まぼろし

 峯が病院の屋上から飛び降り、数日が経過した。奇跡的に一命を取り留めたが意識は無く、ずっと眠っている状態である。医師曰く目覚める可能性は充分にあるが、それがいつなのか分からないという。

 体の状態は悲惨であった。病院の屋上から飛び降りたので、勿論全身の打撲をしていた。顔は原型を留めていないくらいに裂けており、鼻の骨は粉砕されていた。顎の骨も砕けており、まともに喋ることはできないだろう。

 そのような状態でも、峯が生きてくれて良かったと大吾は思える。今は見舞いに来ているのだが、全身を包帯で巻かれた峯を見た。顔まで包帯で巻かれており、唇の部分には呼吸器がついている。ベッドの上に静かに横たわっており、いつ目を覚ましてもおかしくはないのうに見えた。しかし微動だにしない。

 そしていずれ目を覚ましてくれたら、大吾は伝えようと思った。大吾は峯に好意を抱いているのだ。偶然好きになったのではない。運命と思いながら好きになったのだ。

 好きと伝えたならば、峯はどのような反応を示すだろうか。どのような返事をしてくれるだろうか。大吾は期待に胸を膨らませながら、包帯に包まれた大吾を見る。

「なぁ、峯、お前はもう向こうに居るんだぜ」

 電子機器の音のみが聞こえる病室で、大吾がそう呟く。だが当然のように返事は無いのだが、峯の声が聞こえるような気がした。

『本当ですか? 嬉しいです……』

 峯としては念願の向こうなのだろう。大吾は微笑みながら、峯への好意を振り返る。

 思えばいつ、峯のことを好きになったのだろうか。考えるが、いつの間にか好きになってしまっていたとしか言いようがない。同じ男であるが、自分たちは裏社会の人間同士であるが、そのようなことは関係ない。互いに想い合えることができれば、それで愛は成立するのだ。

 では峯のどこが好きになったのだろうか。そう考えるが、まずは顔が浮かんだ。峯は端正な顔をしている。世間からすれば、美形の類に入るくらいだ。しかし峯はそのようなことなどどうでも良さそうだが、時にはそれを武器にしたりしていた。商談ではまずは外見が大事になり得るので、相手にアピールをしていたのだろう。女も勿論だが、男にも好かれていた可能性もある。今になって、嫉妬心が湧いてきた。

 次に好きなところと言ったら、自身への忠誠心だ。あれほど自身に忠誠を誓ってくれる存在など、峯以外に居ない。それほどに信頼もしていることになる。

 大吾は想えば想う程に峯の存在が愛しくなり、ベッドの掛け布団の端にそっと触れる。即ち峯を触れているような気がして、大吾の胸が熱くなった。思わず涙が零れ落ちる。それも熱かった。

「なぁ、峯……俺は寂しいよ……早く、目を覚ましてくれ……」

 ハンカチを取り出してから拭き取るが、涙は止まってくれない。まるで雨のようだと思いながら、ハンカチを何度も擦る。このままではハンカチが水浸しになるのではないのか。それくらいに涙が流れる。

『大吾さん……泣かないで下さい……』

 峯ならばそう言ってくれると思った。

 幻聴をしっかりと聞き取りながら、頷いた後にハンカチを離す。この病室から出る頃には、目元は赤く腫れていることだろう。

「だったら、早く目を覚ましてくれ峯。俺は待っているからな……ずっと、ずっと……」

『少し、待って下さい……私には、準備が……』

 幻聴が更に聞こえるが、今の自身が極限状態だとは思いもしない。寧ろごく正常だ。

 大吾はそのような考えを頭の中で巡らせるが、直後に峯が屋上から飛び降りる記憶が何度も再生されてしまう。麒麟が、飛び降りる瞬間を。

「……違う! 峯は、俺への忠誠が揺らいだからじゃない! 向こうに、向こうに行きたかったからだ……!」

 途端に大吾はパニック状態になった。整えていた髪を掻きむしるように乱し、そして涙を垂れ流しに。傍から見れば、異常に見えることだろう。

『大吾さん、落ち着いて下さい。私はもう向こうに行けました。貴方がそう仰っていたでしょう?』

「あ、あぁ……そうだったな……峯……」

 幻聴により正常心を取り戻した大吾は、垂らしていた涙をハンカチで拭き取る。アイロンでぴしりと張っていたハンカチは涙などでよれよれになっていた。だが構わず大吾は未だに流れる涙を拭き取っていく。

「すまねぇな、峯……無様な姿を見せてしまった……」

『いえ、無様とは思いません。寧ろ嬉しいです。私のことを、そんなに思ってくれているなんて』

 幻聴は嬉しいことを言ってくれる。大吾の顔に笑みが戻ると、話の方向を変える。

「なぁ、峯、好きな色はあるか?」

『好きな色ですか? そうですね……黄色とか……?』

 黄色、確かに峯に相応しい色だと思えた。黄色といえば希望の色。自身としては峯は希望である。なのですぐに納得した。

「じゃあ、明日、黄色の花を見舞いに持って来るから、楽しみにしておいてくれ」

『いいんですか? ありがとうございます』

「じゃ、俺は今日はここで帰るよ。また明日な」

 峯の口元から『はい』と返事が聞こえたような気がした。しかし包帯や峯の体が動いた気配が無いのだが、大吾は動いたことにしながら病室を出た。

 自宅マンションに帰ったのは、深夜だった。今日も相変わらず忙しく、峯の見舞いの後にも様々な仕事が待ち受けていた。正直、もう疲れたなど思って何もかもを投げ出したくなる。だが投げ出してしまえば、組織は荒れて部下を食わせられなくなってしまうだろう。全てを背負っているので、落とす訳にも投げる訳にもいかない。溜め息をついた。

 大吾は疲れた様子でシャワーを浴びてからすぐにベッドに入る。服を着るのが面倒であるので、下着のみの姿だ。

 しかし眠れる気配はないので、棚から酒瓶とグラスを取り出した。グラスに酒を注いでから、ベッドの縁に座る。

「ああ……俺……」

 呟いてから、峯の様子を見に行った時のことを思い出す。

 峯は全身を包帯で包まれていた。それほどに状態が酷いのだが、いつ治るのだろうか。いつ口を聞いてくれるのだろうか。そう考えながら酒をあおる。すぐに飲み干してしまった。もう一杯注いだのだが、それもすぐに飲んでしまう。

 チェストにグラスと酒瓶を置くと、大吾はベッドの上にだらしなく寝転んだ。見慣れた天井を見る。

「峯……俺は峯に会いてぇよ……峯……」

 そう言った後に天井に手を伸ばすが、峯に届く訳もない。すぐに手をぼとりとシーツの上に落とすと、溜め息をついた。

「なぁ、峯……」

 そこでふと、峯のことが好きだということを考える。

 想いは本当なのだが、峯と結ばれたらどうしたいのか考える。すると手はすぐに、下着へと伸びてしまう。これを峯に取り払われたら、考えただけで下半身に熱いものが籠もった。

「俺……」

 呟いてから下着をずり下ろす。そしてすぐに峯のことを考えていく程に、最近はご無沙汰である自身のものが反応をする。酒を飲んだのにもかかわらず、峯のことを想像するだけで勃起をしたのだ。

 しかし悪い気分ではない。勃起したものをすぐに握る。

「峯……俺、お前のことを考えただけで勃っちまったぜ……峯、見てくれよ……」

 峯が目の前に居り、凝視されるイメージを脳内に作る。そして見られているつもりで、やわやわとものを握っていった。先走りが垂れていく。

「ッあ、は……! ん、んっ、んぅ……峯、峯……」

 ものの硬度が増していくと、膨らんできたことが分かる。射精の前兆なのだが、もっと想像の峯に見られながら射精したいと思った。強く握ってから射精を我慢した後に、峯の顔を想像する。

「峯……見てくれ、俺のちんこを……はぁ、はぁ……峯ッ」

 そこで男同士の交わりについて考えるが、大吾は抱くか抱かれるかどちらが良いのか。だが答えはすぐに見つかり、峯に抱かれることを選んだ。

 するとチェストに手を伸ばしてからローションを取り出すと、それを手のひらに出していく。手のひらに、冷たい感覚が広がる。

「峯……お前のが欲しい……」

 愛しさで溢れた声を出しながら、大吾はローションを手のひらで温めた。すぐに冷たさが失われると、指に纏わせてから尻にあてがった。男同士での交わりは、ここでするものだからだ。大吾は知っていた。

 この指がすぐに尻に入れば、感じたことのない感覚にきつく目を閉じる。そしてすぐに峯の顔を思い浮かべた。安堵の色に染められていく。

「はぁ、ぁ、あ……峯、見てくれ……お前のものが欲しいから、すぐに受け入れてやるから、待ってろ……」

 尻に指を突き立ててから、穴をやわやわと揉む。そこはきつく閉じられているものの、目の前に峯が居ると思えるとその穴が緩まる気がした。

「っふ……ぅ、ぅん……峯、峯、すき……」

 腰を浮かせてからより手を伸ばす。そして指が入っていくことを感じれば、体勢を変えた。仰向けから四つん這いの体勢へと。

「峯、俺の、恥ずかしいところを見てくれ……はぁ、はぁ……やだ……峯に、俺の恥ずかしいところを見られてる、はぁはぁ……」

 そこで背後に居ると想像している峯が「大吾さん……」と囁いてくれている気がした。体がびくりと跳ねた後に、足や尻たぶを大きく開く。峯により恥部を見られていると感じる。

 ローション塗れの指を動かす。穴は次第に柔らかくなっていくが、案外早いと思えた。更に指を大きく動かしていく。気持ちがいい。

「ぁ、あ! っう、はぁ、は……」

 尻からぐちぐちと音が鳴ると同時に、指の第一間接が埋まっていく。自身の粘膜に締め付けられる感覚に、大吾は口を半開きにする。気持ちが良くて堪らない。

 これが、この指が峯の指であったらどれほど良かったのだろうか。これは残念なのだが、それでも大吾は指を動かしていく。

 中は熱い。灼熱のようだ。これを峯に感じてもらいたいと思いながら、指を更に沈めていく。異物感がこみ上げたものの、それは快楽によって上書きされていく。手はもう止まらない。

「ぁ、ッう、はぁ……はぁ、峯、俺をもっと……あぁ、あ、おくにはい……ひゃぁ!? なに、ここ、おかしい、あたまが!」

 第二関節まで入ったところで、尻の中の何かに掠めたような気がした。そこを指で微かに触れただけで、体中に電流が流されたような感覚が走る。つまりは、凄まじい快楽なのだ。

 尻を落としてしまいながら、シーツに唾液を垂らす。そして先程のものは何なのだろうかと思っている間に峯の想像の化身は消えてしまっていた。なので必死に考えながら、峯の想像を復活させる。すると「もっとそこに触れますよ」という声が聞こえたような気がした。大吾の指が自然と動く。

「そうだよ……さっきのところ、気持ちよかったんだよ、峯……」

 そう言いながら再度指を沈めていく。そして先程の箇所はすぐに覚えてしまったので、そこに触れる。やはり凄まじい気持ち良さに、口から再び唾液が垂れる。そしていつの間にか射精をしてしまっていた。シーツを汚す。

「ッあぁ! はぁ、ぁ……ん、ん……きもちいいぞ、みね……」

 シーツに散った精液を眺めた後に起き上がるが、やはりそれでも勃起は止まらない。先程の気持ちが良い箇所をもっと触れていたいが、触れれば触れるほどに頭がおかしくなるような気がした。それに、頭がおかしくなるなら峯にしてもらいたい。

 我慢をしながら勃起しているものを握る。後は慣れている快楽を浴びるしかないと、ものをしこしこと扱いていく。

 やはり慣れた快感であるものの、目を閉じてから峯の姿を浮かべると捗った。手の動きが早まり、ローションでよく滑る。気持ちがいい。

「っふ、ふぅ……峯、なぁ、峯、俺がイくところを見てくれ……ッう、ぁ、ア……はぁはぁ、は……っあ、あ……でる、でる……イく、イく!」

 実は一人だということを忘れながら、大吾は射精をした。シーツのことを峯だと思って散らせていく。

「峯、早く峯のでイきたい……」

 射精後に大吾は現実に戻ってしまった。峯などここに居る筈はない。そう思いながら項垂れた。しかしシーツを片付けてシャワーを浴び直さなければならない。

 体に倦怠感がのし掛かるのだが、このままでは寝られない。ただでさえ忙しい身であるのに、ここで寝られなかったら疲れは溜まる一方だ。頭を振ってから、気分を入れ替える。今、峯と共に片付けをしていると思えばいいのだ。一人で頷いた大吾は、片付けをする為に重い腰を上げた。

 

 シャワーを浴びてからシーツを替えたところで、大吾は再び横になる。先程の自慰行為と呼ぶべきなのか、大吾はとてもすっきりとしていた。だがやはり峯が居ないので、心からの満足はない。

 なので天井を仰ぎながら峯のことを考える。そして明日もまた見舞いに行こう、無理にでも見舞いに行こうと考えながら眠りについた。夢に峯が出てくればいいと思いながら。

 次の日に峯の元に見舞いに行くことはできなかった。面会時間を過ぎていたからだ。手には黄色の花がある包みがある。峯の為に買ったものだ。しかし用を成せないまま、大吾の手に残る。

 なので肩を落としながら帰宅をすれば、すぐに峯の幻聴に寄りかかる。

「峯、好きだよ……」

 すぐにシャワールームに入ると、服を素早く脱ぐ。そして目を閉じれば、峯の姿が浮かんでいくような気がした。

「なぁ、峯……またお前に会いたいよ……」

 笑みを浮かべながら瞼の裏に話しかければ、峯が笑ったような気がした。嬉しくなり手を伸ばすが、さすがに感覚までは得られなかったようだ。頭を少し垂らした後にシャワーを浴びる。背後には、いつでも峯が居るような気がした。

『大吾さん、好きです……』

「ん、俺も……」

 キスこそはできないものの、やはり姿と声は頭の中にある。なのでそれだけを感じながら、湯を浴びていく。気分がよかった。

「ベッドに、行こう」

 一人でそう呟きながらシャワールームから出れば、体を雑に拭いてからベッドに向かう。当然、何も纏っていないが問題はない。

 この先にも、想像の峯が居るのだから。

「次はいつ会える?」

『貴方が望むなら、いつでも』

「ふふ……それは嬉しいな」

 想像の峯は嬉しいことを言ってくれる。きっと現実の峯も同じことを行ってくれるだろうと、そう思っていた。なので口元を緩めながら、ベッドに横になる。そして足を開けば、昨夜弄った尻穴が疼く。早く指を差し込みたい。

 チェストからローションを取り出し、早速に手のひらに馴染ませる。そして指にも馴染ませた後に、尻に向けた。

「峯、今日も見ていてくれ……いつか、お前のちんこを……ッう! う、ぁ、はぁ……は、ぁん、ん……!」

 指を入れると、すぐに体が反応した。これを求めていたのか、粘膜が必死に指に食らいつく。狭い筈のそこが、指に合わせて動いているような気がした。大吾は息を荒げながら指を更に動かす。

「ひ、ひっ、きもちいい、みね、みね……!」

 名を呼べば、峯が応じてくれるような気がした。指をあの箇所にぶつけていくと、目の前がちかちかとする。気持ちが良すぎて、このまま達してしまいたかった。

「ゃ、ぁあ! はぁ、ぁ……」

『大吾さん、そんなに気持ちがいいですか?』

「ん……気持ちいい……峯、もっときて……峯……」

 膝を肩に着くくらいに上げれば、尻に深く指が入る。指が根元まで入ったのだ。

 大吾は背中をしならせ、そして覆い被さってきたらしい峯の幻覚を見る。こちらを見て、峯は雄の顔をしていた。大吾の体が疼く。心臓がどくどくと鳴る。

『っう……! 俺は大吾さんと、一つになりたいです!』

「んん……俺も……」

 恍惚の笑みで返事をするが、それは虚空に向けてでしかない。それでも大吾は声を止ませることも、指の動きを止めることもなかった。

「ァ、あ! ん、や……ぁ、ぁア! はぁ、ぁ……!」

 清潔なシーツに皺ができていくくらいに身を捩らせ、そして指を様々な方向に動かす。

 粘膜は熱く、そして自身の指をぎっちりと締め付ける。このまま、関節ごと折れてしまいそうで、少し痛い。しかしこの中に峯のものが入ると思うと、興奮が鎮まる気配はない。

「っや、イく! イく! 峯に見られながら、イく! あ、っ、ぁ、あッ、アぁ!」

 自身の腹に向けて射精をすれば、体が熱くなる。精液が原因でもあるが、興奮が止まらないこともあった。

 大吾は峯、いや幻覚の峯に見られて嬉しくなりながら、きつく締められている指の感覚を一時的に捨てる。射精を最後まで楽しむ為だ。

 精液が出尽くしたと思ったのだが、未だに芯を保っている。昨夜出しても、まだ元気のようだがこのような状態は初めてだ。いや、峯だからこそか。

「……っう! はぁ……は……みね……すきだよ」

 幻覚に手を伸ばしてみると、峯の姿は消えてしまった。驚き起き上がるが、やはり虚空があるのみ。大吾は絶望をしながら、求めている者の名を呼んだ。

「みね……みね……」

 うわごとのように呼ぶが、この家には当然大吾しか居ない為に返事など来ない。来るはずがない。

「みね……」

 再度呼んだ後に現実に戻ると、絶望が更に深まる。しかしこの絶望を、どこに向ければいいのか分からない。この絶望を、誰に向ければいいのか分からない。頭を深く垂らしながら挿入していた指を引き抜く。

 ものはすっかりと頭同様に覇気を失っており、そして穴は排泄器官のような狭さを取り戻している。先程の熱気など、夢だったかのようだ。だが残るのは倦怠感だけ。大吾は仰向けに倒れた。

「きっと、峯も俺が好きな筈だ……だから……」

 薄々気付いていたが、好きだという感情は一方的なものだ。意識を取り戻した峯に意思など聞いてはいない。いや、聞けるのかは不明だ。

「峯も好きな筈だ、だから、俺たちは……二人で人生を……いや、カタギになんて戻れねぇな……俺が、峯と俺が、もしもカタギだったら……」

 あり得ないことを考えた後に、ハッとした大吾は首を横に振る。自分たちは、ヤクザだからこそ出会えたのだ。盃を交わした兄弟となれたのだ。それに、峯はこちらの世界に来ることを望んでいた。先程の考えは止めることにする。

「峯……」 

 ただ名を呼ぶと、大吾はひたすらに目を閉じてから消えた峯の幻を追い続けた。いや、再び捕らえようとした。

 数日後にようやく峯との面会ができた。面会時間終了間際のところで病院に滑り込むと、本物の峯が眠っている病室に向かう。

「峯!」

 話しかけるが峯が意識を取り戻す気配はない。包帯は新しいものになっているが、見覚えの無い機器が繋がれていた。輸血パックのようなものがあり、輸血でもしているのだろうか。

 そういえば包帯を替えたことはすなわち、不衛生な状態になったことなのだろう。それに輸血パックの存在から、出血でもしたのだろうか。

 可哀想にと、大吾は峯に近寄る。しかしやはり意識は戻らない。

「峯……すまなかったな……だが今日は来れたんだ、許してくれ」

 そこで峯の素顔が見たくなったが、顔までも包帯で覆われている。顔など見ることができないし、顔の骨が砕けているので原型を保っていないだろう。それでも構わないと思った。峯は峯なのだから。

 時計を見れば、面会終了時間まであと五分を切っていた。残り五分しか居られないのだが、峯に何を話そうと考えた。するととあることが思い浮かぶ。

「なぁ峯……」

『なんです?』

 峯の声が聞こえ始めたが、これも幻聴だということは分かっている。ただの自身の欲望で作られたものだということは分かっている。それでも、大吾は言葉を続けた。

「俺は、お前のことが好きなんだ」

『俺も好きですよ、大吾さん。今更どうしたんです?』

 今更、そう聞いて大吾は苦しくなった。本当は幻ではない峯の答えが聞きたいのだが、未だに意識の底を這っているようだ。まだ、底から離れられないのだろう。

 大吾は幻を聞きながらでも、底から峯が浮上することを待てると思った。この世で唯一想う者の返事など、いつでも待てる。

『だから大吾さん、俺は……』

 そこで峯の体に繋がれている機器から電子音が鳴った。画面を見れば、心音が戻ってきているように見える。ナースコールを鳴らす機械を探しながら、必死に峯の名を呼ぶ。

「峯! 峯!」

 包帯がもぞもぞと動くのが見えた後に、ようやく峯が意識の底から這い上がって来てくれたのを感じる。

 動揺半分、嬉しさに大吾は唇の端を大きく上げる。喋ることは難しそうだが、意思の疎通くらいはできる筈だ。

 この間だけ、時間がやけにゆっくりと感じた。医師や看護師が来るまでに峯に触らない方がいいのは確かだが、それでも触れたいと思えてしまう。少しだけでもと考えていれば、それを警告するように電子音が相変わらず鳴り響く。大吾の中に焦りが生じた。

 すると微かに呻き声が聞こえたが、これは確実に峯のものだ。顔に近付いてから峯の名を呼ぶ。するとゆっくりとだが、返事が来る。

「……い」

「峯、どうした! どうした! 峯!」

 声をまともに出せないのは分かっているが、大吾は必死である。吐き出させようとした。心の中で、応援もした。

「い……」

「峯! ゆっくりで大丈夫だ!」

「しにたい……」

 峯は「死にたい」と言った。自身の耳で確かにそう聞き取った。すると大吾は峯からゆっくり離れた後に、心の中で何かが壊れる音が聞こえたのであった。