それでも、変らない。 - 7/11

残る跡と残らない跡

刑務所に入所してから一年半を迎えるまで、残り数週間となっていた。囚人の男はようやく折り返しか、と面会室にある壁のような大きさのアクリル板を緩やかに見る。あと何回、この部屋に入る機会があるだろうかと思いながら。
数分経過してからサングラスの男とそれに女が入室すると、いつものように囚人の男の父親からの手紙を開封していった。
父親からの手紙は毎回、桜町中央署で勤務し続けている女宛に送られて来ているらしい。それから本来の宛先に、直接持って来てもらうという経路。
もしも息子である囚人の男へと直接送ると、獄中生活が寂しいものになると想像していたからだと考えていた。普通ならば本人に直接送るものなのだが、ただの親としての無駄なお節介だとは自覚している。それでもだ。
囚人の男の父親にまだ濡れ衣を着せられていた頃、サングラスの男が面会に来ていた。そして本当の名前ではなく、なりすました存在としての名と写真を見せてくれている。それで分かったらしい。自身を助けようと鬼になっている最中の息子にでも、親しい人間が居ることを。
手紙を送った人物に負担を掛けることになるが、会う機会を少しでも増やしてやりたかった。それに手紙を送った相手は警察官なのだから、刑務所側から怪しまれる心配もない。内容は一般的な内容であり、犯罪を仄めかすことなど一切書かれてはいないからだ。
囚人の男の父親はそのような思惑があったが、誰にも話していない。誰にも話すつもりはない。
面会室に居る人間全員がそのようなことなど知らず、囚人の男は手紙を読み終えたという言葉を出す。女は手紙を丁寧に畳むと封筒にしまう。だがその時の表情は暗く、沈みきっていた。
隣に座っているサングラスの男は、横目でふとちらりと見てそれに気付く。差し出された封筒を受け取りながら「体調が悪いのか」と不安げに聞いた。しかし女は無言で首を小さく横に振る。囚人の男も同じように案じると、女は同様のリアクションを示した。
サングラスの男が「無理をするな」と言いかけたとき、女が顔をゆっくりと上げて口を開いた。何かを決心したように、かなり重々しい。女の口の周辺の筋肉が強張ったように動かし辛いのか、口が上手く開閉できないでいる。
「……実は、この前、初めて父と……面会をしました」
女は再び俯くと、声が震え始めた。だが泣いている訳ではないので、鼻を啜る音等は聞こえてこない。言葉の最初の時点で思わずサングラスの男はハンカチを取り出したが、用が無いが一旦自身の膝の上に置く。一方で囚人の男は身を乗り出してアクリル板へと、ぐっと近付いた。真剣な顔をしている。しかし囚人の男は何かをしても、どれも意味のない行動にしかならないのだが。
二人は、話を聞く態度を取る。
「今でも、父の手に手錠を掛けたことを覚えています。私のこの手を見ただけでも、その光景が脳裏に鮮明に過ぎってしまって……あっ、ごめんなさい。お二人に、変なことを、話しちゃいましたね……」
囚人の男は優しく否定すると「そんなことはないよ」と言った。
「……多分それは、誰にも話せないことだと思う。話したところで、水木さんの傷は深くなっていくだろうから。でも、それでも、僕たちに勇気を出して、話してくれてありがとう」
目の前のアクリル板が憎いと、囚人の男は思える。正義を貫いた結果、自身だけではなく目の前の後輩にまで大量の泥を被ってしまった。しかしこの泥が落ちても、せめてアクリル板越しの後輩だけは綺麗になって欲しいと願う。泥の跡など、一切残らず。
するとサングラスの男は、囚人の男とそれに女の似たような苦しみを今知ったらしい。だが自身は二人にとってはいわゆる『アウトサイド側』の人間でしかないので、サングラスの男は二人に何もできる筈が無い。
三人の間にそれぞれの苦しみの連鎖が生成されると、一時的に面会室の空気がかなり重くなった。正直、錯覚抜きに押し潰されそうである。
「すぅー……」
耐えかねた女は元演劇部だと言って、前のように何かを憑依させるような動作を行う。無理矢理にスイッチを入れると、女は言った。
「私はシン・エースなので、サイ○リヤの間違い探しが解けます!」
「あぁ、前にお前が遅刻したときに言ってた、サイヤセンな」
「架川さん、サイ○リヤです」
囚人の男はサングラスの男に訂正を入れると、途端に面会室の空気が軽くなった。信じられないと思っていると、女がスマートフォンを取り出す。その間違い探しの絵の写真を撮ったのか、見せようとしている。
「その前にエース! あなたなら、一分で分かりますよね?」
少しの操作をしてからスマートフォンの画面を見せるが、そこには女がちぇりポくんの着ぐるみと楽しそうに写っている写真であった。完全に見せる写真を間違えているが、女は気付かない。囚人の男はぽかんとしながら「ちぇりポくん……?」と小さく呟くと、サングラスの男がもの凄い勢いで食い付く。
「何!? ちぇりポくん!? ……おい、水木! お前だけずりぃぞ! どこで撮ったんだ!」
サングラスの男が女が持っているスマートフォンを奪う。そして女ではなく隣に居るちぇりぽ君を拡大させた。
「えっ? 少し前に、桜町中央署の交通安全のイベントで……」
「どうして俺に言ってくれなかったんだ! くそ! ちょっと桜町中央署に行ってくる!」
怒り混じりに怒鳴ったサングラスの男が立ち上がると、スマートフォンを女に返す。そして面会室をそそくさと出て行った。相当、真剣にちぇりポくんのことが好きだから故に。
囚人の男は閉まった面会室の扉を見てから、未だにパイプ椅子に座っている女に話し掛けた。
「また、辛いことがあったら僕に話してね。何も……できないと思うけど……」
「はい。ですが、私……いえ、私たちにも、何かあったら話して下さい」
思わず女は流れ出そうな涙を堪えた。ここで我慢できなかったら、泣き崩れてしまう可能性があると思っているからだ。女は手のひらを強く握ってから立ち上がると、囚人の男に丁寧にお辞儀をする。
「また来ます」
「うん、また来てね」
扉を開ける前にも再びお辞儀をした女は、面会室を出る。すると囚人の男は、閉まった扉をしばらくぼんやりと見ていたのであった。二人の跡形もない景色を、目でしっかりと捉えながら。