疲労の八月
推敲はまだ終わっていないが、于禁が小説を書き終えたのは中旬の前だった。それに書斎で朝から書き、昼に完成したので椅子に座りながら体を大きく伸ばす。
パソコンで何度も保存の操作をした後に電源を切り、于禁はしばらくぐったりとした。
「……推敲は、後日だな」
そう呟くと、夏侯惇との約束を思い出した。なのでスマートフォンを取り出すと、執筆だけは終わったとメッセージを送る。数秒後に「おめでとう」と返事が来た。嬉しくなった于禁は、やり取りの画面をしばらく眺める。すると夏侯惇から再びメッセージが来た。約束通りに、どこかへ遊びに行こうと。于禁はそれにすぐに賛成すると返事を送る。
だが疲れが降り掛かってきたので、于禁は眼鏡を外してから寝室のベッドに倒れる。スマートフォンで指定した時刻までのアラームを掛けてから、心地よく昼寝をしていった。
想定通りの時刻に起きると、于禁は気怠げに起き上がった。まだ暑いが、昼は終わっている。夏侯惇からは数時間後に帰宅するとの連絡が入ったので、その時間に合わせて夕食を作っていった。
夏侯惇が帰宅して夕食を他愛もない会話をしながら済ませ、入浴をしていく。そして眠る直前で、夏侯惇の部屋に呼び出された。
入るなり、ベッドの縁に座っていた夏侯惇に「座れ」と促される。于禁は軽い会釈をしながら、隣に座った。すると夏侯惇の手が腰に回されたので、于禁はぴったりと寄り添う。
「改めて、ご苦労だったな。短くとも一週間くらいは、寝かせておいた方がいい。だから、その一週間のどこかで俺と遊びに行こう」
「はい、是非とも」
「因みに行き先は決まっている。今回はまともに決めたからな」
最後の言葉を強調しながら、夏侯惇がスマートフォンを取り出して少しの操作をした。とある画面に辿り着くと、于禁にそれを見せる。その画面には、とても有名なテーマパークのサイトが。
「テ、テーマパーク……?」
「すまんがもう予約してしまった。一泊二日で、週末だ。行くぞ」
あまりの準備の早さに、于禁は焦りながらもう一度聞こうとした。そこで夏侯惇が笑いながら、もう一度スマートフォンの画面を見せる。
「ほら、デートに行くぞ!」
「はい!」
まるで軍人のような、はっきりとした言葉を二人で交わす。そして夏侯惇が「明日も早いからもう寝る」と言うと、就寝の挨拶をした後に夏侯惇の部屋を出た。
ドアを閉めた瞬間に于禁に楽しみという感情が湧いてくると、スキップをするような足取りで自身の寝室に入って行った。
夏侯惇とのデート日の朝を、あっという間に迎える。それまでにワクワクとしながら準備していた。だが一泊二日なので小さめのキャリーケース一つだけだ。二人分の荷物が入っている。それも、全体的にかなり少量であって。
お揃いのブレスレットをつけ、半袖長ズボンの服装だ。その上に日除け用の薄いパーカーを羽織ると、二人は満足げに家を出た。ちなみにキャリーケースは夏侯惇が持っているが、帰りは于禁が持つことになっている。
目的のテーマパークの最寄り駅まで、家からは五つ先である。案外近い場所にあるが、于禁にとってはテーマパークはそこまで縁が無かった。なので意外と思いながらも、電車に乗って揺られる。
所要時間は二十分前後だ。しかし二人と同じ目的地であろう乗客がかなり居た。つまり、この電車は休日の朝であろうと満員である。仕方ないと思いながら、二人は到着まで待った。夏侯惇は特に、キャリーケースの位置を気にしながら。
目的の駅に着くなり、二人はすぐに電車から降りる。満員電車から降りられた解放感はあるが、外はやはり暑い。ここは開けた場所ではあるが、それでもビル群が佇んでいる。比例して大量の人が歩いており、太陽光を日傘などで必死に防ぐ姿が目立つ。于禁は暑さに顔をしかめながら、パーカーのフードを被る。多少は暑さが軽減されたと思いながら、先を歩いて行く同じくフードを被った夏侯惇に着いて行った。
駅からテーマパークまでは、徒歩で十分。既に遠くからでもテーマパークの姿が見えている。代わりに進んでいくごとにビルが減っていき、見える海や山が多くなった。だが暑さは変わらない。
敷地内に辿り着くと、夏侯惇がスマートフォンで電子チケットを表示する。それをかなり空いている専用の受付で読み取ってもらうと、入園できた。他にも受付があるが、当日券を求める客の長い列ができている。
二人分のパンフレットを渡されると、二人はそれを見た。
「ジェットコースターにしましょう。暑いので」
「雰囲気のかけらもないな……」
僅か数秒で乗りたいものを決めた于禁は、パンフレットのジェットコースターの部分を指差す。しかしそこで大事なことに気付いたのか、夏侯惇が持っているキャリーケースを見た。
「あの……そういえば、キャリーケースは……」
「あぁ、そういえばこれは、敷地内のホテルに預けなければならなかった。すまんが、先にホテルに行くぞ。だが……まだチェックインはできないからな」
「わ、分かっております!」
于禁が頬を膨らませると、夏侯惇は笑いながらパンフレットで宿泊するホテルの名前を探す。どうやら、敷地内には他にもホテルが幾つかあるらしい。
徒歩で数分で向かうと、海に面したホテルであった。そこで、于禁は夏侯惇に尋ねる。
「あの……申し訳ないのですが、急であるのによく部屋が取れましたな……」
「あぁ、キャンセルが出たからな。仕事中に必死にパソコンに張り付いて、ようやく取ったのだ」
「私が言うのはどうかと思いますが、仕事をして下され! ……ですが、ここまで準備をして下さり、本当にありがとうございます。このような、素晴らしい場所に……」
感謝の言葉も于禁の本心である。それを最後まで言いかけたところで、夏侯惇に「いいから」と妨げられた。キャリーケースとそれに于禁の手を引くと、ホテルに入りキャリーケースをフロントに預けた。チェックインの時間にそれは返され、部屋にまで案内も兼ねて持って行ってくれるのだという。
「ほら、ジェットコースター行くぞ」
「はい」
ホテルを出るとパンフレットを片手に、二人は様々なアトラクションを回ったのであった。
夕方になりチェックイン時間になったのでホテルに行くが、二人はへとへとである。自身の体力と相談もせずに敷地内を目一杯練り歩いたので、疲労困憊の状態だ。はしゃぎ過ぎたのだ。
案内をしてくれるホテルマンにそれを心配されながら、エレベーターで数階上った部屋に入った。ホテルマンがキャリーケースを入ってすぐそこの場所に置くと「何かあればいつでもお呼び下さい」と言って退室した。
広い部屋にシングルサイズのベッドが二つ並んでおり、テーブルと椅子がある程度。正面にある大きな窓からは海が一望できる。だが二人は景色を楽しむ余裕がない。
二人は特に恋人らしい言葉や雰囲気を出せないままだが、せめて共に浴室に入り入浴を済ませる。アメニティのバスローブを羽織っただけで一目散にそれぞれのベッドに向かった。そして勢いよく倒れる。ベッドがぼすんと跳ねた。
「やっと、ようやく……ゆっくりできる……」
「そうですな……」
夏侯惇はうつ伏せに、于禁は仰向けになっていた。特に夏侯惇は枕に顔を沈めており、呼吸ができているのかと心配になる。更に夏侯惇の動きが少なくなってきたと思うと、いつの間にか規則的な寝息を立てていた。現在は午後の六時過ぎであるが、この後は一階のレストランで夕食がある。
だが于禁も到底行けそうにないと思うと疲労が拍車をかけ、酷い睡魔に負けていたのであった。
同時に目を覚ますと、朝の五時だった。カーテンが開いたままであったが外が少し暗い程度であるので、起き上がった夏侯惇はまずは後悔をする。
「ホテルに入って、何もできなかった……」
深く項垂れており、隣のベッドに居た于禁は何も言えない。なので黙っていると、腹の虫が騒いだ。
「夕食も、取れぬまま……」
夏侯惇に続いて于禁の気も沈むと、二人はしばらく呆然としていた。そして十数分が経過すると、ふと于禁が気付く。何だか、全身が仄かに痛いと。
「これは、筋肉痛のような……」
「お前がか? 俺は……俺も、筋肉痛だ……」
二人は真顔で体を動かし、どの部位が痛いのか確認する。主に足腰や腕が痛いのだと感じると、夏侯惇が溜息をついた。
「……どうする? 今日はもう、アトラクションは止めにしないか?」
「そうですな……いえ、是非ともそうしましょう」
意見がすぐに一致すると、レストランが開く七時まで二人は空腹にひたすら耐えていたのであった。
朝食の後に部屋で休み、チェックアウトする。そして結局は土産をそれなりに買うと、二人は帰る為に敷地内から出た。
また電車に揺られるのが苦痛と思いながら、駅に入り改札を通り抜ける。ホームには行きの時まではいかないものの、それなりの数の乗客か電車を待って並んでいた。
次は于禁がキャリーケースを持つ番だが、多少死んだ顔で引いている。それが周囲の乗客にとっては恐ろしい表情だと思えたらしい。少しだけ、人との間隔が空いた。
「二十分も耐えなければ……」
「きついな……」
電車が来ると、二人はそう呟く。乗り込むとたまたま座れたので、助かったと思いながら于禁はキャリーケースを膝で固定した。
駅員が乗客の乗り遅れが無いことを確認すると、電車が動き出した。車窓から見える景色の流れる速度が、次第に早まる。
「帰ったら、もう一度寝ても良いか?」
「勿論です」
しかし車窓から見える綺麗な景色を見る体力が無い二人は、窓ではなく車内の小さな虚空を降りるまで見ていた。
それから約一週間後に、于禁は書いていた小説の推敲を始めた。確かに誤字脱字があったものの、いつもより削らなければならない箇所が少ない。かと言って、説明不足の行もない。かなり珍しいことである。
于禁は推敲する際に愛用している、赤色のボールペンを持て余し続けた。遂には、何も書き込まない部分もある。自身が推敲しただけでは話の違和等に気付けないと思いながらも、于禁は自分で作り上げた文章の数々を目で追っていた。
約二日をかけて自身での推敲が終わると、八月が終わってもいないのに蔡文姫にデータを提出する。なので「いつもより早くてありがたい」というメールが送られてきた。そして数日後に、出版社側の校正が入るらしい。
蔡文姫からの連絡を、夏侯惇も把握していたのでメッセージにて褒められた。なので于禁は気を良くしながら、夏侯惇の帰宅と今日の終わりを待っていて。