まずは、意識から。

まずは、意識から。

通勤鞄を持った夏侯惇は会社から急いで出ていた。それは既に日付が変わってしまっている、真夜のある土曜日ことである。予報ではこの地域で、珍しく雪が降るということになっているくらいに今夜は寒い。二つの瞳で、冷気に包まれた街を眺める。
夏侯惇はとある大企業に勤務している。だが今の役職からして多忙のあまりに、そのようなことは日常茶飯事である。このような慣れは良くないと夏侯惇自身は思っているが、改善の見込みが無い。勤務している企業の社長は曹操であり、夏侯惇が昔から縁のある従兄弟同士だ。曹操の右腕だが、振り回されることが多々ある。そして曹操のブレーキ役として苦労することも。
しかし夏侯惇は嫌とは思っていない。寧ろ光栄と思っているのだが、少しはこの忙しさを何とかしてもらえないかと言いたくなるようなこともある。何度か勤務時間について曹操に相談したことがあるが、大企業だからと言って気は抜けないと言われた始末だ。夏侯惇は頭を抱えながら、仕事に打ち込んでいった。
話を元に戻す。急いでいる理由は終電に間に合わせる為であり、会社から駅までは徒歩五分だ。走るとなると、おおよそ三分と約半分に時間を短縮できる。タクシーでも良かったが、何だかそれだけで利用するのは勿体無いと思えるので、駅に向かって走っていた。持っている通勤鞄が、大きく揺れるくらいに。そして頬に冷たい風を当て続け、体が火照っていきながら。
何とか終電に間に合ったらしい。スマートフォンの背面をかざして改札を通ると、ホームに向かい夏侯惇は胸を撫で下ろす。電車に乗っていった。その頃には体が冷えてしまい、寒いと思える。体を冷えにより微かに震わせた。冬用のコートを着ていても、耐えられないくらいに。暖房はついているが、扉の頻繁な開閉によりあまり意味を成していない。
車内を見渡すとそれなりに満員であり、夏侯惇と同じくこのような時間帯まで仕事していたであろう乗客も居るがほんの一部だ。皆、スーツを着て疲れた顔をしている。それ以外の殆どは、休日なので外出して帰る者ばかり。しかし座る席が無いので、夏侯惇は余りが多い吊り革に掴まる。
家の最寄り駅までの所要時間は二十分。夏侯惇はそれまでにぼんやりと、見慣れた車窓からの流れる景色を見ていた。そこで会社に出る前に曹操は、夜遊びに繰り出して行ったことに溜息をつく。よくもそこまで体力があると。
夏侯惇でも、仕事終わりにたまに少しは行きつけになっているバーには行くことがある。それは体力が残っているからの話であり、最近は家に真っ直ぐ帰っていた。バーのマスターには顔を覚えられているが、恐らくはもう来ないと思われているのだろう。ふと、そう考えていた。
自宅まで一番近い目的の駅で停車をすると、夏侯惇は足早に降りる。改札を通り駅を出るが、家までは徒歩で十五分前後だ。夏侯惇は蓄積していく疲れを引き摺りながら、足を動かしていく。
住んでいるマンションの前に到着したが、時刻は深夜の一時半を過ぎていた。夏侯惇はスマートフォンで現在時刻を確認して溜息をつく。さすがに明日、いや今日である日曜日は休みだ。だが帰宅時刻などどうでも良いと思えてきながら、静まり返っているマンションの建物に入りエレベーターに乗る。
ある程度の階層まで上ると、エレベーターが止まり扉が開いた。夏侯惇の住んでいる部屋の階層に到着したからだ。家に近付いてきているので先程よりかは僅かに足取りを軽くしながら、扉の前に立つ。
手慣れた様子で通勤鞄から鍵を取り出すと、解錠をした。そして家に入ると扉を閉め、施錠をする。体を脱力しながら靴を脱ぎ、ふらふらとしながら真っ暗なリビングに入った。照明のスイッチがある場所など分かっているので、暗がりの中でもスイッチに手を伸ばして点ける。部屋がぱっと明るくなった。暗さに慣れていたので反射的に目を細くしたが、すぐに部屋の明るさに慣れていく。
しかし次第に鮮明になる部屋の中で、夏侯惇はとある違和感に気付いた。床に、見知らぬ人間が倒れているのが見えるのだ。外見からして体格の良さから男ではあるが、髪が長いことは分かった。頭をこちら側に向けている。身長は、恐らく夏侯惇よりも少し高いのだろう。
「な……人……!?」
それ以降は驚きのあまりに頭の中が真っ白になり、全く声が出ない。外見の特徴を得る為に、これ以上は倒れている人間の観察をできない。
深呼吸をして冷静にならなければならない、という思考はまだ夏侯惇の中に生きていた。なので無理矢理にでも浅い呼吸を繰り返していくうちに、脳内の白色が消え去っていく。次第にクリアになった。
そしてまず思ったのが、倒れている人間は着物を着ていることだ。現代で着物を着ている人間は少なからず居るが、夏侯惇の知り合いには着物を好んで身に付けている人物は居ない。なので倒れている人間は、夏侯惇の知らない人間である。
となると、これは事件性があるとしか思えなかった。夏侯惇はスラックスのポケットから濃い青色のハンカチを取り出すと、それを手で持ちながら倒れている人間の肩を触れようとした。
だが夏侯惇はそこで大きく目を見開く。
「どういうことだ……」
手に持っているハンカチが人間をすり抜け、床にぱさりと落ちてしまったのだ。なので咄嗟に直で触れてみようとするが、同様にすり抜けてしまい床に手を着ける。
思わず幽霊なのではないか、夏侯惇はそう疑ってしまった。すると床に伏している人間が、もぞもぞと動く。夏侯惇は身構え、周囲に何か無いか視線を巡らせる。しかし一般人の部屋には、武器となり得る物は無い。なので人間のような存在を睨みつけながら、どうにかしなければと拳を作る。
人間が膝を立てて四つん這いの姿勢になった。そして立ち上がろうとしたのだが、バランスを崩したので床に上半身を打ち付けようとした。そこで夏侯惇は、無意識に「大丈夫か!」と言いながら手を差し伸べてしまう。気が付いた時には腕を伸ばしたが、触れることはできない。なので顔を歪めると、人間が何かぼそりと呟いた。
「の……?」
人間が頭を上げたが、夏侯惇と目が合った瞬間に驚いたような表情を見せる。だが元から険しい顔をしているのか、眉間の皺がかなり深い。指で伸ばそうとしても、取れないのだろうか。そして何度も口を開閉させてから、次ははっきりと言葉を吐く。
「夏侯惇殿……!?」
人間は夏侯惇の名を呼んだ。だが夏侯惇はやはり人間と知り合いではないので、再び警戒しながら鋭い視線を送る。
「誰だ。俺はお前を知らない」
重い声でそう言うと、人間が落胆の目を見せた。それを見た夏侯惇は、心にチクチクと何かが突き刺さるような感覚を拾う。しかしこれは気のせいであり、人間が自身を動揺させる為だろうと思った。再び、敵意の言葉を向ける。
「夏侯惇殿……」
人間の肩ががっくりと沈んだ。夏侯惇は無意識にスマートフォンを取り出すが、警察に通報しても無駄である。相手は確実に、幽霊なのだから。寧ろ警察に不審に思われるのだろうか。
そうとなれば明日にでも除霊してもらう寺を探そうと思うと、今夜は外泊をしてこの状況から逃げようとした。すると人間は今にも泣きそうなのか顔を伏せ、肩を震わせているのが見える。
「すまん……」
思わず謝ってしまった夏侯惇は、力が抜けていく。床に膝がゆっくりと落ちると、人間は夏侯惇に近付いて静かに目線を合わせる。
幽霊なのであれば、害が無いのであればと、夏侯惇は開き辛い口を動かし、人間に質問をしてみた。
「……どうやって、ここに来た? 何をする為に、ここに来た?」
「分かりませぬ。いつの間にか、ここに倒れておりました」
回答はとても良く曖昧なものであったが、視線が泳いでいる訳ではない。つまりは嘘ではないのだろう。真実なのだろう。
夏侯惇は両眼をひそめると、次の質問をした。
「ではお前は、誰だ?」
「于禁と申します」
人間、改め于禁は次ははっきりと答える。夏侯惇は「于禁か……」と呟くと、于禁は元気が戻ってきたかのように返事をした。しかし夏侯惇はその意味が分からないので、于禁の反応を無視したのだが。
「……そういえば、殿……いえ、曹操という御方は居ますでしょうか。貴方の、従兄弟であり……」
「孟徳……?」
曹操の名を聞いた夏侯惇は、ぴくりと反応をして身を乗り出した。
「孟徳の知り合いか?」
「はい、そうなります」
「なるほど……」
夏侯惇は少し考えた後に「孟徳はまだ夜遊びをしているだろう」と言いながらスマートフォンを取り出す。そしてメッセージを送ろうとしたが、于禁に言葉で止められる。
「お待ち下され。殿には私が見えませぬ。私は、貴方にしか見えないので……」
「はぁ!?」
驚いた夏侯惇は、思わず大声を上げた。直後に口元を手で塞ぐが、どう考えても隣の部屋の者に聞こえたのだろう。そう思うとかなり声量を絞り、于禁に訊ねた。
「そうとなると……お前は、やはり……幽霊なのか?」
「はい」
今更になって確認した夏侯惇は、訳が分からなくなる。頭で考えるが、疲労により次第に思考回路がショートしていった。
すると、夏侯惇はあまりの混乱に、その場で気を失ったのであった。直前に于禁の叫び声が聞こえたが、具体的に何を言っていたのか分からないまま。

夏侯惇が目を覚ますと、そこはベッドの上であった。視界には見慣れた天井があるので驚いた夏侯惇は、急いで起き上がって周囲を見渡す。ここは寝室であり、気を失ったであろう場所は隣の部屋だ。どうしてここに居るのかと思ったが、昨夜の出来事は夢か幻だろうと考え始める。現に、男の幽霊の姿が見当たらないからだ。
現在時刻は昼過ぎであり、かなり眠っていた。しかし格好は皺だらけになっているスーツのままであったので、立ち上がってシャワーを浴びようとする。そこで、足元に幽霊が倒れているのを見掛けてしまう。
「夢ではないだと……」
頭を抱えた夏侯惇がそう呟く。すると幽霊がのそりと立ち上がり、安堵をしたような表情で夏侯惇に話し掛けた。
「おはようございます……とは言え今は昼ですが、よく休まれたようで、何よりです」
「……于禁、俺が意識を失ってから、ずっとここに居たのか?」
「はい」
于禁がはっきりとそう答えたのを聞くと、夏侯惇は髪を掻きむしりかける。だがその手をどうにか抑えると「シャワー浴びてくる」と言ってから、だらりとした歩調で浴室に向かって行った。
シャワーを浴びたのはいいが、一人暮らしに慣れきっていたので着替えを持って来るのを忘れてしまう。相手は同性であり、そもそも幽霊である。気にしなくても良いのだが、何故だか気になってしまっていた。なので腰にタオルを巻いた姿で寝室に入ると、その瞬間に于禁が目を逸らしていた。地味に傷ついた夏侯惇は、素早く部屋着であるスウェットに着替えていく。
体を伸ばすと、寝室から出た。
「コーヒーでも飲むか……」
普段は独り言など出てこないものの、于禁が居ることを意識すると出てきてしまっていた。それが聞こえたらしい于禁は、夏侯惇に着いて行く。
カップにインスタントのコーヒーを淹れると、椅子に座った。目の前のテーブルに熱いカップを置く。すると傍らに于禁が立つので、その方向に顔を向ける。
先程から、疑問が湧いて仕方ないのだ。なので于禁に質問をし始めた。
「……どう考えてもお前しか居ないのだが、俺が寝ながらベッドにまで歩いて行くのはあり得ないと思うが、もしかして……」
コーヒーはまだ熱い。なので立ち上がる湯気を見つめてから、于禁の方に振り返る。
考えなくとも、おかしいのだ。帰宅時にきちんと施錠をしており、なおかつ于禁は幽霊の為に自身に触れられない。そして夏侯惇には夢遊病の症状などない。
コーヒーはまだかとマグカップに指先を触れかけると、于禁が答えた。
「実はどうにか力を入れたら、貴方に触れられることができました。故に、急いで寝台に運びましたが……」
「そうなのか、すまんな。それは大変だっただろう……って、おい、どういうことだ?」
思わず納得しかけたが、平然としている于禁の言葉はかなり現実離れをしている。まるで、自分の発言に何も問題が無いような素振りであった。普通の場所であれば幽霊が生身の人間に触れられるなど、かなりおかしいことだからだ。そもそもこの部屋は事故物件でもなく、あるいはそのような噂など聞いたことがない。
そしてマグカップに触れると、まだ熱いことが分かった。なので素早く指を離していくと、于禁の方へと体も向ける。
「実際に起きたことを、そのまま申し上げましたが」
「……おい、待て、本当に起きたことだと?」
口をあんぐりと開けた夏侯惇は、于禁を見上げた。すると于禁は中腰になり、夏侯惇と視線を丁度ではないが合わせる。目が合うが、その瞳を見ると不思議と于禁が嘘をついているようには見えなかった。何故だろうか。于禁とは初めて会ったというのに。
「何と言いますか……とにかく、力を込めたら、触れられたのです。それ以上は、私にも分かりませぬ」
「分かった。もういい……」
夏侯惇は頭を抱えると、マグカップの持ち手を掴んでコーヒーを一口飲んだ。まだ熱いが、飲めないことはない。しかしもう少し冷ましてからにしようと、再びテーブルの上に置いて冷ます。
そして夏侯惇は、次の質問を始める。これは、とても気になっていたことだ。
「于禁は俺とは、どのような関係だ? 上司と部下か? それにしては、やけに俺に思い入れが……」
「情人です」
「えっ」
于禁からあっさりと当たり前のように告げられた関係性に、夏侯惇は気の抜けた声が出てしまう。先程は何と言ったのかと、聞き間違いなのではないかと聞き直そうとした。しかし于禁がもう一度改めて「情人です」と言うので、夏侯惇は半笑いをしながら自身を誤魔化した。
冗談かと思ったのだが、于禁の表情はとても真剣だ。やはり、嘘をついているようには思えない。
「私が貴方に、好いていることを伝えました。それに貴方に承諾して頂き、何年にも渡り情人として、いえ、人間同士として良い関係を築いていったのです」
夏侯惇は心を落ち着かせる為に温かいコーヒーを飲む。熱さはどんどん逃げていっているようだ。飲みやすく、思ったよりもマグカップにあるコーヒーが減ってきていた。
そこでふと夏侯惇は思ったが男同士でとなると、どうするのか。どちらがどの役割なのか、と考えたが何も分からない。なのでもう一口コーヒーを飲むと、于禁の真剣な表情が少し崩れていることが分かった。弱い驚愕が見える。それを見て不思議に思った夏侯惇は聞く。
「どうした?」
「いえ……私の言葉を、信じて下さるので……」
返事が思いつかない夏侯惇は、コーヒーを全て飲みきった。この場を一時的に誤魔化したいのか。立ち上がってからキッチンでマグカップを洗おうとすると、于禁がその手を止めるように言葉を続けていった。
「私は、この世を何百年も何千年も、ずっと彷徨っていました。ただ、貴方に会いたいが為に」
夏侯惇の手がピタリと止まると、キッチンに無言で向かってからマグカップを流しに置く。蛇口を捻り空のマグカップに水を半分にまで入れると、振り向いた。于禁の方を向き、改めて聞く姿勢を持つ。
弱い驚愕か薄れており、于禁の眉間の皺が再び深くなっていた。普段の顔に戻ったのだろう。
「……俺とお前は、いわゆる前世では、そこまで深い関係だったのか?」
于禁は無言で頷いた。成る程と思った夏侯惇だが、残念ながら前世の記憶などない。なので、于禁のことは全く知らない。生きている時代だって、かなりの差がある。それ以前に、于禁は幽霊だ。
考えなくとも、夏侯惇は于禁への対応は一目瞭然である。
「俺はお前のことを何も知らない。それに、お前は幽霊であり、言い方は悪いが、既に死んでいる者だ。だから、俺のことは諦めて欲しい。それに、このような何も知らない俺と話していても、仕方ないだろう?」
「いえ、お断りします。それに……私には……未練がありますので……」
未練とは何なのか。疑問に思った夏侯惇はすぐにそれを聞くが、于禁の表情が歪む。よくは分からないのだが、その未練がとても苦しいことや辛いことなのは理解できた。なので夏侯惇は触れてはいけないと「もう聞かない」と言って謝る。
そして思わず于禁に触れようとするが、案の定触れることはできなかった。見えてはいる于禁の体をすり抜け、部屋の虚空を手で触れる。すぐさま手を引かせると、夏侯惇は何も掴めなかった自身の手のひらを見つめた。
「申し訳、ありませぬ……」
「お前が謝るな」
于禁が重々しく謝罪をしてくるので、それを宥めた後に現在時刻を確認した。時刻は午後の三時を過ぎている。夏侯惇はもうそのような時間か、と溜息をつくと冷蔵庫を何気なく開く。
しかし中身を見て更に大きな溜息を出した夏侯惇は、外出することにした。このままでは、明日の朝食が無いからだ。
今の格好はスウェットであるが、スーパーくらいなら入っても問題無い服装である。
「……今から少し外に出るが、お前も来るか?」
「はい」
一緒に外に出れば、于禁は幽霊であるが何かの気分転換にはなるだろう。そう思った夏侯惇は、財布と家の鍵を持ち玄関に向かった。適当なスニーカーを履くと、玄関の扉を開ける。
しかし夏侯惇が外に出たのはいいものの、後ろを歩く于禁の足が止まっていた。まるで、何かに歩行を妨げられているようである。
「どうした?」
「出られないのです。何か、見えない壁が私の前にある気がしまして」
首を傾げた夏侯惇は「もう一度、足を進めてみろ」と言うと、于禁は言う通りにする。だがつま先が何かにぶつかるような挙動が、于禁に見えた。見えない壁があるというのは、本当なのかもしれない。不思議な話なのだが。
「今まで、建物を自由に出入りできたのに……」
「まぁ、幽霊だからな」
扉の外側を見ている于禁は「私のことは良いので、構わず」と首を横に振る。
夏侯惇は申し訳ないと思いながら、于禁には留守にしてもらうことにした。それしか方法が無いのだ。于禁の表情が沈むので「すぐに帰る」と言うと、それが消えていく。安堵にホッとした夏侯惇は、于禁に見送られながら外に出た。
外出時間は、おおよそ一時間以内である。家からスーパーまでは徒歩で約十分。しかしこの時間帯は夕飯を買う客が多いので、レジに並ぶ時間もありそこまで掛かってしまっていたのだ。
夏侯惇は帰り道は速歩きで家に向かうと、帰宅していった。だが夕食も朝食も適当なものと理解した于禁は、唇の端を下げて注意をしようとする。
「夏侯惇殿、食事が……!」
「分かってる分かってる。来週からまともにするから」
適当にあしらうと、夕食にはまだ早い食事を取る。次に夏侯惇は少しの外出でも疲れてしまったのかだらりとソファに座った。充分に眠ったというのに、睡魔が襲ってくる。食後だからだろうか。そこで于禁の「寝台の上でお休みになって下され!」という声が聞こえる中、夏侯惇は短い昼寝をしていった。
おおよそ、二時間くらいだろうか。部屋の中は暗くなっているが、街中の明かりのお陰で真っ暗ではない。静かに体を起こした夏侯惇は、その明るさを頼りに于禁の姿を探すとすぐに見つかった。カーテンが開いたままの窓辺に立ち、無言で外を見ていたのだ。
その于禁に話し掛けようとしたが、どうにも躊躇してしまう。何故だか、于禁が何かを待っているように見えたからだ。夏侯惇からは背中しか見えないのだが。
しかし何を待っているのかは分からず、夏侯惇は視線を唯一の暗闇である部屋の片隅へと向ける。
「お目覚めになりましたか」
于禁の声がした。窓辺へと再び視線を移すと、于禁が歩み寄って来る。手を差し伸べられると、夏侯惇は無意識にその手を掴もうとした。すると驚いたことに、于禁に触れることができた。指先で于禁の手のひらに触れただけだが、まるでかなり冷たい物を触ったかのように素早く手を引いてしまう。一方で于禁は、奇跡的な瞬間を目撃したかのような顔をしていて。
「ッ!? ……すまん、その、夢ではないよな?」
「私が言うのはどうかと思いますが、夢ではありませぬ」
二人はそれぞれの手を見つめる。夏侯惇はもう一度、と于禁の手を掴もうとした。だが先程のようにはいかず、すり抜けてしまう。
触れられた于禁の手は、仄かに冷たかった。やはり寒いのだろうと考えてしまうが、目の前にいる于禁は正真正銘の幽霊である。寒さや暑さなど、感じる筈が無い。
「冷えてはいませぬか? 湯を浴びた方が宜しいかと」
「ん? 風呂か? ……あぁ、確かに寒いな。そうする」
于禁の提案に返事一つで頷いた夏侯惇は、遅れてやってきた冷えに震えながら入浴の支度をする。そして浴室へと向かい入浴を済ませると、寝室へと入った。部屋の照明を点けずに、サイドランプの仄かな光のみを輝かせる。
現在時刻はまだ午後の六時過ぎであり、寝るにはまだまだ早い。しかし夏侯惇は布団に入り、横になった。浴室から出てからは于禁が着いて来ているので、ベッドの傍らに于禁が立つ。
「お前も横にならないのか? 物であれば、すり抜けないのだろう?」
「はい、ですが……」
于禁は夏侯惇の言葉に躊躇していたが、どうしてなのか分からない様子である。夏侯惇は、仰向けになっている傍らでずっと立っているのは、あまり気分が良くないのでそう促したのだ。そこで気付いたのだが、窓辺に立っている于禁の後ろ姿の心が少しは見えた気がした。寒さは感じないものの、心が密かに寒いのかと。
弱く首を振った于禁を見て、溜息をつきながら夏侯惇が掛けている布団を捲る。
「気分だけでも、寒さを凌げるだろう」
布団に入れと促すと、于禁は控えめに頷いて布団に入る。夏侯惇同様に仰向けになるが、やはり物はすり抜けなかった。隣にいる夏侯惇にとっては不思議な空間ができ、冷たい空気が入り込む。
なので于禁がやはり布団から出ようとしたが、近くにある筈のエアコンのリモコンを探し始める。何をしているのか分からない于禁が聞こうとしたが、その前に夏侯惇がエアコンのリモコンを見つけ出した。手に取ると、すぐに暖房をつける。
しばらくは暖かい風が巡らないために、夏侯惇は寒さを我慢しながら于禁に簡単に説明をした。顔ではなく、視線をなるべく于禁の方に向ける。
「すぐに部屋が暖まるから大丈夫だ。あと少しだけ、寒さを我慢すれば済む」
「これは確か……何と呼ばれているのか……」
于禁は部屋の高い位置にあるエアコンを見ながらそう言う。すると夏侯惇はもしやと思い、エアコンを指差す。
「エアコンが、分からない?」
眉間に薄い皺を寄せた夏侯惇は于禁にそう質問すると、勿論と言ったような顔で頷く。夏侯惇は口をあんぐりと開けた。
「はい。風が出る箱ということは認識しておりますが……」
「待て、お前は……いつ、何年前に死んだ? 何千年もと言ったが、もしや……」
失礼ではあるが、夏侯惇が今更に浮かんだ疑問を吐く。しかし于禁は特に何も思っていないのか、あっさりと答える。それは、夏侯惇にとっては驚きのものであった。
「恐らく、千八百年……」
「せ、千八百!?」
予想外の年数に起き上がった夏侯惇は、もう一度于禁の言う数字を復唱した。そして于禁に聞き直すが、同じ回答が返ってくる。思いもしなかったその年数に、夏侯惇は天井を仰いだ後に深呼吸をして落ち着かせる。
何の時代なのか、夏侯惇がそう考えていると于禁は遅れて起き上がった。夏侯惇と視線を合わせると「嘘ではありませぬ」と言う。
確かに、于禁の服装や話し方からしてかなり昔に、亡くなっていた人物だったとしてもおかしくはない。それを見落としていた夏侯惇はもう一度深呼吸をしてから「すまんな」と言い、エアコンを見る。気が付けば暖かい風が吹き出してきており、冷たい空気に暖かさが混じる。夏侯惇はそれを感じでから、布団に再び入ると、続けて于禁も入る。
「……となると、いつから幽霊としてここを?」
「死んでからずっとですな。説明をした筈ですが」
そうだったと思い出した驚かなかった夏侯惇は、于禁の瞳を見てから相槌を打った。よくは分からないのだが、先程の于禁との会話で感覚が麻痺してしまったのだろう。
夏侯惇は質問を続けた。
「ここで、彷徨っていた……と言って良いのか? では、何をしていたのだ?」
「探しておりました。貴方を」
果てしなく長い時間の中で、于禁は夏侯惇を探し続けていたことになる。それほど、于禁が夏侯惇のことを一途に想っていたことが分かった。
夏侯惇の方に恋愛感情は無いのだが、咄嗟に照れてしまっていた。ここまで人に愛を伝えられたことは、今回が初めてだからだ。しかし相手が同性とはいえ、嬉しくない訳などない。
視線を天井へと変えると、返事が思いつかないので「そうなのか……」と呟く。
「貴方以外は見つけられておりませぬが、殿は恐らく、いらっしゃるのでしょうか?」
于禁の言う「殿」とは、やはり曹操のことだろう。夏侯惇は勿論と頷くと、于禁の安堵の吐息が聞こえた。
「では、他の者は? たとえば……俺の身内と言えば、淵や曹仁だな。この二人は知っているのか?」
「はい」
肯定の言葉が聞こえる。すると夏侯惇はまずはその二人が、于禁にとってはどのような人物なのか知りたくなってきていた。曹操もだが、呼び方からして想像はつく。なのでその二人について聞くと、于禁は夏侯惇の知っている人物像を話し出した。
驚いた夏侯惇だが、面白いと思ったのか様々な人物の名前を出してみる。そして于禁のリアクションを聞き、楽しんでいたのであった。結局はその話を三時間以上はしており、于禁が最後にと夏侯惇について話す。それに夏侯惇は、恥ずかしいと思い途中で中断させていたのだが。
夏侯惇は久しぶりに仕事以外の話を長時間したのだが、楽しいと思える。なので日付が変わる頃までいつの間にか話した後に、明日は仕事だからとサイドランプの光を落として眠っていった。

翌朝にいつも通りの時刻に起床した夏侯惇だが、かなり眠たげである。寒さのせいでもあるが、たった一日ではやはり疲れが取れないからだ。
気怠そうに身支度を整えると、朝食を軽く取ってから出勤をしようとする。
「夏侯惇殿……」
于禁は扉の外からは出られない。そして今から扉の外に出ようとしている夏侯惇を見て、悲しげな顔をしていた。夏侯惇は謎の罪悪感が込み上げるも、会社に行かなければならない。なので「すまんな……」と言うと、背中を向けてからドアノブに手を掛けた。
「あの、夏侯惇殿」
改めて名を呼ばれた夏侯惇が振り返る。すると于禁が手を伸ばしているのが見えるが、どうせ触れられることはできない。なので夏侯惇はただ視線を送っていると、体が揺れた。于禁に、触れられてそして手で押されたのだ。扉に軽くどんとぶつかるが、痛みは全くない。
体を押した当の本人はぽかんとしており、夏侯惇もまた同じ表情だ。
「おい于禁、今……」
数秒間だけ思考が停止していたが、どうにか思考活動が再開する。夏侯惇が口を開きそう言うと、ハッとした于禁は即座に謝ってきた。
「も、申し訳ありませぬ! まさか、触れられるとは思わず……!」
夏侯惇は体を押されたことを、特に怒ってはいない。寧ろ微かな喜びがあったのだ。それを伝えようとしたが、于禁が頭を下げる。
「いや、俺は気にしていない。寧ろ、また触れられて嬉しい。だからここで待っていてくれ。行って来る」
もう一度、再び触れることはできないだろう。なので夏侯惇はなるべく、穏やかな表情を作ってそう言う。もしも触れることができれば、于禁になるべく今の感情が伝えられる筈だ。
どうして触れられないのかと、悔しさと共に通勤鞄を持ち上げる。するといつもよりも重く感じた。
外に出て扉を閉めるが、于禁の姿を見るとどうにも切なくなってくる。なのでなるべく于禁を視界に入れなかった。しっかりと施錠をすると、朝日が眩しい空を見上げながら出勤していった。于禁も、同じく明るい空を部屋から見上げてくれていると思いながら。

夏侯惇が帰宅したのは、夜の十時過ぎである。いつものように疲れた様子で家の近くのコンビニに寄り、夕食を買う。それなりの大きさのビニール袋を提げた。そして帰宅したのは良いが、夏侯惇はコンビニの袋を思わず落としかけてしまう。
「お帰りなさいませ!」
玄関の扉を開けてから照明を点けると、于禁が深く土下座をして出迎えていたのだ。出迎えてくれるとは思ってもいなかったし、そうしてくれるのは嬉しい。だが土下座をしているとは予想をしておらず、夏侯惇は動揺しながら于禁の土下座を止めさせようとした。ビニール袋を一旦、床にゆっくりと置く。
「おい、そこまでしなくても……!」
触れられないことを忘れてしまい、于禁の体を起こそうとした。しかし手がすり抜け、指先が床に激突をする。痛みに悶絶した。
「夏侯惇殿、大丈夫ですか!?」
于禁が顔を起こすと、夏侯惇はそこで視線を合わせた。指先が痛いので、怒りを含んだような顔で于禁に話し掛ける。
「土下座はいい。ただいま」
「……はい」
そこでようやく于禁が膝を立てて、そしてスムーズな動きで立ち上がった。夏侯惇が「ようやくか」と溜息をつくと、床に置いていたビニール袋を再び提げる。一方で于禁は緩やかな角度を持ってもう一度頭を下げた。
腹が減っていた。なので夏侯惇は于禁に「もういいから」と言うと、その横を通り過ぎてリビングに入る。小さなダイニングテーブルに向かうと、早速コンビニで買ったものを食べ始めた。
家の近くのコンビニで買ったので、暖かいものはまだ冷めてはいない。夏侯惇はそれをどんどん口に入れていく。
「あの、夏侯惇殿。そのような生活を、今まで続けられているのですか?」
つい先程、夏侯惇がリビングに入ったことを于禁が確認したらしい。小走りで夏侯惇の元に向かうと、そう尋ねてきた。
夏侯惇は今口に入れている食べ物を咀嚼し、飲み込んでから淡々と答える。
「あぁ、そうだ。外が明るい時間帯に帰ることは滅多にないな。仕事だから、仕方のないことだ」
唖然とした于禁を見てから、夏侯惇は食事を再開していった。
翌日も仕事であるので、夏侯惇は夕食を済ませるとすぐに入浴した。そして髪を雑に乾かしてから真っ直ぐに寝室に向かうと、洗濯済みのシーツを取り出してからベッド敷いていく。皺だらけだが、夏侯惇は気にせずベッドに仰向けに倒れた。
天井しか見えないので、照明が眩しい。なのでリモコンを探していると、于禁が視界に入った。何か言いたげな顔をしているが「しっかりと髪を乾かして欲しい」などの、細かい注意だろう。なので夏侯惇は適当に返事しようとする。
「あの……」
「分かってる」
起き上がり、夏侯惇はベッドから立ち上がろうとしたところで于禁がきょとんとしていた。どうしてなのかと思っていると、于禁が言葉を続ける。
「あの、夏侯惇殿。隣で、また寝ても、宜しいでしょうか……?」
夏侯惇は予想外の于禁の申し出であったが、特に断る理由がない。于禁は幽霊であり、共に寝ている感覚など皆無であるからだ。それに、不快感は不思議と無い。
なので「良いぞ」と返してから、照明のリモコンではなくエアコンのリモコンを持つ。それを壁の高い位置にあるエアコンに向けてから操作をすると、次に本来の目的である照明のリモコンを持った。
エアコンからは温かい風が出て来たところではあるが、部屋を常夜灯に切り替えると布団に入る。体が冷えているので震えた。
人の体温は朝になっても夏侯惇のものしか得られないが、それでも「入れ」と促した。于禁は嬉しそうに、夏侯惇の隣で横になり布団を体に掛ける。
于禁には熱さも冷たさも感じないが、心なしか冷えた体を暖めているように見えた。その冷えているように思える体を、どうにかしてやりたいと考えてしまう。
「どうして、触れられないのか……」
ぼそりとそう呟くと、于禁が目を瞬かせた。
「夏侯惇殿、かなり具合が悪いように見えますが」
「あぁ、仕事で疲れたからな」
溜息をつきながらそう答えるが、于禁は首を横に小さく振った。
「いえ、貴方の顔がかなり赤いので、具合が悪いのでは?」
「なっ……!?」
咄嗟に夏侯惇は自身の頬に触れるが、エアコンからの暖房の風が巡回してきたことによりなのかは分からない。しかし体はまだ暖まってなかった。そこで、夏侯惇は自身が于禁のことを意識をし始めていることに気付く。
どうして于禁に触れられないのか、そう呟く前のあの考えをし始めたことがきっかけなのだろう。相手が幽霊であっても関わらず。そして曰く生前は自身と深い関係にあったと、普通の人間にしてみれば意味不明なことを言っているのにも関わらず。
どう返したら良いのか分からなくなった夏侯惇は「気のせいだ」と言うと、常夜灯までも消してからすぐに眠ったのであった。

この夜、夏侯惇は夢を見ていた。内容はごく短いものであるが、とても印象が強い。
夢の中の、どこかも分からない室内で于禁らしき人物と外を見ていたものだ。時間帯は今と同じなのか、外は真っ暗だった。しかし室内に淡い強さの明かりがあるが、これは夏侯惇がよく知る照明機器ではない。蝋燭の火のようなものであった。
夏侯惇の視界に于禁らしき人物の背中が見えるが、少し前とは違い寂しさや寒さは感じられない。思わずそれに安堵すると、于禁の背中に触れようと手を伸ばした。
触れられないのだろうと思ったが、手に感触があったような気がする。夏侯惇が于禁の名を呼んだその瞬間に、夢から現実へと戻っていく。
目を覚ますと、朝であった。見慣れた自室のベッドの上に横になっている。隣には于禁が居るが、幽霊であるのにまだ眠っていた。だが脳はまだ覚醒しきっておらず、于禁の頬を撫でてみる。すると于禁の肌に触れることができたので、夏侯惇は自覚できるくらいに顔が熱くなってしまっていた。
「夏侯惇殿……?」
于禁も目を覚ましたが、自身の赤面をしっかりと見られる。なので「やはり体調が悪いのでは?」と聞かれるが、夏侯惇は適当にはぐらかしてからベッドから抜け出す。そして急いでいるフリをしながら、身支度を始めていく。
寒いがすぐに家を出なければならない。
リビングだけでも暖房をつけると、寝間着からスーツに着替えていく。そして簡単な朝食の後に暖房を切ると、通勤鞄を持ち洗面所で身支度をした。鏡に写る、目の前の自分の顔はまだ赤い。
その最中に、于禁が背後に来たらしい。幽霊なので鏡には写らないが、話しかけてきたのでそれが分かった。
「貴方に、まともに触れることはできませぬが、私は変わらず貴方を愛しております。例え、貴方が覚えておられなくとも、私は貴方を想い続けます。ですが、貴方の人生の邪魔はいたしませぬ」
夏侯惇の顔が更に赤くなった。まるで、熱さにより火傷をしているように見える。
急激に重くなってしまった口を開き「好きにしろ」と言いたかったが、その言葉が出なかった。なのでただ口を開くことのみで、相変わらず顔色は落ち着かない。
もしかしてだが、于禁のことを意識してしまっているのだろうか。そう考えた夏侯惇は、于禁からの想いが頭にこびりついてしまう。振り払うことができなくなってしまう。
何も言えないまま、夏侯惇は鏡に背を向けると目の前に于禁の姿が見える。しかし于禁の顔など直視できないまま、通勤鞄を持つ。
視界の端で于禁が悲しげな表情をしているのを捉える。だが見なかったふりをすると、夏侯惇は出勤していったのであった。胸の痛みを感じたが、どうにもならないまま。

時刻は夕方になるが、夏侯惇はまだ会社に居た。夕方とはいえ定時を過ぎている。
山積みになっている仕事を今日中に片付けることはできないが、区切りの良いところで終わらせることはできる。夏侯惇はそれを目指して、定時を過ぎてからも仕事をしていた。
かなり疲れた顔をしているが、休憩は適度に取っている。周囲からは顔色が悪いという指摘が相次いでいたが、夏侯惇はそれを無視してがむしゃらに仕事をしていた。
今は一人でフロアではなく、小さな休憩スペースにあるソファに座って缶コーヒーを飲んでいた。ソファは二人掛けで、夏侯惇は真ん中にどっかりと座る。そこで仕事のことではない考え事をするが、勿論于禁のことだ。
夏侯惇本人としては、于禁に惚れる手前なのだろう。しかし自覚をしていないだけで、心の底では好きになってしまっている。理由は、于禁の悲しげな表情を見たくないからだ。
だが好きになったとしても、おかしな話で相手は幽霊だ。話すことはできるが、触れることはできない。于禁が家から出られなくなったので、共にどこかに行くこともできない。好きになっても、于禁とは何もできない。それでは、余計に于禁の表情を曇らせる一方なのではないか。
夏侯惇は深く項垂れると、どうすれば良いのか分からなくなる。好きだと伝えたら、于禁とは晴れて両想いということは、喜ばしいのだが。
それを脳内でずっと議論していると、従兄弟である夏侯淵がいつの間にか隣に立っていた。夏侯淵とは部署が違うが、プライベートで仲が良い。なので真ん中から端に移動すると、夏侯淵を座らせる。
「よお惇兄、今日は調子が悪いって聞いたが、大丈夫か?」
「……大丈夫だ。それに、もうじき帰るしな」
そこで夏侯惇は缶コーヒーがまだ半分以上は残っているので、一気に全て飲み干す。夏侯淵が「本当か?」と問い掛けてきたので、夏侯惇はうんと頷いた。
缶コーヒーが空になったうえに、そろそろ仕事に戻ろうと思った。なので夏侯惇は立ち上がるが、その際に夏侯淵が声を掛ける。
「何か悩んでいたら、俺で良ければいつでも相談してくれ」
「あぁ、分かった」
空き缶を指定されたゴミ箱に入れると、休憩スペースから立ち去る。夏侯淵に見送られると、夏侯惇は「ではな」と言って立ち去った。
フロアに戻る途中、廊下を歩きながら夏侯惇は考える。夏侯淵とは曹操同様に、昔から付き合いがある従兄弟同士だ。信頼は一度も崩れていないし、人間として良い関係を築けている。しかしだ。夏侯惇が今悩んでいることを、本当のことを話しても「疲れているのだろう」と思われるのかもしれない。
夏侯淵には悪いが、話すことはできない。夏侯惇は深い溜息をつくと、そこで丁度人の少ないフロアに戻ってしまった。なので仕事を再開させながらも、頭の片隅に于禁のことが思い浮かんでしまっていて。
結局は夜の九時頃に会社を出た。空には星が浮かんでいるが、街の明かりにより薄く見えるのみ。夏侯惇はそれを少しだけ見上げてから、早歩きで最寄り駅によろよろと向かっていく。
いつもの二倍の十分近くを要して着くとまだ人が多いので、もう少し仕事をすれば良かったと考えてしまう。相変わらずよろよろとした足取りで、人混みのある改札を通りホームに向かった。
先程に電車が出発したばかりらしく、次の電車はおおよそ三分後だ。夏侯惇はその三分でさえ長いと思いながら、それなりに長い乗車列に並ぶ。周りは夏侯惇同様に退勤した者、それに塾や部活帰りの学生がほとんどである。
ぼんやりとホームドアを見つめていると、次の電車が来るアナウンスが鳴る。なので夏侯惇は視線を乗車列の先頭へと変えていった。だがそこで、アナウンスのものではない人の大きな声が聞こえる。夏侯惇は周囲を見渡すが、大声を発した者は居ない。寧ろ、乗車列に並んでいる人々も夏侯惇のようにキョロキョロとしていた。
『ぼ、僕は……!』
ようやく声の発生源を見つけたが、ホームの片隅である。そこには若い男女二人が居たが、男が女の前に跪いていた。とても緊張をしているのか、言葉を詰まらせている。女に右手を差し出しているが、その手が大きく震わせている。一目で分かるのだが、プロポーズをしているのだろう。
乗車列の人々の中で、それを興味深く見ている者、早く電車に乗りたいのか視線をもうじき電車が来る方向へと変えた者。それぞれおおよそ半々であった。
夏侯惇は前者であり、それを見ていると電車が来た。電車のドアが開くと、多くの人が次々と吐き出されていく。その代わりに乗車列に並んでいる人々が吸い込まれるが、夏侯惇は電車に乗らずに立ち止まってしまう。そして忘れ物でもしたかのようなふりをしながら、プロポーズしている男の声を聞いてしまっていた。
乗車列から外れるとわざと通勤鞄を開け、中をまさぐる。夏侯惇の他にも、野次馬が数人居た。
「……僕には、貴女しか居ません。僕にとっては、貴女の代わりは居ません」
すると短かくも、夏侯惇の心の奥に突き刺さる言葉が聞こえた。それは短過ぎて抜くことはできず、一秒毎に夏侯惇の心や脳に沈んでいく。通勤鞄の中身を混ぜている手が止まり、思考が別のものに変わっていく。
それは于禁のことであった。于禁も、この男のように純粋に自身を愛してくれたのだろうか。或いは愛してくれるのだろうか。
電車のドアが閉まると、すぐに走り出していった。夏侯惇はそれを見送ってから、ホームの片隅に居る若い男女をちらりと見る。プロポーズは成功していたようで、二人は抱き合っていた。
通勤鞄をまさぐり終えた夏侯惇は、少人数の野次馬を通り抜ける。そしてまたしても三分後に来る電車に、次こそは乗るべく既に形成されている乗車列に素早く並んでいった。早く、于禁に気持ちを伝えなければと思いながら。
今回はきちんと電車に乗ると、車内では更に人の多さにうんざりとしながら揺られていく。
家の最寄り駅に到着すると、夏侯惇はすぐに電車から降りた。そして全力で走って家に向かう。久しぶりにここまで走るので、息が上がるのが早い。しかし頻繁にすれ違う歩行者や自転車からしたら、ごく普通の光景にしか見えないらしい。ただの、急いで帰宅している会社員として捉えられているのか。
夏侯惇は家が近付く毎に、心臓が破裂しそうになっていた。走っていることもあるが、次第に緊張してきたのだろう。
住んでいるマンションが見えると、あと一息と更に走る速度を上げる。真冬であるのに、全身は汗がひっきりなしに流れていた。急いでエントランスに入り、丁度一階で待機しているエレベーターに乗る。そして住んでいる階層の数字のボタンを押すと、夏侯惇は息を盛大に切らす。心臓が持たない。壁に縋ると、中越しになって天井を見上げる。
全身の血が大きな音で巡っていた。それを聞きながら、夏侯惇は深呼吸をゆっくりとしていく。最初は小さいものの、次第に呼吸は長く深くなっていった。
汗が冷えてきたところで、目的の階層に着いた。途中までは住民の一人も遭遇せず、エレベーターの扉が開いても誰も居なかった。幸運としか言いようがない。夏侯惇はエレベーターから走って出ると、廊下を少し進んだところにある自身の部屋の扉の前に立つ。
通勤鞄から鍵を取り出すが、鍵穴に何度か上手く挿さってくれない。慌てていた。なので焦りながらも鍵穴にどうにか鍵が入ると、素早く解錠した。強い力で扉を開ける。
家に入るが、于禁は出迎えていなかった。夏侯惇はそこで血の気が引くが、扉を閉めてから施錠をすると照明を点けることを忘れて靴を脱ぐ。室内はエアコンをタイマーにしていたので、とても暖かい。
「于禁……?」
暗闇に向かい、不安げにそう名前を呼び掛けた。そしてゆっくりと歩いていく。
「夏侯惇殿!? お帰りなさいませ!」
すると于禁の声がしたが、暗いので全く姿が見えない。夏侯惇はそこで照明の存在を思い出すと、場所を覚えているので壁にある照明スイッチを入れた。部屋が一気に明るくなる。家具や物の輪郭がはっりと見えていく。
「于禁!」
于禁の姿を見るなり、夏侯惇は駆け寄る。しかし実体ではないので触れられない。なのでそのまま壁に激突しかけたところで、腕を掴まれた感覚を拾う。
振り向くと、于禁が腕を掴んでいた。
「触れられた……!?」
目を見開いた于禁は、あまりの驚きに掴んだ手を震わせる。そして、掴む力が強くなった。それほどに、必死に夏侯惇に触れていったのだ。だがそこで于禁の体が透けると、掴まれる感覚が消えていく。支えてくれるものが無くなった夏侯惇は、床に尻餅をついた。
一方で于禁は、掌を力強く握るだけになる。爪が皮膚に食い込んでから痛みを感じた瞬間に夏侯惇の状態に気付く。急いで膝を着いた。
「夏侯惇殿!」
夢でも見ていたかのように、夏侯惇は呆然としている。于禁はそれを見て怪我などが無いかを心配をしていく。だが見たところでは無いようなので、安堵をしていた。
ようやく現実に戻り、体に痛みを感じたところで夏侯惇は于禁の方を見る。
「よかった、お怪我は……」
「于禁」
安心の言葉を発したが、その途中で夏侯惇が中断させた。于禁は咄嗟に口を閉じてしまったものの、どうしたのかと尋ねようとする。そこで夏侯惇は于禁の声を跳ね除け、思いを躊躇なく伝えていく。于禁に触れられない代わりに、まっすぐと視線を浴びせながら。
「于禁、好きだ」
告白はとてもシンプルなものである。しかし于禁にはそれが充分だったのか、目を見開いていて口は半開きだ。数秒の間だけは驚きを隠せなかったが、夏侯惇の言葉を何度も何度も脳内で繰り返していたのだろう。
瞳が正常の動きになったところで、于禁は唇も閉じた。
「私も、貴方を好いております……」
目が濡れていくと、于禁は雨でも振ったかのように涙を流していく。だがこれは悲しみの涙ではない、幸福からくる涙だ。夏侯惇はその于禁の様子を見ながら「ありがとう……」と呟く。
「だからこれからは、俺の前で悲しそうな顔をするな。これからは今のような喜びの涙、あるいはずっと笑っていてくれ」
「……約束を、致します」
于禁の頬が涙に覆われている。夏侯惇はその涙を掬う動作でもしようと、手を伸ばした。するとまたしても触れることができたので、指で涙を拭う。于禁の涙はまだ暖かく、目の前で生きていることを錯覚してしまっていた。皮膚は相変わらず冷たいので、余計に。
夏侯惇の指でさえ濡れていくほどに、長く触れられていた。そこで今が好機だと思った夏侯惇は、于禁の首の後ろを掴むと頭を引き寄せた。
于禁と口付けをしようと、顔を近付ける。すると本当に唇を合わせることができたので、夏侯惇はできる限りキスの時間を長くしていく。
おおよそ三十秒は経過していただろうか。その頃には、于禁の体が透けてしまっていた。悲しみに満ちているのかと思い、恐る恐る于禁の顔を見る。しかし夏侯惇の予想とは大きく外れており、柔らかい笑みを浮かべていた。
「ずっと、その顔で、傍に居てくれ。それだけでいいから」
夏侯惇は乾いてしまった指先を、視界の隅に記憶していく。そして、合わさった唇の柔らかさも。あれが、于禁と唯一繋がることができた感覚である。
恐らくは二度と、于禁とそのようなことができないであろう。夏侯惇はそう決意しながら、于禁にそう告げた。
于禁の笑みが、少しだけ薄れる。躊躇が生まれたようだ。
「いえ、ですが……やはり、良いのでしょうか。私は……」
「俺が好きと言って、お前も好きと言っているから、問題はないだろう? それに俺はあいにくにも、一人暮らしが長い。寂しくないとは言えないが、家に居る時は話し相手が恋しくなる。俺だけに都合が良いようで、悪いが……それだけでいいから、なるべく、居てくれ。好きであれば、どんな存在だろうが俺は構わん」
そう言い切った後の夏侯惇は、仕事やそれに走ったことによる疲れが降り掛かってきた。先程まで、于禁に想いを伝えることだけに必死になっていたからだ。
へなへなと床に崩れ落ちると、今すぐにでも眠りたくなってくる。顔が床に伏せていき、目を閉じかけた。于禁は焦りながら「ここで寝てはいけませぬ!」と強く語りかけるが、夏侯惇に聞こえている気配はない。
諦めたのか溜息をついた于禁は順調に眠っていく夏侯惇を見る。そして「おやすみなさいませ」と呟くと、夏侯惇を部屋の照明が照らしているところを見守っていたのであった。触れることはできないので、その場で寝ている様子を見ながら。

翌朝になり夏侯惇が目を覚ますが、硬い床の上に横になっていた。驚きと、それに体の痛さが湧き起こる。特に後者が酷く、夏侯惇は呻き声を出しながら起き上がる。朝日が、もうじき出る時間であった。
それに、喉の痛みがある。空気が乾燥しているせいだ。
「なんてことだ……」
あと二時間で出勤しなければならない。夏侯惇は小さな絶望を抱えたが、ふと于禁の姿を探す。
辺りを見回すと、于禁が床に伏せて倒れていた。しかしこの景色には慣れてしまったうえに、何もできない。なのでそれを見つつ、着替えを持ってからまずは浴室に向かってからシャワーを浴びた。
「……おはようございます」
シャワーを浴び終えたところで、浴室のドアに手を掛ける。その瞬間に、于禁の声がした。後ろから聞こえた気がするので振り返ると、于禁が目の前に立っている。
少し、元気が無さそうだ。
「おはよう。どうした?」
「あの、申し訳ありませぬ。せめて、寝台にまで運ぼうと思ったのですが、触れられない故に……」
そのことを気にしているのかと、夏侯惇は納得した。だが夏侯惇自身は特に気にしていない。
昨夜はもう少し頑張っていれば、柔らかいベッドで寝られていたであろう。なので夏侯惇は首を横に振るが、すぐに湯冷えしてしまっていた。皮膚に鳥肌が立つと「すまんな」と言いながら、急いで浴室から出る。ワイシャツだけでも着る余裕が無いのか、それを掴みながら。
于禁がもう一度「申し訳ありませぬ」と謝ると、夏侯惇に着いて行った。暖かいリビングに入るなり、ようやく服を着ていく。
ワイシャツを羽織ってからボタンを留めているところで、夏侯惇が口を開いた。
「今日も昨夜くらい遅くなるかもしれない。それでも、帰りを待ってくれるか?」
「勿論です」
「ありがとう……そこまで恥ずかしがることか?」
ボタンを全て留めると、次は下着を履く。気付けば于禁は夏侯惇の姿を見るなり、顔を真っ赤に染めているのだ。おかしくなった夏侯惇は、次第に小さく笑う。
「貴方が……!」
「着替えているか、仕方ないだろう。それに、人がシャワーを浴びていた中に入って来たのはお前だ」
確かにその通りだと、言い返せなくなった于禁が黙る。夏侯惇は更に笑うと、次にスラックスを素早く履いてからジャケットを羽織る。
「朝食は外で食うからな」
床に放り出していた通勤鞄の中身を確認してから、スマートフォンの充電が切れていたことに気付く。それは会社で充電するしかないだろうと、夏侯惇が溜息をついた。だが改札を通る為にスマートフォンは必要だが、充電が切れていても通ることができるからだ。そこは気にしないようにした。
その上に財布を確認すると、紙幣が何枚か入っていた。充分だと思った夏侯惇は、通勤鞄の口を閉めてから手に提げる。
「お気を付けて、行ってらっしゃいませ」
「あぁ、行って来る」
于禁が玄関まで見送ってくれたが、やはり外には出られない。夏侯惇は肩をすくめながら、出勤していった。

約一週間が経過した。于禁には相変わらず触れられず、そして夏侯惇は仕事により家には寝るだけの生活を送っている。付き合っていると呼んでいいのかは分からないが、恋人同士らしいことをほとんどしていない。一応は、ほぼ毎晩「好きだ」と言い合っているのだが。
このような状況だが、夏侯惇には不満があった。于禁に触れることができないことは、分かっている。時折に触れることができるが、タイミングが不明なのだ。しかし于禁曰く、力を込める或いは感情が昂ると触れることができるらしい。
そして現在、夏侯惇は休日であるが昼を過ぎていても寝ている。仕事で疲れているうえに、昨日というより今日の深夜に帰宅していた。早朝前にようやく就寝できていたので、于禁は眠っている夏侯惇を見つめる。
外は雨が降っているので、気温はかなり低い。それも、日付が変わる前からである。
かなり寒いのか、眠っている夏侯惇は時々毛布を被り直していた。だが既に肩からつま先まで毛布に覆われているので、被り直す必要はない。于禁はそれに首傾げていると、夏侯惇が寝言を吐く。
「男二人では狭いな……于禁、もう少し……」
明らかに于禁との夢を見ていることが分かった。于禁は思わず嬉しくなると「私がもう少し、貴方を抱き寄せていれば問題はありませぬ」と、とても小さな声で返事をしていた。

夏侯惇が目を覚ますと、時刻は夕方になる前であった。早朝から降っていた雨は未だに止んでおらず、外に出るのが億劫だと感じる。しかし冷蔵庫にはほとんど何も無く、買いに行かなければならないからだ。浅い溜息をつく。
「お目覚めになりましたか」
寝室の扉をすり抜け、于禁が姿を現した。夏侯惇は「あぁ」と短い返事をするが、あまりの寒さに布団から出ることができないでいる。そういえば、暖房を入れ忘れたからだ。
出勤日はそうではないのだが、休日はいつもこうだ。こうして、せっかくの休日を毎回無駄に過ごしているように感じた。勝手に不貞腐れた夏侯惇はそのまま、布団に潜ってしまう。
「本日は、何かご予定は?」
「無い。寝る」
即答した夏侯惇は、于禁の姿が布団で見えていなかった。なのでどのような表情をしているのか分からない。そこでハッとした夏侯惇は、がばりと起き上がった。ふと、于禁の悲しげな顔が過ったからだ。
傍に于禁が居るものの、夏侯惇の想像とはかけ離れた表情を浮かべていた。どうにも、楽しそうである。
「……やはり、寝るのはやめた」
「そうですか。ですが、ご無理はなさらず」
于禁の感情は一ミリも下がっておらず、保ったままそう返した。夏侯惇はどうかしたのだろうかと思っていると、そういえば感情が昂ると触れられることを思い出す。なので夏侯惇は手を伸ばし、こっちに来いと静かに合図をした。
特に何も疑問が無いまま、于禁は夏侯惇の元に来る。夏侯惇はそのタイミングで于禁に触れようとしたが、指先は体を通り抜けて冷たい空に触れていた。
「夏侯惇殿……?」
「いや、何でもない」
首を横に振った夏侯惇は寝室のエアコンをつけてから、ベッドに敷いてあるシーツを掴み剥ぐ。于禁の横を通り過ぎて寝室を出た。布団の外はとても寒い。リビングも暖房が効いておらず、短い舌打ちをしてからエアコンのリモコンを手に持つ。運転ボタンを押すと、温度をそれなりに上げた。すぐには暖かい風が循環しないので、夏侯惇は震えながら洗面所に歩いて行く。洗濯機があるので、シーツを入れた。だが洗濯物はそこまで溜まっていないので、洗剤を少量入れる。
身支度を整えた時には、暖かい風が部屋を行き来していた。だが先程よりかは、幾らかは寒くはないという程度。夏侯惇はまだ暖まれない。
腹が減ったので、リビングと同じ空間にあるキッチンに向かう。ここは全く温風が届かないので、冷えた空気が痛く感じる。それは気のせいでしかないのだが、夏侯惇はそうとしか感じられなかった。それくらいに、ここは寒いのだ。
冷蔵庫を開けてから、どれだけ物が無いかを確認する。未開封のミネラルウォーター一本と数本の酒。それに手のひらサイズで箱入りの、六つに分けられている市販のチーズがあったのでそれを取り出した。どうやら未開封であったので、朝食にそれを全て食べる為にリビングに戻る。二人用のダイニングテーブルに向かった。温風が充分に巡っており、とても暖かい。
手のひらサイズの箱に入っているので、すぐに食べ切ってしまった。于禁からは「それだけでは少ない気がしますが」と、指摘を受けると「これしかないんだ」と答える。以降は于禁はその話題をしなくなった。
「やはり、休日は今日しか無いのでしょうか」
「あぁ」
椅子から立ち上がると、空になった小さな箱を持ってキッチンに歩いて行く。キッチンは先程よりかは寒さが消えていた。しかしまだ暖かい風が届いていないので、夏侯惇の肌に薄い鳥肌が現れる。
このまま部屋で暖まっていたかったが、最低でも今日の夜と明日の朝の食料は買いに行かなければならない。夏侯惇は溜息をつくと、外に出ても問題ない服装に着替える為に、寝室に入って行った。
于禁が着いて行こうとしたが「着替えてくる」と夏侯惇がそう一言告げると、すぐに足を止める。背後から于禁の「はい」という声が聞こえると、扉を閉めた。寝室にあるクローゼットを開けてから、適当な服を取り出してから着ていく。服装のおかげで、寒さは和らいだ。
「買い物に行って来る」
「行ってらっしゃいませ」
外に出た夏侯惇だが、そこでふと思った。于禁の未練が消えたら、于禁も消えてしまうのではないかと。幽霊であるために、その可能性は充分に有り得る。
だが未練を本人が話したがらないので、知ることもできない。なので于禁の未練は全く分からなかった。
橙色の空の下、夏侯惇は悩みながらスーパーに到着する。そして結局は最低限の物を買うと、足早に帰宅していった。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
玄関の扉を開けると、于禁がすぐに出迎えてくれていた。夏侯惇は行きに考えていた事柄からして、一人で勝手に安堵をする。そして于禁は変わらず表情が緩んでいた。
靴を脱ぎキッチンに向かうと、買った物を冷蔵庫に入れていく。その隣に于禁が立って見ているが、たまに「もう少し健康的な物を……」や「酒は控えた方が……」と言っている。夏侯惇は適当にそれを流すと、リビングのソファにすぐに横になった。
寒い外とは違い、家の中は暖かい。それに休日だからといって、特に遊びに行く気はなかった。単純に、気力や体力が無いからだ。またしても起床時のようなモヤモヤを抱えていると、于禁が話し掛けてくる。いつの間にか、夏侯惇に覆い被さるようになりながら。
「夏侯惇殿、その……私は見てみたいのです……」
「ん? 何をだ?」
于禁と視線を合わせると、何だか普段とは雰囲気が違う気がした。今日は休日なので、たくさん話せると思ってるいるのだろう。夏侯惇は「どうした?」と笑いながら聞くと、于禁は遠慮がちに答えていく。
「失礼ではありますが、貴方の、自慰をしている様子を……」
「……え?」
予想外の発言であった。思わず起き上がり、暫く瞬きをすることを忘れる。だが瞳が乾燥してから、ここは夢ではなく現実だということが分かった。
夏侯惇としては于禁はとても堅物な男であり、性については疎いというイメージを強く持っている。于禁と出会ったのは、たった数日前ではあるが。
「私は、貴方と同じ性別です。私だって男です。お恥ずかしいことは、承知の上で、好いている相手の、その様子を、見てみたいからです!」
最後は欲求が爆発したのか、躊躇が無くなった。夏侯惇は相変わらずぽかんとしていると、于禁がぐっと顔を近付けた。興奮していることが一目瞭然である。
「ちょっと待て。見て……俺のそれを見て、どうするのだ……?」
夏侯惇は顔が熱くなっていることに気が付く。自身でもよく分からないが、大きな拒否感が無い。
もう一度同じ言葉を吐こうとしたのか、于禁は先程と同じ発言をしようとした。そこで于禁が夏侯惇の股間に手を伸ばすと、触れることができてしまう。驚いた夏侯惇は、体がびくりと跳ねた。
「ッ……!?」
一方で于禁は驚く余裕が無いのか、膨らみ始めた下半身を撫でていく。次第に限界にまで勃起してしまったが、手付きはとても慣れている様子だ。夏侯惇が簡単に達しそうになるくらいに、刺激が強い。
大きな息を連続で吐く。スラックスの中で窮屈になり、下半身に痛みと気持ち良さが同時に襲い掛かってきたからだ。
「夏侯惇殿……」
誘惑するように囁くと、夏侯惇は于禁の手首を弱く握るのみ。力は入らず、まるで煽っているようだ。
そうしていると、残念ながら于禁の体が透けてしまう。悔しげに舌打ちをした于禁だが、夏侯惇は体がもたなかった。小さな声で「着いてこい……」と言うと、ふらふらとしながら立ち上がった。于禁は「はい」と即答する。
夏侯惇は手洗いへとゆっくり歩いて行く。辿り着くと夏侯惇はすぐに下半身を晒すと、我慢汁が垂れていた。それに両手を添えて便器に向ける。
「はぁ、はぁ……っうぁ!」
手の平で全体を包み、しこしこと扱いていった。我慢汁が潤滑油になっており、よく滑る。夏侯惇は自身のよく勃起している性器を凝視していた。すると背後に居るであろう于禁の存在など忘れ、自慰にふける。
性器がこれほどかと思うくらいに膨らむと、便器目掛けて射精をした。溜まった水に、放たれた白い精液がどんどん侵食していく。
そこでもう良いと思っていたが、勃起はまだ治まらない。
「貴方は、裏筋や先端がとても弱い」
夏侯惇の痴態を無言で見ていた于禁だが、そこで助言をする。この勃起をどうにかしたい夏侯惇は于禁の言う通りに、裏筋を指先でなぞってみた。すると夏侯惇は「ひぁ!?」と高い悲鳴を上げ、脚が強張ってしまう。そしてがくりと転びそうになった。
だが先程の快楽が忘れられなかった。もう一度、裏筋を指先でなぞる。強い射精感が込み上げた。
「ぁ、や、あ……うきん、おれ、きもちよすぎて。だめになりそう……」
「このまま、駄目になって下され。本来の貴方は私に抱かれて、狂う御方……」
于禁が耳元でそう促すと、夏侯惇は自然と性器の先端へと指先を移動させる。
「そこは、手の平を捻じるように押し付けて」
「ん……」
この冷たい空気など溶けてしまうかのように、夏侯惇の喉から熱い息と声が出る。そして手の平で先端を捻じると、精液が飛び出てしまった。手にべとりと精液が付着したが、夏侯惇は構わず性器を弄り続ける。
「ほら、好いでしょう?」
「ん、んぅ……は、ぁん……ん……」
夏侯惇は肯定の代わりに、遠慮がちな喘ぎ声を出した。今までで一番、頭がおかしくなりそうになっている。しかし于禁が触れることができれば、これよりも更に善がってしまうだろう。そう思うと、夏侯惇は興奮に震えた。
性器を弄り続けていくうちに、夏侯惇はもう一度果てる。すると性器が萎えたので、狭い壁に背をつけた。息を切らし、精液に塗れた手の平を見つめる。
途端に冷静になると、夏侯惇は手の平だけではなく、便器も精液に溢れている光景を見下ろす。ここまで出したのは久しぶりだが、溜息を吐いた。まずはこの状況をどうにかする為に、降ろしたスラックスを上げたい。しかし手が汚れているので、どうすることもできない。
「……片づけなければ」
「その……夏侯惇殿……」
于禁も落ち着いたらしく、夏侯惇を心配そうに見る。申し訳無さそうな顔をしていた。
幽霊なので何もできないのではいかと、夏侯惇は言いかけた。しかしそれをぐっと堪えると、まずはトイレットペーパーで肌に付着した精液を拭う。手の甲でレバーを操作して精液を水で流す。手洗い管から出る水で手についた精液を落とすと、もう一度手の甲でレバーを動かして水で流した。後は手をもう一度、ハンドソープで洗うだけだ。
トイレのドアノブも手の甲で降ろし、ドアを開く。そして洗面所で水を出し、ハンドソープで何度も泡で何度も擦ってから水で洗う。
だが何だか気持ちが悪いので、下着とスラックスを変えた。
「疲れた……」
そう呟くと、タオルで手を拭いてからリビングではなく寝室のベッドにうつ伏せになり倒れ込む。その前に洗濯済みのシーツを敷こうとしたが、面倒になっていた。皺だらけのまま、ベッドに乗せるのみ。射精後の酷い倦怠感により、何もする気が無くなっているからだ。
夏侯惇の顔の赤色は、すっかりと引いていた。寧ろ疲れなどが原因により、若干青っぽい。毛布を体に引き寄せる。
「申し訳ありませぬ!」
于禁は膝を床に素早く着けると、頭を下げて土下座をしようとしていた。夏侯惇はそこまでしなくても良いと、毛布に包まっていた体を無理矢理に動かしてそれを止める。
「そこまでしなくとも良い。顔を上げろ。俺が……気持ち良かったから、気にしていない……」
「な、なんと可愛らしい……! ハッ!? いえ、何でもありませぬ!」
頭を上げた于禁は、反射的にそう言ってしまったらしい。口元を抑えるが、そのようなことをする意味などない。思わず夏侯惇は小さく笑うと「隣で横になれ」と命令する。シーツをポンポンと叩く。于禁は確実に返事してから、夏侯惇の隣に横になった。
陽が沈み始めているので、寝室は薄暗くなりつつある。夏侯惇はぼそりと呟くが、それはまるで祈りのようであった。
「ずっと、消えてくれるなよ」
「勿論です」
はっきりと于禁が返事をしてくれた。確証は無いし、于禁は生身の人間ではない。そうであるのに、嬉しくなった夏侯惇は重い体を仰向けにしていく。
毛布を于禁に掛けてやるが、やはり空洞ができてしまう。しかし暖房がそれなりに効いているので、ずっと毛布に包まれている必要はない。
「しばらく寝るから、おやすみ……」
白色では無くなってきている天井を見つつ、夏侯惇は瞼を降ろす。隣にいる于禁から「おやすみなさいませ」と返ってくると、夏侯惇はそのまま眠っていったのであった。
夏侯惇本人としては二、三時間程度の睡眠のつもりで眠る。だが結局は朝まで眠ってしまったのであった。