もう少しだけ
朝というには、遅い頃のことである。
この日の于禁は城内で朝早くから兵との鍛錬の指揮をしていた。長時間それを行った後、于禁から鋭く「休息」という言葉が放たれる。すると鍛錬の途中から疲労困憊になっていた兵たちは、素早く休息し始めた。
それを尻目に見た于禁は内心で溜息をつく。兵たちより遅れ、そして兵たちの視界から外れた城内の一室で休息を取り始める。その部屋は机と椅子と本棚しかない、いわゆる空き部屋だ。于禁はそこを鍛錬の際に毎回使っていた。
于禁は休息の最中にも、鍛錬の際に着ている実戦向けの鎧は外そうとはしない。それに、刃を潰してある刀も携えたままだ。その状態で于禁は椅子に座って腕を組むと眉間に皺を寄せながら瞼を閉じる。ふと、今朝からある僅かな腰の痛みを感じながら。
しばらく経過すると、于禁の居る部屋の扉からノック音が聞こえた。すぐに瞼を開けた于禁は「誰だ」と言いながら扉の方を見る。すると返って来たのは「俺だ」という言葉。于禁は素早く立ち上がり、急いで扉を開けた。
「すまんな、休息中に」
「いえ、お気遣いなく」
訪ねて来たのは夏侯惇だった。平服姿で竹簡を幾つか脇で抱えている。入ると、すぐに机の上に抱えていた竹簡を置いた。
「たまたまここを通りがかったものでな、突然来てしまってすまん」
于禁は首を横に振り、眉間の皺が薄まっていく。このような隙間の時間に、顔を見せてくれるのが嬉しかったのだろう。于禁は夏侯惇に手を伸ばす為に右腕を上げたが、生憎にも手は清潔とは言えない。なのですぐにそれを下ろした。
その様子を見た夏侯惇は笑うと、その于禁の腕を取る。于禁は拒もうとしたが、夏侯惇から伸びてくる手にどうにも逆らえなかった。なので「砂埃に塗れており、申し訳ありませぬ……」と呟く。
しっかりと腕を握った夏侯惇は笑った。
「俺は気にしていない。この国を守ってくれているこの手も、お前も好いているからな」
于禁は顔を真っ赤にし、眉間の皺が全て消えてしまっていた。そして何も喋られなくなり、口をただ開閉させるのみ。夏侯惇はそっと抱き寄せると、すぐに離れていった。于禁は嬉しげな顔をするが、離れていくと寂しげな顔にすぐに変わる。
それを見かねた夏侯惇は、もう一度抱き寄せる。于禁の顔が嬉しげな顔へとやはり変わった。
「俺は今は、多少ならば遅れてもいい」
于禁のその顔をもう少し見てたいからと夏侯惇がそう言うと、腕ではなく于禁の手に指を絡ませたのであった。