取られる気
日中は、まだ涼しいとは言えない時期のことである。
太陽が真上に昇っている時間に、いつものように鎧姿になり城内で鍛錬をしている于禁は、刃を潰した刀で兵と手合いをしていた。しかしこの日は起きたときからずっと、先程まで考え事をしていたらしい。
前から関係を持っている夏侯惇から数日前に施された、太腿にある所有の証の存在のことである。それが次第に消えてしまっていて、于禁は酷く悩んでいた。夏侯惇本人には言っていないが、その証が嬉しくて堪らないからだ。
なので鍛錬中にも関わらず気を抜いてしまい、手の甲の皮膚を浅くだが裂けてしまっていた。兵からのかなり単純な動きに反応できなかったのか、刀ではなく右手の甲でそれを受け止めてしまっていて。
手合いをしていた兵は必死に謝罪をするが、于禁は自身が悪いと言う。それでも兵は謝罪を続けているので、次第に怒った次第ではあるが。
怪我をした箇所からは細い血の線が、地面へと落ちてきている。痛みは僅かに感じる程度だ。
しかし傷口は浅いので、数秒程圧迫すると流れていた血は止まった。それを見た于禁は、すぐに鍛錬を再開させていく。だが再開させてからしばらくすると、傷口が開いてしまっている。その度に何度も圧迫しながらも、鍛錬を続けていた。負った軽い怪我のことに、気を取られながらも。そして弛み過ぎだと自らを責めながらも。
夕方に鍛錬が終わると傷口の周りは薄汚れた砂埃よりも、濃い血の赤色が目立っている。武器庫に一人居る于禁はそれを睨むと、溜息をつきながら近くの川にでも向かおうとした。傷口の汚れを落とす為に。
そこで、何者かに左腕を掴まれる。
「その程度の怪我でも、命取りになるぞ」
于禁が素早く振り向くと、平服姿の夏侯惇が居た。鍛錬の様子を、最初から全てではないが見ていたのだろうか。そう思った于禁だが、夏侯惇の言葉は正論でしかない。実際にその程度の怪我であっても、目の前のことに集中できていなかったからだ。于禁は反論何も言えないので、ただ押し黙る。
「刀傷など、誰でも受ける。だがその後の対処が重要だ。お前のことだから、その辺の川水で血を流そうとしたのだろう。止めておけ。理由は、分かるだろう?」
今から起こそうとしていた行動を、夏侯惇に見抜かれていた。于禁はそこでようやく素直に「はい……」と返事をすると、夏侯惇は微かに笑いながら于禁の左腕を持ってから引いていく。
「だが、その程度なら軟膏を塗ればじき治る。だから俺が塗ってやる」
「い、いえ! 貴方にそのようなことをさせる訳には……!」
于禁は夏侯惇の言葉、それに引かれている手を拒んだ。
「……それに、命取りになる事以外で、お前に怪我を引き摺って貰っては困る理由があるのだが、分かるか?」
「……分かりませぬ」
拒むことに必死である于禁は、夏侯惇からの質問に答えられなかった。なので首を横に振り、表情が暗くなっていく。
それを見た夏侯惇は、自身の質問の正解を言い出す。それも、かなり嬉しそうであった。
「お前のその手で求められるのが、好きだからに決まっているだろう。お前のその、戦に馴染んだ手が俺は好きでな」
「や、止めて下され! 私の、男のこのような大きな手など……!」
于禁の拒みが強くなっていく。なので夏侯惇は右手首の上の辺りを掴む。傷口にあまり影響が無い箇所を掴まれたものの、于禁は驚いた顔を夏侯惇に向けていて。
「お前も、その手で俺を求めたいのだろう?」
「……違います」
視線を素早く逸らした于禁だが、頬が赤く染まっていた。それを見た夏侯惇は口角を上げる。
「ほら、薬を塗ってやるから着いて来い」
「いえ! 私一人で、できますので!」
またしても于禁が拒むと、夏侯惇は掴んでいた手を離す。その瞬間に于禁がバランスを崩すと、隙を狙って夏侯惇が壁に詰め寄った。そして顔が近付くと、そっと唇を合わせられる。
それにより于禁の頬の赤さが更に濃く、そして範囲が広がっていく。所有の証を施されたことを、想起してしまったのか。
すると于禁は夏侯惇を言葉でも行動でも、拒むことも何もできなくなってしまっていて。