水は渇く
夜明けを幾つも越え、いつの間にか季節は真夏へと入っていた。
囚人の男は刑務官と共に歩きながら面会室に向かい、入室する。だが扉が閉まる前には、刑務官はすぐさま退室していった。面会を希望している相手を知っているからか。
「よぉ」
今回はサングラスの男だけが面会に来ているが、かなり久しぶりである。曰く、追っている反社会的勢力に動きがあったかららしい。だが結局は、尻尾の先端も掴めなかったのだが。
サングラスの男は毎回手ぶらで来るのだが、今回は何かが入っている茶色の紙袋を提げていた。サイズはA4サイズの書類ならば、簡単に入る程の大きさである。それに上手くいかなかったことのせいなのか、片手にはちぇりポくんの小さなぬいぐるみを大事そうに握っていた。実にアンバランスな光景である。囚人の男にとってはそれを見慣れていて、動じることはない。
囚人の男はそんなサングラスの男に会釈をすると、今回はどんな用かと溜息混じりに尋ねた。
「……お前の親父さんの裁判が、全部、終わったんだ」
サングラスの男は声を伏せるように言う。特にやましい会話の内容ではないが、自然とそうなったのだろう。囚人の男はそれを見て「架川さんらしくない」と薄く笑った。
それに対してサングラスの男は「うるせぇ」と軽く怒ったような声を放つと、紙袋から何かを取り出す。
面会室の真ん中にあるアクリル板には、ほんの小さな丸い穴が狭い範囲に何個も空いている。何かを渡すようなことはできない。サングラスの男はそれを知っているので、まずはそこそこ大きな新聞の切り抜きを取り出した。
そこには囚人の男にとっては、一生忘れる訳がない名前や単語が連なっている。その新聞の切り抜きとは、囚人の男の父親の裁判についての記事なのだ。サングラスの男はわざわざ、長野から取り寄せたらしい。
しかし取り寄せたということを口に出さず、サングラスの男は「読みたいなら読めよ」とだけ言う。記事が見えるように、アクリル板に立てかけながら。
囚人の男は目を見開くと、それを必死の形相で読んでいった。わざわざ持って来てくれた礼など、するりと忘れてしまったらしい。新聞の切り抜きの記事には過去の長野県警による不祥事と、とある元囚人の冤罪が見事に晴れたことについて書かれている。
本当は裁判所の傍聴席でいいので、目の前で自身の父親ではないということだけを聞きたかったらしい。だが真犯人を見つけてからすぐに自首したので、そのようなことは叶わなかった。もう少し警察官として足掻いていればよかったと後悔しながらも、記事の一つ一つの言葉を噛み締めながら二度目の閲覧を始める。すると囚人の男からはとても真っ直ぐな涙が流れていった。
「……ここから出たら、また読ませてやる。それまでは、これは俺が預かっておくからな」
囚人の男の様子を見たサングラスの男は、すくすくと芽生えてきた罪悪感を素早く摘み取る。記事を「すまんな」と言いながら取り上げ、紙袋にしまった。この記事を何度も反芻させては、次第に会話ができなくなるだろうと。実際に、囚人の男は大量の涙と嗚咽を吐いていたからだ。
「よかったな、梶間」
記事を紙袋に大事にしまい終えていたサングラスの男は、涙が引く様子のない囚人の男に向けて微笑む。普段ならば「いきなり何か」や「気味が悪い」とでも言われるだろう。しかし今は素直に「はい……」と呟いた。
何もかもが涙で満たされている中で、囚人の男は辛うじて数個の言葉を繋げていく。サングラスの男は、それを決して無下にはせずに静かに聞いた。
「ありがとうございます……! 本当に、本当に……僕は……!」
最後は嗚咽の邪魔により言い切れなかったが、サングラスの男はただこくりと確かに頷く。
そして囚人の男は声や涙が枯れてから渇くまで、ずっと泣き続けたのであった。