それでも、変らない。 - 10/11

いつかの自由

自由に空を見上げられなくなってから、二年半が経過した。
囚人の男は毎朝の点呼の度に、自由への期待を膨らませていく。しかし同時に自由になったら、何をしたいのか分からなくなっていた。しばらくは長野に帰り、親子での時間を過ごすつもりである。牢の中で考え続けてはいるが、それ以降のことは一欠片も思い付かない。
そもそも自身には償うべき罪の形が、酷くぼんやりとしているのだ。三年の間警察官になりすまし、そして父親の冤罪を晴らした。それにより誰かの恨みを買った訳ではないので、余計に人生の視界が霧に包まれていく。
すると膨らんでいった期待が、破裂してしまうのではないかと思い恐怖を覚える。いつ、どこで、どのようにと。
抱えてしまった形の無い恐怖だが、面会のときは心の奥底に押し込んで臨んだ。サングラスの男と、それに女との面会の時も例外ではない。
いつものように父親からの手紙を読み終えると、囚人の男はいつものように礼を言う。女は笑顔で手紙を封筒にしまうが、サングラスの男は「おい……」と呟いた。もしや見破られたのではないか、そう思った囚人の男は内心め身構える。
「聞いてくれ、蓮見」
「梶間です」
いつもは以前の名前と間違えられないのだが、今回は間違えて呼ばれた。囚人の男が咄嗟に訂正をすると、女も同様の気持ちだったらしい。「間違えてますよ」と注意すると、サングラスの男が慌てながら謝る。故意ではないらしい。
サングラスの男はへらへらと笑うと、自身の黒いコートのポケットに手を突っ込む。何かを取り出したいらしい。そこは様々な物が入っているらしく、手で探りながら目的の物を掴んだ。
すると取り出したのは、警察手帳である。
「警察手帳の写真を更新したんだが、また目が半開きになっちまったよ」
「……また、とは?」
間近で見ている女はそれを凝視しながら尋ねた。確かにサングラスの男本人の言う通りに、写真に写っている人物の目が半開きである。
前回のものを見たことはあるが、それも目が半開きであった。女はすかさず自身の警察手帳を鞄から取り出すと、サングラスの男に見せる。しかし至近距離にも程があるのか、サングラスの男の顔に手帳を押し付けているようにしか見えない。サングラスの男ではなく囚人の男が「近い! 近い!」と言った。
「あっ、ごめんなさい!」
女が手帳を離すとサングラスの男は迷惑そうに溜息をつき、ずれたサングラスを直す。
「どうして目が半開きになるんですか?」
女が警察手帳の写真を見せることなく鞄にしまう。囚人の男はアクリル板越しにそれを見てから、首を傾げてそう聞く。
囚人の男自身も、警察手帳に貼る写真の撮影をしたことがある。「顔が正面を向いていない」や「少し視線が逸れている」という注意をカメラマンからされた程度。なので撮影は一度だけで済んでいた。カメラマンからの指示を確実に聞いて実行していれば、まともな写真になるというのに。
「分からねぇ……一〇回くらい撮り直して、カメラ持ってる奴に呆れられて、もう一回撮って終わった……どうしてなんだよ……」
二人はどうにも言えなくなると、サングラスの男は自身の警察手帳を一度見てからしまった。次の更新までは長いが、それも同じような写真になってしまうと囚人の男は思ってしまう。
「サングラスを掛けてていいなら、写真が上手いことになってそうだけどな。そうならねぇかなぁ」
サングラスの男は長時間座っていないのに、そのままの体勢で体を伸ばしながらそう言う。
「そんなことある訳ないでしょうが」
すると囚人の男は女の警察手帳の更新がもうじきあると思い出す。当時はまだ新人であったが、何だか感慨深いと女を見た。将来は自身よりも遥かに活躍する様子を、頭の中で描きながら。なので思ったことを、女に話していく。
「水木さんの写真の更新は、もうすぐだね」
「はい。ですけど私は、架川さんのように目が半開きにはならないので!」
聞き捨てならないことを口にしていたので、サングラスの男は女を軽く睨む。しかし女は前に、短い期間だが署の広報のポスターのモデルになった実績がある。サングラスの男のように写ってしまう可能性は低いだろう。
ポスターの存在を忘れているサングラスの男は「お前が次更新のとき勝負だ」と、争うまでもない勝負を申し込む。女はそれに快諾していた。
「梶間、どっちが勝つと思う?」
するとサングラスの男は、突然に囚人の男にそう話を振る。とても小さな、賭けのようなものを。
だが迷うまでもない囚人の男は、すぐにどちらに賭けるか答えた。
「水木さんですね」
サングラスの男は不満げになり、一方で女は当然だと言わんばかりに笑う。囚人の男はそれにと、理由を言った。今の警察手帳を見れば、一目瞭然だと。
「架川さん、私は必ず勝ちますよ!」
「上等だ! 俺が勝ったら、そうだな……梶間はお前に賭けてるから、俺が勝ったら梶間は一日、俺の言う事を聞いて貰うからな!」
「えぇー……」
自覚をできるくらいに、嫌な顔をしていたのが分かった。しかしそれは一瞬だけであり、嫌な顔は消え去っていく。すると女も「私が勝ったら梶間さんに一日、言う事を聞いて貰います!」と言った。サングラスの男は「真似をするな」と抗議したが、囚人の男は嬉しそうに笑う。
「いいよ、それで」
つられて二人も笑ってから、互いに負けないと言い合う。途中で勝負事ではなくなっているのだが。
そして気付いたのだが、女の写真の更新は長野に帰ってしばらくしてからになる。つまりは、また二人に会っていいということだろう。囚人の男の胸が急激に熱くなっていくと、涙が雨のように落ちていった。
二人は咄嗟にハンカチを取り出すが、アクリル板があるので渡すことができない。肩をがくりと落としているのを視界の端で見てから、囚人服の袖で涙を拭き取る。
「……結果を、楽しみにしています」
幾度も幾度も涙を袖に染み込ませても、枯れることなく涙が溢れてきていた。二人はハンカチをしまうと、パイプ椅子から立ち上がる。もうじき、面会時間が終わるからだろう。
待って欲しい、この時間が終わらないで欲しい。囚人の男は必死に手を伸ばす。次第に指先がアクリル板に触れると、アクリル板越しから二人も手を伸ばした。この透明な壁が無ければ、二人に通常のように近付くことができる。
改めてそれが憎いと思うが、今の立場を考えてから冷静になっていく。流れる涙の量が少なくなっていった。
「梶間、まだお前とは何回も会える」
「そうですよ! これが最後にはなりません! また来ますからね!」
「うん……」
二人が退室すると、囚人の男は次の面会はいつかと思いながら泣いていたのであった。刑務官に何度も、囚人番号を呼ばれてもなお。