お供
夜の九時を回ったところである。外は昼間よりもかなり気温が下がってはいるが、コートを着込んでいれば体を震わせることはない。
桜町中央署の刑事課のフロアでは、課長である矢上と架川と水木の三人が居た。その中で矢上は帰宅する為の支度をしているが、架川は隣の今は不在である蓮見の席に座って水木と話し合っている。まだ捜査が続いているので帰宅できないのだろう。机には資料が数枚広がっている。
会話の内容は少し後に実行する、張り込み捜査のことである。二人が今担当しているものはとても小さな事件なので、その分張り込みも楽ではあるが。
「張り込みと言えば、ご飯はどうするんですか? 私、昼以降何も食べていなくてお腹ペコペコなんです」
「俺もなんだよ。だから張り込み前にコンビニであんぱんと牛乳、それかコーヒー買って食うぞ」
二人は机上の資料を見ながら言葉を交わしていくが、架川の提案に水木は異論があったらしい。視線を資料ではなく架川の方に移すと、若干の睨みを入れる。
「待って下さい! 私はカ□リーメイト派です。あんぱんは無いです」
「……あ? 張り込みといえば、あんぱんだろ! 鉄板だ!」
鞄に荷物を入れ終えたところで、矢上は内心で溜息をつく。事件とは関係がない話をしているからだ。しかし二人は署から出れば真面目に捜査してくれると思い、口出しをするのを止めた。刑事課のフロアには、架川と水木のかなり下らない言葉たちのみが飛び交う。
「架川くん、水木さん、もう少しで時間だから、そろそろよろしくね。報告書は明日の朝でいいから」
帰宅する準備を終えた矢上は自身のデスクから離れ、二人の背後へと近付く。表情は叱るものではなく、やんわりと促すように。
だが二人を見れば水木はてこを利用しても動かない石のように、自らの意見をどこにも動かすつもりはない。また架川は水木ほどではないものの、やはり自身の意見以外を認めないのだろう。署内ではサングラスを外している架川だが、威嚇のつもりなのかサングラスを着けた。そして水木の方を見る。
矢上は自身が軽く介入しようが、深く介入してしまおうが今の二人は変わらないと思った。そして面倒になったのか「お疲れ様」と言うと、フロアから出て帰宅していく。
フロアに二人きりになっても、架川と水木は信念を曲げようとはしない。いや寧ろ、曲げようとした逆の方向に力を加え、曲げさせないようにしているように思えた。
「あんぱんはな、昔からの鉄板なんだよ。つまりはな、張り込みにはあんぱんが一番適してるという意味だ。分かるか?」
「分かりません! カ□リーメイトは色んな味があって、バランス栄養食とメーカー側が謳っているくらいのものです。これが、張り込みに適しています!」
二人の主張はかなり激しく衝突していた。だが周囲にはもう誰も居ないので、二人が一旦にでも冷静になる方法といったら時間しかない。
張り込み捜査が行われるのは今から約二〇分後に、この近くの雑居ビルである。これにはさすがの二人は間に合わせるだろう。張り込みの対象になっている人物は、その雑居ビルに特定の時間帯に入っていくことを掴めているのだから。
二人が飽きもせずに架川と水木がそれぞれ主張している食料について語っていると、数分が経過した。二人はフロアの時計、それにスマートフォンの時計を確認するとまずは架川が舌打ちをする。それに続いて、水木も舌打ちをしていたが。
「……おい、そろそろ時間だから行くぞ、あんぱん」
「はい、カ□リーメイト」
二人は捜査資料を素早く纏め、架川が蓮見の席から立ち上がる。隣の水木は革製のリュックにそれを入れるとフロアを出ようとした。そこで他の事件を担当していたらしい、蓮見と梅林が入ってくる。
「ご苦労さん、あんぱん」
「お疲れ様です、カ□リーメイト」
蓮見と梅林は言葉の後に食料の名前を添えているのを聞くと、何を言っているのかと首を傾げた。そして架川と水木の顔を二度見する。だがこの二人は特に変な発言をしていないと思っているらしい。水木が「どうされましたか? カ□リーメイト」と言う。
この二人はただ聞き込みをしていただけなので、簡単な資料を作成したら退勤することができる。蓮見と梅林はまずは変な語尾を無視した。巻き込まれては面倒だと思ったのだ。次に当たり障りのない返事をしながらそれぞれの席に着くと、ノートパソコンやメモしておいたノートを開く。蓮見と梅林はノートパソコンの起動画面を見ながら、架川と水木が早くここから出て張り込みに行くようにそっと願った。
「コンビニ行ってあんぱん買いに行くぞ、あんぱん」
「カ□リーメイトです! 絶対にカ□リーメイトです!」
フロアから出る前に架川と水木の二人がそう言い合うと、資料を作成し始めた蓮見が疲れているのか無表情でぼそりと小さく呟く。
「……サンドウイッチ」
蓮見は二人の会話の内容などどうでもいいが、今食べたいものを頭に思い浮かべる。それを口に出すと、フロアから出ようとしていた架川と水木がズカズカと蓮見の元に歩み寄る。
その様子に驚いた蓮見は、ぎょっとした顔で二人を見上げた。先程の発言が二人にしっかりと聞こえていたらしい。
「おい、蓮見! あんぱん!」
「蓮見さん! あんぱ……じゃなくて、カ□リーメイト!」
「……いや、何でもないから、早く張り込みに行って下さい!」
しまったと思ったが、この二人には今やるべきことがある。なので少しの怒りを混じえながら、それを促した。
時間に間に合わないということではないが、大きな余裕が残っていない。そうすると、二人が言っている張り込みの際の大事な、食事の時間が無いだろう。正直、そのような理由で警察官としての業務に支障をきたすということでは、警察官として失格である。
蓮見は時間を追い出す決定的な武器にしようとしたが、そこで梅林がその武器を見事に粉砕してしまう。
「資料は纏めておくから、蓮見はあの二人の同行して来い。それで今日はもう帰っていい」
「あんぱん……!」
「カ□リーメイト」
何を言いたいのか、というよりまともに話して欲しいと蓮見は思った。しかしそれを言うのが面倒になり、蓮見は仕方なく梅林の指示に従うことにする。
深い溜息をついた蓮見は腕時計を確認すると、いつもの少ない荷物を纏めてからフロアの扉の前に立つ。架川と水木は嬉しげに話し掛けた。
「あんぱん、蓮見すまねぇな、あんぱん」
「ありがとうございます! カ□リーメイト!」
こうして三人は署を出てから、架川と水木がまずはコンビニに寄ろうとしたが蓮見が強く止めた。今から呑気に行けば、間に合わないだろうと。
とても嫌そうな顔をした二人だが、蓮見はそれを無視してから捜査資料を見ながら張り込み現場へと向かっていく。ここは人通りが少ないのでできることであり、水木はその様子を見ながら「さすがですね」と言った。
そこで後ろ歩きをしている最中の架川が「おい、カ□リーメイトはどうした?」と半笑いで指摘をする。水木はつい忘れていたらしく、目を見開いてから肩と眉を下げた。それとは逆に、架川の肩と眉は上がっている。
「勝ったな。次はあんぱんだ」
「悔しい……!」
蓮見はこれは何の戦いをしていたのかと、呆れ始めていると張り込み現場へと辿り着く。三人が大きな物陰に座ってから隠れるが、架川と水木はとても小さい声で空腹を訴えていた。それがうるさいと思えた蓮見は「すぐに終わりますから」と、子供をあやすような口振りでどうにか静める。
言った通りに、数分後に目的の人物が雑居ビルに入って行った。水木がカメラを持っているので、それを正確に撮影すると三人は安堵の表情を浮かべる。
「これが、張り込み捜査……」
「水木さん、今回のはかなり簡単で短いものだったよ。中には何時間もずっと、張り込んでいなければならないときもあるからね」
「はい」
蓮見がまだ大変なものもあると真剣な顔で言うと、水木も同じ表情になり深く頷いた。そしてノートに蓮見の発言を律儀にメモしていく。
すると少しの暇を持て余した架川が気怠そうに口を開いた。
「腹減ったな……」
蓮見と水木の二人が警察官らしい言葉と雰囲気を出している一方で、架川は空腹を訴えている。蓮見は水木に様々なことを指導している最中だというのに、と思った。
しかしそこで水木から腹の虫が騒ぐ音が鳴り響いたので、蓮見は指導を強制的に終了させる。水木は少し恥ずかしげに、視線を泳がせていた。
「今日はここで解散にしよう。明日の朝、課長に提出できればいいものだよね?」
「あぁ、そうだ」
蓮見は水木に向けて言ったつもりなのだが、いつの間にか立ち上がっていた架川が答えていた。
「よし、今からどっかで食いに行くぞ。俺は……この中で階級も年も上だから、奢ってやる」
「大胆ですね架川さん! 蓮見さんをそんな誘い方で……」
「お前もだぞ水木」
口を半開きにし、驚いた顔を見せた水木は蓮見の方を見る。蓮見も驚いていた。
「三人でだ。ほら、行くぞ!」
「は、はい……ご馳走になります……」
蓮見は呆然とした口調で返しながら二人も立ち上がると、架川が「美味い店に連れて行ってやる」と機嫌良さそうだ。すると水木がとあることを思ったのか、そのまま口に出した。
「えっ!? 三人ですか!? 私は壁でいいです! 壁になります! お二人を静かに見守っています!」
水木の言葉の意味が分からなかったらしい。架川と蓮見が揃って「えっ?」と返す。どういう意味なのかと。
「水木さん、何を言っているのか、分からないんだけど……」
「そのままの意味です!」
サングラスを着けていてもなお、架川の訝しげな表情がすぐに分かった。眉間の皺が、どんどん深く彫られていく。
「……お前、頭が腐ってんのか?」
直後に架川が冗談だと笑ったが、水木が「私は本気です、腐ってます」と真剣に返す。
「ご心配なく! 私はお二人を、しっかりと応援します!」
「はいはい。水木さんはこの時間まで慣れない捜査で、疲労と空腹で頭が回ってないんですよ。張り込みに頭がずっと囚われているんですよ。だから架川さん、早くそのお店に行って、水木さんをとりあえず休ませましょう」
「お、おぅ……そうだな……」
蓮見は水木の発言を反芻したが、それでも訳が分からないらしい。遂にはその水木を心配した蓮見は「あまり無理しないでね」と声を掛けると、いつの間にかそそくさと歩いていた架川に着いて行ったのであった。
しかし目的の店に着いても、水木は『私は壁になる』と頑なに言っていたのだが。