仕返しにと同じことをした。二人とも、浴室内で全身がずぶ濡れになりながら。
そうした二人で頻繁にふざけ合いながら、どうにか入浴を終えた。いつもより時間がかかったのか、時刻は夜の一〇時を過ぎてしまっている。二人は下着のみを身に着けてから夏侯惇の部屋に向かうと、並んでベッドの縁に座った。
髪にまとわりついている、温い水気をタオルで拭き取る。しかし于禁の方は主に夏侯惇が拭き取ったのだが、そのときにとあることに気付いたらしい。
「髪を伸ばしているのか? 珍しいな」
「……なっ!? 私としては、これが長いのですか!?」
最近は于禁は必要最低限の外出しかしていない。理由は新居の整理などで頭が一杯だからだ。今は小説の執筆は休んでいるのが、幸いではあるのだが。
無意識にタオルを手で退けた于禁は、自身の頭に触れる。だが髪が長めだという実感が湧かない様子だ。なので夏侯惇は、今の長さを言葉にして伝える。
「そうだな……今は髪で耳が隠れるくらいだが」
「な、なんと……!? 明日にでも、切りに行きます!」
そしてタオルを強く握った于禁だが、夏侯惇はそれを止めた。良いことを思いついた、という顔をしながら。
「別に長くともいいだろう……そうだ、髪を伸ばしてみてはどうだ?」
「いえ、それは……私には……」
夏侯惇の提案に于禁は大きな苦渋の表情を見せた。似合わない、または相応しくないとでも思っているのだろう。だがあと一押しで、于禁の迷いは崩壊するだろうと夏侯惇は予想する。なので于禁に効くであろう、その一押しをした。
「長い髪も、似合うと思うのだがな」
于禁はとても嬉しげな様子へと変わる。
「そう仰るのであれば……し、仕方ありませんな……!」
あまりにも于禁が、予測の内のリアクションを取ったということ。それに、長い髪も似合うというのは夏侯惇の本心である。なので夏侯惇はそれらの意味で笑った。
「どこまで伸ばして貰いたいか、教えてやる」
すると夏侯惇は髪が全く乾いていないのにも関わらず、于禁をベッドに押し倒す。背中にシーツが着く直前に、于禁は声を出したがもう遅い。気付けば視界を夏侯惇に占領されていたのだ。
しかし于禁は抵抗することもなく、夏侯惇の望みをしっかりと聞き続けたのであった。それに対しての返事は全て、喘ぎ声へと変わってしまっていたが。
次の日の朝、この日も平日であった。カーテンの隙間からは、眩しい日差しが差し込んでいる。
夏侯惇は既にベッドから出て出勤しているらしい。于禁は怠そうに目を開け、そして隣の体温が無いことに気分を沈ませる。
枕元に置いてあるスマートフォンの通知を確認すると、夏侯惇からメッセージが来ていた。内容はとても簡単なもので、朝の挨拶と共に「昨夜は無理をさせてしまって申し訳ない」と。
まだ目が覚めていない于禁は、メッセージを入力する余裕がなかった。それにまだ寝足りないのかすぐに瞼を閉じると、二度寝をする。昨夜の夏侯惇との交わりにより、相当な体力を消耗したのか。
ようやく充分な睡眠を取れた頃には、時刻は昼過ぎであった。そこで夏侯惇にかなり遅い返信をしてから天気予報を確認すると、今日は朝からずっと晴れるらしい。
ここに越してから数週間は経過しているとはいえ、荷解きは完全に終えていない。なので重たい体を無理矢理に起こすと、皺だらけのシーツを剥がしてから全裸のまま洗面室に向かう。
洗濯機にシーツを放り投げてから、既に入っている洗濯物を見た。あまり量は無いが相応の量のビーズ等の洗剤を入れてから、スイッチを押して操作をする。洗濯を終えるまでの時間は、約四〇分らしい。
于禁はその数字を視界に少しだけ入れると、起床時の支度を始めた。今日する事といえば、家の中の整理くらいである。今は小説の執筆を休んでいる于禁は、食事は適当でいいと判断した。
軽装に着替えて支度を終えた于禁は、洗濯機から洗濯物を取り出してベランダに丁寧に干していった。それが終えるとキッチンへと向かってから、冷蔵庫を開ける。余っている野菜などの食材を次々と取り出すと、それらを洗いながら何を作るか考えていった。
自身のみの食事を作り、そして食べ終える。そこでようやく于禁は活動を始めた。まずは買い物である。食事を作る前に冷蔵庫を開けた際に、もうじき無くなる食材などが幾つかあった。それらを買い足す為に、軽装姿のままで家を出る。
しかしスーパーまでは徒歩一〇分程であるので、買い物はすぐに終わった。目当てのものは決まっているので、それらのみを買い物かごに入れてまっすぐレジに向かったからだ。
帰宅してから食材を冷蔵庫に入れると、于禁は整理しきれていない荷物を片付けていった。于禁には寝室とそれに書斎がある。寝室は至ってシンプルな家具の配置なので、すぐに使える状態になっていた。しかし書斎がまだなのだ。
弁護士時代に残していたファイル、それに小説家になってから書いていったメモ。それらを合わせると膨大な量なのだ。引っ越し前に丁寧に纏めてはいたものの、やはり量が多いのか引っ越し前の状態を再現するのには時間がかかる。同じ棚と、それに引っ越し後に新しく棚を買い足したとしても。
まだまだ終わりそうにない書斎の環境作りに溜息をつきながらも、于禁は整理をしていったのであった。
夕方を過ぎてから、夕食を作り始めた。その前に夏侯惇から、帰宅するおおよその時刻を知らされている。なのでそれに合わせて作っていくと完成した。
しかしその、おおよその時間までには少し余裕がある。今日は一人で何かを考える時間が無かった于禁は、本日初めての独りでの思考の時間を作る。昨夜に夏侯惇が言っていた、髪の長さについてだ。
今は耳にかかる程の髪の長さであるが、夏侯惇の希望する長さは肩甲骨に届くまでである。それまで、何ヶ月かかるのだろうか。于禁は今までそこまで髪を伸ばしたことがなかったので、想像がつかないでいる。
すると洗面室に向かい、鏡を見ながら一人で呟く。
「半年……?」
「何がだ?」
自身以外の声が背後から聞こえたが、于禁としては聞き覚えしかないものである。少しの驚きがありながらも、振り返った。そこには、いつの間にか帰宅していた夏侯惇が居る。洗面室の入口にもたれ掛かっていた。
慌てた于禁は「お帰りなさいませ」と言う。夏侯惇はそれに一言の返事をした後に、鏡に映るまで歩み寄った。鏡には、二人が映っている。
「その……昨夜、貴方が話していらした、髪の長さについて考えておりました」
動揺がすぐに消えた于禁は、先程考えていたことを話す。
「ほう……だから『半年』と。本当は嫌であれば、特に伸ばさな……」
「いえ、伸ばします!」
于禁は頑なであったし、夏侯惇の「似合う」という言葉を嬉しく受け止めているのだろう。そう悟った夏侯惇は「分かった」と頷くと、于禁のいつもより少し長い髪を撫でる。
「楽しみにしている」
「はい」
二人は頬を緩めながら、鏡から消える。そして于禁が夕食の準備ができていると言うと、夏侯惇は献立は何かと良い気分で尋ねたのであった。洗面室から出て、ダイニングへと向かいながら。