おちるまで①

世が黄巾党に悩まされていた頃である。
全身を包んではいないが、鎧に覆われた一人の長身の男が戦場に佇んでいた。時間帯は夕方で、鎧の金属部分が夕陽によく照らされている。
手には柄の長い三尖刀を強く握っているが、戦闘の為に構えている訳ではない。ただ、目の前の状況を眺めているのだ。
視界には、唯一仕えている人物である鮑信の遺体が丁寧に横たわらせてある。そしてその男である于禁の隣には曹操という、鮑信と親しい間柄の者が地面に片膝を着けていた。顔を伏せている。鮑信の死をとても悲しんでいるようだが、表情は見えない。その周りには、率いている兵が数人居る。得物をしまい、曹操から離れてただ立っていた。
鮑信の死因は、敵に囲まれている曹操を救出している際に戦死したらしい。その時は于禁は居合わせていなかったので、まだ現実なのか分からないでいる。鮑信が戦闘をしていると聞いてから急いで駆け付けた時には、この光景が目に入っていた。戦が、既に終わった後である。あまり血で汚れていない于禁の鎧がその証拠だ。
辺りには兵の死体が大量に転がっており、元の形を保っていないものもある。斬られて地面に伏せた後に、散々に踏まれたのであろう。骨が突き出し、あらぬ方向に折れてもいる。
外であるのにも関わらず鉄の匂いが充満しているが、様々な者の血や戦闘で削れた武具の金属部分が原因だろう。砂埃が舞うが、鉄の匂いを拐う気は無い。
遺体を見て、もしかしたら寝ているのではないかとぼんやりと思っていた。そして起きてくるのではないかと。
「……お主は、于禁と言ったか」
膝を上げた曹操は、于禁の方を見る。曹操の顔はとても沈んではいるが、于禁はまだ現実とは思いたくはなかった。まだ若いが故に、受け入れられないのだろう。
「はい」
短い返事をした于禁は、少しばかり柄を握る力を弱める。曹操が「儂のせいで……」と口を開くが、于禁は首を横に振った。于禁は鮑信の戦死が、曹操のせいだとは思っていないのだ。寧ろ友人を命張って守りながら戦死したことを、誇りに思えた。そしてこの戦で、曹操が勝利したことも。
するとようやく、鮑信の死を受け入れ始める。これが人の死に遭うのが初めてではないが、力が一気に抜けていく。地にしっかりと張っている木の根のように、体を支えている両足が揺れる。遂には持っている得物を手放しかけた。曹操がそれに手を伸ばしてから、強く掴んで支える。于禁は驚いた顔で曹操を見た。
「しかし儂は、鮑信から最期の言葉を聞いた。だから于禁、これからは儂の元に仕えてくれないか?」
于禁は曹操の言葉をしっかりと聞くと、すぐに頷いた。鮑信と親しい曹操の元ならば、是非ともそうしたいと。
「はい、曹操殿」
得物を地面にゆっくりと置いてから拱手をした于禁は、曹操をしっかりと見る。鮑信が死んだことはとても悔しいが、于禁にはまだ未来がある。それに、曹操ならばいずれかは黄巾党を全て消し去ってくれるだろう。于禁はそれを手伝いたいと思った。
「于文則、これからは曹操殿にお仕え致す。貴殿を私の主として」
そうして于禁は、新たな主に仕えたのであった。しかし鮑信の遺体を丁寧に扱う余裕は無い。黄巾党の加勢が来る可能性が考えられるからだ。なので荒れた地に置き去りにすることになったのだが。
曹操が敷いていた、少し離れた陣へと徒歩で一旦戻った。その頃には陽がすっかりと沈んでいるが、松明などの灯りにより暗闇が多少はかき消されている。場所は目の前が山になっており、少し入ると川が流れていた。兵と数人と共に歩いていたが、全員無言であった。鮑信の死を悼んでいることもあるが、疲れているのだろう。于禁も同じである。
到着すると見張りの兵が出迎え、そして今では新参の于禁を丁寧に扱ってくれた。于禁は曹操はとても良い主だと、改めて思った。小さな幕舎が立ててあり、そこに曹操が案内してくれた。まずは入ってから休もうと提案されたが、曹操とは二人きりになる。なので鮑信の話を少しでも聞きたいと思いながら、幕舎に入った。すると、一つの人影が見える。
「ん? 誰だ?」
于禁とおおまかに同じくらいの背格好の男が居た。鎧を着込んでいるが、雰囲気だけでも只者ではないことは分かる。于禁は思わず得物を取り、身構えてしまう。しかし曹操がかなり親しげに返事をしているので、それを止めた。恐らくは、この男は味方なのだ。
すると知らない男が一通り笑ってから、于禁にゆっくりと近付いてくる。どうやら、曹操が于禁のことを手短に説明してくれたらしい。肩を軽く叩きながら、話し掛けてきた。
「お前の名は于禁か、俺の名は夏侯惇だ。よろしくな」
男、改めて夏侯惇が肩を叩くのを止めた。
言葉の後は穏やかな表情をしているので、これがこの人物の素顔なのだろう。力を抜いたが、夏侯惇に「その眉間の皺は元からか?」と聞いてくる。純粋な疑問なのだろうか。どう返事すれば良いのか分からずに頷こうとした于禁だが、曹操が横から「于禁は真面目な男だ」と発言してから言葉を付け加えた。楽しそうに笑うと、夏侯惇もつられて笑う。
「鮑信がよくそう話してくれていた。だから元からじゃな」
「……元からで、良いです」
どうしてなのか溜め息が出ると同時に、人の笑い声を聞いて力が更に抜けた。その場に座り込んでしまうと、命と同様に大事な得物を手放してしまう。
曹操がわざわざ視線を合わせてくれると、于禁に優しく語りかけた。一方で夏侯惇は立っているままだ。
「于禁よ、今日はゆっくり休め」
「そうだな、于禁。お前にとっては、色々あったからな」
夏侯惇がそう言うと、于禁が手放して落ちた得物を拾ってくれた。それを柱に丁寧に立て掛ける。その際に背中を向けていたが、振り向いた。一方で曹操は、協力関係にある将たちと軍議をするらしい。幕舎から出ようとしていた。
「ではな。夜が明けるまでは、陣から出るな」
すかさず于禁が拱手をすると、曹操が軽く頷く。そして夏侯惇に目線を一瞬だけ向けると、二人は幕舎を出た。一人になった于禁は、近くにある簡素な椅子に座る。着込んでいる鎧を外し、地面に丁寧に置いていった。ある程度まで身軽になると、両腕を上に伸ばした。全身の骨や筋肉から軋んだような音が聞こえる。今まで、心身共に張り詰めていたのだろう。顔を歪めるとすぐに直すが、誰も居ない。
目を自然と閉じてしまうと、体がもう動かなくなる。するとこのまま眠ってしまいそうだと思っているうちに、于禁は意識を失ってしまっていた。于禁にしては、久々の穏やかな睡眠である。

目を覚ますと、幕舎の中でも朝陽が差し込んでいた。それに外は既に騒がしく、兵たちが活動をしている。聞こえてくる音をぼんやりと聞いていると、于禁の意識がようやくはっきりとした。素早く立ち上がると、まずは幕舎から出る。目的は曹操に会う為だが、鎧を装備する暇は無いと思った。なのでそのままの格好である。仕方がない。
幕舎の外では数人の兵たちが固まって鍛練をしていたり、夜明けまで見張りをしていたであろう兵たちが休もうとしていた。于禁はそれらを見た後に、歩き回って曹操を探す。しかし姿が見えない。
それでも辺りを必死に見回していると、背後から肩を軽く叩かれた。于禁は「曹操殿……!」と言いながら振り向くが、後ろに居るのは曹操ではない。夏侯惇であった。于禁は急いで体を夏侯惇に向ける。
「孟徳なら、今は休んでいる。そして孟徳から伝言だが、しばらくは俺や兵と手合いでもしていて欲しいらしい。動けるか?」
「は、はい!」
はっきりと返事をしたが、その直後に腹から音が聞こえた。人のあくびくらいの長さである。そこで于禁は自身が空腹の状態であることを自覚したと共に、腹の音が聞こえていたらしい夏侯惇が吹き出してから声を出して笑う。
「腹が減っているのなら先に言え。孟徳も俺も、何も食わせずに動けとまでは言えん。まずは飯を食え」
一通り笑った夏侯惇は、食事を取ることができる場所を指差した。次に川のある方向を指差し、まずは顔を洗ってからにした方がいいと言う。なので于禁は、川のある方向へと歩いていった。夏侯惇は、着いて来ていない。
間断なく水の流れる音のする山へ歩くと、すぐに川が見えた。山の中にあるが、勾配がとても緩やかなので流れが穏やかだ。この川はとても澄んでおり浅く広く、そして岸は岩場が多いので水面に容易に近付くことができた。
屈んでから両手で水を掬うと手の皺が見えるうえに、鏡のように顔が映っていた。何度か自身の顔を見たことがあるが、相変わらずのしかめ面だ。眉間の皺が深くなったことを視認してから、掬った水で顔を洗う。気分がぼんやりとしていた訳ではないが、気分が良くなる。
するとそこで、手拭いを持っていないことに気付いた。だが手拭いは幕舎にある筈で、取りに行くのが面倒だ。それにこのまま自然に乾くのを待とうと、岩の上に座った。川からひんやりとした空気も流れてきて、心地が良い。なのでついつい目を細めると、いつの間にか顔が乾いたようだ。一つ息を吐くと、立ち上がってから陣に戻って食事を取る。
ここは陣の内なので、食事の内容はとても簡単なものだ。それでも、出てくるだけで良い方である。于禁は感謝しながら完食すると、まずは夏侯惇を探した。体が鈍らないように、陽が昇っているうちは軽い手合いをしなければならないからだ。
兵がたくさん居る中を探すが、どこを見ても全く見つからない。なのでこのまま探していたら、陽が沈んでしまうかと思えた。
「……幕舎に戻ろう」
一人でそう呟き、于禁は幕舎に入った。すると、探していた夏侯惇の姿をあっさりと見つけてしまう。于禁は自然と気の抜けた声を出してしまっていた。
「ここにいらしたとは……」
「俺を探していたのか?」
夏侯惇は戦時のような、しっかりとした鎧を身に付けていない。胴体部分のみ、鎧を着ていた。
「飯は食ったか?」
「はい、頂きました」
「そうか。ではそろそろ食後の運動をするぞ」
いつの間にか持っていたらしい、刃が潰れている刀を一本渡された。夏侯惇の手には、同様のものがもう一本ある。これで、軽い手合いをするということなのだろうか。なのでそれを握ってから「よろしくお願い致す」と言い、幕舎から出ようとしたが夏侯惇に止められる。
「胴だけは着けておけ。一応、これも人を斬れるものだからな」
「はい」
于禁は素直に夏侯惇の言葉を聞き入れると、昨日置いていた自身の鎧の胴部分を持ち上げる。そして手慣れた様子で装備すると、夏侯惇が幕舎から出る。于禁は着いて行った。
陣の開けた場所に移動をすると、夏侯惇の合図と共に軽い手合いを行っていく。互いに太刀筋が非常に見えるもので、ここが本当の戦場であれば容易く見切られてしまうだろう。
何度か潰れた刃がぶつかる音を聞いていると、夏侯惇がふと話し掛けた。
「人を、何人殺したか数えたことはあるのか?」
まるで日常話のような雰囲気なので、于禁は思わず刀を振っている手を停止しかける。しかし腕に力を入れて踏ん張ると、刀を振り続けながら答えた。
「……数えてはおりませぬ」
これは真実である。于禁は、鮑信の元で何人もの人間の命を奪ってきた。回答の通りに于禁は数えていないが、一部分だけは嘘だ。武器を持ち始めた頃は、人を殺すことに慣れていなかった。なので恐る恐る殺した人数を数えていく。
しかしいつの間にか、何も思わなくなったのだ。全ては、主である鮑信の為に。
「少し、動揺したな? まぁいい」
夏侯惇の反応は、于禁の言葉の裏を見抜いていたようだ。ただ「はい」としか言えない于禁は、こくりと頷く。
「……ここで手合いは終わりにしよう。すまなかったな、時間を取らせて。もう少ししたら、ここを離れるらしい。支度をしておけ」
「はい」
刀を降ろした夏侯惇を見て、于禁も降ろす。しかしその瞬間に、よそ見していると鎧の胴部分に軽い衝撃があった。見てみると夏侯惇が刀を持ったまま、柄で于禁の胴を突いていたのだ。夏侯惇は悪戯が成功したかのような笑みを浮かべる。
「まだ、お前も若い。鍛錬を怠るな」
笑みを維持したまま夏侯惇が述べると、次は完全に刀を下ろした。于禁はひたすらに驚いた後に、確かに油断していたと後悔する。
だが、どうして騙したのか。眉間に力が入ると、それを見ていた夏侯惇が口を開く。
「今は黄巾党に押されている。分かっているな?」
夏侯惇の笑みが一瞬にして引いていた。代わりに、とても重い空気が張り詰める。人が変わったようだ。于禁は背中が冷えたような感覚に陥り、体が震える。
「ではな」
そして夏侯惇は、于禁の反応を窺うことなく離れて行った。于禁は安堵をするが、夏侯惇の言うことは正しい。なので大きく深呼吸をすると、幕舎へと入って行く。
支度をしてから暫く一人で椅子に座って集中していると、外が騒がしくなった。兵たちが陣を解体しているのだろう。いずれかは、ここの幕舎も解体しなければならない。そう考えていると、夏侯惇の声がした。
そろそろここを離れる頃合だ。急いで立ち上がると、背を伸ばして夏侯惇を見ながら拱手をした。
「外で孟徳が待っているが、支度はできたか?」
「はい、勿論です」
しっかりと返事をすると、于禁は幕舎を出た。外はかなりがらんとしており、ここは広く平らな場所だったのだと分かる。
太陽は真上にあり、かなり眩しい。
目の前には曹操が居るので素早く拱手をした。すると曹操の後ろから、二人ほど人が歩いて来る。それに気付いた曹操が、その二人を紹介した。一人目は夏侯淵と言い、夏侯惇の従兄弟だ。もう一人は曹仁と言い、曹操と近い人物。于禁は二人の名や外見を覚える。
すると曹操からは、それなりの地位を与えられた。于禁はまだ新参であるので、そこまでの地位は不要だと自身で反論してしまう。動揺を抱えていた。
しかし曹操は鮑信からの評判を前から聞いていたので、妥当だと返す。そして曹操の隣に立った夏侯惇も「孟徳がそう言うなら素直に聞け」と言うので、于禁は遂に折れた。渋々と言うような顔で頷く。
「ありがとうございます。殿から与えられた地位を、大事に致します」
「うむ。これから、儂の元で精進するが良い」
曹操が歩き出すと、于禁に近寄る。身長の差がかなりあり、曹操の方が低いがそのようなものは関係ないようだ。雰囲気が、いや存在そのものが上に相応しい人物だと思える。
分からない。初めて会った時からそれを感じてはいなかった。今さっき、そう思えたのだ。
「では、ここから離れるが、于禁に馬を与えよう」
どこかへと曹操が合図をすると、兵が一頭の馬を連れて来る。痩せてはいないが、筋肉が薄い。全体的に肉が細い馬である。鞍は革製の少し古い物だ。だが于禁は馬を与えてくれるだけでも有り難いので、丁寧に礼を述べた。
すると曹操が馬を呼ぶと、すぐに兵が連れて来た。それに乗ると、続けて他の者の馬を兵たちが連れて来る。各々の馬に乗ると、于禁も馬に乗った。見た目より、少し古い鞍は乗り心地が良い。
曹操と夏侯惇を先頭に、他の者と歩兵や騎兵たちが続けて後ろを着いて行く。行き先を聞いていないが、どこか安全な場所なのだろう。
陣の解体は残り少ないが、解体している途中の兵たちは後で追いつくのだろう。于禁が後ろを振り返るが、他の者たちは特に気にしていない。
「どうした?」
夏侯惇が振り返ってそう質問したので、何でもないと答えた。夏侯惇は「そうか」とあっさりと引き下がると、前を向く。そして時折に曹操に何か話していたが、蹄の音や鎧が軋む音で聞こえない。
それに流れていく見慣れぬ景色があるので、于禁は手綱を慎重に持たなければならなかった。なので曹操と夏侯惇の会話のことを諦めると、ただ進行に集中した。
太陽が沈む頃に、目的地に到着したようだ。場所は曹操が治める地で、街はそれなりに栄えていた。みずほらしい格好をしている平民の姿はなく、家はただ経年劣化しているだけだ。土により作られた道が整備されており綺麗だ。それに治めている地自体が広いので、その分街が広い。前の列から離れてしまえば、迷子になるのではないかと思えた。
馬に乗りながらなので、歩行時のようにゆっくり見ることはできない。鮑信に仕えていたからと言え、曹操が治める地には来たことがない。道中よりも辺りを見回してしまう。
「儂のこの地がそこまで良いか?」
「は、はい!」
いつの間にか曹操が隣を走っていた。于禁は驚いたが、手綱を強く握りながらそう答える。曹操はその様子を見るなり笑った。
「お主、真面目に見えて面白いところがあるな。それで良い。真面目ばかりでは、つまらんからな」
そう言った曹操は于禁の隣から離れてから、一目散に先に見える城へと向かって行った。夏侯惇は幾つもの文句を吐くと、夏侯淵が宥める。そしてその二人は、曹操に着いて行く為に手綱を叩いた。馬が速く駆けて行く。
少し後ろを走っていた曹仁が「殿に着いて行こう」と提案してくると、于禁は頷くしかなかった。なので三人に追いつく為に、二人も速度を上げる。一方の歩兵や騎兵は速度を保っていた。残っていた曹仁から特に命令をされていないからだろう。後ろを一瞬だけ見てしまった于禁だが、城の方を見ながら馬を走らせていったのであった。
城に着くと、曹操はやはり既に到着していた。城は遠目から見た通りに大きい。見張りをしていた兵が奥の間に案内してくれるが、距離が遠かった。兵は気さくな性格なのか途中で「長いですね」と会話を持ちかけてくれる。しかし于禁は「そうだな」としか返事をできなかった。おかげで、その後は両者とも無言である。
奥の間に到着すると、兵はそそくさとどこかへ行ってしまう。于禁は、少し申し訳ないと思った。
「まったく……」
すると夏侯惇の不満げな声が聞こえたので、その方向を見た。于禁は自分のことかと思ったが、違うようだ。夏侯惇の不満は、曹操に向かっていた。つい、安堵をしてしまう。
「まぁ、良いではないか……于禁、丁度良かった」
言葉を濁していた曹操が、于禁の存在に気が付いたらしい。夏侯惇の文句を打ち切るように、于禁の方へと歩み寄った。
「まだここ慣れないと思うが、なるべく早く慣れて、儂に貢献して欲しい」
それを見た夏侯惇が溜め息をつくと、頭を軽く掻いた。後ろに書き上げている髪が少し乱れるが、そのようなことは気にしていないらしい。夏侯惇もこちらへ来ると「孟徳の為にしっかりと戦ってくれ」と伝える。于禁は頷いた。
「それで、今宵は宴にしよう。于禁の歓迎もあるが、鮑信を悼む為にじゃ。暗い顔をしては、鮑信が不安になるじゃろ。なぁ、于禁よ」
「はい」
「うむ、では皆の者、歌の準備をせい!」
近くに居た兵たちが大きな声で返事をすると、すぐに散らばった。勿論、他の者に伝えてから宴の準備をする為である。同時に曹操がどこかへと歩いて行くが、鎧から着物に着替える為だろう。
陽はもう沈んでいた。気付けば、辺には火による灯りが点っている。そうとなると、宴の準備はかなり急ぐことになるだろう。大変だと思い、手伝おうとしたが夏侯惇がそれを止める。肩をぐいと掴まれた。
「孟徳の善意を無碍にするな」
「……はい」
反論の余地など無かった。確かに、曹操は鮑信だけではなく自身の為に宴を開いてくれるのだ。なのですぐに引き下がると、夏侯惇が何かを思い出していた。肩を掴んでいた手をひらりと離す。
「それより、お前の部屋が用意してある。孟徳が先に行ってしまったのはその為だった……全く、城に着いてからそう言うから、思わず孟徳に怒ってしまったわ」
「それは、なんと……」
曹操が先に城に行ってしまった理由が分かった。それに、自身の為にそこまで準備してくれたのが、とても嬉しく思える。曹操が向かった方向を見ると、ほんの僅かに口角を上げた。
元の表情にすぐに戻すと、夏侯惇の方へと向き直る。
「案内する。着いて来い」
そして夏侯惇に着いて行き、与えられた部屋に辿り着いた。奥の間からかなり離れていたので、その間に于禁は何か話そうとする。しかし何も話題が思い付かない。自身のこのようなつまらない性格に苛立ち、夏侯惇の背中をひたすらに見る。
しばらく歩くと、夏侯惇が振り向くことなく「もう少しだ」と言い放った。于禁は「はい」と気の利かない返事をする。そこで二人の会話が途切れると、到着してしまったらしい。夏侯惇が立ち止まった。
「ここだ」
「はい。案内を、ありがとうございました」
「構わん」
開けた廊下に幾つか扉があった。それまでは扉の数が多かったことは覚えている。だがここは扉の数が遥かに少ない。
どうしてだろうと首を傾げていると、密かに焦れていたらしい夏侯惇が目の前の扉を開けた。
「早く入れ」
「も、申し訳ありませぬ」
謝罪をしてから部屋に入ると、それなりに広い空間があった。隅には寝台があり、対角線上に机と椅子がある。棚は空いた空間を埋めるようにただ設置してあった。
部屋としては、申し分がない。それくらいに、曹操に期待されているのだろう。
「……そうだ、宴の後で申し訳ないが、俺の部屋で飲み直さないか? 曹操はいつも後半になると、女に夢中になるからな。お前は、その中に加わることはないだろうと思っている。いや、無理はしないのだが」
「はい……ですが、考える時間を下され」
「ありがとう。では、一応だが待っているぞ。必ず来なくてもいい。来なかったら来なかったで一人で飲むからな。大丈夫だ、慣れている」
于禁は再度頷くと、夏侯惇が立ち去った。直前に「少ししたら兵が呼びに来る」と呟いた。それをしっかりと拾っていたので、于禁ははっきりと返事する。
部屋に一人きりになると、まずは見渡した。埃っぽさは全くない。寧ろ、常に綺麗にしていたかと思う程に、清潔を保たれている。于禁は思わず嬉しくなった。
窓があるので開けると、椅子に座る。外からの風がよく入り、窓からは山々やどこまでも広がる夜空がよく見えた。景観の良さに、改めて良い部屋を与えられたと、于禁は曹操に深く感謝する。
鮑信に仕えていた頃と比べてしまったが、于禁はそのようなことはいけないと首を振った。今は「比較」という言葉を忘れる為に窓際にある寝台を見ると、着物が用意されていた。鎧から、これに着替えて欲しいということなのだろう。于禁は鎧に手を掛けると、早速その着物に着替えた。
そしてしばらくこの部屋で、ずっと椅子に座っていると兵の声が聞こえてくる。その声には緊張が感じられた。
「于禁殿、殿がお呼びです。奥の間へ」
「今行く」
恐らくはまだ高い位に就いていないのにも関わらず、于禁の元からある厳しい顔つきに怯えているのだろう。しかし、舐められるよりかは良い。いや、寧ろこの方が良いのではないか。なので于禁は元からの雰囲気を崩すことなく、扉を崩開けた。想像の通りに、怯えている兵が立っている。
于禁は扉を閉めると、その兵の存在を無視してから目的の場所へと向かった。奥の間へは、来た道を辿れば良いので分かっている。迷いもなく、しっかりとした足取りで歩いて行った。
「早かったな」
到着すると、鎧ではなく着物姿の曹操が居た。素早く拱手をする。
周りに兵は居ない。二人きりのようなものだ。この地域を治める主だというのに、それで良いのかと思った。眉をひそめる。
すると曹操が笑い出したので、拱手を止めてからぽかんとしてしまう。
「お主が儂を殺すようには思えないからな。鮑信が信頼していた男だ。だから儂も于禁を信頼しておる」
「あ、ありがとうございます……」
動揺が隠せない于禁だが、曹操から「信頼している」という言葉を聞いた。すると肩の力が抜けていくがもう一度拱手をしてから、改めて礼やそれに曹操にこれからも仕える旨を伝えた。
曹操が「期待しておるぞ」と返事をしてくれたので、于禁は嬉しくなる。
「宴に行くぞ。皆、早く酒が飲みたくて堪らないようじゃ」
「は!」
曹操に着いて行き広い庭に着くと、そこにはかなりの人数の兵や将が盃を持っていた。しかしまだ入っていないのだろう。机が幾つもあるが、酒壺が綺麗に並べられている。
庭の奥へと歩いて行くと、夏侯惇が呆れていた。机があるが、その上には酒壺や盃がどしりと乗っている。
「遅いぞ孟徳」
「すまんな」
短い会話をした後に、夏侯惇から空の盃を渡される。于禁はそれを受け取ると、ようやく曹操が音頭を取った。そこで、宴が始まる。兵や将らが一斉に酒壺を開け、盃に並々と注いでから飲み干していく。早い者では、二杯目を注いだところだ。
隣に居る曹操に無理矢理に酒を注がれると、于禁は恐る恐る飲んだ。何故だろうか。まだこの雰囲気に慣れていないせいかもしれない。
盃の底が綺麗にはっきり見えると、曹操の居る方向へと向く。そして美味かったと伝えようとしたが、曹操は既に居なくなっていた。いつの間にか待女たちの間に入っている。肩を馴れ馴れしく組み、呑気に笑っていた。于禁は口を半開きにしてしまう。
すると夏侯惇に肩をぽんと置かれる。首を軽く横に振っていた。
「ほら、言った通りだろう?」
「……そうですな」
「だが、孟徳の立場を少しは思ってくれ。本当は、皆の前で苦しい姿を見せたくないのだろう。友を亡くし、率いていた兵らも少なくない人数を亡くしてるからな。悲しい顔を見せては、士気も下がってしまう」
夏侯惇の言葉に、于禁は納得した。確かに、言う通りである。于禁だって、もしも自分が兵だったとする。もしも指揮をしている将がこのような場で暗ければ、不安になるだろう。士気が下がってしまい、本当にこの人間に着いて行っても良いのだろうかと思うだろう。
自身の考えで更に腑に落ちると、盃を机の上に置いた。もう飲まないという意思表示を示す。だが、夏侯惇とはある程度でも関わっても良いと思えた。曹操の右腕となっている人物である。交流するといえど、恐らくは受け身に徹してしまうだろう。なので于禁は宴に向かう前の夏侯惇の誘いを思い出す。その誘いを受けようと考えたのだ。
「では、夏侯惇殿。私には殿の不安を取り除くことは不可能であり、正直、このような宴の場が苦手であります。なので、先程の誘いを受けても?」
「あぁ、いいぞ」
短い会話を交わすと、夏侯惇も持っていた盃を置いた。今ここに居る者の意識の殆どは、曹操に向いている。侍女たちを見て羨ましがったり、曹操が楽しんでいる様子を見ながら飲んでいる者もいた。それ以外の者は興味なく、二人の行動に気付いている。しかし夏侯惇に何か異論を唱えるはおらず、興味無さげに酒を飲み続けていた。
于禁は辺りをきょろきょろとしてしまうが、夏侯惇は平気そうに歩く。于禁は大丈夫なのかと思いながら背中を追いかけた。
庭を出ると広い廊下に入った。庭から聞こえる騒がしい声が遠くなっていく。次第に静かになっていくと、二人の靴や着物が擦れる音しか聞こえなくなる。寧ろあまりの静かさに、于禁は呼吸をして良いのか分からなくなっていた。
「それにしても、疲れたな」
夏侯惇が振り向いてゆるく笑った。そして于禁の隣を歩いてくれる。于禁は咄嗟に「はい」と答えるが、その後に会話の続きをしようにも何も浮かばない。何か話題を堕そうとしても、脳が働いてくれない。
眉間に皺を寄せてしまっていると、夏侯惇の笑みが大きくなった。すると、夏侯惇は意外と穏やかな人物だと知る。第一印象は、曹操の頼もしい右腕としか思っていなかったからだ。それに、曹操を制御する役割としても。
だが曹操に仕えてから陣で手合いをした際には、鋭い眼光が目立っていた。それが、于禁の受けた印象である。
于禁が無意識に歩みを止めてしまうと、夏侯惇が少し遅れて立ち止まった。驚きながら、于禁の方を見る。体調が悪いのかと、心配してくれているようだ。夏侯惇にあった笑みが消える。
「やはり、お前も疲れていたのか。限界だったらここで別れてもいい。まだ慣れない場所だからな。無理をするな、休め」
「いえ、そうではなく……」
「ん?」
本音をぐっと堪えて何でもないと言い、首を横に大きく振る。
「そうなのか、だが無理はするなよ」
何度目の気を遣ってくれる言葉なのかは分からない。だが于禁は徐々にそれが嬉しく思えてきた。他の者ならば、例え上の位の者であっても于禁の厳格な性格や外見により避けていたからだ。しかし鮑信や曹操、それに目の前にいる夏侯惇はそのようなことなど気にせず接してくれている。見える範囲だけでも、その親切心を大事にしようと思った。
于禁はなるべく眉に力を入れないようにしながら「楽しみにしております」と口にする。だが夏侯惇から見れば、それがとても不自然に見えたらしい。再び笑っていた。
「お前にその顔は似合わない。素のままでいい」
「は、はぁ……」
夏侯惇からの言葉を聞いた直後に、于禁は表情を自然のものに戻す。すると夏侯惇からは相当に変な表情をしていたのだろうか、そう思うと恥ずかしくなってきていた。片手で口元を覆うと、顔が熱くなっていく。おかしな話であるが、恥ずかしさのあまりに顔の皮膚が火傷でもしそうだった。
「そこまで気にするな。それよりほら、行くぞ。ここまでのんびりしていては、俺の部屋に着く頃には夜が明けてになってしまう」
「そ、それは困りますな」
二人はそう話すと、夏侯惇が前を再び歩いていく。そして歩いている途中は何も話すことなく、夏侯惇の部屋に辿り着いた。前に居る夏侯惇が扉を開けると、于禁は軽い溜め息をつきながら部屋に入った。
続けて入るが、自身の部屋よりも広かった。寝台が大きく、特に机や椅子が立派だが、当たり前である。曹操の右腕なのだから。それに、夏侯惇の実力はまだ新参の于禁でも分かっている。
「どうした?」
「いえ、何も」
思っていたことを話しても仕方がない。于禁は特に何も考えていなかったふりをしていると、夏侯惇が「適当なところに座れ」と促した。しかしどこに座れば良いのか分からない。
辺りを見回してしまっていると、迷っているところを夏侯惇が気が付いてくれた。自身の部屋よりも作りの良い椅子の元に向かうと、ここに座っていて欲しいと再び呼び掛ける。于禁は躊躇を見せてしまうが、そう言われたので素直に指定された椅子に座った。
そこで夏侯惇と酒を飲むと言えど、肝心の酒が無い。どういうことなのだろうか。夏侯惇の方をじっと見るが、なかなかそれを伝えられないでいる。遂には視線を逸らしてしまうと、夏侯惇が口を開いた。
「そこまで早く飲みたいのだな。今から酒を持ってくるから、待っていろ」
どうやら誤解を招いていたようだ。違うと否定をしようとしたが、夏侯惇が嬉しそうにしながら部屋を出る。間に合わなかった。閉まった扉に向けて手を伸ばしてしまうが、だらりと垂れた。何か言う意識すら持てなかったと、後悔しながら夏侯惇が戻ってくるのを待つ。
部屋に静寂が訪れてから、少し経過したところで夏侯惇が戻ってきた。右腕には酒壺を一つ抱えており、左手には盃が二つある。両手が塞がっているので、足でどうにか扉を開けたようだ。
咄嗟に于禁は立ち上がり、夏侯惇に酒壺を持つと申し出た。しかし夏侯惇は「いい」と首を横に振ると、持っていた物を机の上に多少乱暴に置く。机からは派手な音が聞こえた。置いた場所に傷でもついてしまっているかと思うくらいに。
「あの、机が……」
「机? 大丈夫だろう。それより、椅子も持ってくるから待っていろ」
夏侯惇が踵を返す。そこで于禁は夏侯惇の腕を強く掴んで止めた。驚いたらしく、夏侯惇が振り向き「どうした……?」と言っていた。そこで于禁は腕を強く掴みすぎたこと、そして突然のことに驚かせたことをまずは謝る。
その後は必死な口調で、夏侯惇に自身が持って来るということを伝えた。しかし、夏侯惇はとても冷静に聞いていた。まるで、于禁の言うことが無駄だと思っているような雰囲気である。
「申し訳ありませぬ。ですが、次は私が……!」
「ほう、椅子がある場所が分かるのか? そして、そこから俺の部屋へと迷わず辿り着けるのか?」
「……できませぬ」
夏侯惇からの的確な指摘により、于禁は覇気をすっかりと落としてしまっていた。肩を落とすと、夏侯惇がその肩を軽く叩く。
「いや、すまん……少し、待っていてくれるか?」
「はい」
情けないと思いながら返事をすると、夏侯惇がすぐに部屋から出た。一人になった于禁は、どうにも夏侯惇の前のみこのような姿を見せているような気がする。
何故なのかは分からないが、仮にも夏侯惇の方が位は上だ。下の者に比べたらの話だが問題は無い。それでも、このままではいけないので気を引き締めた。二度とこのようなことを起こしてはならないと。
「于禁、戻ったぞ」
夏侯惇が簡素な椅子を持って戻ってきた。それに座るつもりなのだろうか。さすがにそれはまずいと思い、夏侯惇に今座っている椅子を譲ろうとした。だが夏侯惇はそれを無視して、二つの盃を並べる。酒壺を開け、手際良くそれぞれの盃に同じ量を注いだ。
「ほら、飲むぞ。暗い顔をするな」
酒が注がれた盃を差し出した。于禁はそれをおずおずと受け取ると、夏侯惇ももう一つの盃を持つ。夏侯惇はすぐに飲み始めた。
肘が上がっていき、一気に飲み干したようだ。満足げにしたが、まだ口を付けていない于禁を見て、少し口角を下げてしまう。気付いた于禁は、すぐに酒を飲んでいった。しかし全て飲み干すことはできず半分残すと、そこに夏侯惇が酒を継ぎ足す。次に自分の空の盃に酒を注ぐと、またしても豪快に飲んでいった。
するとみるみるうちに夏侯惇の顔が赤く染まっていく。酔ってしまったようだ。ふらふらとしながらも、三杯目を飲もうと酒を盃に流していく。
「お前も、もっと飲め。全く……それより、孟徳ときたら……」
酒壺を持ち于禁の盃を確認したが、まだ減っていない。なので夏侯惇は酒壺を机に置くと、愚痴を間断なくこぼし始めた。その全ては曹操のことだが、まるで手が焼ける子について語っている親にしか見えない。
おかしくなり小さく笑ってしまったが、夏侯惇は些細なことに気が付かなくなっているようだ。于禁の発言を許さないまま、夏侯惇は愚痴を吐いていった。于禁はひたすらに、それに頷いていく。
四杯目の酒を飲んだところで、夏侯惇の口数が少なくなっていった。どうやら、酔いがかなり回っているようだ。
「夏侯惇殿、もうお休みになられた方がよろしいかと」
「んん……俺はまだ、酔ってはいない……」
耳や鼻までも赤くなっている。それでも夏侯惇は頑なに認めたがらない。溜め息を出した于禁はもう一度、夏侯惇に今日は酒を飲むのは止めた方がいいと伝える。
「まだ、俺は……」
酔っていないと言おうとした夏侯惇だが、途中で眠ってしまった。がくりと体が于禁の方へと倒れるので、慌てて支える。心地よさそうな寝息を立てており、髪が乱れて前髪がはらりと垂れた。夏侯惇の一気に顔が幼くなり、于禁の心が僅かに疼いてしまう。
これほどの、人の無防備な姿は初めて見たからだ。それくらいに、夏侯惇は信用してくれているのだろうか。認めてくれたのだろうか。
そう思うと、于禁は嬉しくなった。まだ、自身は新参の者である。ましてや、夏侯惇は曹操と幼馴染の従兄弟だ。
するとそれだけで自身を褒めることはもう良いだろうと、夏侯惇を起こさないように寝台へと引きずって行く。ほとんど同じくらいの身長のうえに、筋肉は全身にある。軽くない筈がない。于禁は必死に寝台に近付くと、そこからは多少荒いが夏侯惇の体を持ち上げた。重い物を運ぶ労働者になった気分である。しかし夏侯惇は起きる気配がない。
ようやく寝台に寝かせると、仰向けにさせてから後頭部を枕に丁寧に乗せた。一先ずの安堵をした後に、布団を掛けると于禁は完全に安心する。
そして寝台から離れると、机に置いてある酒壺と空の盃を持った。
「おやすみなさいませ」
小声で囁くように、相変わらず寝ている夏侯惇に向けてそう言った。返事など来ないことは当然であるが、一呼吸置いてから于禁は夏侯惇の寝室を出る。
広い廊下がすぐに見えるが、とても静かである。まずは持っている物をどうにかしなければならない。なので唯一の音を響かせながら、于禁は廊下を進んでいったのであった。

しばらくの月日が経過し、黄巾党の他にも呂布という脅威も出現した。当然、曹操はそれらを敵視している。軍議にまだ末席ながらも参加した于禁だが、意見は同じだ。
それまでに黄巾党を征伐していたが、戦を重ねる毎に曹操から称賛を受けていた。活躍をし、見事な兵への指揮をしていたからだ。曹操や周囲からは新参の者から、有能な将へと評価を上げていた。曹操の一部の親族を差し置いて。
妬みの視線もあったが、于禁は調子に乗らないでいる。曹操に貢献することが、当然だと思っているからだ。ただ、無言で称賛の言葉などを聞いていた。そして夏侯惇からも同じようなものを。
それが評価されたのか、于禁の位が上がっていく。小さな軍勢を纏めるまでに至った。
何度も戦をしていくうちに、ようやく黄巾党の残党まで討つことができた。大量の血や死を見るが、于禁は冷静さを保つ。一方で中にはほんの数名だが、気が狂った者が居た。夜には悪夢を見、昼には嫌な幻覚を見てしまうのだと言う。侍医に見せても治らないうえに、薬などで治療する方法など発見されていない。
だがそのような兵らの行方など、于禁は知ることができなかった。いつの間にか、消えるように居なくなっていたからだ。それについて話すことは、暗黙の了解のように誰も話したがらないでいる。
兵や将らは次は自分だと怯えていた。まだ呂布や董卓という問題が残っているからだ。まだ、苦しい戦をしなければならないからと。
根本から士気がじわじわと下がる中でも、于禁は呂布を討つことに専念した。このような状況では、誰かの命と引き換えにしなければならないことは承知である。
まだ呂布が率いる軍にまでは到達していないが、他の場所に侵攻している小さな軍を細かく潰していた。まずは一番近い場所からだが、見事な戦果を于禁は毎回持ち帰る。やはり犠牲があるので、その度に密かに心を痛めていた。
するととある戦に勝ち、城内の玉座の間に座っている曹操に報告した時である。陽が高く昇っている。
この日は曹操は報告を聞くなりすぐにどこかへと行った。何やら、協力関係にある者たちと軍議を行うらしい。于禁はそれを見送ると、いつも曹操の近くに立っている夏侯惇に目を向けた。どうやら曹操に着いて行かない様子である。
珍しいと思った。夏侯惇は、曹操の右腕だからだ。常に傍に居ることが当然だと思っていた。
夏侯惇が于禁の視線にきがついたのか、何やら口を開く。
「どうした? 疲れたのなら早く休んだ方がいい」
「まだ、大丈夫です。ご心配、痛み入ります。では」
拱手をすると、于禁が立ち去ろうとした。そこで、夏侯惇に留められた。言葉ではなく、手で直接。いつの間にか肩を掴まれていたからだ。
「そういえば、この前はすまなかったな。恥ずかしいことだが、途中から記憶が無かったが、俺はお前に何か迷惑を掛けただろうか」
「貴方は何もされておりませぬ」
于禁は咄嗟に嘘をついた。真実を話したら、面倒になると思ったからだ。今や夏侯惇のことは世話焼きの男としか見ていない。もしも本当のことを言えば、謝罪をしたうえで「また飲もう」などと提案をしてくることだろう。嫌ではないが、二人きりで飲むことは得意ではないと思っていた。普段の会話でさえ、人とあまり続かないのだから。
「そうだ、また俺の部屋でだが、飲まないか? 次は先日のことが無いようにする」
微かに想像していたが、またもや誘われてしまうが断ろうとした。夏侯惇には、曹操を支える役目があるだろう。四六時中ではないが常に曹操と共に居れば良いのではないか。なので断る返事を喉から出そうとしたが、夏侯惇に先回りをされてしまう。
「……お前、嫌そうな顔をしているな? 断る権利は無いぞ。それより、今夜でもいいか? ……いや、明日だな」
「い、いえ! また夏侯惇殿の愚痴を聞かされるのは……いえ! 何でもありませぬ!」
つい本音の欠片が出てしまった。于禁はすぐに訂正をしようとしたが、夏侯惇は確実に聞いていた筈だ。唇をきつく結ぶと、夏侯惇がおかしそうに笑う。それも、腹を抱えている。相当のようだ。
「何だ、お前、想像よりも面白いではないか。冗談を言うとは。では、明日の夜に俺の部屋で待っている」
そう言って夏侯惇は足早に去っていった。冗談だと思われてしまっていても、于禁は失言したことに後悔する。がっくりと項垂れると、曹操が歩み寄って来た。夏侯惇と入れ替わりの形になるが、夏侯惇を探しているのだろうか。夏侯惇と先程会話していたことを伝えた。しかしそうではないと曹操は否定をする。
竹簡を懐から取り出すと、広げてから于禁に渡した。そこには、地名と大まかな敵兵の人数を簡潔に記されているのみだ。于禁は素早く読み取り、どうするか判断する。
「夜が明ける前に、呂布が敷いた小隊を迎え討て。場所はこの辺りじゃ。後で敵の援軍が来ることは無い。お主の部隊だけで良い。偵察が確認したらしくてな。陽が沈んだらすぐに発て」
「はっ! 御意!」
素早く拱主をすると、窓から太陽の位置を確認した。まだ高い位置にあるが、兵に進軍する旨と作戦を頭の中で練る。曹操が「よろしく頼むぞ」と言うと、立ち去る。そこで再度拱手をして見送ると、于禁も玉座の間から去った。
戦の準備を全て終えた頃には、空が橙色に染まっていく。沈みゆく太陽を見ながら、出陣する為に最終確認をしていった。まずは肝心の、武具を見ていった後に馬を見る。大丈夫そうだ。なので既に隊列を形成している兵たちの前に立つと、背中を向ける。
太陽はすぐに沈んでいった。半分程沈んだところで、于禁は出陣していく。
馬で目的地まで駆けた頃には、辺りは真っ暗になっていた。この周辺で、呂布の小部隊が通るらしい。現在地は村の外れの静かな山の中である。曹操がここを指定してくれたことを今知った。
于禁はやはり素晴らしい人物だと思うと同時に動きを止め、通り道になっている側の草むらに固まって隠れるように歩兵たちに指示する。そして騎兵たちはその遥か後ろの木々の隠れ、待機するように指示した。来る方向は分かっている。なので進軍しているところに奇襲をかけるという、とても分かりやすい作戦だ。
暗闇の中で、于禁は敵部隊が現れる方向へと目を光らせる。報告の通りではこちらの方が兵力は少ない。この作戦に失敗してしまったならばすぐに兵が全滅してしまい、自身も殺されてしまうだろう。外には出さないが自信と不安の半分が、于禁の頭の中を動き回る。
遂には緊張により喉が乾いた、その瞬間に幾つかの松明の灯りが見えた。商人の規模ではない。すると歩兵が静に走って来て、呂布の元に居るという旗を確認したと言う。于禁はすぐに歩兵に最初の奇襲をかけろと命令した。歩兵はすぐに頷くと、静かに素早く走り去って行った。数秒後には、歩兵らが奇襲をかける。やはり、松明の灯りは呂布軍の小部隊だったようだ。
瞬時に静かであった山の中に、喧騒が生まれる。人の足や馬の音、蹄や金属同士がぶつかる音、それに断末魔。それらが聞こえてきたところで、騎兵たちにも進軍するように命令した。すぐに戦闘している場へと、騎兵たちが駆けていく。最後に于禁も進軍すると、見たところはこちらが優勢であった。敵兵は奇襲に遭い、動揺しているからだ。まともに対処できていない。
兵の数は逆転してきており、こちらが勝つのは明白だ。敵兵の死体の数が目立ってきている。だが気を抜くことなく、攻撃を繰り返す。刀や武器で、敵兵の主に首や頭部を貫く。頭を無くした体は、簡単に地面に倒れる。血の匂いが強くなり、于禁の戦闘心がより滾っていく。そこで転がった松明もあるが、歩兵らが拾ってくれていた。なので暗闇の中でも間違えることはない。于禁はそのまま、容赦なく攻め続けた。
ようやく敵を全滅をさせるが、こちらにも犠牲があったらしい。于禁は死んでしまった兵たちの死を心の中で悼むと、すぐにこの場を離れる。まずはいち早く、曹操に報告する為に。
馬で城へと駆け、到着した頃には陽が昇ってきていた。朝日が小さな眩しさで、于禁の視界を強く刺激する。目を細めながらも城が見えてくると、馬の速度を上げていった。明るさに慣れてきたので、瞳孔が開いていく。
城に着くと玉座の間へと走る。鎧は砂埃などで汚れているが、急いで来たのでやむを得ない。馬に乗っていたので、敵兵の返り血が付着しなかったのが幸いである。
到着すると曹操は玉座の間に居た。綺羅びやかな装飾が施されている玉座に座り、静かに竹簡を読んでいる。時折に袁紹の名を呟いていたが、何かあったのだろうか。だが今はそれについて話す必要はない。なので曹操の名を呼ぶ。
「……む? 于禁か。持っていたぞ」
拱手をして膝を床に着け頭を下げた于禁は、まずは戦果を報告する。奇襲が成功したことだけを伝えてから、曹操の返事を待つ。そうしていると、曹操が開いている竹簡を緩く巻いてから膝の上に乗せた。
竹簡を読むことを止めたことから、何か言いたいのだろうと察した。僅かに顔を上げ、曹操の顔色をうかがう。見ればいつもとは表情が変わらない。内心で首を傾げた。
「……ふむ、よくやったな于禁。ご苦労だった。下がってよい」
「はっ!」
頭をしっかりと上げると、曹操は再び竹簡を開いている。再び読もうとしているのだろう。ほっと胸を撫で下ろすと、于禁は拱手してから玉座の間を去った。
「疲れているのか?」
直後に聞き覚えのある声が聞こえた。咄嗟に声の聞こえた方向へと視線を動かすと、そこには夏侯惇が居た。平服姿で、幾つかの竹簡を抱えている。玉座の間に入ろうとしているのだろうか。
「いえ、そうではありませぬ。では、私は兵の鍛錬が……」
「兵を休ませないつもりか? それは良くないな。先程、戦から帰ったばかりだ。今日くらいは休んでもいいだろう。孟徳に言っておく」
「で、ですが……!」
反論をしようとしてしまっていた。そこで夏侯惇が「文句があるのか?」と苛つきのようなものが含んだ声で問いかけてくる。于禁は怯えた。出そうとしていた言葉が引っ込んでしまうと、夏侯惇の言う通りにした。拱手をしてから、夏侯惇と別れる。
武器庫などで武具を慎重に置いていくと、周囲に疲れを見せることなく自室に戻った。そういえば今夜は夏侯惇と酌み交わす約束をしていたことを思い出すと、まずは身を綺麗にしようとする。
水の張った桶を準備すると、床に座ってからきっちりと結っていた髪を解いた。長く黒い髪がさらりと揺れる。櫛を手に持って髪を梳かすが、途中で引っかかってしまう。溜め息をつきながら慎重に櫛から髪を抜いていく。乱暴に抜いていけば髪を纏められず、身だしなみのことで兵に示しがつかないからだ。
ゆっくりと櫛を抜いていき、再び梳いていった。何度か引っ掛かっては抜くことを繰り返すと、軽く髪を結う。肩に髪が垂れないように。
次に着物を脱いで半裸になった。乾いた手ぬぐいを桶に入っている水につけると固く絞り、首から下をそれで拭いていく。砂埃で薄汚れている皮膚を撫でるように綺麗にしていくと、次は下半身である。水の中で手ぬぐいを洗ってから絞った。桶の中の水は薄く濁っている。
着物を取り払うと膝立ちになり、局部を避けるように拭いていった。そこでふと、いつ性欲を発散させたのだろうかと考える。気が付けば曹操に仕えてからは、異性とのまぐわいを行っていない。耐えることはできるが、時折に日常の場面でどうにもできないことがある。まだ、盛っていると呼べる年齢が故に。
反応をする気のない局部をじろりと見てからは、忘れようと思った。脅威が近くにある。今はそのことばかりに気にかけている場合ではない。
尻を床に着けると、膝から下も拭いていった。そこでようやく全身を拭き終えると、手ぬぐいを桶の水でよく洗う。水はとても濁っていた。着物を軽く着てからその桶を持ち、部屋の外で捨てる。残りは局部だが、どこかの水場で綺麗にしようと思った。それに、手ぬぐいでは到底は手入れができない髪も。
そのまま桶と手ぬぐいを持つと、いつしか兵に教えてくれた城外の近くの水場へと馬で駆けて行った。この辺りは、敵兵の存在など皆無である。城外の周辺には、曹操が敷いている兵が見回りをしているからだ。
水場へと辿り着くと、陽が高く昇っていた。しかし眩しいとは思わないが、瞳孔が小さくなる。太陽を見ながら水場の近くに降りた。今は誰も居ないようだ。とても良い時に来たと思えた。
ここは木々に囲まれており、小さな山のようになっているので滝もある。元から木々が点在しているので、不自然な箇所には見えない。
人目を完全に避けることができるので、于禁は安心しながら着物を脱ぐ。そして冷たい水にゆっくりと入ると、全身が清められる感覚に浸る。
水とは不思議なものだと思いながら、于禁は滝の方に向かう。滝に打たれると目を閉じた。上から落ちてくる多量の水が、頭からつま先にかけて落ちてくる。最初は痛みや冷えがあったものの、感覚が麻痺してきた。ここで于禁は一人の世界に入ると、この時間がとても好きだと思えてくる。誰も居ない、隣には自然だけがあるのだから。
ずっと滝に打たれているといつの間にか陽の高さが変わっていたことに、ふとした冷えで気付いた。そろそろ、体が冷えに耐えられなくなってきたのだろうか。
体をぶるりと震わせた後に、ようやく滝に浴びるのを止める。湿った手ぬぐいで濡れた体や髪がの水気を取ると、着物を羽織った。紐で長い髪を軽く縛る。
そうしていると、誰かの気配を感じる。当たり前なのだが、隠す気のない足音で分かった。
足音の方向を見ると、かなりの体格の男だということは分かる。同性同士とはいえ、あまり人と居合わせたくはない。なのですれ違ってしまってでも、さっさと立ち去ろうとした。
「于禁ではないか、奇遇だな」
そこには、ただの着物姿の夏侯惇が居た。恐らくは于禁と同様に水浴びか何かに来たのだろう。慌てて拱手をした。
この場に長居する必要はもう無いので、于禁は立ち去ろうとした。だが夏侯惇に引き止められる。
「于禁、昨夜の戦は見事な手際だったらしいな。孟徳が褒めていた。これからも精進せよ」
「はっ! では、夏侯惇殿、失礼致す」
ここで会話が終わると思った。しかし于禁の予想は外れ、夏侯惇が会話を続けていく。
「もう終わったのか?」
「はい、体が冷えて参りましたので」
その言葉を聞くなり、夏侯惇は引き下がった。部下との交流に熱心なのだろうかと思うが、于禁は人と楽しい会話をすることのできない人間だ。愛想が良く、穏やかな人柄の夏侯惇とは大違いである。
心の中で項垂れてしまうと、今度こそ夏侯惇の前を去って行った。馬に乗り、急いで城内に入る。陽の高さは更に変わっており、随分と低くなってきた気がした。
自室に戻ると、未だに寒さがあるので着物を着込んでいく。そして落ち着くなり、椅子に座った。陽が沈むまでは、様々な竹簡を睨もうと思ったのだ。現に机の上には、巻いてある竹簡が幾つかあるのだから。
時に墨を含ませた筆でなぞっては、じろりと凝視する。それを繰り返していると、竹簡に記されている文字が見えにくくなっていた。はっとしながら顔を上げると、部屋が薄暗くなっている。陽が、沈みかけていた。
夏侯惇との約束は陽が沈んだ頃である。それまでにはまだ余裕があるが、夏侯惇は于禁にとっては上官である。失礼の無いように、身だしなみを整えなければならない。
着物ではなく平服に着替えていくと、髪を整えた。髪を縛っていた紐を解くと、櫛を取り出してから手慣れた手付きで梳いていく。髪が整うと、櫛を持ったまま結い始める。頭頂部の辺りで纏めると、冠を被せた。これで、全ての身だしなみが整った。
窓を見ればまだ陽は完全には落ちていない。なのでまだ自室から出ずに、寝台の縁に座った。沈みゆく陽を、じっと見つめる。
そういえば、このように外を眺めるのはいつぶりだろうかと考える。思えば鮑信が亡くなってから、一人で室内でゆっくりしていない。外から寝室の天井へと目線を変えると、溜め息をつく。そうしていると、いつの間にか陽が沈みかけていた。急いで立ち上がり、寝室を出る。
薄暗く長い廊下を歩くと、夏侯惇の部屋の前に辿り着いた。この辺りは燭台の小さな火で照らされていた。廊下の壁の等間隔に燭台があり、兵が火を灯して回っている。夏侯惇の部屋の前を通り過ぎていた。もうじき、于禁の寝室の周辺の燭台にも火が灯るのだろうか。
木製の扉を見ると、こんこんと軽く叩く。着物姿の夏侯惇の「于禁か? 入れ」という声が聞こえた。なので于禁は、扉を開ける。
静かに開けたつもりが、思ったよりも音が廊下に響く。この辺りは人気、兵の姿すら無いので余計にだ。于禁はそれを気にしながら、夏侯惇に拱手をした。
「失礼致す」
「来てくれてありがとう。それよりほら、飲むぞ」
夏侯惇は寝台の縁に座っていた。手には酒壺と二つの盃がある。隣の空いている場所を叩いているが、隣に座れということらしい。于禁は若干の躊躇を見せるが「はい」と返事をすると、素直に隣に座った。寝台からは、大きく軋む音が鳴る。
盃を渡されるが、緊張が走らせながらぎこちなく受け取る。夏侯惇はそれを見て笑う。
「どうした、そこまで畏まって。今回が初めてではないだろう」
「はい、ですが……」
言葉の続きなど無いというのに、于禁は続きがあるような返事をしてしまう。更に焦りを広げてしまっていると、隣の夏侯惇がおかまいなしに持っている盃に酒を注いだ。
「飲むぞ」
並々と酒が入ると、次は夏侯惇自身の盃にも注ぐ。同じ量まで入ると、夏侯惇はすぐに盃を空にしていった。相当に、酒が飲みたかった様子だ。
しかしこのままでは、前回のように夏侯惇が飲み過ぎてしまうのではないかと危惧した。なので于禁は、二杯目を注ごうと酒壺に伸ばした手を止める。
「なりませぬ。このままでは、前のように……」
「前のように? どういうことだ、于禁。俺は飲み過ぎて何かしたのか?」
于禁ははっとする。そういえば、夏侯惇に嘘をついていたことを忘れかけていた。言いかけていた言葉をすぐに止めるが、訂正などもうできない。夏侯惇がしっかりと聞いていたからだ。
「ほう、あれはただの冗談ではなく、嘘だったということか」
「申し訳、ありませぬ……」
「まぁ良い。正直に申してくれたからな。それに免じてやろう」
案外、あっさりと許してくれた。だが二度目は無いのだろう、于禁はそう感じていた。夏侯惇の表情に怒りは無いが、何となくだ。
「于禁、お前も飲め」
「は、はぁ……」
夏侯惇が酒壺を手に取ると「早く飲め」と、更に促してくる。
盃に入った酒を見た後に、于禁はそれを一気にあおった。酒が喉を通るが、熱い感覚にむせてしまう。いつもはこのようなことは無いというのに。空になった盃の底を夏侯惇に見せると、良くやったという声が返って来る。
なので夏侯惇が空になった盃に酒を注いでくれると、次に自分のものにも注ぐ。そしてすぐに夏侯惇は二杯目の酒を飲みきってしまう。于禁はその良い飲みっぷりを見てから、自身も酒を無くしていった。
それを続けていくうちに、ようやく酒壺の酒が無くなりかけていた。二人は酔ってしまい、顔が赤くなる。それに真っ直ぐに歩けない状態であった。現に二人は用を足す為に立ち上がるも、壁を伝いながら向かっていたからだ。
「あと、もう少しだが、俺が飲むぞ……」
「えぇ……」
酒壺を持った夏侯惇は、それを揺らして残りの量を確認した。かなり少ないらしく、液体が壺の中でちゃぷちゃぷとぶつかる音が鳴る。
夏侯惇はその残りを盃に注ぎ切ると、空になった酒壺を行儀悪く寝台の中央に投げた。于禁はそれを注意するまでの思考が働かないので、何も思わず夏侯惇の方を見る。
「これで今日はもう最後か……」
名残惜しそうに夏侯惇が盃の中の酒を眺めた後に、潔く飲み切った。これで、酒はもう無い。
そこで急激に体が重くなったのか、于禁は寝台にごろりと仰向けに寝てしまう。そして頭にある冠が邪魔になってきたので、それを乱雑に取ってから再度横になる。上官の寝台というのも、お構いなしに。
一方の夏侯惇は于禁のその行動を気にせず、同様に横になった。二人は天井を見るが、特に面白いものなどない。なのでまずは先に夏侯惇が口を開く。
「……お前は、孟徳に仕えてから、よくやっている。目覚ましい活躍だ。その調子で、孟徳に貢献してやってくれ」
酔っているというのに、言葉が静かである。さすがの于禁でも起き上がってから、夏侯惇の方を見た。だが夏侯惇の目が細くなりかけている。そろそろ、酒により意識を失いかけている状態だ。
于禁は体調を崩してしまってはいけないと、その介抱をしようとした。しかし酔いのせいでまともに歩けないうえに、視点ですら定まらなくなっていく。
なので介抱することを諦めると、夏侯惇はいつの間にか眠ってしまっていた。于禁はもうどうにもなれと何もかも投げ出すと、夏侯惇の横で眠っていったのだった。
翌朝に目を覚ました于禁は、夏侯惇に必死に謝罪をしていた。だが夏侯惇は特に気にしていないと、于禁をなだめていて。

それからしばらく経過し、于禁は曹操と共に宛で戦をしていた。結果は将を降伏させる。しかしすく反乱を起こしたので先に曹操を撤退させてから、その後に于禁が撤退をしながら戦うことになる。
手勢は僅かではあるが、それでも奮闘していた。見事な指揮ではあったが、死傷者が出てしまう。于禁はそれに悔やみながらも、この状況で最適だと思う命令を出し続ける。幸いにも、離脱者だけは出さなかった。
すると隊列を乱すことなく帰還していた于禁は、とある出来事を知ってしまう。曹操が寛大に扱っている青州兵が、味方に略奪を働いたというのだ。嘘かと思ったが、それは信用している者からの情報でさる。なのでそれを信じ、于禁は略奪があったと聞く場所に向かう。酷い有り様であった。
于禁はこの状態であっても、青州兵の討伐をすることにした。そのようなことをするなど、曹操に対して裏切っている他ない。許されることではない。于禁は怒った。
なので于禁はすぐに青洲兵らが残したらしき痕跡を見つける。足跡が多数あるが、確かな足取りでここから離れた跡が幾つもあった。これが、青州兵らが残した痕跡なのだろう。
それが分かると兵を引き連れて討伐に向かった。于禁のあまりの怒りぶりに、従っている兵らは怯えている。それに、そのようなことをしても良いのかと。
「今から戦うのは、味方ではない。敵である。心して討ちに行くぞ!」
于禁の言葉に迷いはない。はっきりとした目つきで兵らを見る。恐らくは眼光が更に鋭くなったのだろうか、兵は恐ろしい存在に睨まれたかのように、恐怖で目を離せなくなる。
「いざ! 青洲兵の征伐へ!」
兵たちにそう指示をすると、于禁の軍は青州兵の跡へと馬を駆けて辿っていった。
痕跡を辿ると、やはり青州兵に辿り着けた。見つけるや否や、于禁は青州兵を攻撃する。馬に乗りながらも、三尖刀を振るい青州兵の首を次々と落としていった。時折に三尖刀の穂先に付着した敵兵のぬるつく血を振るって払いながら青州兵を斬っていく。左上から右下へ、斜めへと。だが全員を斬れる訳ではない。悔しくも青州兵が逃走したので怒りを現しながら追いかけていく。
すると青州兵が曹操に于禁が攻めて来たことを伝えていたらしい。陣を敷いた後に曹操の元へ駆けつけ、事情を伝えた。すると曹操は于禁の言葉をしっかりと聞いてくれる。一つ一つに丁寧に頷いてくれると、于禁を信じて褒め称えたのであった。
後に于禁の真実が改めて証明され、城に戻る。空が橙色に染まっている頃だ。
于禁は休まずに自室で装備していた武具を磨いていった。これからも曹操に貢献する為に。誰にも見えないが、心から曹操に忠誠を誓う為に。
そうしていると、夏侯惇が訪ねて来た。突然のことであったので、城に戻った今でも戦の汚れを落としていない。さすがにこの状態で夏侯惇に会うのはどうかと思ったので、于禁は「少々お待ちを」と言ってなるべく身だしなみを整えようとした。その時に、夏侯惇が自室の扉を開けてしまう。于禁は跳び上がった。
「夏侯惇殿……! もう少し、お待ち下され!」
反射的に拱手をしてから、于禁はそう述べる。しかし夏侯惇は于禁のことなど構わずに、口を開いた。
「于禁、孟徳から聞いたぞ! 見事だったな!」
于禁は口をぽかんと開けたが、再び拱手をする。
「いえ、私は当然のことをしたまでです」
「そう謙遜をするな。お前はいつもそうだな」
拱手をしていた手を無理矢理に夏侯惇に解かれると、于禁はあまりの驚きに口をあんぐりと開けた。すると上機嫌の様子の夏侯惇が、肩をぽんと軽く置いてくる。手から顔へと視線を移すが、夏侯惇の表情は変わらない。
「それよりも、腹が減っただろう? 飯を食わないか?」
言われてみれば、于禁は腹が減っている。
しかし夏侯惇は曹操に付き添わなければならないと、首を横に振った。直後に腹から空腹音が鳴ってしまったので、于禁は「違います!」と言いながら否定をする。一方で夏侯惇はくすくすと笑いながら于禁を見ていた。おかしくてたまらないらしい。
「なっ……!」
于禁は思わず夏侯惇を睨むが、微塵も聞いていない。寧ろそれが余計に笑いを誘ってしまったらしい。遂には、于禁の肩を支えにしなければまともに立てなくなっていた。
そのような夏侯惇を見て、眉間に深く皺を刻む。
「何が、おかしいのですか」
相手は上官である。それでも于禁はそのようなことを口にしてしまった。だがそれは怒りから来るものではない。焦りや恥ずかしさからくるものである。
「いや……于禁、お前……嘘が下手過ぎてな……いや、良いことだと思うぞ」
夏侯惇の肩が震えるので、相当なのだろう。そこでふと少し前に夏侯惇に、とても下らない嘘をつくことに二度目は無いことを思い出した。しかし本人は一度目の嘘のことを分かっている。眉をひそめるが、本人にそれは伝わらない。
嘘を重く認めた于禁は、正直に言い直す。
「……腹が減ったので、是非ともご同行させて頂けますか。ですが、もう少し身なりを整えてから」
視線を逸らしたくなったが、どうにか視線を夏侯惇に合わせる。嫌いだとか思われないのだろうか。そう不安になっていたが、夏侯惇は一つ返事で了承してくれた。なので夕餉の為に于禁は手早く身支度を整えると、夏侯惇と共に部屋を出た。于禁は夏侯惇に着いて行く。
広い庭がよく見える、広い食堂がある。そこには大きな机や椅子が幾つも並んでおり、他の将らが夕餉を取っていたり酒盛りをしていた。于禁はそこで夕餉を取るべきだが、夏侯惇はそのような低い身分ではない。
なので躊躇の言葉を出そうとしたが、夏侯惇が空いている席に早速座るなり「早くしろ」と言う。于禁は何も言えないまま、夏侯惇の向かい側に座る。
二人が座っているのは広い庭が見えない、一番隅の席だ。人気がない席として将らの間で有名である。そこで良いのかと、ようやく口を出すが夏侯惇は頷く。これ以上は何も言えなくなった于禁は黙ることにした。
城の者を呼び、食事を出させる。二人は周りの喧騒に包まれたまま、食べ進めていった。
完食するまでには、時間がそこまでかからなかった。于禁は勿論腹が減っていたが、夏侯惇も同じだったのだろう。内心でほくそ笑みながら、空になった皿を見つめる。綺麗に平らげられていた。
「美味かったな」
「はい」
短い会話を終えるが、于禁はこのままではいけないと思った。夏侯惇か相手でも、会話が続かないからだ。どうして自身はここまで、つまらない人間なのだろうか。自責の念に駆られた。
だが何か話を膨らませなければ、と焦っていると夏侯惇が立ち上がる。
「ではな、楽しかった」
そう言って夏侯惇はこの場を去ろうとした。于禁はすかさず立ち上がっえ拱手をする。しかしこれでは良くないと、于禁は夏侯惇を言葉で引き止める。
「あの、夏侯惇殿!」
「ん? どうした?」
夏侯惇の歩みが止まる。そしてわざわざ踵を返し、夏侯惇が返事をしてくれた。
「ありがとうございました。また、貴方と夕餉の時間を楽しめたら幸いです。せん……」
「あぁ、構わん。お前と居ると楽しいからな、また誘おう」
そう言って夏侯惇は去って行った。そして于禁は夏侯惇からの言葉を脳内で反芻させ、耳に残っている声を繰り返す。ひたすら「楽しいから」を。
自然と口角が上がってしまうが、自身を律すると城の者に片付けを頼み自室に戻って行く。陽が沈み、夜になっていた。于禁は自室の窓から空を見て、久しぶりに表情を緩めていて。

それから幾つか日を消費したある時、城内がかなり騒々しかった。呂布討伐に曹操と共に夏侯惇が向かっていて、帰還した直後である。結果は、呂布を討つことはできなかったらしい。
于禁はその頃は城内で兵と共に鍛錬に励んでいた。曹操からは、鍛錬しながらも少し休めと命令されていたからだ。真上にある太陽の下、于禁は持っていた武具の握り心地を確認している最中に気付いた。だが自身には関係ないと思いながら、鍛錬を続けていく。
本日はとても調子が良かった。武器の振りが早いうえに、自身の癖を見直すことができたからだ。その癖とは、左上から右下によく振るっていることである。利き手や武器の形状のせいではあるが、これでは敵に予測される可能性が高い動きだ。なので良くないと気付き、意識してそのような振りをしないようにした。于禁の不機嫌そうな表情が少しは和らぐ。
時間が経過して、于禁はようやく鍛錬を終えた。兵は疲れでぐったりしているが今回は大目に見てやろうと思い、鍛錬中に乱れていた隊列を整えないまま立ち去る。背中で兵たちの安堵や疲労の溜め息を受け取った。
武具を外して自室に戻る途中の広い廊下で、城内の騒々しさの正体がようやく分かった。何やら、夏侯惇が負傷したらしい。しかし曹操に怪我が無かったのは幸いだが、右腕となる夏侯惇に何かあるのは良くないことだ。落ち着いたら見舞いに行こうと考えた。
「于禁……」
そこで、廊下で聞き覚えのある声が聞こえた。背後からである。なので踵を返すと、見慣れない夏侯惇の姿があった。顔の左半分が、処置として白い布が丁寧にぐるぐると巻かれているからだ。それに着物を着ているが、少しだけ崩れていることが分かる。
それを見て于禁は驚くが、落ち着かなければならないと思った。負傷した者の前で出すには相応しくない感情だからだ。
「夏侯惇殿、ご無事で何よりです」
「あぁ……」
夏侯惇は少し複雑そうだった。何だか、今の状態に後悔しているように見えたからだ。それについて尋ねようとすると、どこかから侍医の声がした。夏侯惇を探しているらしいが、当の本人は機嫌が悪い。
「ちっ、まだ何かあるのか」
すると于禁が何か言おうとしたところで、侍医が夏侯惇を見つけた。かなり怒っている様子である。夏侯惇は処置の途中で抜け出したことが伺えた。
諦めた夏侯惇が溜め息をつくと、顔に巻かれている布の一部分に薄い赤色が混じる。そこは目の辺りであった。瞼や額を負傷したのだろうと思った于禁は、上官相手に悪いが落ち着いて欲しいと伝える。
「夏侯惇殿、侍医の指示に従った方が良いかと。瞼か額を負傷されたのであ……」
「俺は片目を失った」
「えっ……?」
于禁はあまりの驚愕に、言葉を殆ど失っていた。次はどのような感情をすれば良いのか分からず、脳の働きが鈍くなる。そうしていると、夏侯惇は舌打ちをしながら侍医に従おうとした。
「左目を失ってから、幾度も鏡で俺の姿を見せられるのが嫌だったのだ。医療行為として布を巻き付けられている最中だったが、すまんな于禁、嫌な所を見せてしまった」
夏侯惇は落ち着いて反省したらしく、侍医に「処置の続きを頼む」と申し出ていた。頷いた侍医と共に、夏侯惇が立ち去る。それを見届けた于禁は、自室に戻った。簡単な着物に着替える。空はまだ澄んだ青をしているが、黄色い日差しが差し込む。もうじき、陽が沈むのだろう。
陽が昇るまでの予定は無いが、机には竹簡が一つある。それと睨み合っても、陽が沈む前に終わってしまうだろう。どうするべきか悩んだ于禁は、陽が沈んでから夏侯惇の様子を見に行こうと決めた。なので早速机に向かうと、竹簡を広げていく。
予想通りに、陽が沈む前に広げていた竹簡を巻いた。大きく息を吸って吐いた于禁は、椅子から立ち上がる。そして自室をすぐに出ると廊下は薄暗いが、夏侯惇の自室のある方向へと歩いていった。
夏侯惇の自室の前に到着すると、于禁は竹簡に向かった後のように大きく呼吸をした。向かう最中はそうでもなかったが、何故だか緊張してきたからだ。今になって、左目を失明した夏侯惇と、どう接したら良いのかと。
そもそも、于禁はどうしてそこまで夏侯惇のことが気になるのか考えた。結果は普段から自身をよく気にかけてくれる、貴重な存在だからだ。
自身が自覚をしている気難しい性格、それに厳しい顔つきなのであまり人に好かれない。寧ろ自身からでも近寄ろうともしなかった。一時期はそれを重く気にしていたが、今はどうと思っていない。もう、諦めた。
そう考えながら、于禁は扉を軽く叩いた。扉の向こうから夏侯惇の小さな声が聞こえる。入っても良いという答えだ。
扉を開くと、暗い部屋で寝台に座って窓の外をぼんやりとしている夏侯惇が居た。于禁の姿を捉えるなり、こちらへと視線を向けた。見れば夏侯惇は新しく清潔な布が顔の左半分を巻き付いている。そして残った右目は、薄暗い暗闇から鋭く于禁を睨んでいた。
「後悔をしても仕方ないが、今の俺のこの姿が憎い……何故……!」
夏侯惇の声には怒りが含んでいる。于禁はそれがとても恐ろしく聞こえ、足がすくみかけた。
だがどうにか耐えていると、足元に何か光る物が落ちていることに気付く。何だと思いながらかがみ、顔を近付けた。よくよく見れば、これは鏡の破片である。大きく砕けており時折鈍く光っていた。素足で踏んでしまえば、簡単に皮膚が破れてしまうだろう。
「夏侯惇殿、鏡の破片をそのままにされては、怪我をします」
「別にいい」
素っ気なく、夏侯惇にそう答えられた。自室に戻る前はいつもの夏侯惇であったが、再び機嫌を斜めにしてしまったらしい。
話を更に聞けば、治療を行っている最中に他の将に酷い呼び方をされたと。于禁はなだめようとしたが、夏侯惇の機嫌は収まらない。なのでこのまま無難な言葉を掛けてから退室しようとしたが、夏侯惇に「待て」と引き留められる。
「……お前は、馬鹿にしないのだな。他の者は俺のことを盲夏侯など、な……」
夏侯惇が浅く笑いながら言うが、于禁は首を傾げた。馬鹿にする、というのは片目を失明したことなのだが、于禁はそのようなことを思い付かない。
「どういうことでしょうか」
「いや、なんでもない。悪いが、そこの破片を片付けて貰えるか? いや……それより先に、火を点け……いや……」
「落ち着いて下され……まずは、燭台に火を点けましょう。貴方は、寝台に居て下され」
首を横に振ってから、燭台がある場所を聞いた。夏侯惇が答えてくれたが、幸いにも鏡の破片がある場所からは離れている。そっと胸を撫でおろすと、燭台に近づいてから小さな火を点けた。暗かった部屋が、火によりどんどん明るくなっていくが弱い。まるで、今の夏侯惇の心のように思える。
夏侯惇の方を見ると、微動だにせずに顔を逸らしている。やはりその姿が嫌なのだろう。部屋が明るくなり隅々まで仄かに見えるようになったので、于禁に見えないようにしている。
于禁は笑みを浮かべて何かを言うことはできないが、床にある鏡の破片を文句を垂らさずに片付けることはできる。なので黙っててきぱきと鏡の破片を片付けると、床の障害物が無くなった。これ以上はもうできることはない。于禁は一つ息を吐いてから立ち去ろうとする。
「……すまんな。このようなことで臍を曲げるのは、今夜限りにする。呂布を早く討たねば……」
「はい、夜が明けたら、またいつもの頼もしい夏侯惇殿の姿を見せて下され。そして、殿に呂布の首を」
于禁は振り返ることなく背中を向けてそう返すと、最後は夏侯惇の姿を見ることなく部屋を出た。廊下には微かな人の話し声、それに火の明かりが壁に等間隔に灯っている。于禁はそれらを、少し眩しげにしながら自室に戻って行く。そして部屋に辿り着くと、空が明るくなったら夏侯惇とまた話したいと思った。
このようなことが自身に起きるのはとても珍しい。以前仕えていた鮑信以来である。于禁は内心で驚くが、今は夏侯惇のことが気になりながらこの夜を終えたのであった。一人で、寝台の上に転がりながら。

日が何度も数転して、于禁は曹操に従軍して下邳で呂布を生け捕りしていた。ようやく、呂布の脅威に怯えることが無くなったのだ。これまで大量の血を犠牲にしてまで。
その際に張遼という将も捕らえているが、曰く曹操に仕えたいのだと言う。于禁としては多少気に食わない態度だったが、曹操がそれを許した。なので捕虜という扱いでは無くなった。
曹操とそれに共に呂布を討つ為に協力していた将らの前に、拘束された呂布が立たされた。もうすぐ、この場で呂布の処刑が始まる。呂布は処刑の直前で死に抗うが、やはり同じ人間であった。首が落ちた刹那に息絶えて死んだ。死体以外の人間からは、喜びの声が上がる。
呂布が死ぬ瞬間は呆気ないが、これで世の平穏が訪れた。呂布の死体を見てから、曹操を見る。とても誇らしげにしており、于禁はつい気を緩めてしまう。
だがこれから、呂布のような脅威が再び現れるかもしれない。于禁はどこまでも広い空を見ながら、緩めていた気を引き締めたのであった。