二…偶然から
蔡文姫に間違えたという冊子の入った封筒を返し、資料を受け取ってから数日後、その間に于禁はデビュー本発行のための校正や修正の繰り返しの作業が始まった。蔡文姫から受け取った資料は、大いに于禁の役に立っている。少し前までは現役の弁護士だったとはいえ、過去の全ての事件の内容や裁判の結果を把握している訳ではない。なので于禁はその資料をありがたく利用していた。
締め切りは約一か月後。于禁は自身がまだ新人とはいえ小説家になろうとは、今でも信じられないらしい。だが今は存在する締め切りに追われているために、それを考える心の余裕は無かった。
同時に本の装丁を出版社に何度も赴いて打ち合わせをして、ようやく表カバーのデザインのイメージが固まる。于禁の書いた小説の内容からして、暗い色で重い雰囲気のものにしようということになったが。なのであとは于禁からできる限りのイメージを伝えるとそれを元にデザイナーに依頼することになる。
以前のように規則正しい生活リズムを維持はしている。疲労や睡眠不足による仕事のパフォーマンスが低下することは、長年続けていた弁護士から職業が変わり、新人の小説家になっても分かりきっていることだからだ。
以前のように朝七時前に目を覚ますと八時までに、身支度をしてから朝食とそれに昼食を作ってからを取る。それからは一〇四時まで原稿に向かうが、その間に一定の時間が経過すると、数分の休憩を挟みつつ昼食を取る。それからは一旦外に出て散歩がてら買い物に行き、一〇七時から夕食を作り一〇九時までに食事を済ませ、二〇時までに入浴を済ませると、日付が変わるまで再び原稿に向かってから就寝をするという生活である。于禁は脳内にその基本的なルーティンをすぐに組み込む。原稿に向かう時間を決めた方が、きちんと集中できるうえに守らなければならない締め切りを守れると思ったからだ。
なので毎日そのルーティンをこなした結果、おかげで締め切りまであと三週間という余裕を残し、原稿の修正作業はほぼ終わらせた。残りはあと一〇ページ分の修正である。出版社からの校正の指示を少し受けつつも。担当編集である蔡文姫がかなり驚いていたし、それに編集長である夏侯惇がたまたま編集部に居たが驚いたような顔をしていた。因みにだが于禁は出版社へ赴いた際に先日のことを謝罪しようとしたが、夏侯惇にはそれを聞く暇が無かったらしい。于禁の原稿の進捗を聞くなり、どこかへ急いで行ってしまっていたが。
その日の夜、于禁は今の自身のことを考える余裕ができたらしい。エアコンの効いている涼しい部屋から、わざわざ少し暑いベランダへと出て物思いに耽る。夜明けまで絶対に残る、賑やかで眩しい夜景を見つつ。
自分はこのままでいいのだろうか。一応は小説家になる訳だが続くのだろうか、という不安が一気に押し寄せた。デビュー作が売れなかったら、恥を捨てて弁護士に戻るしかないと于禁は思い、苦い顔をしながら俯く。だが街の明かりは俯いていても視界に入るので、とても眩しかった。なのでそれを鬱陶しく思いながら。
「随分と余裕そうだな」
いつの間にか隣の部屋の夏侯惇がベランダに出ていた。その声を聞いて于禁は顔を上げる。夏侯惇はかなり疲れた顔をしているうえ、未開封の酒瓶を持っていた。ここで今、呑むつもりなのだろうか。
今の于禁の精神には少しのヒビが入っている。勿論、修復は早いがそれでも于禁はつい口を滑らせて弱音を吐いてしまう。このような時間で、しかも相手が年上で、立場が上である夏侯惇が今の話し相手だからか。
「夏侯惇殿……小説家という職業が、いかに難しいものなのかは分かっています。今まで何年も『真実』を仕事にしてきた私がそれとは全く逆であるもので仕事をしていけるのか、とても不安になってきまして……」
「まぁ、やってみればいいだろ。まだ本も出ていないのに、俺がそんなの分かる訳がない。それより、グラスを持って来い。一杯付き合え。俺は疲れてるから、早くしろ」
夏侯惇は軽くそれを受け流すと、于禁にそう無理に急かした。溜息をついた于禁は、仕方なく部屋に戻るとキッチンからグラスを取り出しベランダへと急ぐ。その間に酒瓶を既に開封して自身のグラスに注いでいた夏侯惇は、于禁を待っていた。于禁は空のグラスを夏侯惇に向けると、それに並々と注ぐ。
「ありがとうございます……」
「ん」
小さく静かにグラスをぶつけると、夏侯惇は一気に喉に流し込む。そして「おやすみ」とだけ言って部屋に戻っていった。一方の于禁は口に酒を含んでいる最中であったので、何も言えず一人残される。だが注がれた酒はかなり度数の高いものである。于禁は顔をしかめながらも、それを捨てるのは申し訳ないと思い、ベランダで絶えない夜景を見ながら時間をかけてようやく飲み干せていた。
すると心が少し軽くなったような気がした。夏侯惇から注がれた酒を呑んで酔い気味になったせいであるだけだが。
于禁は部屋に戻り、キッチンで空になったグラスを水で洗い流した後に、一杯分の水を一気に飲んだ。ふらついた足取りで暗い寝室に入りベッドに横になる。
近くのデジタル表示の目覚まし時計を見た。まだこの時間帯は、原稿に向かうときである予定だというのに、于禁は眠りに就こうとしている。時にはこのようなことがあってもいいだろう、と簡単に諦めると、そのまま瞼を閉じたのであった。
翌朝、于禁はまたいつもの時間に目を覚ますと朝食を取って校正作業をする。ノートパソコンを起動させた際、夜遅くに蔡文姫から簡単な校正についての内容のメールが来ていたので、それに返信した。
「やってみないと分からない、か……」
于禁は昨日の夏侯惇の言葉を数回反芻させると、ゆっくりと深呼吸させてから修正作業を始める。
だが残り僅かであったので、昼前の時間に修正作業を全て終わらせることができた。于禁は喜ぶ表情を作るよりも、大きな溜息を先に出す。
締切までは日数からしてかなり余裕があるが于禁はデータをきちんと保存すると、それを蔡文姫に送信してから立ち上がって体を伸ばす。体が感じたことの無いくらいに軽い。そこでようやく達成感を味わうことができたらしい。頬を僅かに緩ませる。
「本が発売してから、今後のことを決めよう」
上機嫌な様子の于禁が一人でそう言うと、昼食を取るためにキッチンへと向かったのであった。
そして夕方に差し掛かったところだろうか。于禁はもうすることが無いと、室内でできる筋力トレーニングをしていたところである。ある程度区切りがついたところで、スマートフォンにいつの間にか通知が入っているのでそれを確認した。相手は蔡文姫である。
内容は『完成おめでとうございます! 締切まで余裕のある原稿の提出は珍しいので、本当に驚いています。本の発行まではまだ時間がかかるので、それまではお待ちください』というものである。
実際に、本の発行までは数週間ある。それまでは于禁はすることが無いので新聞や本を読みつつ室内で筋力トレーニングをする日々が続いた。その間に于禁は、新しくついてしまった癖なのか、思い付いたことをメモしていく。恐らく、デビュー本を最後に小説家としての生活は終わると考えていながらも。
于禁のデビュー本が発売するまでもう少しである。日中に出版社に行き、見本を蔡文姫から「おめでとうございます」という言葉と共に受け取る。特に何の変哲もない文庫本ではあるが、手に取ると何故だかかなりずっしりしていると感じる。于禁自身の様々な思いが、かなり詰まっているからか。
すると于禁の気持ちが自然と大きく変わっていった。この重みを感じるのは、とても心地が良いと思えてきたからか。
「蔡文姫殿、またよろしく頼む」
于禁は自身の本を鞄に大事に仕舞うと、蔡文姫にそう言って出版社を出た。デビュー本がそれなりに売れ、二冊目を出せるようにと願いながら。
この日の夜、于禁はベランダに出て相変わらず静寂とは無縁の夜景を見る。だが今夜は涼しく、冷たい風が吹き心地良かった。
「ようやくだな、おめでとう」
疲れた顔をしているスーツ姿の夏侯惇が、ベランダに出ていた。于禁はその声に顔を向ける。
「ありがとうございます」
「多くの読者の手元に、渡るといいな」
「はい」
すると夏侯惇が前と同じ銘柄の未開封の酒瓶を于禁に見せながら「グラス」と言うので、部屋に戻ってグラスを取りに行った。ベランダに戻るとやはり夏侯惇はその間に酒瓶を開封してしまっていて、夏侯惇が持っているグラスに注いでいる最中である。
「……あの、申し訳ないのですが、それは度数が高いので、もう少し低いものにして頂きたいのですが」
「んー……また今度な。家にはこれしか無くてな」
「では、私は少量で構いませんので」
注ぎ終えた夏侯惇は、次に于禁のグラスに酒を並々と注ぐ。于禁の先程の言葉など、聞いていなかったのか、あるいは忘れてしまったかのように。なので于禁は顔をしかめながら、注いでもらった礼を述べた。
「……そうだ、俺と連絡先を交換しないか? これも何かの縁だからな」
何かを思い出したように夏侯惇はそう言ってスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。一方の于禁は部屋にスマートフォンを置いているので、グラスを片手に取りに行く。編集長でありマンションの隣室の住民である夏侯惇と、連絡先を交換するのを断る理由は特に無いと判断しながら。赤の他人でも、警戒すべき相手でもないという理由もあるのか。
スマートフォンを手に取った于禁がベランダに戻ると、早速夏侯惇と連絡先を交換した。しかし交換した矢先に、夏侯惇はグラスに入っている酒を一気に流し込むと「おやすみ」と言って部屋に戻って行ったのであった。
于禁が挨拶を返すと、夏侯惇は背中を見せながら片手を上げてひらりと振るのみ。于禁はそれを見送ると、グラスに入れられた酒を、またしても少しずつ険しい顔をしながら無くしていったのであった。
そして于禁のデビュー本が書店に並ぶ日がついに来た。朝、蔡文姫から「発売おめでとうございます」というメールが来ていたので、于禁はそれに事務的な内容の返信をする。
于禁の他にも数名新人賞を取っている者がいるので、他の新人作家の本も同日に書店に並ぶ。于禁は売れ行きが気になり、近くの大型書店に行ってから手に取って貰えるか見に行こうともしたが、周囲から不審者扱いされる可能性しかないと想像したのか、そのようなことをするのは止める。しかし蔡文姫から何か連絡があったらと思い、落ち着きを無くしながらスマートフォンを頻繁に確認していた。朝から昼までずっと。
だがこのままではよくないと思った気を紛らわす為に室内で筋力トレーニングをしていると、いつの間にか夕方になっていたらしい。于禁は謎の安堵の息を漏らすと、夕食の準備の為に買い物に行こうとする。だがその前にスマートフォンを確認すると、夏侯惇からメッセージが入っていた。
内容は『発売おめでとう。夜遅くの何時になるか分からないが、祝いに俺の部屋で呑まないか? 前のものよりも度数の低い酒を用意しておく』とある。于禁は特に断る理由も無いし、寧ろ世話にもなったのでそれにすぐに了承の返事を送った。
「夏侯惇殿だけに用意させるのは悪いので、私も酒と肴を準備しておくか……」
夕食を作るという行動はキャンセルした。だがそれでも、時間帯からして客の多い近くのスーパーに行き、夏侯惇でも満足しそうな度数の酒と、適当なつまみと軽い食事を買うとすぐに帰宅する。まだ夜と言える時間に差し掛かったばかりではあるが、先程買った軽い食事を胃に入れて夏侯惇の帰宅と連絡を待っていた。
数時間後、于禁は暇潰しにと今までメモしていた事柄を纏めているとようやく夏侯惇から帰宅したというメッセージがスマートフォンに入る。現在の時刻は二〇一時。于禁はそのメッセージを確認すると、買っていた酒とつまみの入ったエコバッグを手に持つと玄関を出て施錠し、隣の夏侯惇の部屋のインターフォンを鳴らす。数秒後に解錠音が聞こえると同時に、玄関の扉が開いた。夏侯惇はスーツ姿である。
「遅くなってすまんな」
「いえ、お気になさらず。お疲れ様です、本日はお招き頂き……」
「あー、長くなるからそのようなことはいらん。ほら、さっさと入れ」
夏侯惇はうんざりとしたような表情で于禁の挨拶を止めた。それに対して不満げな表情を見せる于禁は、夏侯惇に促されたので靴を脱いで上がるとリビングに入る。「お邪魔します」という言葉と共に。
入るとすぐにリビングがあり、テレビやテーブルや、真ん中にソファがあるが、どう考えても体格の良い男二人で座るには無理がありそうな大きさだ。そして広さは当たり前なのだが、于禁の部屋と構造は同じである。
自身の部屋と構造は同じなので少しだけ奇妙な気分に浸った後に、キッチンに向かう。テーブルの上にある酒瓶が数本とグラスがきちんと二つ置いてあるのを見た。だが酒瓶をよくよく見ると、前に呑んだものと同じ銘柄であったので、于禁はエコバッグから持参した酒を取り出してテーブルの上にアピールするように置く。これを先に呑んでしまえば、夏侯惇が用意している酒を呑まずに済むと考えて先手を打って出た。
「おっ、持って来てくれたのか。わざわざすまんな」
機嫌の良さそうな笑みを浮かべながら、夏侯惇は于禁に礼を言う。それに調子を良くした于禁は、つまみも取り出してテーブルの上に置いた。
「気が利くな。ほら、早速呑むぞ!」
夏侯惇自身が用意していた酒瓶を素早く開封した。于禁はそれに気付くのが遅かったらしく、苦い顔をする。
「あっ、お前にはこれがきついとか言っていたのを忘れていた。すまん。だが開けてしまったのは仕方ないから、空にしてからお前が持って来てくれたのを呑むぞ」
ようやく気付いた夏侯惇は半笑いでそう言うと、于禁のグラスに先に度数の高い酒を注いでから自身のグラスに酒を注ぐ。于禁は溜息をつきながら注いで貰った礼を述べた後に、夏侯惇と乾杯をした。
酌み交わしている最中の二人の会話は、最初は夏侯惇が于禁に本の発売の祝いの言葉を簡単に述べた後に職業柄、どのような心境で書いたのか、苦労した部分はあるのかを質問してきていた。そういえば誰にも、担当である蔡文姫にさもそれらを話していないことを于禁は思い出していたが。
なので于禁は度数の高い酒をちびちびと喉に流しながら、それに真面目に答えた。同時に夏侯惇も酒を喉に流すのだが、やはり于禁よりもペースが早い。
すると于禁への今の仕事の質問から、次第に夏侯惇の仕事の愚痴へと変わってきていた。かなり酔いが回ってきているのか。
「なぁ、聞いてくれよ、この間な……」
営業部の楽進という社員が営業先であまりない失敗をしたもの、別の部署の担当編集の李典という社員が夏侯惇に渡す書類全てにコーヒーでびしょ濡れにしたこと、郭嘉という社員が取引先の女性社員を業務中にも関わらず口説いていたこと。
とにかく色んな愚痴を聞かされた。于禁はどれも実際にありがちなものばかりだったので、適当に相槌を打っていたがその中で一つ耳を疑うような愚痴を聞く。
「孟徳がな……あ、孟徳というのは俺の幼馴染でうちの代表取締役社長だけどな、とにかく前から食い物の好き嫌いが多くて困るんだ……どうしたら直してくれるのか、あいつは……」
于禁は聞き直そうとしたができない程に体を硬直させた。そしてどう返事すれば良いのか分からずに、幾つか候補に上がっている言葉たちを脳内で様々な方向に泳がせるしかないでいる。
「あの……」
「まぁ、色々と苦労もするが、それでも俺は、今が一番楽しい」
夏侯惇は笑いながら酒を喉に再び一気に流し込んだ。その様子を見て、于禁も釣られてか自然な笑みを浮かべる。こういう表情筋の使い方をするのは久しぶりであるので、ぎこちないという自覚はあったのだが。そして、夏侯惇の言葉の最後の「楽しい」という言葉が印象に強く残りながら。
「まぁいい。ほら、お前ももっと呑め! 俺は明日は休みなのだからな、もっと付き合え!」
于禁は自身の祝いの為に酒を呑んでいるのではないのかと、そう言いかけたが喉のあたりで止めた。ここまで楽しそうに酒を呑んでいる夏侯惇に、それを言うのは妥当ではないとすぐに判断したのか。そして自身を祝って貰う為ではなく、夏侯惇に付き合う為にと于禁は間一杯目すら飲み干していない酒を、一気に煽ったのであった。度数の高さに于禁は盛大に咳こみ、夏侯惇はそれを見ても気にせずに更に「もっと呑め」と促していたが。