めくる月 - 3/12

不定の三月

三月に入った朝のことである。この日のはちょうど平日だが、于禁はいつものようにリビングの壁に掛かっている、カレンダーのページを一枚剥がした。三月のページが出てくる。
もう三月に入ったのかと、于禁はぼんやりと考えた後に朝食を作ろうとした。だがそこで、背後から手が伸びて抱き締められる。その手は于禁の胸下に、がっしりと固定されていた。
誰かは分かっているので、于禁は壁に視線を向けつつ話しかけた。
「おはようございます。支度をしなければ、遅刻してしまいますが」
「……おはよう。そう冷たいことを言うな。もう少しくらい、ゆっくりさせてくれ」
背後から抱き締めてきたのは、勿論夏侯惇である。だが寝起きなのか、声がかなり掠れていた。于禁はそれに呆れながらも「はいはい」と言いながら、夏侯惇の手に指先で触れる。
直後に「冷たい」と小さな苦言が耳の真横で聞こえた。手がびくりと跳ねたが、相変わらず離す気はないのかそれからは動かない。その様子を、于禁は凝視し始める。先程見ていた白い壁から、見慣れた手の肌へと。
「明日は休みなので、今日のところ……」
すると言葉の途中で于禁の心が変わってきたようだ。言い切る前に、発言を変えていく。
「お時間は、宜しいのでしょうか」
そう言いながら、于禁は触れていた指先を遠ざける。その代わりに、手の平で夏侯惇の両手の甲を軽く握った。触れ慣れているということもある手は、かなり暖かい。布団から出た直後だということがすぐに分かる。
「おい、矛盾をしているぞ」
微かな笑い声を、夏侯惇が出す。対して于禁が「そうですな」と返すと、夏侯惇が静かになっていく。そして観念をしたのか于禁の手を柔らかに払うと、両手での拘束を解いた。
背中にあった人の体温が消えると、于禁は寂しく思った。しかし夏侯惇を出勤させなければならないので、その考えを必死に払い切る。
「明日は、休日なのでしょう」
「ああ」
ようやく于禁が振り返ると、まだ寝間着姿の夏侯惇が見えた。それと交互に時計を確認した後に、現在時刻を述べる。そろそろ支度をしないとかなりまずい。
于禁がそう思っていると、夏侯惇が支度の為にリビングから出た。安堵の息をゆっくりと漏らした于禁は、朝食の準備をしていく。
支度が終わり、朝食を済ませた夏侯惇は家を出ようとする。そこで于禁が見送っていた。
「行ってらっしゃいませ」
「行って来る。だが……ほら、してくれないのか?」
穏やかに笑みを浮かべた夏侯惇は、自身の右頬に指を差した。于禁は照れ隠しの為に顔を歪める。
夏侯惇が求めていることを反射的にしたいとは思っている。二つの思いがせめぎ合った後に、于禁は頭をぶるぶると小さく振った。
出した答えは、後者である。春のように早い暖かさを連想させるような赤い顔を見せてから、夏侯惇の右頬にそっと唇を当てた。
「ありがとう」
とても機嫌が良さそうに、夏侯惇が言うと扉の鍵を開けて家を出た。その後に外から施錠される音が聞こえる。
于禁は顔が熱いという自覚を持ちながら、閉まった扉を見て「行ってらっしゃいませ……」と呟く。数分だけ立ち尽くした後に、急いではいないがやらなければならないことを思い出す。なので気を引き締めてから、まずはキッチンに向かう。
朝食の片付けを、少しだけ気を抜きながらしていく。それが終わると時刻は既に朝の九時を回っていたので、于禁はふとスマートフォンを確認する。蔡文姫からメールが来ていた。
内容を確認すると実写化する際に原作者である于禁に、脚本やキャスティングについて監修をしてもらいたい。そうテレビ局からの依頼があったので、急であるが一時間後に出版社に打ち合わせにできれば来て欲しいとのこと。
現在は管理しているマンションの住民のトラブルは減っており、特に優先すべき用事はない。なので于禁はそのメールに了解と返信を送ると、急遽であるが外出する支度を始めていった。
家を出て出版社に到着すると、蔡文姫とそれにテレビ局のプロデューサーがロビーで出迎えてくれていた。まずは最初に、プロデューサーの謝罪の言葉が聞こえる。そして今回はテレビ局側の無茶だということで、ここまでのことをしてくれていたらしい。蔡文姫も、それに大いに賛成していたからか。
于禁はそれに嬉しい思いと、申し訳ない気持ちを混じらせながら二人に挨拶をしていく。そして蔡文姫が何階か上のフロアで打ち合わせをする為に、エレベーターに乗るように促した。三人はエレベーターに乗ると指定した階層に辿り着き、于禁にとっては小さな会議室に入る。
すぐに三人は打ち合わせを始めた。蔡文姫のメールの通りでプロデューサーが、于禁に脚本とキャスティングの監修をしてもらいたいと話す。原作者である于禁ができる範囲と言ったらここが限界だ。それに、原作者がここまで携わるのは珍しいとのこと。
理解した于禁は快諾すると、出版社ではなくテレビ局で来月から早速に打ち合わせをすることになる。于禁はそれに驚きつつも、はっきりと頷いた。
因みに世間にメディア化が決定したことを公表していたが、本とあまり縁が無い層からの反応は無い。于禁の本を読んでいたらしき読者からは「そうなのか」という反応である。
まだ人気作家とは言えない立場であるので、于禁は当然だと思った。しかし内心の奥深くでは、喜びよりも怖さが勝ってしまう。だがテレビ局のプロデューサーに期待をしているので、于禁は恐怖を心の強固な箱に押し込めようと思ったのであった。

それから数日後の夕方頃。
雑務などをこなした于禁は家のリビングに居るが、ソファに座りまだ一月から使い始めたばかりの手帳を眺めていた。テレビ局での打ち合わせが、どこに入るのか少し考えていたのだ。特に大事な予定は詰まっていないのだが、念の為に。
すると唐突にプロデューサーから電話が掛かってきた。驚いた于禁は何だろうと思ったが、相手は知っている人間なのですぐに通話を始める。
プロデューサーの最初の言葉が「突然に申し訳ありません」だった。于禁からしたら急に電話が来ることなど、気にもしていない。なので丁寧に宥めていくと、要件を聞いた。するとプロデューサーが大まかなシナリオを、脚本を担当している者が既に書いてしまったらしいと。
かなり早いと思ったが、相手側としてはそれが普通なのか普通ではないのかは分からない。于禁は「大まかであれ、お疲れ様です」と言葉を掛けた。プロデューサーは、嬉しそうに礼を返す。
そしてプロデューサーと脚本の于禁の三人で、まずはそれを元に来月から打ち合わせをしていくと改めて伝えられた。
今は基本的には外に出る必要はない于禁は、プロデューサーや脚本の都合に合わせた。結果、夕方や夜の時間帯が多くなったが仕方ないだろう。それにかかる時間はおおよそ三十分から一時間程度だと、プロデューサーが言う。
だが場所はテレビ局になり、基本的には閉鎖している時間などない。プロデューサー側としても、于禁としてもいつでも大丈夫だろう。于禁は数回を予定している打ち合わせの時間を、全て手帳に正確にメモしていく。
すると最後に確認として、メモしていった日にちと時間を于禁が声に出して読み上げる。プロデューサーも確認の為にと、ノートのような物のページを忙しなく捲る音を鳴らす。
そして于禁が早い順から予定している打ち合わせの日にちを、最後まで時間を読み切った。二人が記入している予定に、齟齬が一つもない。
プロデューサーの安堵の息が小さく聞こえると、于禁もつられて安心の溜息を吐く。そしてプロデューサーが「ではそれらの日程で、よろしくお願いします」と言って通話を終えた。
スマートフォンを耳から離した于禁は、予定の書かれている手帳のページを見る。管理しているマンションの、大家としての対応があるとするならば大抵は昼間だ。夕方や夜はそのようなことは全く無いので、于禁は何の躊躇もなく脳内で予定を組み立てていった。
手帳を自室の机に置くと、于禁はスマートフォンのみを持ってリビングに戻る。夕飯を作るにはまだ少し時間があるうえに、何を作るのかが決まっていた。
もう少し休んでおこうかと思い、スマートフォンでストップウォッチのアプリを開くと設定をする。そしてスタートのボタンのある場所をタップすると、于禁はすぐに目を閉じて仮眠をしていく。
「ん……」
設定した時間になるとバイブレーションで知らせてくれるのだが、于禁は目を殆ど開けずにバイブレーションを止める。そしてようやく目を開けたのはいいが、そこには夏侯惇が居た。于禁が把握していた時間よりも早く帰宅をしていたようだ。しかしまだスーツ姿であるので、つい先程に帰宅していたことが一瞬で分かる。
「か、夏侯惇殿……! 今、夕食を……!」
冷や汗を数滴垂らした于禁は飛び起き、スマートフォンを机に置いたままキッチンに向かおうとした。だが夏侯惇がそこで于禁に話し掛ける。
「待て。だったら俺も手伝うぞ」
「ですが……はい、そうでしたら、よろしくお願いします」
于禁は夏侯惇からの申し出を、反射的に断ろうとしていた。しかしそれは夏侯惇に失礼な態度であり、于禁は急いで夕食の準備をしなければならず、何かのミスが起きる可能性が少なくともあるかもしれない。
それに、このように優しくされるのがとても嬉しく思っていた。なので于禁はすぐに訂正をすると、夏侯惇に夕食作りの手伝いを快く受け入れる。
数十分を要して簡単なものを作り終えてから二人で食卓に座るが、ふと思ったのか夏侯惇がとある話題を出す。
「まだ時間はあるが……家の場所は、この近くがいいと思ったのだが、どうだ?」
「この周辺ですか……」
夏侯惇が出した話題とは、二人だけで住む家を建てる際の場所だ。以前から空いた時間に二人で、様々な駅に降りて一日中そこで過ごしてみたりもした。そこと比較するとなると、今住んでいるマンションがある地域とである。
于禁は箸を進めながらも、ぼんやりと考えた。一方の夏侯惇は于禁の顔色を伺っているのか、箸の進みが少し遅くなっている。
確かに、他の地域に足を運んでみたがここと比較してみて良いと思える場所がなかなか無い。どちらかが少しでも良いと思った場所でさえも。
そこで于禁の箸の進みも次第に遅くなっていくと、いつの間にか完全に止まっていた。
「……すまん、やっぱり、落ち着いた時に話そう。寝る前に少しだけいいか?」
「いえ、夏侯惇殿!」
于禁は大きく慌てるが、まだ自身の考えが纏まっていない。だが今はそう考えていることを、念の為に伝えておかなければならない。持っている箸を置いた于禁は、夏侯惇に若干の躊躇を引き摺りながら話す。
「まだ、現時点では私の中で迷いがあります。まだ、ここよりも良いと思える場所が思いつきませぬ。ですがこれは必ず考えを纏め、貴方に話さなければなりませぬが……それまで、しばしお待ち下され」
大きな角度を持ち軽く頭を下げた于禁だが、頭上から夏侯惇が「そのようなことに頭を下げるな」という注意をした。同時に箸を置き、まっすぐに于禁の方を見ている。
即座に頭を上げた于禁は「はい」とはっきり返事をしてから、確実に頷いた。
「……俺が切り出した話題だが、すまんな。折角のお前との夕飯だ。気持ちを切り替えて、楽しく食事をしよう」
「いえ、お気になさらず」
于禁が首を横に振ると、夏侯惇が箸を持った。そして食事を再開させていくが、于禁は同様に箸を持っていない。于禁の器には、盛り付けてある料理がまだ残っている。するも夏侯惇がそれに、笑みを浮かべながら箸を伸ばした。
「何だ? 食わないのなら俺が食うぞ」
「いえ、私が食べますので!」
慌てた于禁は箸を持ち、手を付けている途中であった料理に箸をつける。そして口に運ぶが、それなりの量を詰め込んでしまった。ハムスターのように頬が大きく膨らむ。
「本当に食わないぞ」
笑いを維持しながら、夏侯惇がそう指摘をした。于禁は急いで咀嚼をすると、少しずつ飲み込んでいってから言葉を発する。
「私は、本当に取られると思ったので……!」
「そのようなことをする訳がないだろう」
夏侯惇が先程よりも笑みを大きくしたのを見ながら、于禁は相変わらず料理を詰め込んで食べてしまっていた。
食事を終えて入浴を済ませると、于禁はいつものように一人で眠ろうとしていた。寝室へと足を進める。
しかし夕食時の夏侯惇の話題を思い出すと、その足は別の部屋へと無意識に動いていた。向かった先は、夏侯惇の部屋の前である。
「あの、夏侯惇殿、入っても宜しいでしょうか」
数回の軽いノックの後に、まだ起きているであろう夏侯惇の名を呼ぶ。まだ日付が変わる時間には早いので、寝ている筈が無いと思いながら。
すると予想通りに、夏侯惇から入室の許可を得たので部屋に入る。寝間着姿の夏侯惇はベッドの縁に座り、手帳とスマートフォンを交互に見ていた。仕事の予定を確認しているのだろうか。
「どうした?」
「今夜は共に寝て頂けないでしょうか? いえ、単純に……」
「それくらい構わん。ほら、来い」
まずは手帳をベッドの近くのチェストに置き、次にスマートフォンにケーブルを挿して充電を始めた。それを見た于禁は、ベッドの上に乗る。
「だがこのような早い時間には流石に寝られないからな、何か話そう。疲れたから、横になりながらでいいか?」
質問と同時に、夏侯惇がベッドの上に横になった。于禁はそれにくすりと笑うと、夏侯惇の隣に寝る。
まだ暖かさが戻って来ない季節なので、二人は寒さに自然と身を寄せ合う。すぐに体が暖かくなってきたので、于禁は思わず目を細める。すると于禁に、激しい睡魔が襲ってきていた。夕食時の話の続きをしようとしていたのに。
「もう寝るのか? では照明を消すか……」
夏侯惇が溜息を漏らすが、それは呆れの意味ではない。愛しいという感情からくるものである。于禁は夏侯惇のそれを聞きながら、夢の中に入っていった。
意識を失う前に体には柔らかい毛布が掛かり、額には軽い口付けが掛かってきたことを感じながら。