まずは、気持から。
時計を確認して朝を認識した夏侯惇だが、まずは身に覚えのない倦怠感に動揺した。風邪でも引いてしまったのだろうか。そして、何か幸せな夢を見た気がする。そう思いながら、ベッドから起き上がった。
シーツは皺だらけであり、服装は簡単ではあるが外出用のものだ。昨夜はどうしたのだろうかと考えたが、何も思い出せない。夏侯惇は首を傾げながら、ベッドから出て出勤の為の支度を始めた。
家から出て駅に向かい満員電車に乗る。そして会社の最寄りの駅に着き、ホームに足をつけた。ここで重要な何かを決めた気がしたが、何も思い出せない。両眼で弱くホームを睨むと、改札を通って駅から出た。重い足取りで、会社へと歩いて行く。
今日は相変わらずの仕事量ではあるが、常識の範囲内の時刻に退社できていた。本当に、久しぶりのことである。だがこのまま帰宅するのは、どうにも寂しい。何故だろうか。
なので夏侯惇は、久しぶりによく通っていたバーに行くことにした。
場所は会社から近い。夏侯惇は仕事終わりなので、朝よりも重い足取りでそこに向かう。数分で到着したが、繁華街の裏路地である。人気はあまり無いが、穴場だ。
前までは見慣れていた店の外観を見つけると、夏侯惇は躊躇なく入っていく。入ってすぐそこに五人用のカウンター席と、奥に四人用のソファの席がある小さなバーである。夏侯惇はそこが大層気に入っていた。
それにバーのマスターは、とても優しい人物である。腕も良い。
悩んでいる時や、褒めて欲しい時等は積極的に話し掛けてくれていた。夏侯惇にとってははそれが、小さな心の支えとなってくれていたのだ。最近では仕事の疲れにより、足を運ぶ体力など無かったのだが。
入店するなりマスターが夏侯惇に気付くと、すぐに「お久しぶりでございます」と頭を下げてくれる。夏侯惇は短く「あぁ」と答えると、一番奥である空いている壁際のカウンター席に座った。いつもの席も、こだわりの席も特には無い。持っている通勤鞄は、膝の上に乗せる。
現在は、夏侯惇の他に数名の客が居る程度である。全員一人客で男性が二名、女性が一名だ。夏侯惇の一つ空いた隣の席が男性、男性、最後に女性と並んでいる。それぞれ、静かにカクテルを味わっていた。
その落ち着く雰囲気の中で、夏侯惇はマスターにおまかせでカクテルを注文する。マスターは一つ返事で頷くと、カクテルを作る為に、カウンター越しの壁の酒棚を一通り眺める。夏侯惇の好みはあらかた分かっているので、脳内だけでまずは作り上げることができるのだろう。
夏侯惇はカクテルができあがるのを待つ間に、スーツのジャケットからスマートフォンを取り出す。通知は何も入っていない。溜息をつくと、スマートフォンをしまう。カクテルを作り始めるマスターをぼんやりと見た。
マスターのシェイクの動作はとても滑らかである。変わらない、と思っているといつの間にかカクテルができていた。洒落たグラスに注がれると「どうぞ」という言葉と共に、目の前に差し出された。
早速、それを少量喉に流す。やはりマスターの腕は最高だ。夏侯惇は「うまい」とシンプルな感想を述べると、少しずつグラスの酒を減らしていく。マスターは「ありがとうございます」と言い、様々な酒を棚に素早く片付けていく。
「……成程。良い場所ですな」
すると椅子を一つ挟んだ、隣の席の男性客がそう呟く。反応した夏侯惇は「そうだろ」と言って、その男性客を見た。同じく仕事帰りなのか、スーツ姿である。身長は座っている状態でしか解らないが、夏侯惇とほぼ同じくらいだろう。顔つきはとても険しい。几帳面で厳しい性格をしていると、一目で分かった。年齢は少し年上に見える。
「初めてここに来たのですが、頻繁にとは言えませぬが、是非とも今後も通いたいところです」
「そうしてくれ。俺は常連とは言えないが、ここのマスターの腕は相当だ」
空席を挟んでそう会話したがふと、夏侯惇はこのバーで客と話すのは初めてだと気付く。毎回一人で来るので、マスターを除くと話し相手など全く居ない。不思議に思っていると、酒を仕舞い終えたマスターがくすくすと笑う。「お客様がここまで話されるのは初めてです。カウンターではなく、ソファでゆっくりされてはどうでしょうか」と提案してくる。
夏侯惇はすぐに頷くと、飲みかけのグラスと通勤鞄を持ち見知らぬ男性客と共にソファ席に移動した。ソファ席に座るのも初めてである。
「そういえば、自己紹介をしておりませぬな。私の名前は『于禁』と申します。貴方は?」
「俺は夏侯惇だ。よろしく」
男性客、改め于禁の名前がどこかで聞いたことがあるような気がした。しかし咄嗟には思い出せないので、夏侯惇も自己紹介をするとカクテルを少量喉に流す。
于禁が飲んでいるのは、グラスにある少なくはない量のウイスキーである。しかしロックで飲んでいるが、浮いている酒に氷はまだ大きい。来たばかりなのだろうか。
二人新しい客が入ると、夏侯惇はそれをチラリと見てから于禁へと視線を戻す。
「たまたま通り掛かった際に、ここに入ろうと思いました。不思議と魅入られてしまいまして」
「俺も、最初は、きっかけは于禁と同じだな」
僅かに于禁が笑みを浮かべると、唇を濡らす程度にウイスキーを飲む。于禁にとても失礼だが、笑った顔を見られるとは思ってもいなかったので小さな動揺が走る。
「それに、会社から近いから、何となく家に帰りたくない時は、前は通っていたな。最近まで、残業が多くて通う体力すら無かったが……」
「それは、お疲れ様でした」
趣味は分からないし、気が合わないかもしれない。それでも、于禁との会話は途切れなかった。初対面であるのに、どうにも馴染み深いように感じたからだ。
「ですが、私も会社から近くはないのですが、奇遇ですな」
「本当だな」
もう一口ウイスキーを飲んだ于禁は、何かを思ったらしい。喉にウイスキーを通してから、夏侯惇に話し掛ける。
「あの、夏侯惇殿。宜しければ、連絡先だけでも交換して頂けませぬか。知人としてでも、交流をしたいと思いまして。嫌であれば……」
「俺は大歓迎だ」
夏侯惇が即答をすると、ジャケットから再びスマートフォンを取り出した。一方で于禁は通勤鞄から名刺入れを取り出すと、夏侯惇が「スマホではないのか?」と尋ねる。どうやら、于禁はあまりこのことには慣れていないようだ。于禁は酔いではなく、恥ずかしさに顔を真っ赤に染める。
案外可愛い場面もあるのだと、夏侯惇は笑った。
「も、申し訳ありませぬ……!」
「気にするな。ほら、連絡先を交換するぞ」
そう言って于禁とスマートフォンで連絡先を交換すると、夏侯惇はカクテルを飲んでいく。于禁は名刺入れとそれにスマートフォンを通勤鞄に仕舞うと、夏侯惇に続けてウイスキーを飲む。しかし動揺から、思ったよりも喉に流れてしまったようだ。小さな咽せを出すと、夏侯惇は心配から立ち上がり、于禁の元に向かおうとする。
そこで傍らからマスターの声がすると、水の入ったグラスが于禁に差し出される。于禁は途切れ途切れに礼を述べると、水を一気に全て流し込んだ。空のグラスを少し荒めにテーブルの上に置く。
「この一杯で、私はここで失礼します。どうやら、かなり疲れているようなので……」
「大丈夫か?」
「はい」
于禁は言う通りに、残りのウイスキーを飲んでいく。だが于禁のことが心配になった夏侯惇は、自身のカクテルも全て飲む。
「近くまで送ろう。最寄り駅どこだ?」
「そこまでは……」
断ろうとした于禁だが、立ち上がるとふらついていることに気付く。なので「お言葉に甘えて……。ですが、電車で大丈夫です」と遠慮がちに呟いてから、最寄り駅を答える。そこは夏侯惇と同じ最寄り駅であった。
「俺もそこだ。タクシーでなくとも良いのか? そうであれば、共に電車で帰ろう」
于禁は通勤鞄から財布を出すと、カクテル一杯分の紙幣や硬貨を取り出してからカウンターに歩いて行った。マスターが会計をすると、次に夏侯惇も会計をしていく。その間に、于禁は店を出た。しかし于禁は釣り銭を取っていないようだ。夏侯惇は慌てて于禁を追いかけると、釣り銭を渡した。
「ありがとうございます……」
恥ずかしげに受け取るが、その際に道に小銭を落としかける。なので夏侯惇はぎゅっと于禁の手を握り締めた。数枚の小銭が、二人の手に留まっている。
「早く財布に仕舞え。無くしてしまうぞ」
于禁に小銭を握らせると、鞄を指し示した。小さく頷いた于禁だが、片手で通勤鞄から財布を取り出すことが今は困難のようだ。なので夏侯惇は小銭を持っておいてから、通勤鞄から財布を取り出すように言う。そこでようやく于禁が財布を取り出せると口を開いた。夏侯惇が小銭を手渡してから、小銭がようやく財布に収まる。
胸を撫で下ろした夏侯惇は、最後にと通勤鞄に財布が入っていくまで見届けた。
街灯などにより真っ暗でないが、明るいとは言えない。その中で、夏侯惇は于禁と共に駅へと歩き出す。時折に、于禁の足元を注意しながら。
駅に着くと、やはりふらついてしまう于禁を支えながら改札を通った。周囲からは酔っ払いと認識されているのか、二人を避け気味である。だがそれが寧ろありがたいと思えた夏侯惇は、ホームに無事に到着した。道中で、誰かを巻き込むことなく。
電車はもうじき来るらしい。既に生成されている長い乗車列の最後尾に立つと、夏侯惇は于禁を案じる。顔色は変わっていないが、念の為に。
「気分は悪くないか?」
「はい、一先ずは……」
店を出るまでは正直に不調を訴えてくれたので、先程も嘘偽り無いのだろう。そう信じた夏侯惇は、電車が来る音を聞く。
電車が到着するとホームドアが開き、乗客が次々と降りてきた。大方の人々が吐き出されたところで、乗客列が一気に動く。夏侯惇は于禁を半ば引き摺りながら、ほぼ満員になっている電車に乗った。しかし席には座れず、車両の壁に于禁を縋らせる。
「少しだけ、我慢していろ」
動き出したことにより、車内が揺れる。夏侯惇は于禁の顔色が急激に悪くなっていないか心配したが、変わりはない。
タクシーに乗れば良かったと思ったが、于禁は電車で帰ると言っている。それに、初対面の于禁とタクシーで割り勘で帰ることはかなりハードルか高い。夏侯惇はこれで良いと、自身に言い聞かせながら目的の駅に到着するのをひたすら待った。
ようやく駅に到着すると、夏侯惇は于禁を引っ張って電車から出た。しかしそこで、于禁を一旦ホームのベンチに座らせる。続けてその隣に座ると、于禁に話し掛ける。
「店で飲んだが、もう少し水を飲むか? それに近くではなく、玄関まで送ろうか?」
「い、いえ……そこまでは、結構です……」
ぼんやりとしている于禁がそう答えるが、どう見てもこれから一人で帰ることのできる状態ではない。念の為にとベンチの近くにある自販機でミネラルウォーターの入ったペットボトルを買うと、それを于禁に渡す。
「飲みたい時に飲め。立てるか?」
「はい」
ペットボトルを受け取った于禁が立ち上がる。だが少しは落ち着いたのか、夏侯惇の支えはあまり必要ないらしい。酔いが少しは落ち着いたことが分かると、夏侯惇は于禁と共にホームから改札を抜けて構内へと歩いて行く。于禁は自分の足で、ほとんど歩けていた。
人々の波を縫っていくが、隙間があまりない。苦労しながら駅の建物から出ると、夏侯惇は深い溜息をついた。外もあまり人の量が変わらず「やはりこの時間は人が多いな……」と呟きながら。
于禁曰く、駅から家まではすぐそこらしい。それを聞いた夏侯惇は、自身の家と近いことを知る。しかし夏侯惇だけがその情報を持つことは不公平だと思ったうえに、于禁は特に不審な人物ではないと判断していた。なので、そのことを伝えながら于禁の住んでるマンションに歩き出す。
「于禁と家が近いのだな。俺はちょうど、その近くのマンションに住んでいてな」
「あの……! それでは……!」
緩やかな驚愕の瞳で、于禁が夏侯惇を見た。立ち止まってしまったくらいである。
ここまで細かいプライベートの話を、初対面でするのはまずかったと考え直す。なので謝罪しようとしたが、于禁がそれを遮ってきた。
「奇遇で……いえ、これもまた何かの縁ですし、私とまた一緒にあのバーでまた会えませぬか! 貴方の、ご迷惑でなければ……」
「迷惑ではない。寧ろ俺は嬉しい。だからまた今度、飲みに行こう。だがまずは、今日は休め。空いてる日があれば、明日以降に連絡してくれ」
「ありがとうございます! それでは、よろしくお願いいたします!」
于禁はあまりの喜びからか、足元がふらついてしまった。夏侯惇が咄嗟に支えようとするが、どうにか持ち堪えている。
「大丈夫か!?」
「申し訳ありませぬ……」
しかし夏侯惇は手を伸ばし、于禁の腰に手を添えた。体の様子を確認するが、問題は無さそうだ。なので手を離すと、再び歩き出した。
結局はマンションのエントランス前で別れることになったが、その時には于禁はまともに歩けていた。自販機で買ったミネラルウォーターは開封していない。于禁はそれを見て何か悩んだ顔をしたが、何かを思いついたらしく通勤鞄に捩じ込んだ。柔らかいペットボトルの、ベコベコという音が聞こえる。
「……夏侯惇殿、水のお返しを、近い内に必ずさせて下され。約束です」
「分かった。ではまたな」
「はい、おやすみなさいませ」
于禁を見送った後に、夏侯惇は住んでいるマンションへと向かって行った。そういえば于禁と話していると、どうにも落ち着くなどと思いながら。
※
あれから数日後の水曜日に于禁から連絡が入った。水の礼をさせて欲しいので、空いている日はいつなのかと。夏侯惇は定時を過ぎても会社に居り、仕事にずっと追われているので金曜日の夕方以降ならば予定を空けられる。なので、金曜日の夜を指定した。于禁からはすぐに了承の返事が来ると、待ち合わせ場所は初めて会ったバーに決める。
そして来た金曜日。夏侯惇はかなり珍しく定時を少し過ぎた頃に会社を出られた。現在の時刻は夜の七時前である。会社から出れば、退勤途中であろう人々で溢れていた。何車線かの車道があるが、まだバスが走っている。夏侯惇は思わず、それを珍しげに見てしまっていた。相変わらずの寒さので、体を震わせながら着ているコートの前を閉める。
于禁との待ち合わせまでには時間があり、家に帰る余裕だってありそうだ。だがこのまま家に帰ってしまえば、いつの間にか寝てしまうに違いない。会社のエントランスから出て立ち止まって考える。結果、どこまで時間を潰そうと考えた。近くの適当なカフェが良いだろう。その考えが頭を過ると、歩行を再開させた。確か、バーの 近くに幾つかカフェがあっただろうと。あまり利用したことは無いが、街中なので何件かあった筈である。
十数分歩いてバーの近くまで来た。辺りを見回した後に、スマートフォンで近場のカフェを検索する。何件も検索結果に出てくると、店に失礼かもしれないが若者向けではないカフェを絞っていく。確実に見極められる訳ではないが、ネット上に投稿されている複数の画像を見ていった。するとちょうど目の前に良さそうなカフェがあったようだ。夏侯惇はスマートフォンをしまうと、その店に入った。
店内はかなり落ち着いていた。客層は見たところはばらつきがあるが、程よい騒がしさがある。店員に席を案内されて座った場所はちょうど窓際で、外の景色がよく見える。店員が水の入ったグラスを一つ、テーブルに置いた。
バー周辺はどちらかと言うと、商業施設が多めだ。なので店内から見える景色などを眺めながら、メニュー表を開いた。于禁との待ち合わせがあるが、そこまでは長くないだろう。待ち合わせ場所がバーなので精々、カクテルを一杯飲んで終わるだろう。しかし仕事終わりなので腹が減っている。バーではあまり食事ができないので、ここでは何か軽いものを注文することにした。メニューには写真が丁寧に添えてある。それを見ながら、一番少ない量であるサンドイッチを選んだ。店員を呼ぶと、それのみを注文した。
提供までには時間が掛かるだろう。なので夏侯惇は、スマートフォンで適当に明日の天気予報をチェックしていく。だが明日は雨の予報らしい。それも、数時間後からだ。明日は朝から洗濯物が更に乾かないだろうと溜め息をつきながら、日曜日の予報を見た。土曜日の夜には雨が止み、昼からは晴れる予報とある。日曜日は買い物に行こうと休日二日間の計画を立てていると、于禁からメッセージでの連絡が入った。すでにバーの近くまで来ており、夏侯惇にいつ来れるのかと聞く。それに対して夏侯惇は『同じようにバーの近くに来ている』と返そうとした。
そこでふと席から見える窓越しに、どこか見覚えのある人の姿が確認できる。飛び抜けて身長が高く、神経質そうな顔をしているきっちりとしたスーツ姿の者。鞄に丁寧に出したばかりのスマートフォンをしまった直後だった。
あの者は見覚えのあるどころではない。あれは確実に于禁である。咄嗟に、店名を添えてここに居るとメッセージを送った。
どこかへと歩いて行こうとしていた于禁だが、スマートフォンの通知に気が付いたらしい。不機嫌そうに鞄からスマートフォンを取り出して内容を確認すると、辺りをキョロキョロとし始めた。夏侯惇からそれが見えるので『窓』とだけ、メッセージを送る。それを読んだ于禁は数秒間画面を睨んでいたが、ようやく意味が分かると目が窓の方に向く。そこで、于禁と視線が合う。于禁が近付いて来たがこの状態では何もできないと思い、踵を返して店の入口へと素早く歩いて行った。
水の入ったグラスを持った店員に案内され、于禁が夏侯惇の席に向かって来る。
「突然に申し訳ありませぬ……」
「構わん。それより早く座れ」
于禁を向かい側に座らせる。そして店員がテーブルに于禁の分の水を置くと、小さな礼をして去って行った。
「すまん、サンドイッチを注文してるから、少し待っていてくれないか」
「私は構いませぬが……では、私はコーヒーを頂くことにします。提供されてからで」
とても畏まっており、まるで于禁が何かの面接を受けているように見えた。夏侯惇は「ここはカフェだから、もう少しリラックスしても良いのではないのか?」と言うが、于禁は首を横に振る。
「そもそも私が、先日にあんなに飲み過ぎたせいで……!」
「そのような些細なことを、気にするな。お前に幸いにも怪我やトラブルは無かったから、それで良いだろう」
于禁の表情は切羽詰まっていたが、気にしすぎだと思った。しかしそのような性格の人間にはこれで効くだろうと、于禁にある言葉を告げる。
「そうだな……では、予定通りにこの後のバーで一杯奢ってくれ」
「は、喜んで!」
予想通りに、于禁は引き下がった。夏侯惇が安堵の溜め息を内心で吐くと、注文していたサンドイッチが提供された。ついでにと于禁がブラックコーヒーを注文する。店員がそれを聞くと、キッチンに戻って行った。
皿にはベタな具材が挟んであるサンドイッチが数個乗っており、一つ取ると口に運んでいく。そういえば、と夏侯惇は気付く。名前しか知らない相手と連絡先を交換して、こうして待ち合わせするということは初めてである。すると何を話したら良いのか分からなくなった。勤務している会社はもってのほかだろう。于禁の住んでいるマンションは、バーで初めて会ってからやむ得なく分かってしまったのだが。
口の中でサンドイッチとそれに出てこない言葉を咀嚼していると、于禁のコーヒーが運ばれてきた。カップはよく見かける白いもので、于禁は早速にそれを啜る。
二人の間で軽い沈黙が流れると、耐えかねた夏侯惇が話題を捻り出した。
「うき……」
「かこ……」
二人で同時に口を開いており、互いにまずは名前を予防としていた。二人で軽く笑うと、于禁が「夏侯惇殿からどうぞ」と発言を譲る。いいのかと聞くと于禁がすぐに頷くので、夏侯惇は話をしていく。
「……よく店で飲みに行っているのか?」
「いえ、あまり……どうしてでしょうか?」
一瞬だけ于禁は怪訝そうな顔をしていた。プライベートのことについて質問したからだろうか。于禁とはプライベートに近い、知り合いの筈だと思っていた。しかし于禁としてはそうではないのかと思えてきたので、話題を取り消そうとする。夏侯惇はとても落胆していた。
「すまん、何でもない……先程のは、忘れてくれ。やはりプライベートのことは……」
「いえ、こちらこそ……つまらない回答で申し訳ありませぬ」
すると夏侯惇が「えっ?」と気の抜けた声を出すと、于禁も動揺の声音を出した。二人が数秒だけぽかんとすると、于禁がおかしそうに笑う。会うのは二回目であるが、于禁のこのような様子は珍しい。夏侯惇は食べ切る寸前のサンドイッチを皿の上に、具材がなるべく落ちないように置いた。持っていた落胆もある程度、置きながら。
「プライベートのことを少しでいいから、バーで少し話さないか? まだ知人程度だが、これからは友人として接していかないか? 于禁が、嫌でなければの話だが」
于禁の返事を、曖昧でも良いので待とうとした。皿にある食べ切る寸前のサンドイッチを見る。だがその予想とは反して、すぐに確実な答えが返ってきた。
「喜んで」
夏侯惇は顔を上げると、于禁の顔をまじまじと見てしまう。対して于禁は、どうしたのかと首を傾げながら「いかがなされましたか?」と聞く。
「すぐに返事が来たからな……この話は終わりにしよう。それより、もうすぐ八時前だな。どうする? ここはもうじき営業終了時間だから、バーに行くか?」
「そうしましょうか。ですが、まだ完食できていないのでは?」
「大丈夫だ。そう言うお前も、まだコーヒーが熱いのではないのか?」
すると二人は注文したものを空にした後に個別に会計をして、カフェを出た。歩行者が絶えず、波ができている。その中に入って歩くと、すぐにバーに着いた。夏侯惇にとっては慣れている店に、于禁にとってはまだ慣れない店に入る。席は一つも埋まっていない。カウンター席に奥から座った。壁際に夏侯惇が座り、その隣に于禁と。するとマスターが二人の顔を見るなり微笑むと「ごゆっくり」とカウンター越しに言う。
「飲むものは決まっているか?」
「はい。貴方と同じものでお願いしたい。先程申した通り、あまりこのような店に通っていないもので……」
夏侯惇は「気にするな」と言うと、注文するカクテルをすぐに決める。マスターが来ると、同じカクテルを二つ注文した。他に客がいないので、マスターがすぐにカクテルを作り始める。少し遠くから見ても、マスターの手捌きは鮮やかだ。手間は掛かるが、あっという間に完成すると提供された。まだ口にしていなくとも、とても良い出来だ。
「素晴らしいですな」
「あぁ」
二人で提供されたカクテルの感想を短く述べる。カウンター越しではマスターが数本の酒瓶を棚に素早く静かに戻していた。規則的に並んでいるが、確実に元の場所に戻っているようだ。まだここに来て二回目である于禁だが、それが一目で分かったらしい。几帳面な性格ということは夏侯惇は分かっているので、嬉しそうにしていた。
半分程飲んだところで、他にも客が来た。カウンターが埋まり、テーブル一つに二人組の客が座る。賑やかになってきた。マスターがゆっくりと一つずつ注文を受けては、カクテルを作っていく。その間に二人は、ようやくここでプライベートの話をした。まずは夏侯惇から質問をしようとしたが、口を開く前に于禁から質問を受ける。
「気がとても早いと思われますが……順番が違うとは思いますが、来週、お時間があればここで待ち合わせして飲みませぬか?」
確かに于禁の言う通りで、その話題を切り出すには早い。しかし帰る手前で言われるよりかは印象がとても良い。少なくとも于禁から嫌われているということはないからだ。夏侯惇にとっては、于禁に縁を切られたくないと思える友人となっていた。
なのでまずは喜ばしいが、それを感情に出すことはよくないと抑える。そもそもここは静かにカクテルを楽しむ場だ。周囲や一緒に来ている于禁に迷惑を掛ける訳にはいかない。小さく笑いながらすぐに「いいぞ」と返すと、グラスにあるカクテルを一口含んだ。つもりだった。言葉を早く吐いた代わりに半分以下の量であったカクテルを飲み切ってしまい、夏侯惇は空のグラスをカウンターに置いてからそれをただ無言で見つめてしまう。初めてのことであったので、直後に何か感情を起こす余裕はない。
小さな息を吐くと于禁への言葉を考える。その間に于禁が身を案じてくれていたらしい。静かに慌てた後に、スーツのポケットからハンカチを取って差し出してくれた。夏侯惇の心の中が嬉しさと申し訳ない気持ちで溢れると、それほどに体調は悪くなくとも受け取る。
「すまん、早く返事しなければとばかり考えていたら、飲み切ってしまった」
「私は気にしてはいませぬが、本日はお疲れのようでしたら……」
于禁がカウンター越しのマスターを見たようなので、夏侯惇も同じ方向を見る。他の客のカクテルを作っている最中であった。しかし夏侯惇が于禁の視線を奪うように「大丈夫だ」と言うが、于禁は心配そうである。この後にあと数十分は大丈夫と付け加えたかったが、自身でも分かるくらいに今日はバーに入ってかおかしいと自覚してしまった。恐らくは、緊張してしまったせいだろう。原因は于禁への態度を考えていた為としか思えない。
すると于禁がグラスに残っているカクテルを飲み干した。空になったグラスをコトリと置いてマスターと目を合わせて無言で呼ぶと、会計をしたいと申し出る。夏侯惇はこのバーの常連ではないが、何度か通っている客の立場だ。マスターには顔を覚えられている。一杯目で会計してしまったが、マスターは「またのご来店をお待ちしております」と柔らかい笑顔で受け入れてくれた。今回は于禁の奢りだが、夏侯惇はその隣で頷く。
会計が終わると店を出るが、外はかなり冷えている。街灯が無く暗い。夏侯惇の中で不快指数が上がってしまうと、顔をしかめてしまった。于禁はそれをなだめるように、話し掛ける。
「せめてもう一杯分も無いと、先日の礼はできませぬ。ですので先程申した通りに、来週の同じ時間にここでまた会いましょう。問題はありませぬか?」
「あぁ、それでいい。ではまた来週な」
次の約束をしたので、夏侯惇はこのまま家に帰ろうとしていた。だが于禁が夏侯惇を呼び止める。曰く、次は自分が送らせて欲しいと。せっかくの親切な申し出であり、夏侯惇は断る理由が無いので承諾した。
「よろしく頼む」
そうして、二人はまずは最寄りの駅まで並んで歩いた。時折に于禁が夏侯惇に「大丈夫なのか」と言葉を掛けてくれるが、今のところはアルコールにより足がふらついてしまうことはない。寧ろ普通に歩くことができている。それに、于禁が手を差し伸べる素振りを示す。夏侯惇はそれを視界の隅で捉えていたが、これは気付かない方が良いだろうと思った。なのでその動作を見なかったことにする。
改札を通ると、ここでも続いている退勤ラッシュに混じりながらホームに向かって行った。途中で、自販機で于禁がペットボトルのミネラルウォーターを買い、手渡してくれる。その際に「冷たいものしかありませぬが……」と眉を下げていた。夏侯惇はその気遣いがありがたいので、礼を言いながら「助かった」と言って開封する。一口飲むと、気分がすっきりとした。
しかしホームは地下鉄ではなく外にあるので、凍える空気が頬に触れる。アルコールである程度は体が暖まっていても、かなり寒いと思えた。屋根はあるが、列の前の方に居るので風は凌げない。二人で小さく「寒い」と言い合った。
それに、こうして誰かと帰るのは久しぶりである。いつぶりなのかは、もう思い出せないくらいに。
「もう大丈夫だと思う」
数秒前から形成され始めてた乗車列が幾つかある。一番近い列に並ぶと、すぐに後ろに人が並び始める。それに比べ、他の列は長さが少し短いように感じた。
電車が来るまであと五分以内。二人は空を見上げてから、夏侯惇が口を開く。
「来週も楽しみだな。だが次は、今日のようにはならないようにするが……」
「そうですな。あ……その次はもう私は奢れま……ごほん! いえ、何でも」
于禁が言いたいことは分かった。そもそも言い終える前に大きめの咳払いをして話を切ったので、于禁の発言の全てを理解してしまう。これには気付いてあげたいと思った。いや、気付いたというアピールをしたかった。なので夏侯惇は楽しそうに笑いながら、いつの間にか俯いてしまっている于禁に話し掛ける。
「……于禁、再来週も、予定が空いていればどこかに食いに行かないか?」
足元を見ていた于禁の視線が上がる。驚いた顔をした後に、冷たいはずの頬を赤く染めた。
「えっ!? いえ、その……はい!」
動揺を大きく見せながらそう答えてくれたが、その様子も珍しいと思えた。すると、于禁のこのような様子を見るのが楽しくなってくる。勿論、からかってる訳ではない。
すると電車が来たが、その時に于禁が何かを言いかけていた。しかし残念ながら電車のブレーキ音、それに次々と降りていく乗客たちの足音や会話で聞き取れないので聞き返すことなく電車に乗る。電車内はある程度は空いており、運よく座ることができた。于禁は安堵しているようだ。電車のドアが閉まり、出発した。
向かいの車窓の景色が少しは見える。しかし向かいにも席があり、他の乗客が座っていた。電車内は暖房が効いている。皆疲れているのか誰もがうとうとしていたり、疲れた顔でスマートフォンの画面を見つめていた。一方の夏侯惇はどこか遠くを見ていた。眠たくも、スマートフォンを触る気は無いからだ。隣に座っている于禁の方を見ると、夏侯惇の方を見ていた。目が合うが、咄嗟に逸らされる。
「どうした?」
そう尋ねると、于禁は「いえ、何でも」と短く返事をしてから遠慮がちにこちらを見た。
「全く……何なんだ。そのような態度を俺に取るならば、再来週は必ず俺と夕飯を食いに行くぞ」
于禁の裾を引っ張ると、その瞬間に電車がカーブに差し掛かったので揺れた。慣性により自然と于禁の体にもたれ掛かるが、夏侯惇は姿勢を直す暇が無かった。気が付いたら、于禁の体にもたれ掛かっていたのだ。
「か、夏侯惇殿!? 大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だ。すまんな」
ようやく自身の状況に気が付いた夏侯惇は、詫びを入れながら于禁の体から離れる。
「もうすぐ最寄りだから、大丈夫だ」
改めてそう言った夏侯惇は、そこでようやくスマートフォンをポケットから取り出す。時刻を確認してから、再びどこか遠くを見て最寄りに着くのを待っていた。
目的の駅に着くと、二人は降りた。少しは人が少ないが、その分空気か寒い。温度差に夏侯惇は体を大きく震わせた。夏侯惇の家までは数分歩いたところにある。于禁は電車内同様に、夏侯惇を気にしながら共に足を進めていった。夏侯惇の足取りは確実な一方、于禁は家を通り過ぎたうえにこの辺りはあまり来ないらしい。見慣れない景色と夏侯惇の様子を交互に、忙しなく窺っていた。夏侯惇がそれを見て、クスクスと笑う。しかし于禁は道を歩くのに精一杯なのか、何も言えなかったようだ。
次第に住んでいるマンションの建物が見えてきたところで、夏侯惇があれだと指差す。すると于禁が唐突に立ち止まり、首を傾げた。
「どうした?」
「この周辺にはあまり足を運んだことはありませぬが、とても懐かしいのです。何故でしょうか……」
夏侯惇はどう答えたら良いのか分からない。于禁の言葉の中に大きな矛盾があるが、どちらに頷いたら良いのか分からない。返事をどうにも出せないでいると、于禁が言葉を続けた。
「い、いえ。何でもありませぬ」
何かの勘違いだと言わんばかりに、于禁は再び足を進める。しかし周囲を見ることは無かった。代わりに、夏侯惇の住んでいるマンションの建物を眺めている。
夏侯惇は不思議に思えてきたが疲労か或いは、少しのアルコールのせいにすることにした。人気のないエントランスに到着すると、于禁に見送るのはここまでで良いと告げる。于禁は何事も無かったかのように、素直に引き下がった。
「それでは、おやすみなさいませ。来週に、あのバーでお会いしましょう」
「あぁ、おやすみ。送ってくれてありがとう、于禁」
そこで二人は別れ、夏侯惇はエントランスを抜けてエレベーターに乗った。誰も居ない。目的の階のボタンを押して扉を閉めると、壁にすがって大きな息を吐く。エレベーターの現在の階数の数字が増えていくのを見ながら、来週のことについて考えた。まずは金曜日に于禁との予定を入れたので、当日は定時で会社から出たい。その為には月曜日からかなり頑張らなくてはならなかった。かなり忙しいが大丈夫だ、やれる。夏侯惇は自身にそのような自己暗示を掛けた。
するとエレベーターが止まり扉が開くと、夏侯惇は出る。そして住んでいる部屋の扉の前に到着したので、鍵を取り出して解錠して家に入った。ふと、スマートフォンを確認すると、于禁からメッセージが入っているのに気付く。内容は「きちんと家に入ったか」の確認である。夏侯惇は肩をすくめるが、それにすぐ返信を送ったのであった。
※
休みが明け、また一週間が始まった。いつもの夏侯惇であれば憂鬱だと思うばかりだが、今週は違う。金曜日に、于禁と会う約束をしているのだ。それでも憂鬱なことには変わりないが、楽しみができたので夏侯惇は大量の仕事を必死にこなしながら週末を待ち続けた。
途中で曹操や夏侯淵などに「そこまで頑張らなくてもいいだろう」と言われたが、そうであれば仕事をもう少しでもいいので減らして欲しいと思った。しかしそれを曹操に伝えても、笑って誤魔化されるだけだろう。なので心の中にそれをしまうと、夏侯惇は仕事に向かい続けた。パソコンや、大量の文字が並ぶ書類と一日中睨み合う。休憩など、ほとんど挟まずに。
そうしながら、ようやく金曜日を迎えた。夏侯惇はふらふらとしながら会社を出る。どうにか定時で帰ることができたのは良いが、疲労が体に重くのし掛かっていた。既に暗くなっている空を見上げてから、スマートフォンを確認する。于禁からのメッセージが数分前に来ていた。すぐに開く。内容は先程会社を出たとある。だがその後に、一旦電車から降りるので、少し時間が掛かると追加してあった。于禁が勤務している会社は、ここから離れた場所であるということが容易に推測できる。
だがバーの近くで待っていればすぐに来るだろうと、夏侯惇は寒空の下を歩き出す。呼吸をする度に、白い息が止まらない。
バーへはそこまで時間が掛からず、すぐに到着しそうになった。バーは暗い裏路地の中にあるので、店内で待つことを考えた。しかしどうにもその気が起きなかった。于禁が来ない可能性は、その連絡が来ていないので低い。大きな理由は、一杯目は于禁と共に飲みたかったからだ。なので店にはまだ入らない。
灯りの多い街中の、適当な建物の壁にすがる。すがっている建物は何かの店らしいが、今は営業時間が終了しているのか人気がない。道に面してるのは、大きな窓と扉のみ。夏侯惇はそれ以外の部分に背中をつける。スマートフォンで現在時刻を確認するが、時間は進んでいない。溜め息と同時に白い息を目一杯吐く。寒いが、まだ厚着をしているので耐えられた
先にバーに入る方が良いが、夏侯惇は于禁を待つ。しかし次第にスマートフォンを取り出すと、メールが来ていないか確認してしまう。
「夏侯惇殿……?」
すると聞き覚えのある声が、少し上から降ってきた。その方向を見ると、コートを着込んでいる于禁が驚いた表情をしていたのだ。
「既に到着をされているようであれば、連絡を下されば……それに、冷えるので店に入って頂けたら……」
「連絡は忘れていたが、店に先に入るのは、まだ良い気がしてな……早く店に入ろう」
壁から背中を離すと于禁と路地裏に入る。すると先程の暗さが、少しは軽減されたような気がした。気分のせいでしかないことを、ぼんやりと思いながら。
店に入ると、カウンターの奥に居たマスターがその場で柔らかな笑みを浮かべながら空いている席を手のひらで案内してくれた。先週と同じくカウンターの一番奥で、他に客が居ないからだ。しかしすぐに他の客が来ることは分かっているのだが。
コートを脱ぎ壁側に夏侯惇が座ると、その隣に于禁が座った。すると于禁がすぐにマスターと視線を合わせる。何をしているということはないので、すぐに于禁の元へ来た。夏侯惇が驚いていると「今夜も私の奢りですので」と言ってから、マスターに話し掛けた。今日のおすすめを二人分と伝えると、マスターはすぐに頷いてから背後の棚へと踵を返す。そして数本の瓶を取ると、カクテルを作り始めた。二人はそれを見てから、于禁が口を開く。
「これと、次の二杯目まで楽しみましょう」
「あぁ」
短い会話を終えると、カクテルができあがったらしい。マスターがグラスに注ぎ、二人にそれぞれ差し出す。早速に口に少し運ぶと、マスターに「とても美味だ」と二人で感想を述べた。その時の于禁の表情はとても緩んでる。店内が暖色系の光に包まれているので、よく強調されていた。すると夏侯惇はこの様子を見ることが、次第に好きになっていく。
マスターからの礼が返って来た直後に、他の客が次々と入店する。遂にはテーブルまで埋まると。落ち着いた賑やかさが生まれた。その雰囲気も楽しみながら、夏侯惇はカクテルを少量だけ喉に流す。一方の于禁はカクテルやグラスを見つめている。
もう一杯同じものを飲みたいが、次は他のものを作って貰おうと思った。それを口にする。
「これはうまいが、次のカクテルもおまかせにしてくれないか?」
「はい、喜んで」
于禁の目尻に皺が寄ると、夏侯惇はつい「お前のその顔が好きだな……」と呟いてしまう。聞いた于禁は一瞬だけ口を半開きにした後に、頬をほんのりと赤く染める。これは酔いのせいではないし、そもそも于禁はまだ一口しか含んでいない。単純に照れているのだろう。
「ありがとうございます……その、ですが、貴方にそう仰られると、どうにも気分が高揚してしまいまして……」
頭を小さく掻いた于禁は、ちらりと夏侯惇の方を見た。瞳には、濃い謙虚の色が見える気がする。一般的である茶色の二つの瞳が、確実にこちらを見ていないからだ。それに言葉の後の息遣いは、どうにも不規則である。
「そこまで重く受け止めるな。だが、お世辞ではないことは分かって欲しいが……」
周囲からは客やマスターの会話が聞こえるが、どこか遠くに行ってしまったような気がした。代わりに、于禁の声が鮮明に聞こえる。
「……も、もう一杯が、楽しみですな!」
すると突然に気まずそうに于禁がそう言うと、グラスに口をつけた。傾ける角度は小さく、カクテルの味を味覚などでしっかりと楽しんでいることが分かる。于禁と話す為に来たのもあるが、カクテルを楽しまなければマスターに失礼だ。夏侯惇は頷きながら、カクテルを減らしていく。
だが無言ではよくないので、前から切り出したかった話題を話す。
「少しだけ、プライベートのことを聞いてもいいか? 嫌であれば、断っても構わないが……」
夏侯惇の質問を聞いた途端に、于禁は何かを思い出したらしい。通勤鞄を取り出すと、開けてから小さな金属のケースを手に取る。
「私は、こういう者でして」
金属の小さなケースから、名刺が出てきた。ビジネスシーンのように夏侯惇に渡す。于禁のそのような真面目さにクスリと笑った夏侯惇は礼を述べながら受け取る。しかし夏侯惇は自身の名刺ケースを会社のデスクに置いていた。単純に、月曜日の朝までは用が無いからだ。
今は名刺を持っていない理由を伝えながら于禁の名刺を見ると、聞いたことのある法律事務所の名前が書かれていた。それはかなり大手の法律事務所である。総務部などに所属していれば、何度も聞くレベルだ。夏侯惇は「かなり優秀な者なのだな」と言うと、于禁と同じ程度の自身の情報を話した。勤務している会社と役職と、既に知っているが名前だ。于禁が「なるほど」と相槌を打つと「では……」と言葉を続ける。
「では私からも……」
于禁から趣味などの質問を受けると、夏侯惇は答えていく。そして夏侯惇も聞き返し、バーでカクテルを二杯まで楽しんだのであった。
バーでの会計を済ませると、相変わらずよく冷えている外に出る。二人はほぼ同時に体が寒さで震えると、自然と駅まで足を動かしていく。煌めく街中を歩く中で視線は前のまま、しばらく経過すると夏侯惇が来週のことについて尋ねた。
「来週は……本当に夕飯に付き合ってくれるのか?」
「私はそのつもりですが、夏侯惇殿、もしや急用でも入ったのでしょうか?」
「いや、それは無い。何でも無い」
首を横に振り否定をすると、駅に着いた。そのまま改札を通った時に、于禁が先程の返事をする。
「店は、私が決めてもよろしいでしょうか?」
「俺はいいぞ」
「ありがとうございます」
ホームに着くと、既に電車が到着していた。扉が開いた直後だったので、降りている人々が吐き出されている最中である。それでも二人は会話を打ち切ってから一番近い乗車列の最後尾に並ぶと、すぐに列が進んでいった。電車に乗るが座る席が無いくらいに乗車率が高く、会話などしている余裕はない。なので吊革に掴まり、電車に無言で揺られていく。人だらけで、不快だと思いながら。
少ししてから目的の駅に到着すると、二人は急いで降りる。そして改札を抜けてから、会話を再開した。今気付いたのだが、改札を抜けるまでは少し寂しいと思える。少しの溜め息をついた夏侯惇は、そのままホームから出ようとした。
そこで于禁に腕を掴まれる。唐突のことであったので、夏侯惇はただ驚きながら于禁の方を見た。かなり真剣な表情をしている。
「……どうした? 店が思い浮かばないのか? それなら……」
「ハッ!? いえ、何でもありませぬ! 申し訳ない!」
慌てて手を離した于禁は、ぎこちなく駅から出ようとしていた。しかし向かおうとしている出口とは反対方向である。なので夏侯惇は于禁の手首を「こっちだ」と、誘導するように引いていく。
「そうだ! 出口は、あちらでしたな!」
寒いというのに、酷い冷や汗をかきながら于禁が方向転換をする。夏侯惇は「お前の家までは少し掛かるが、大丈夫か?」と案じたが、于禁ははっきりと頷いた。なので駅から出ると、于禁の家まで歩き出す。歩調はゆったりとしており、普段の二人の歩幅が控えめになっていた。どちらが先にそうしたのかは全く分からないが、特に疑問など無い。
「だが、今日のような時間に会える可能性は必ずではない。すまんが、もしかしたら残業で来れないかもしてない。言うのが遅くなってしまったな……」
「いえ、お気になさらず。でしたら、別の日へと延期もできますので、当日でも構わず連絡を下され」
「分かった。ありがとう。だが、その……于禁は残業で来れない場合はあるのか?」
もうすぐ于禁の家に着いてしまう。すると二人の歩幅がかなり狭くなった。
「私は、退勤時間の方は大丈夫ですので」
「そうなのか」
職場がとても融通を効かせてくれる、あるいは于禁がかなり仕事ができる人物なのだと思い首を縦に振る。すると歩みを小さくしていても、于禁の住んでいるマンションにとうとう着いてしまった。マンションを見上げてから于禁が俯くと、夏侯惇肩をポンポンと軽く叩く。顔を上げさせると、酷く悲しそうな顔をしている。それに外は暗く寒いので、それがより一層引き立てられた。
「来週も、また会おうな。もう遅いから休め。では、また来週な」
「……はい。では、今日はお疲れ様でした。おやすみなさいませ」
于禁と別れた夏侯惇は、隣に誰も居なくなった寂しさを引き摺りながら自身の住むマンションに帰って行った。この日も、于禁から「帰宅したのか」という内容のメッセージが来ていて。
※
この週も夏侯惇は仕事をぎゅうぎゅに詰め、どうにか終わらせていた。すると気付いたのだが、クリスマスが近い。当日は共に過ごす者はいないので、予定など無い。そしてクリスマスイブは日曜日なので、街中は家族連れやカップルで賑わうだろう。
ちなみに曹操は金曜日は早退するらしい。なんでも、高級クラブを予約しているからだとか。夏侯惇も誘われたが、疲れていると予想したので断った。異性に興味が無い訳ではないが今は、しばらくは仕事があるのでプライベートを人並みに充実できる筈が無い。
自身のデスクでこっそりと溜め息をつくと帰る支度をした。そして于禁に「今から会社を出る」とメッセージを送る。鞄を持ちフロアから出てエレベーターに乗った。そこで于禁から了解の返事が来たことを確認した。エレベーターから出てエントランスを抜けると、ちょうど小雨が降っている。天気予報は確認していたのだが、今日は雨が降る確率が低いという予報を見ていた。肩をがっくりと落とす。
夕飯を食べる店は、于禁から昨日連絡があった。予約制ではない普通の飲食店である。残業があった場合のことを、考慮してくれたのだろう。メッセージに添えられていた地図を確認すると、夏侯惇の会社の近くである。ここから約五分以内と予測した。なので小雨程度であれば、そこまで濡れることはない。それに、コートを着ているので万が一濡れていしまっても大丈夫だ。そう思いながら、夏侯惇は傘を差さずに小雨の夜を歩いて行った。次第に雨足が強くなった気がする。
于禁が指定した店の前に着くと、傘を差した于禁の姿が目に入った。夏侯惇の姿を見るなり、慌てながら差している傘を差し出してくれる。そこで気がついたのだが、小雨を浴びていたことにより、寒さの感覚が無くなってしまったらしい。雨が落ちてこなくなり、急激に寒さで体をガタガタと震わせる。
「すまんが……寒いな……」
「夏侯惇殿、大丈夫ですか!? お体をどこかで暖めなくては……どうすれば……!」
そして于禁曰く、自身の顔が真っ青になっているという。自身の顔色など確認できないが、そのような自覚はあった。于禁が着ているコートを脱ぎ、肩に掛けてくれる。暖かいうえに于禁の匂いがしたが、奇抜な香水ではない。洗剤の仄かなものだ。
「タクシーで今から帰宅されても、体調を崩す可能性が高いですな……」
するとどうすれば良いのか分からず、于禁はスマートフォンで何かを検索していく。だがおおよそ一分後に、于禁は顔を真っ赤にした。どうしたのか聞こうとしたが、于禁はスマートフォンの画面に頷く。
「行きましょう。近くです」
「近く……?」
首を傾げるが、于禁はただ「はい」と返事をするのみ。すると二人で一つの傘に入り、于禁に引かれながら歩いていった。
すると着いた先は、ラブホテルである。外見だけでは分からないが、たまに近くを通るので分かった。夏侯惇は頭さえ回らないので、于禁と着いていくのみ。フロントは無人で精算機が置いてあるが、于禁はぎこちない手付きで受け付けを済ませた。金を払うと、カードタイプのルームキーが出てくる。それを取った于禁と、ルームキーに書いてある階層へエレベーターで向かう。途中で誰一人ともすれ違わなかったが、金曜日のこの時間帯では珍しいと思えた。これはきちんと考えられた。
エレベーターを降りて目的の部屋に着いた。カードをかざし、部屋に入る。暖房はついておらず、于禁がすぐにつけてくれる。暖かい風が循環するには、まだ時間がかかるだろう。部屋には白くシンプルなダブルベッドや、それに自販機や電気ケトルが設置してある。
「まずは、シャワーを浴びて下され。着替えは申し訳ありませぬが、アメニティのバスローブで我慢して頂きたい」
そしてベッドと同じ空間にある浴室の扉の前に連れて行かれると、扉の近くにハンガーで二人分のバスローブが掛けてある。
夏侯惇は相変わらずの寒さに服を脱ぐことができない。当然のように今から布を取り払えば、肌に冷気が突き刺さる。首を横に振った夏侯惇だが、于禁は「お体を壊されたら困ります……申し訳ありませぬ!」と言って夏侯惇の服に手を掛けた。まずは于禁のコートを脱がされると、次に夏侯惇のコートを脱がされる。そしてジャケットのボタンを外そうとすると、夏侯惇の顔が赤くなっているように思えた。頬が自覚できるくらいにとても熱いからだ。
「……ッ! 夏侯惇殿、申し訳ありませぬが、服を脱いで頂きたい。まずは湯で体を暖めて頂かなければ」
于禁の言う通りである。かなり動揺しているが例え同性が相手でも、服を脱がされることには抵抗があった。なので于禁の言葉を聞いて納得すると、夏侯惇は「分かった」と言い自身の服を脱ぐことを再開していく。ジャケットのボタンを外し始めると、于禁は夏侯惇から離れて背を向けた。
気遣いに感謝をしながら浴室に入る。温かい水を全身に浴び、体の冷えやそれに疲れが排水溝に流れていった気がした。このまま、ここに宿泊してしまおうと髪や体を洗っていく。だがそこで気が付いたが、于禁はこの後はどうするのだろうかと。髪を洗い体を洗っている途中で、夏侯惇は急いで泡を洗い流していく。そして浴室のドアを開けた。
「于禁……!」
部屋を見ると、于禁は居た。しかしベッドの縁に座っており、通勤鞄を手に持ってぼんやりとどこかを見つめている。今にも、ここから出ようとしている雰囲気だ。そこで夏侯惇が浴室から出てきたので、于禁はびくりと肩を跳ねさせると立ち上がった。
「かこうと……あの! せめてバスローブを!」
夏侯惇の裸体を見るなり、まるで思春期の女子中学生のように顔を赤らめる。そのうえに見えないように顔を大きな手で覆っていた。持っていた通勤鞄が床にどすりと落ちる。そこまでの反応をしなくても良いと、夏侯惇は少し傷ついてしまう。だがそこで、何か既視感があるような気がした。少し前に、このような出来事があった筈だ。しかし何も思い出せない。疲れているのだろうか。
言う通りにバスローブを羽織り、前を閉じると于禁に近寄った。だが夏侯惇の格好に気付いていないのか、未だに大きな手が顔を覆っている。
「……もう大丈夫だ」
溜め息混じりにそう言うと、于禁は恐る恐る手を離していく。それも、少しずつずらしていく始末である。
「はい……」
夏侯惇の姿を見るなり安堵の息を漏らすと、通勤鞄を持ち直す。やはり帰ってしまうのかと思うと、夏侯惇は眉を下げてしまう。芯まで暖まってるとはいえ、何だか心が寂しかったのだ。先程まで、冷たい雨や風に当たっていた故に。
鞄を持つ力を強くした于禁は首を縦にも横にも動かさない。そして口をきっちりと閉じている。何かの反応や言葉を出したいが、できないのだろう。それが肯定に値するものなのか、或いは否定に値するものなのかは夏侯惇には分からない。反応に困っていた。そもそも、このように于禁を困らせるのは良くないと思えた。なので「いや……何でも無い」と視線を床に向ける。
しばらく無言が続いていると、于禁が足を動かした。今から帰るのだろうと顔を上げると、于禁にぐいと体を引き寄せられてから抱き締められる。あまりの予想外の行動に、夏侯惇は于禁の体温をひたすら感じ続けていた。湯で暖まっていたが人の体温はやはり、伝わりやすくそして逃げにくい。
なので数十秒の間である程度は体温が移ると、于禁はそっと体を離す。目を向けないまま口を開いた。
「……では、私はこれで。このような場所で申し訳ありませぬが、ゆっくりお休み下され」
扉へと歩いて行く于禁だが、そこで夏侯惇は寂しいと思えた。まだ行かないで欲しいと思った。
いや、もしかしたらと考える。異性でもなく同性に対して帰ってしまうことが寂しい、つまりは夏侯惇は于禁に惚れているのかという思考が過った。まだ分からない。自身の気持ちだというのに、まだ確定している訳ではない。
于禁が扉のドアノブに手を掛けた瞬間である。夏侯惇はもう今しかないと、意を決した。理由はかなり弱いが、恐らくは于禁のことが好きだと判断した。いつからかは分からない。もしかしたら初めて出会った時からかもしれない。
そのようなことを考えると、咄嗟に于禁の腕を掴む。この部屋から出ることを阻止した。驚いた于禁は、顔だけ振り向いて夏侯惇の方を見る。困ったように眉を下げているが、いつもはある眉間の皺が無かった。
「夏侯惇殿……」
表情からしか読み取れないが、于禁はどちらかと言うと不快ではなさそうだ。一旦の安堵を得るが本当にそうかは分からないまま、掴んだ手を離した。同時に、于禁は扉を開くのを止めている。手をぶらんと落とすと、体をこちらに向けてくれた。
「いかがなさいましたか」
于禁の声や言葉には、機嫌の悪さはない。更に安堵を得ると、夏侯惇は于禁がしてくれたように抱き着く。そこで思ったのだが様子や動作だけでは相手には何も伝わっていないだろう。なので思いきって内心を于禁に伝えるが、喉が上手く動いてくれなかった。途切れているうえに、とても曖昧で短い言葉を吐く。
「まだ、行くな……」
一瞬だけ、于禁の正常な呼吸が途切れたように聞こえた。どうかは分からない。本当は于禁は優しい人間の筈だ。自身にここまでしてくれたのだから。于禁の呼吸が次第に整うと、夏侯惇は顔を上げる。于禁は呆然としており、何も言えない様子だ。いや、何かを言おうにも言えない様子なのか。
なので夏侯惇が唇を引き結んでいると、于禁の顔が近づいてきた。何だろうかと見ているうちに、唇が合わさる。于禁に、口づけをされたのだ。ほんの数秒であったが、于禁の薄い唇の感触、そして熱い息が皮膚に掛かる。
「い、いえ……! 今のは忘れ……んう!?」
咄嗟に体を突き飛ばされたが、夏侯惇は仕返しにと于禁の手首を掴む。鞄や于禁と共に硬い床に倒れると、のし掛かってきた体勢になる。そこで仕返しにと、于禁の顎を捕まえてからキスをした。だが于禁からのように一瞬のものだけにしようとするが、体はそうはいかない。唇を合わせると、脳が止めるなと体に勝手に命令してくるからだ。于禁の唇を貪っていき、互いに吐息が漏れる。
唇を合わせると、好きだという気持ちが溢れてきた。止まらない。常識が決壊してしまっている。修復など、できるのだろうか。
「ん、んんっ……ぅ、ん!」
すると于禁が鼻で呼吸をできないのか腹や胸が激しく上下させていたので、そこで止めた方がいいと唇を離す。ひゅうひゅうと強い風のように、酸素を取り込んでは濃い二酸化炭素を吐いた。顔は長距離走った後のように顔が火照っており、そのうえに酸欠直前になったのか瞳には薄い涙が浮かんでいる。
「は、はぁ! ァ……あ、かこうとん、どの……!」
射殺すように鋭く睨んで来るが、夏侯惇はそのまま于禁の背中に手を回そうとした。この雰囲気に、いっそのこと巻き込もうと思ったからだ。最初に仕掛けてきたのは、于禁なのだから。
だが体を震わせながら夏侯惇の上から逃れると、ふらつきながら立ち上がる。この時に「私は……違う……」と声を漏らしていたが、声に出していることにすら気付いていないのだろう。目がこちらをちらりと見ると、一瞬だけ血走ったような表情を見せた。それに、夏侯惇は興奮してしまう。理由も分からずに。
だが于禁は歯を食いしばってから目を逸らす。足が震えているが、無理矢理に動かしてから床に落ちた鞄を拾った。そして壁を伝いながら、夏侯惇の方を振り返ることなく部屋を出た。無言で、何も言うこともなく。
夏侯惇はそれを無言で見送ることしかできなかった。本当は、追いかけてから捕まえたい。やはりもう、このような気持ちになってしまうくらいに好きになってしまっているからだ。しかしそこで居なければならない『常識』が修復してきており、邪魔をしてきたからだ。
ぼーっと部屋の見慣れない天井を見る。頭に血がのぼってしまい、やってしまった。于禁に悪意などない。その場で座り込むと、頭を抱えた。そして于禁の微かな香りや体温が消えていきながら、後日于禁に謝ろうとすぐに思う。
のろりとベッドに移動すると、縁に座ってぼんやりとする。于禁にどう謝ろうか、いつ謝ろうか、直接か電話で謝ろうか。だがそれらを考えているうちに、睡魔が襲ってきた。どすりと一人にしては広いベッドに転がると、重い瞼を落とす。するととても簡単に、眠りへと落ちたのであった。