それが例え無駄であっても

それが例え無駄であっても

ある晴れた土曜日の朝のことであった。
この日の于禁は休日出勤らしく、起床した時点から機嫌が悪いようだ。その原因はやはり夏侯惇と共に休日を過ごせないからか。昨夜の就寝前は夏侯惇と体を密着させ、機嫌が悪い片鱗も見せなかったというのに。
加えて今夏侯惇にくっ付くと、出社前であるのにスーツに皺ができてしまう。なので于禁はスーツに着替えるのを嫌がっていた。それでも夏侯惇は、于禁を何とか言い包めてスーツに着替えさせていたが。
今は出社するために二人で玄関に向かっていて、一方の夏侯惇は寝間着から軽装に着替えて于禁を見送りしようとしているところだ。
「そう機嫌を悪くするな。明日はお前も休みだろう?」
「明日の一日間だけですが。今日もであれば、二日間であるのに」
玄関へと着いてから夏侯惇はそうなだめるが、于禁の眉間の皺は深くなるばかりである。
だが玄関の靴箱の上の壁に掛けてあるシンプルなデザインのアナログ時計を見て、夏侯惇はそろそろ時間であると促す。なので于禁は数秒の間だけ時計を睨むと重い溜息を吐き、ようやく観念したようだ。革靴を仕方なく、と言った面持ちで履く。
「……行って参ります」
「あぁ、行って来い」
そしてビジネスバッグを片手で持った于禁は、玄関の扉を開いて足取り重く家を出たのであった。

于禁が帰宅したのは、もうすぐ陽が沈む頃。疲れた顔をしながら玄関の鍵を静かに開け、家の中に入ると施錠をする。
「ただいま、帰宅致しました」
そう言いながらリビングダイニングキッチンの空間へと入る扉へと向かう。扉の下の隙間からは部屋の灯りが漏れているので、朝からずっと悪かった機嫌を少し直しながら開ける。
「あぁ、おかえり」
時間帯からして、夏侯惇は夕飯を作っている最中であった。一瞬だけ于禁の方を見ると、その作業に戻る。
夏侯惇は朝から変わらない軽装の上に、黒のシンプルなエプロンをつけていた。コンロには火にかけている途中の鍋があり、夏侯惇はそこから離れた流し台で洗い物をしている。
「夏侯惇殿」
恐らく今日は家から出ることは無いので、于禁は夏侯惇の姿を見た途端にすぐに背後から軽い力で抱き着いた。朝からしてきた我慢など、もうできなかったのか。
夏侯惇は手に付着した泡を水で洗い流し、水を止めてから笑う。
「今日はあなたにあまり触れられず、とても辛かった……」
「俺もだ」
濡れた手を拭うと于禁の腕を振り解き、夏侯惇は一時的な体の自由を得る。そこから夏侯惇は、于禁の方へと体を向けてから首の後に手を回した。于禁の表情から疲れた様子が少しだけ消えていきながら、夏侯惇の背中に手を回す。
「少しだけ、キスしてもいいか?」
夏侯惇は于禁の目を見ながらそう聞くが、互いの身長差からして自然と上目遣いになっている。于禁は一種の眩しさを覚えるとそれを隠して覆うように、返事もせずに自ら勝手に唇を一瞬だけ合わせた。
柔らかい唇同士を触れ合わせた後、于禁は顔を離す。目の前には、少し物足りなさそうな顔へと変えている夏侯惇が居た。
「もう少し、だけ……」
コンロで火にかけている鍋をチラリと見てから、夏侯惇はそうねだると于禁は頷く代わりに視線を合わせる。顔を近付けると再び唇を合わせ、ゆっくりと顔を離していった。

それから約十分後。于禁は着替えようともした。しかし夏侯惇の近くに少しでも居たいからか、ジャケットのみを脱いで夕食の支度を手伝うことにする。
だが手伝いなど、ほとんどする必要が無かったらしい。することといえば、少しの洗い物と二人分の配膳のみである。それをごくわずかな時間で二人でこなすと、ダイニングテーブルに向かい夕食を済ませたのであった。

二人でん夕食を済ませてから夏侯惇が食器を流し台に置くと、話があると于禁に言ってからテーブルへと再び向かう。
「いかがなさいましたか?」
背筋を伸ばして座る于禁は、リラックスして座っている夏侯惇へそう尋ねた。
「……これを書く気はないか?」
そう返した夏侯惇は、椅子から立ち上がりリビングの部分の小さな棚の引き出しから、折り目の全くついておらず、それなりに大きな白い紙を数枚と油性ボールペンを一本取り出した。再び椅子に座り、机上へとそれを敷くように目の前に置くと、そのまま于禁の前へと差し出す。
しかし于禁はその白い紙数枚を見るなり、顔を火のように赤く染めた。更に夏侯惇の顔を直視できなくなったようで、テーブルの方を見て誤魔化すつもりであったが、それは無駄であった。その白い紙を自然と見てしまうので、これからどこに視線を向ければ良いのか視線を迷子にさせる。
「こ、婚姻届をわざわざ……?」
その白い紙とは、于禁の言う通りで婚姻届であった。于禁は『婚姻届』の部分のみを、自然と声を潜めさせる。この部屋には、二人以外は誰も居ないというのに。
「いや、家で印刷した」
提出するためのそれを取りに行かなくとも印刷できることを、于禁はすっかり忘れていたらしい。前職でもそのような知識はあったのだが、それでもわざわざ役所まで受け取りに行ったと一瞬だけ勘違いしてしまっていた。
于禁の返事を少しでも早く求めている夏侯惇は、言葉を一つ加える。
「一応、予備はあるが……しかしお前が嫌なら処分する」
後半になるにつれ、夏侯惇の表情も声音もとても重苦しくなっていった。于禁からの返事はどちらかと言うと、否定的という前提で提案しているのか。
対して于禁は返事をしようにも、言葉をまともに出せないでいた。「あの」や「その」などを壊れた機械のように、ひたすら繰り返している。すると言葉で返事をするのを諦めたようで、首をぶんぶんと横に振った。まだ相当混乱しているようだ。
「か、書きます!」
それでも何とか言葉を捻り出せた于禁は顔を赤くしたまま、机上にある婚姻届を手に持つ。しかしその手は大きく震えていた。まるで大袈裟と思うくらいにだが、それを見て夏侯惇の重苦しい表情も声音も、見事に崩壊する。
「そうか、ありがとう于禁」
夏侯惇はそう笑いかけると、于禁が持っている婚姻届が足元の床へと滑り落ちた。震わせている手が止まった代わりに、返事ができたことにより手をそのまま脱力してしまったからか。
「申し訳ありません、今ひろ……」
「だが、提出はしないぞ。……できる訳など、ないがな……」
于禁は椅子から立ち上がり、落としてしまった紙を拾おうとした。だが夏侯惇の言葉により、その手をピタリと止める。そのときの夏侯惇の声は、震えていた。先程笑っていたのが嘘であったかのように。于禁は一瞬で、混乱していた思考が解けた。
確かに婚姻届に『男女』の名前を記入するのは、一般的な常識である。なので『同性同士』の名前を記入しても受理される訳がない。それは、普段の二人でも痛い程に分かっていることだ。
しかしなぜ夏侯惇は、それを分かっていても婚姻届を書こうと提案したのか。于禁はそれが気になったが聞きづらそうにしていると、その理由を夏侯惇はゆっくりと語りだした。
二人にとって婚姻届など、提出できない公的な書類など書いても一切の無駄、である。だがその一切の無駄があろうとも、それを于禁と共有したいらしい。
それともう一つは、于禁との一種の記念として夫婦の真似事をしたい、と。互いに同性同士ではあるが。
「……分かっております」
声をがくりと落としながら于禁は婚姻届を拾うと、机上へと戻す。視界にはそこに置かれている夏侯惇の右手が、強く拳を作っているのが確認できた。それに、表情もかなり険しい。
「于禁……」
そこで于禁は、机上に置かれている夏侯惇の手を上から両手で重ねる。一瞬だけびくりと強張ったが、拳を作っていた際に手の平に食い込んでいた指の力が弱くなっていった。
同時に于禁の表情からは赤さはほとんど引いていく。頬に、僅かながらに赤みを残しながらも。
「夫と妻の欄は、関係なく書きましょう。それに証人は無記入で。……では、左の欄をあなたが記入して下さい。右の欄は、私が記入致しますので」
「あぁ」
落ち着きを取り戻した于禁は机上にある油性ボールペンを取るため、両手をそっと離すと夏侯惇の眉が八の字に下がっていく。なので次は左手のみで、再び夏侯惇の手を上から軽く重ねた。すると夏侯惇は手の平を机上と垂直にしてから于禁と手を合わせ、指を深く絡ませる。夏侯惇はとても悲しげな顔をしており、目を伏せていた。だが于禁はそれを見て、不謹慎にも綺麗だと思ってしまっていて。
「これが、日の目を見ることは……あるかは分からないが、俺の自己満足に付き合ってくれてありがとう于禁」
「いえ、お構いなく。ですが、夏侯惇殿。無駄をそのまま無駄で終わらせるのは、どうかと思います……これが意味を成すことを願わなければ、あなたの仰るように日の目を見ることを願わなければ」
于禁はかつてないほどに真剣にそう話すと、夏侯惇はそこで顔を上げた。瞳は涙を留ませているのか潤んでいて、今にもそれが流れ落ちて来そうである。
「そうだな……」
夏侯惇の頬に一粒の大きな涙が伝う。于禁はやはりその顔の方が綺麗だと思ったが、空いた右手を伸ばして指先でそれを掬い取る。
だがそれは指先から紙の上に滑り落ち、ただ『婚姻届』の文字の部分のインクを、大きく滲ませていくのみであった。