めくる月 - 2/12

鑑賞の二月

二月に入り、于禁はカレンダーを一枚捲った。寒さが更に厳しくなっていく。厚い雲から雪がちりと降り、街を白色に染めていたからだ。しかしこれを過ぎれば、あとは暖かくなることは分かっている。長い髪を縛っているので、うなじが冷たいと感じながら、ふとそう考えていた。
一人でキッチンの窓から白い外を見て、于禁は同じく白い息を吐く。手元には、セッティングしてあった電気ケトルがある。しかし水が入っているだけだ。一度も沸かしてはいない。
今の時間は朝の九時であり、夏侯惇は日曜日なので休みである。月曜日から昨日の土曜日までずっと働いていたので、まだ自室で眠っているのだろう。夏侯惇が今日は何をするのか不明であるが、于禁は簡単な朝食を二人分作る。そこで、冷蔵庫の中がほとんど空になっていることに気付いた。夏侯惇が一日中寝ているのであれば、昼前に買い物に一人で行こうと考える。
因みにせっかくの夏侯惇の休日は、今日一日しかない。明日の月曜日からは、何連勤になるのかか分からないらしい。
雪のように大きな白い皿を二枚出す。トースターで焼いた食パンと、それに隣に小さなフライパンで焼いたウインナー数本や目玉焼き一枚をそれぞれ乗せる。飲み物はグラスに注いだ水だ。それを二人分準備しており、大きめの木製の盆にフォークと共に乗せるとキッチンを出た。向かう先は、夏侯惇の自室である。廊下は外よりかは寒くはないが、体の芯から冷えていく感覚があった。室内とはいえ、それなりに厚着をしていてもだ。
夏侯惇の自室のドア前に到着したが、とても静かである。なので夏侯惇がまだ眠っているのだろかと思ったが、もしも起きていた場合に備えて食事を持って来ていた。盆を片手に乗せている物が落ちないように持つと、空いた手で部屋のドアを軽く静かな力でノックする。するとドアがゆっくりと開き、寝間着姿の夏侯惇が出てきた。
「ん? どうした?」
夏侯惇は起きていたらしい。だが髪がぐちゃぐちゃで、目があまり開いていない。そして何よりも、普段はつけている眼帯をしていなかった。そこで于禁は分かったのだが、夏侯惇は既に起きていたというよりも起きた直後であるということだ。
恐らく、先程のノックで夏侯惇を起こしてしまったのだろう。なのでもう少し寝てもらった方がいい。どう考えてもそれしか浮かばない。
「おはようございます……もう少ししましたら、また来ます。起こしてしまい、申し訳ありま……」
「おはよう、飯を持って来てくれたのか? ありがとう于禁。俺の部屋で一緒に食おう……だがその前に、軽い身支度くらいはさせてくれ」
軽いあくびを漏らした夏侯惇は、于禁を置いて自室を出る。そして洗面所に向かってある程度の身だしなみのみを整えていった。服装は寝間着のままだ。それがものの十分程度で終わると、自室に戻って行く。眼帯をつけるのが面倒なのか、ベッドサイドに置いてある。
そして于禁が準備していた朝食を見るなり、夏侯惇は上機嫌で話しかける。
「美味そうだな。来てくれたからには、とりあえず座れ」
夏侯惇はベッドの縁を指差した。この部屋には、他に二人で座る場所が無いからだ。
「ありがとうございます。では、失礼致します……」
于禁がベッドの縁に座ると、夏侯惇も続けて座る。ただし夏侯惇が于禁の肩に頭を若干寄せ、ぴったりとくっつく形で。
「これでも食えるだろ」
確かに夏侯惇の言う通りである。朝食なのだから、于禁は手軽に食べられるものを作っていた。
ほぼ毎朝夏侯惇に朝食と夕食を作っているが、朝食はそれを意識している。特に平日では食べ終えるのに時間の掛かるものでは、夏侯惇が遅刻する可能性が高くなるだろう。それに、夏侯惇は基本的には残さず食べてくれるので、手間や時間の掛かるものは良くないと充分に分かっていた。ただし休日であっても、それが当たり前になってきているのだが。
二人で静かに朝食を終えると、于禁は二枚の食器類と二つのグラスが空になったのでキッチンに持って行こうとする。そこで、夏侯惇が于禁の動きを止めた。
「今日は予定は無いか? そうであれば、一緒に映画を観よう。ここで、俺のスマートフォンで観ることになるがな」
「賛成です。本日は何もありませぬので、急いで片付けを致します。少しお待ち下され」
「ん、あぁ」
夏侯惇が寄せていた頭を離すと、于禁はゆっくりと立ち上がった。そして盆の上にある食器類を落とすこともなく、綺麗な姿勢でキッチンに向かって行った。
皿とグラスは水道の横にある食器洗浄機に入れると、カバーを閉じて電源を入れてから様々な操作をした。すると早速、食器を洗う為に機械の中で水が溢れ出てくる。于禁はそれを視界の隅へと追い出した後に、次はコーヒーの準備を始めた。マグカップを二つ、食器棚から取る。しかし豆から挽くことは時間がかなり掛かると于禁は判断する。
なのでインスタントの安いコーヒーの粉をマグカップ二つに均等にかつ適量入れると、最初に準備しておいた電気ケトルですぐ湯を沸かしてから並々と注いでいく。
コーヒーとしては味はそこまで悪くないが、やはり豆から挽いたものと比べると劣る部分もある。しかしこうして短時間でできるものだ。なので于禁にはインスタントのコーヒーの粉を、買わないという選択肢に従うことなどできなかった。
その思いを掻き消すように、小さなスプーンで粉と湯を混ぜていく。恐らく均一に混じっているのだろうと、目視で判断をすると于禁は混ぜていたスプーンを差したまま先程と同じ盆の上に乗せた。
「お待たせ致しました」
于禁がベッドの傍にあるチェストの上に盆を置く。どうやら于禁は、夏侯惇が壁にでも縋って観るのかと思っていた。なのでベッドの上に乗り上げるが、夏侯惇はそれは違うと于禁の手を引いた。于禁の体勢を大きく崩す。
「座って観ると、体が怠くなってな」
そう言いながら、夏侯惇は于禁と共にベッドの上に倒れた。二人は今、向かい合っている。
次に于禁の髪を纏めているるゴムを外すと、散らばる長い髪にさらりと触れた。
「映画を……観るのではないのですか?」
夏侯惇との、甘くなっていく雰囲気に于禁は飲まれそうになっていく。だがどうにか耐えているのか、寒い時期だというのに汗が一滴だけ頬を伝っていた。夏侯惇は「そうだ」と簡単に返事をすると、于禁の体勢を無理矢理に変える。夏侯惇に背を向けるようにしたのだ。
次に後ろからそっと抱き締めると、夏侯惇は自身の充電済みのスマートフォンを取り出す。ロックを解除すると、映画を観るためのサブスクリプションアプリを開いた。
「ほら、観るぞ」
毛先を指で軽く撫でながら夏侯惇がそう囁くと、于禁は「はい……」と小さな声を出す。まだ、辛うじて正気を保っていられていた。
「観るものは決まっている。この中からだ」
于禁を抱きまくらのようにしながらも、夏侯惇は片手で器用にスマートフォンを操作する。そこで画面に表示されているのは、于禁の書いた小説を実写化した際の監督の作品だ。
聞けば有名な人物らしく、インターネットで検索すれば代表作が多く出てくる。思わず「多い……」という呟きが自然と漏れた。
于禁はそのような分野に疎いが、テレビ局側がかなりの期待をしていることが改めて分かった。
出版社の編集長である立場の夏侯惇でも、さすがに前評判などを大まかに知っていた。なのですぐに選んでいった。これは初期の頃に手掛けた作品らしい。
再生画面を表示させてから「これでいいか?」と于禁に尋ねる。于禁はあまりよく分からないので、もしも反対をするにしても理由としては弱すぎる。それに、同じ監督の作品ならば観ても損は無いだろう。于禁は「はい」と頷いた。
サムネイル画像やあらすじからして、これは恋愛映画であった。内容はごく普通の若い男女が様々な偶然での出会いを重ね、やがて付き合うもの。
夏侯惇が再生ボタンをタップする。二人は再生が始まると、真剣に視聴していた。
だが映画の終盤になると、男女が付き合い始める。そこで初めての軽いものだがキスシーンが入ると、于禁はこの初々しい場面により気恥ずかしさが込み上げてきてしまっていた。すると若い頃の、苦い思い出が蘇ったのだろう。于禁本人は話さないが、あまり思い出したくはないことだけを夏侯惇に知られてしまう。
「……そうやって、今のお前が居るのだ」
微かに聞こえない程度の小さな声で夏侯惇がそう言うと、于禁の体を更に包み込む。するとこの安心する人の温もりが、心地よくなってきていた。于禁は一瞬だけ振り返ると、夏侯惇と今観ている映画よりも軽い口付けをする。
「映画を観終わっていないのに、申し訳ありません」
そう言うと、スマートフォンの画面に向き直った。しかし夏侯惇から見たら耳が真っ赤になっているので、何も無い素振りなどもうできない。背後から夏侯惇の短く微かな笑い声が聞こえるが、そのまま鑑賞を続行する。
すると于禁も同じように映画に集中すべく、スマートフォンの画面を凝視していたのであった。
エンドロールまで再生がされると、夏侯惇が「やはり面白かったな」と一言だけ感想を呟く。そしてスマートフォンの再生画面を閉じると、ベッドに画面をばたりと伏せた。
「……はい。この監督は、カメラロールに癖があるように見えますが、それが大事な場面の演出をより強調させていて、とても良いと思えました。内容は……貴方と同じ意見です」
「おお、凄いな。初めてでそこまで観ていたのか。俺は、初めはただストーリーと登場人物の言動は観察できていたが……だが、そのような視点を持つことは素晴らしいと思う。大事にしておけ」
散らばった髪を撫でた夏侯惇は、起き上がってからチェストの上にある冷たくなったコーヒーを口にした。そこで持っていた集中力が切れたのか、体を数秒伸ばしてから于禁に言う。
「少し休憩するか。ちょうど、昼前だしな。昼食はどうする?」
「たしか冷蔵庫に……あっ! そういえば、何もありませぬ……」
于禁は勢いよく体を起こし、焦った様子でそう伝えた。だが夏侯惇は特に責めるつもりはなく、もう一個のコーヒーが満たされたマグカップを差し出す。
「冷えてしまってるが、飲んでしまった方がいい。折角、淹れたものだ。それから考えよう」
すると焦燥感が徐々に消えていった于禁は、長い髪を耳に掛けながら「はい」と返事をする。そしてゆっくりと冷たいコーヒーを喉に流していくと、外で昼食を済ませるという話を夏侯惇としていったのであった。
近所の喫茶店で昼食を終えると、二人はしばらくの時間は雑談した。最初に注文していたコーヒーのおかわりをしてからで、主な内容は次は何を観るかである。夏侯惇がスマートフォンで監督の代表作を再び検索すると、その画面を于禁に見せた。文字や画像がずらりと並んでおり、于禁は作品の多さに再び戸惑う。
「最近、有名な賞を受賞した作品があったな」
「有名な賞ですか? ……あぁ、思い出しました」
二人にとっては記憶に新しい作品のページをスマートフォンに表示させた夏侯惇は、于禁にそれを見せる。昨年公開されたものらしいが、残念ながら二人はそれを観に行っていない。
ジャンルはヒューマンドラマで、原作は小説だ。于禁の書く小説のように、人間関係が濃厚である。その説明を夏侯惇から受けた于禁は、自身と似ている傾向の映像作品にかなり興味を持つ。これを観れば監督がどのような映像を作るのかが、確実にではないが更に分かるのではないかと思って。
「では、次はそれを観ましょうか」
おかわりをしたがぬるくなっていくコーヒーを啜りながら、于禁が意見を述べる。夏侯惇は頷いてからスマートフォンをスラックスのポケットにしまうと、コーヒーを一口だけ含んでから飲み込む。
「……あの、今日はこのような過ごし方で、よろしいのですか?」
ふと疑問に思った于禁は、そう尋ねる。夏侯惇の方を見ていたが、次第に視線がテーブルの上にあるコーヒーの黒色に吸い込まれていく。あまり有意義ではない休日の使い方をさせているようで、少し申し訳なくなったのだ。映画を観ようと提案したのは、夏侯惇の方であるが。
「俺は別に不満には思っていない。ほら、冷蔵庫の中が空と言うなら、買い物に行って早く次の作品観るぞ」
于禁のものと同時に二杯目のコーヒーが注がれたので、夏侯惇のマグカップのコーヒーも熱いという訳ではない。だからなのか、一気にあおるとコーヒーを飲み干してしまった。急かされた于禁もマグカップを空にすると会計を済ませてから、喫茶店を出る。そして近くのスーパーで買い物をしてから帰宅をすると、午前中のように二人は映画を観ていく。
これも二人が観たことのない映画だったうえに、若者同士の恋愛映画ではない。途中で今の状況と重ね合わせられる場面があり、二人は共感を持ちながら観ていった。
再生時間はおおよそ二時間だが、二人はあっという間に観終える。
「最近のものだから、かなり洗練されていたな」
まずは夏侯惇がそう感想を述べると、于禁も同じことを思っていた。深く頷く。
「はい。とても良い仕事をして頂けそうです。まだ撮影が始まっていませぬが、楽しみです」
夏侯惇が「そうだな」と返すと、時刻はすっかり夜になる前だった。陽が沈む時刻は次第に遅くなってきているが、室内の暗さを頼りにしても時計を確認すれば、既に午後の六時である。
「かなり早いが、俺も手伝うから夕飯を作ろう」
ベッドに座る体勢へと変え、夏侯惇が体を伸ばしながらそう言う。だが未だに横になっている于禁は、首を横に振る。
このときの于禁は自身でも分かるくらいに、眉が下がりきっていた。
「……明日から、ずっと休みも無く仕事なのでしょう。もう少し、ゆっくり過ごしたいと思えて来まして……昼間は、あのようなことを言いましたが……それに、少し、冷えて参りましたので……」
そして繋ぐ手を伸ばして夏侯惇の腕を引く。しかしその力があまりにも弱かったので、夏侯惇の体が多少揺れる程度。それでも、夏侯惇は于禁の言葉と表情は大きく揺れたらしい。
観念したかのように笑うと、于禁の隣に横になる。そして顔を近付けると微かに唇を合わせ、于禁が満足をするまで熱に触れさせていたのであった。