祈り
囚人の男が塀の中に入ってから、二年が経過しようとしていた。ここから出ることができるまで残りが約一年となると、普段は冷静であった囚人の男は落ち着かなくなる。あと一年という言葉は、聞くだけでは一瞬だけ短く思えるからだ。よく考えてみれば、カレンダーを一冊を丸々消費してしまう長さである。やはり短くはなく、うんざりとした。
父親からの手紙の文章に目を通しながら、囚人の男はそのことについて考える。しかし内容が頭にあまり入らないのか、視線が同じ行を何度も往復した。その度に目が泳ぎ、冷や汗を大量に流す。
いつもはサングラスの男はその様子を凝視しない。これは実質、貴重な親子水入らずの時間だと思っているからだ。だが今回ばかりは囚人の男の方を見ると、手紙を読んでいる最中なのにも関わらずいつもの口調で話し掛けた。
「……それは一旦刑務官に預けて、後で読むか?」
囚人の男の考えまでは分からないのだが、落ち着かないということだけは分かったらしい。サングラスの男は静かに、アクリル板に一時的に貼り付けている手紙を見やる。しかし女は状況が分からないのか、二人に疑問を連続で投げかけた。
「えっ? もしかして梶間さん、今日は体調が悪いんですか? だったら……」
「いや、体調は悪くないよ水木さん。気を遣ってくれてありがとう」
微かに微笑んだ囚人の男は、否定をしてからサングラスの男の方へと視線を移した。提案に対して「今回だけはそうする」と答える為に。
女は何かを言うこともなく「はい」と返事をして手紙を剥がすと、封筒に丁寧にしまってからテーブルの上に置く。サングラスの男はその一連の動作を、淡々と見ていた。このときの面会室の空気は、夜の真冬の海のように冷え切っていると囚人の男は錯覚している。灯りはあるがそれでも暗く、そして心臓の鼓動が荒く打つ波のように大きく聞こえたからだ。
それを聞きながら、囚人の男は何とか読み取れた内容の一部を話していく。その内容は、二人に話しても問題ないと判断したからか。
「……出所した次の日に、父が東京に迎えに来てくれると手紙に書いてありました」
「えっ!? それなら、長野に帰るまでどこか遊びに行きましょうよ!」
女がそう言うと、囚人の男の中に存在していた筈の夜の真冬の海が、一瞬にして消え去った。冬が褪せて太陽が昇り、穏やかな波がゆっくりと寄せては返していく。つまりは、囚人の男はとてつもなく嬉しかったのだ。そのようなことを提案されると思っていたとしても。
女の隣に座っているサングラスの男は勿論、賛成と言った。続けて何かを言おうとしたが、囚人の男はそれを遮ってから関連した内容を伝える。
「新幹線などの都合で、翌日でしか迎えに来られないらしいですが、父がビジネスホテルの部屋を取っておいてくれています。つまり僕は、野宿をせずに済みます」
自然と顔が緩むと、人と心から楽しい会話をしていると気付いた。しかしそれを止めたくはないので、話の花弁をどんどん開かせていく。
「架川さん、決着をつけましょう。蕎麦かパスタか、それともラーメンのどれが一番かを」
「おう、勿論だ!」
三人の顔が綻んだ直後に、サングラスの男は疲れた顔を見せる。今まで見せていた顔は、無理矢理に貼り付けていた通常のものらしい。
マル暴に戻ったことにより、激務に追われていると予想する。なので女とそれに囚人の男は「お疲れ様です」と言うつもりであった。しかしサングラスの男の小さな叫びにより、それは喉の奥に押し戻される。
「……今日の朝な、俺は襲われたんだ」
二人は同時に「えっ?」と聞き返すと、サングラスの男が言い直そうとした。だが「『えっ』って言うな!」と吐き、話を続ける。その時の三人の雰囲気には、とてつもない緊張が走っていた。
「朝に仕事が終わって家に帰って、それで風呂に入ろうとして、入浴剤入れたけどな、間違えて乾燥わかめを入れていた。仁科がくれた、乾燥わかめだ。浴槽に入ったら背中にわかめがべっとり……わかめに襲われた……」
「どうでもいいです」
囚人の男は最後まで言わせなかった。言葉の通りに、心底どうでもいいからだ。サングラスの男はその態度に怒っていると、女はまずは何故仁科から乾燥わかめをくれたのか聞く。
曰く、先日に桜町中央署へとちぇりポくんの着ぐるみを拝みに行った。しかし着ぐるみはクリーニング中で無かったので、しょんぼりとしながら出る直前に仁科とたまたま会う。その際に白いコートの礼にと貰ったらしい。段ボール箱一杯に詰められた、大量の乾燥わかめを。
「そのわかめはどうしたんですか?」
「一つも残さず掬って、洗って……今は冷蔵庫に入れてある……」
サングラスの男の顔色がどんどん悪くなっていく。それを見ると、囚人の男はおかしさに大きく笑った。さすがに初めて見るその様子に、二人は驚きを隠せないようだ。口を半開きにした後に、サングラスの男は言葉を付け足す。
「だが、ひとつまみしか入れてなかったから俺は助かった」
笑いが落ち着くと「そうですね」と囚人の男が呟く。笑み以外の表情に変えられないのか、口角が平行になっていく気配がない。
すると女は腕時計を見て、現在の時刻を見てハッとしたらしい。「今日はここで失礼します」と言って、パイプ椅子から立ち上がろうとする。そこで囚人は急いでいることを承知の上で、女を引き止めた。
「……水木さん、最近は凄く活躍してるって聞いたよ。先日、矢上課長が面会に来て、水木さんのことを話してくれたんだ。これからも頑張ってねシン・エース」
「はい!」
サングラスの男が女に「いい返事だな」と軽く笑うと、一番先にパイプ椅子から立ち上がる。
「……あと、一年だな。待っているぞ」
「はい」
囚人の男は穏やかな表情で首を縦に小さく振った。次に女が封筒を持って立ち上がると、二人はゆっくりと面会室から退室していく。それを見送った囚人の男は「一年か……」と呟く。今までの約二年間は、それなりに長いと思っていた。しかしあと僅か一年だと改めて思うと、思考が明るい方向に働いていく。二人と話したおかげだろう。
今までのことを少し振り返る。思えば二人との面会が、一番楽しみにしていた。父親や前の居場所の上司との面会も楽しみであったが、それ以上である。共に過ごした日は、それらの人物たちより一番短いというのに。
すると囚人の男はそっと瞼を閉じて、慣れないながらも強く祈った。二人に何か、悪いことが降り掛からないようにと。数秒後に瞼を開けると、その祈りは確かに二人に届いた気がしたらしい。刑務官の指示を受けながらも、囚人の男は優しい笑みを作っていたのであった。