睡眠の六月
六月に入る前に、台本についての打ち合わせが終わった。滞りなく進んでいったので、六月からは専門家の監修が入る。なのでしばらくは于禁は自身の仕事のことを考えなくて済む。しかし予定では来月からキャスティングについて、何かとテレビ局に顔を出さなければならないのだが。
マンションの管理については、収入が落ち着いてきたので外部委託をすることにした。すると途端に生活の全てが楽になり、于禁の気持ちがかなり軽くなる。今まで、自身でも気付いていなかったプレッシャーがあったのだと。
そしてカレンダーを捲り六月に入ったばかりの夜、于禁は眠れなかった。雨がよく降る時期なので、雨音がぽつぽつと絶えない。
夏侯惇の照明の点いた部屋のベッドに横になっているが、それなりに激しい事後にシャワーを浴びたせいなのかもしれない。
それか或いは、蒸し暑いのでエアコンをつけ、衣服を一つも着けていなかった。なので体を無意識に冷やしているせいなのかもしれない。于禁は後者の可能性が高く思うと、シーツを深く被る。
まだ幸いにも隣に居る夏侯惇はまだ眠っていない。なのでその様子の于禁を見て「寒いのか?」と聞く。
「恐らくは……」
「何……だったら俺も入れろ」
シーツを捲った夏侯惇が入り込み、于禁に密着してから閉じる。心地よい暖かさが触れてきてから、抱き締めて包み込まれた。夏侯惇の選択肢の中に『エアコンの温度を上げる』は無いようだ。指摘しようとした于禁だが、人肌で調整されてしまうとその思考は溶けていった。
「明かりはもう要らないか」
枕元にある部屋の照明のリモコンに手を掛けた夏侯惇は、部屋を真っ暗にしていく。すると夏侯惇の全てに包まれる感覚と、それに雨音が重なり于禁は「このままずっとこうしていたい……」と呟いた。一秒一秒と、体の冷えと共に容赦なく溶けていっているというのに。
腰の怠さがあるが、于禁は微動だにしなくなる。代わりに口を動かし、夏侯惇に外の雨のようにぽつりぽつりと話しかけた。
「まだ、眠らないで頂けますか。私が寝るまで、待って下され。今は眠れない……いえ、眠りたくないもので」
「構わんぞ」
「ありがとうございます」
そう言って夏侯惇の背中に手を回した于禁だが、最中に刻んだ爪痕の感覚を拾う。そういえば、夏侯惇の背中に幾つもの傷をつけたことを思い出した。しかしこれはいわゆる、愛し合った証拠である。于禁は指先でゆっくりとなぞり、線を追っていった。
だが夏侯惇は擽ったいらしく、体や声を震わせた。
「擽ったいな。キスマークはお前に……つけていなかったな、そういえば」
思い出したように夏侯惇が口にすると、体をごそごそと動かす。唇が于禁の首を這うと、鎖骨に降りていった。この辺りに、キスマークをつけるつもりらしい。
だが于禁はもう少し下の箇所につけて欲しいと言う。この時期の服装は、薄着にどうしてもなるので見えてしまう可能性があるからだ。さすがに、公共の場でそれを晒すのははしたないと。
小さな夏侯惇の舌打ちが聞こえると、于禁の左胸に、唇とそして舌でなぞっていた。今からここに痕をつけると、特に舌先で念入りに舐め回す。
「ん、んぅ……!」
吐息を漏らした于禁だが、早く痕が欲しいと夏侯惇の背中に触れる力が強くなった。
そこで胸元で微かにカリと音が鳴り、甘ったるい痛みが走る。夏侯惇がキスマークをつけてくれたことが分かった。もう一度恍惚の吐息を漏らした于禁は、思わず強く触れていた手の力が弱まっていく。力が抜けていく。
「ッは……はぁ……」
「本当は、見える所、全てにつけてやりたいが……」
夏侯惇が唇を離した際に、独占欲の塊が垣間見える。しかし于禁も同じ気持ちであり、授かった痕が二度と消えて欲しくはないと思っていた。暗闇で左胸が見えないのに、視線をそこに向ける。
「もう一回、やるか?」
すると夏侯惇の手が、于禁の体をまさぐり始めていた、だが于禁にはその体力がもう尽きているので、緩やかに悔しげに断る。
「いえ、今夜はもう、私の身が持ちませぬ……」
「そうか、いや、すまんな」
額に口付けが落ちると、夏侯惇に改めて抱き締められた。于禁は「苦しい」と呟くが、夏侯惇はそれを無視するかのように、次はぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「……一秒でも、共に居よう」
「……はい」
于禁がそう返すと、額の次は唇にキスされた。その際に二人は無言になった代わりに、外の雨音がよく聞こえる。まるで、この世に二人きりになったような感覚であった。二人以外に誰も居ず、二人の邪魔をする者か居ず。
すると短いキスの後に于禁がくすくすと笑った。
「私が想う相手は、貴方しか居りませぬ」
「ありがとう」
今は何時かは全く分からないが、于禁は疲れにより意識が薄れかけていく。小さな声で「おやすみなさいませ……」と呟くと、夏侯惇がすぐに「おやすみ」と言った。もう一度、触れるくらいに唇を合わせる。
すると于禁と恐らく夏侯惇も少し遅れてから、心地よく眠っていったのであった。
翌朝、よく眠れた于禁は夏侯惇と共に目を覚ます。左の胸元の状態を見て、于禁は誇らしげにしていた。
本日は平日であるので、夏侯惇が出勤するまではその支度を手伝う。だが腰の痛みがあるので、夏侯惇がそれを案じていた。しかし出勤時間が迫っていたので、ただ夏侯惇からは「無理をするな。今月は何も無いから休め」と言われたのみ。于禁ははっきりと返事をすると、夏侯惇は家を出た。
一人になると突然に眠りたくなっていく。リビングのソファに座ると、意識を失うように眠っていった。
目を覚ましたのは昼過ぎである。于禁は目を開けて体を伸ばして現在の時刻を確認すると、更に目を開いてしまっていた。ほんの数分眠ったつもりが、数時間と寝てしまったからだ。
今の天気は昨夜と変わらないので、洗濯機を回す必要がなく、他の家事も今はすることがない。それに今朝の夏侯惇の言葉を思い出し、たまには良いだろうという気持ちが湧いてきた。一方でこのままではずっとこうなってしまう、と思ってしまう気持ちもある。
気持ちが板挟みになった于禁は、これではいけないと首を振る。休むにしても、活動をするにしても区切りをつけなければならないと。なので先程は充分に休んだので、次は人間らしい活動をしようと立ち上がった。
今月は丸々、何も予定が無い。だからと言って何もしないと言うのは、どうにも気持ちが悪い。だが于禁はすぐに何をするか思い付いた。しばらくの間は小説家として動いていないので、書斎に入ってまずは手を動かそうと。
于禁は胃に軽く食べ物を入れると書斎に入った。数日おきに掃除をしているので久しぶりではないが、それ以外の目的で入るのは久しぶりだ。
そういえば、思い付いた事柄をひたすらメモとして書き込んでいたノートがある。机に向かうと、引き出しからそれを取り出した。
ページを軽く捲ると、出したアイデアを既に執筆の際に利用したものがほとんどである。まだ採用していないメモはほんの少ししかない。于禁はそれらの残ったワードを見るが、何も浮かばないのでそっと閉じる。
今は何をしたいのだろうか。于禁は天井を見上げ、そう考える。
小説家としては光栄とも言える、メディア化がされることになった。小説を自暴自棄で書いてみた頃は、そのようなことになるとは思ってもいなかった。当初はただ、ひたすらに書いてみただけだからだ。
しかしそこでふと、于禁はそれ以来に『ひたすらに書く』ことをしていないことに気付いた。今の道に進んでからはきちんと何を書くか、どのような登場人物を出すか、どのような物語にするかを考えながら書いていたからだ。
あの頃の情熱だけはもう一度持ってみたいと、于禁は再びノートを開いた。
于禁はノートの白紙のページにペンの先を当てた。もう一度だけ実体験を元に、脚色を加えながら小説を書いてみても良いかもしれないと思いながら。まずは半生を大まかに書き出すと、そこに自身だと分からないように書き加えてみる。
すると登場人物、物語、背景が浮かんできた。なので于禁は夢中になりながら、夏侯惇が帰宅する直前までノートに文字列をびっしりと書いていた。
入浴まで済ますと、于禁はノートに続きを書いてようやくメモのようなものが完成した。時計を見ると深夜の一時である。そろそろ寝なければならないが、昼間に散々に眠っていたので脳は相変わらず活発であった。于禁は眠れないのだ。
だがどうにかして眠りたいので、書斎を出てキッチンに向かうとホットミルクを作った。リビングのソファに深く座ると、濃い湯気が立つくらいに熱いので少しずつ飲んでいく。それに夜であっても気温も暑いので、控えめにだがエアコンをつけながら。
暖かい飲み物が胃にじんわりと広がると、于禁の心がリラックスしていった。マグカップを片手で持った状態でぼんやりとする。するとこのまま眠ることができるだろうと思っていると、夏侯惇が目を覚ましてしまったようだ。寝間着姿でリビングに入る。
「夏侯惇殿……! 申し訳ありませぬ、起こしてしまいましたか……」
「いや、違う。俺が勝手に目が覚めただけだ。だから、俺も同じものを飲もうと思ってな」
そう言うとマグカップに牛乳を注いで蜂蜜を少量垂らしてから、電子レンジに入れる。待っている間に、夏侯惇が于禁の隣に座った。
「だが、この時間帯に起きているのは珍しいな。眠れないのか?」
「……はい」
質問に対して正直に答えると、夏侯惇が肩に手を回した。
「では、これを飲んだら、俺が寝かし付けるか」
恐らくは冗談半分で言ったのだろう。しかし于禁はそれを真に受けると、即座にその言葉に賛成した。
「宜しいのですか? では……」
「えっ? あ、あぁ……」
電子レンジから音が鳴ると、夏侯惇は急いでホットミルクを取り出した。熱いのではなく暖かいと思えるくらいに、加熱時間を設定したらしい。于禁よりかは遥かにスムーズに飲んでいく。
「昼寝のし過ぎで、眠れなくて……」
「何だそのような理由か。別に、そのようなことがあっても良いだろう」
ホットミルクを順調に喉に流していった夏侯惇は、于禁の発言に頷く。自身が「今月は休め」と言っており、その通りにしているのだから特に不満が無いのだろう。次第にホットミルクを飲み干すが、于禁が飲み終えるまで待つ。
「それに……近いうちに、小説家としての活動を再開したいと思いまして」
「お前がそうしたいなら頑張れ。ただ、来月からまたメディア化についての仕事があるが、大丈夫なのか?」
「恐らく……」
時間を忘れて作業に没頭していた于禁は、その重要なことがいつの間にか抜け落ちてしまっていた。がっくりと頭を落とすが、夏侯惇に肩を優しく叩かれる。
「無理だと思うなら、せめて十月からでも遅くはない。待っているぞ」
「ありがとうございます。まだ、プロットもできていませぬが、タイミングの良い編集会議に提出できるように……」
「いや、もしも今回のメディア化が成功すれば、今後は出版社側から依頼をすることになるだろう。担当の蔡文姫からも聞くと思うが」
持っていたマグカップを落としかけた。それくらいに、驚いてしまったのだ。于禁は慌てて持ち直すが、マグカップが熱いだろうと両手で支える。だが熱くはない。マグカップのホットミルクから立つ湯気が、薄くなっていることに気付いた。
于禁は驚いていた気持ちも共に、温くなったホットミルクを飲み干す。そしてソファから立ち上がると、夏侯惇も同時に立ち上がった。
キッチンでマグカップを洗うと、夏侯惇と共に自身の寝室に入る。真っ暗であるので、常夜灯をつけた。そして僅かな不快感を覚える程に暑いので、エアコンもつける。暑さはすぐには解消されないものの、冷たい風がとても心地がよかった。
「お前が寝たら、すまんが俺は部屋に戻る」
そう言うと、于禁に横になるように促した。なのでベッドに寝ると、夏侯惇が縁にゆっくりと座る。于禁の頭に手で触れると、長い髪を柔らかく梳くように撫でていった。眼鏡が外されると、視界にある様々な物の輪郭が薄れていく。
すると于禁の中にじわじわと眠気が忍び寄って来る。目を閉じると、その気配が一層強まった。
「明日も、いつもの時間にまた……おやすみなさいませ……」
視界が細くなり、于禁の意識が遠のいていく。だがその曖昧な感覚に陥る中でも、額や唇に夏侯惇のキスが降りてきたのははっきりと分かった。口角に緩やかな曲線を作ると、夏侯惇の「おやすみ」という言葉が聞こえる。それが聞こえると、于禁はそっと睡眠の底へと潜っていった。