櫛を贈る
ある日の夕方、夏侯惇はとある違和感に気付いた。それはいつもきっちりと整えられている于禁の髪が、僅かに乱れていることである。当の本人は、相変わらず眉間に皺を寄せているが。
それを見たのは城内ですれ違った際。背中が数一〇歩分離れてから、夏侯惇はどうにも落ち着かないのか于禁を呼び止めようとした。しかし用のある兵に呼び止められたことにより、于禁の背中は見えなくなっていく。
次の日の昼頃、城内で于禁を見掛けた。やはり、髪に僅かな乱れがある。夏侯惇はそれを指摘しようとしたが、それをしてどうなるのかと思って躊躇の感情が生まれてしまう。なので次は呼び止めることもなく、ただ視界の隅に入れるのみであった。本当は呼び止めてから、それを指摘してから自ら直してやりたいと思っていたのだが。
すると近くを歩いていた曹操に呼び止められ、夏侯惇はそれに対応していて。
数日後の朝、城内で鍛錬前の于禁を見掛けた。またしても、髪に僅かな乱れがある。
その時の于禁は実戦用とは違い、薄く面積の狭い鉄製の鎧を身に着けている最中である。そこでようやく夏侯惇は躊躇を蹴り、于禁に話し掛けられた。
「最近はどうした? 何かあったのか?」
「……どうした、とは?」
于禁は首を傾げ、質問に質問を返す。当たり前の反応ではあるが、夏侯惇は顔をしかめた。
「お前の髪だ。最近よく整えられていないのを見掛けるが、体調でも悪いのか? それならば……」
「やはり髪が乱れていると、夏侯惇殿でも思われますか」
鎧を身に着け終えた于禁は溜息をついたが、一瞬だけ夏侯惇の存在を忘れていたらしい。なので首を大きく横に振ってから、「何でもありませぬ」と答える。どう見ても、何かあるとしか思えない。
「今日は鍛錬を止めろ。休め」
瞬時に考えが纏まった夏侯惇は、于禁にそう提案した。しかし于禁はそれを拒否する。
「いえ、鍛錬を続けなければ武人として……」
「休め!」
夏侯惇が鎧を脱がせようとし始めたので、于禁は焦りながら抵抗した。だが鎧は簡単には外れない仕組みになっているので、夏侯惇は額に青筋を浮かべ始める。同様に、抵抗している于禁もだ。
「私に悪いところなどありませぬ! 悪いのは、櫛です! 使っている櫛が欠けて、髪を梳きにくいだけであって!」
観念した于禁は、正直に髪が乱れている原因を述べた。すると夏侯惇は、あっさりと鎧を脱がせようとした手を離す。于禁は口を半開きにして、呆けた表情へと変えていった
「櫛、か……」
そして夏侯惇は顎に手を添えると、于禁を放っておいてからどこかへと行ってしまったのであった。何か考え事を始めたのか、何か悩んでいる顔をしている。
于禁の口が次第に閉じていくと、その夏侯惇の背中を困惑の目で見ていたが。
陽が沈んだ頃、夏侯惇は于禁の寝室を訪ねた。どちらも薄い着物を着ているが、夜は冷えるのか肌寒そうにしている。
すると夏侯惇は手のひらにおさまる程の、布に包まれた何かを于禁に突然手渡す。
「お前にやる」
「ありがとうございます」
受け取った于禁は礼を言うと、夏侯惇が「開けてみろ」と返した。なので布を開くと、中から真新しい竹製の櫛が現れた。取手がついているが、その反対側には小さな花の模様が彫られている。
「今渡した意味は、分かるか?」
「朝、私が櫛のことを言ったからでしょうか? わざわざ、申し訳ありませぬ。替えなくてはならないことを、頭の隅に置いては置いてはいたのですが……。本当に、ありがとうございます」
櫛を机の上に置いた于禁は、包まれていた布を夏侯惇に返そうとした。だがその手を取られたかと思うと、そのまま寝台へと押し倒された。
「明日の朝、早速俺が整えてやるという意味だ」
唐突のことに驚きを見せた于禁だが、言葉の意味を理解したらしい。いつもは下がらない眉を、ぐっと下げていく。
そして夏侯惇が于禁の着物の襟に手を掛けると、素直にそれに応じたのであった。